三月物語~この先、300メートル
高校卒業を翌月に控えた二月のある日、忽然と幼なじみの住田(すみだ)一家が消えた。消えた一家の三男の悟(さとる)とわたしは同級生で、彼はわたしの長年の片想いの相手でもあった。
卒業式を終えたまんまの恰好で、見知らぬ街を歩く。
暑い。
喉が渇いた。
疲れた。
もう、やだ。歩きたくない。
無駄にあったはずの体力が、大学受験による慢性運動不足の結果、すっかりなくなっていたと実感する。
三月だというのに、最高気温が23度ってのも、腹が立つ。伸びたショートヘアの襟足が、汗で首に張り付いて気持ち悪い。
汗製造機と化した冬物のブレザーは、早々に脱いで鞄に突っ込んでしまった。卒業証書の筒が邪魔をして、シワシワになっているけれど、着るのも今日が最後だ。気にする必要はない。
ブレザーの胸には、陸上部の後輩たちから贈られた小さな青いの花のコサージュがあった。花が崩れたら嫌なので、それは外してスカートのポケットに入れた。
また、上り坂だ。一旦立ち止まり、制服のブラウスで額の汗をぬぐう。最悪。汗臭い。
左手に持ったハガキも、汗でよれよれになってしまった。ハガキの送り主は、悟だ。卒業式から戻り、なにげなく覗いた家のポストで見つけた。ハガキには「引っ越しました」の文字とともに、一軒家のイラストと新しい住所が印字されていた。ここに行けば、悟に会える。わたしは迷わず、彼が住む町へと向かったのだ。
電車を乗り継ぎ二時間かけてたどり着いた駅は、ひとけがなかった。駅の改札口には、ICカードを読み取る機械だけが置かれている。恐々と改札を抜けた。すると、駅前の道を、犬を連れたおじいさんが歩いていく姿が見えた。神の助けとばかりに、わたしはおじいさんに駆け寄り、このハガキを見せたのだ。
「ここの住所なら、この先、300メートルも行けば着くよ」
たったの300メートルで悟に会える! わたしは嬉しくなって、おじいさんに何度も頭を下げた。
――「この先、300メートル」
おじいさんは言った。絶対に、間違いなく。確かにそう言ったのだ。
おじいさん。
わたし、井上 渚(いのうえ なぎさ)は、アップダウンのこの町を、すでに30分以上歩いておりますが。
わたし、100メートルを12秒17で走る女ですが。
もちろん、そのままの勢いで300メートルを走りきれるなんて思ってないけど、いくらなんでも30分はかかりすぎでしょう。しかも、まだ着かないよ!
情けないやら、心細いやらで涙が出てくる。方向音痴のわたしには、スマホの充電切れも痛い。
悟め、と恨んでみるが、別に悟が悪いってわけじゃない。わたしが悟に会いたくて、引越し先に乗り込もうとしているのだから。
連絡すればよかった。いや、できなかったか。
ハガキには住所しか書いていなかったし、わたしは悟の携帯電話の番号もメールアドレスも知らないからだ。
幼なじみって関係は、微妙だ。周りからは親しいように見えるのに、本人たち同士の関係は、そう近くはない。
高校に入り、悟と同じクラスの女の子たちが、たったの一か月で彼の連絡先を入手したと知ったときには、嫉妬を通り越し絶望した。かといって、彼女たちに、悟の連絡先を教えてと聞けるほど、わたしは素直ではなかった。
先月、悟が消えてしまったあとも、彼女たちは直接彼とコンタクトをとろうとしていたようだか、返信はないと聞く。
わたしはわたしで、もぬけの殻のあの家に、しつこく電話をかけていた。そうでもしないと、本当に悟との繋がりが消えてしまいそうだったからだ。
母の話によると、悟の父親の事業は、まえまえから傾いていたらしい。悟のお兄さん二人は家業を継がず、それぞれが独立をした生活を送っているそうだ。だったら、悟はどうなるのだろう。大学へは進学できるの? そのまえに、受験、どうだったんだろう?
再び、わたしは歩き出した。ともかく、進まなきゃ悟に会えない。
でも、本当に着くの? 既に、時刻は午後4時を過ぎている。日没、いつ? このまま、町をさまよい続けて、夜が来たらどうしよう。最終電車は何時かな。夜の町には、熊が出る? 猪とか? でもって、野宿? 夜は冷えるだろうか。新聞紙でも探して、体に巻き付ける? と思ったら、なんと、新聞紙の束がゴミ捨て場に置かれている。一応、もらっておこうかな。それとも、あとで拾おうか。こういったゴミは取ったらいけないんだけれど、命にかかわる状況だから、情状酌量してもらえないかな。
あぁ、やだ。わたし、すっかり野宿する算段をつけてる。
悟のバカ。
わたしが熊に襲われたら、悟のせいだ、バカ。
勝手に引っ越すな、バカ。
わたしをおいて行くな、バカ。
「あ~~! もう、ここどこ? 悟、出て来い! うぉーーー!!」
見知らぬ町で、恥のかき捨てだ――と思ったら、「渚!」って呼ぶ声と同時に左腕を掴まれた。
悟だった。悟は、すぐ横の細道から出てきたようだった。
かろうじて、3センチは目線の高い悟と、無言で見つめ合う。悟の息が上がっている。顔が怖い。あれか。公道でひとの名まえ呼ぶなよ、ボケ、ってな感じか。そりゃ、迷惑だよね。
しかし、待てよ。
「悟、なんでこんなところを歩いているの?」
「渚が帰って来ないって。渚のお母さんから前の家の留守電に入っていたから」
「留守電? 前の家って、わたしたちが住んでいる町の、あの家に残っていた電話? 悟はあれを聞いているの?」
「まぁね」
なんてことだ! 誰も聞かないだろうと思って、わたしは言いたいことや、今日の出来事なんかをつらつらと留守電相手に話していたのだ。
恥ずかしい。いや、もう、恥ずかしくてもなんでもいいや。悟と会うのも、どうせ今日が最後なんだから。
「こんな遠くまで、なにをしに来たのさ」
「悟に会いに来た。卒業式をしよう。悟の卒業式だよ。……はい、そこ。ちょうどいいね。桜の木があるね。その下に立って」
悟を誘導する。彼のすぐそばに、花がほころび始めた桜の木があったのだ。往来ではあるけれど、かまわない。桜の季節と呼ぶには、やや暖かすぎる気候だけれど、白いシャツにジーンズ姿の悟はすっきりとして、門出にふさわしい雰囲気だった。
わたしは、肩から鞄を下すと、ブレザーの奥へと虐げられたワニ柄の筒を出した。そして、筒から卒業証書を取り出す。卒業証書の威力だろうか。わたしと悟の間に、厳粛な空気が漂い始めた。
わたしと悟が通った北山高校は、偏差値も高く、自由な校風で有名だ。悟は、上の二人のお兄さんたちが卒業した北山高校に行くのだと、中学生の頃から勉強を頑張っていた。わたしも、悟と同じ高校に通いたいと、親に家庭教師をつけてもらい、勉強した。
高校入学後、悟は勉強だけでなく、生徒会の役員としても働き、それはそれは充実した高校生活を送っていたのだ。その悟が、卒様式に来なかった。いや、来られなかったのか。
そんなバカな話があるかって思った。だから、わたしはここに来たのだ。
彼に卒業証書を渡したかったのだ。
「卒業証書 住田悟殿 高等学校の課程を終了したことを証する。あなたは3年間真面目に勉強に励み、生徒会を盛り上げ、みなの学校生活を彩ってくれました。購買のおばさんからは、住田君はいつもコロッケパンを買いに来る、との情報をいただいています。悟君、大学生になったら、コロッケだけでなく、メンチカツや焼きそばパンも食べてくださいね。以上、北山高等学校 校長山田 一(やまだ はじめ)。はい、おめでとう」
校長先生の真似をしながら、悟に渡す。悟が微妙な顔で受け取る。
「うわっ。なんだこれ。渚のじゃないか。おまえ、マジックで自分の名まえの横に、ぼくの名前を書いたな」
「細かいことは気にしないで」
「それに、妙な卒業証書だと思ったら、本当に、なに書き込んでいるのさ。こんなの見たら、おじさんもおばさんも、驚くぞ」
「だから、これは悟にあげるんだってば」
「いらないよ。ちゃんと、持って帰りなよ」
「真面目だな」
ぶつくさ言うと、悟が小さく笑った。このやりとり、懐かしいな。
「悟、卒業おめでとう」
「渚も、おめでとう。渚だって、陸上を頑張っていたじゃないか。他校の生徒会のやつらから、北山高校のスプリンター王子に会わせろ、って何度も言われたぞ」
「王子かぁ。その詐欺話、他校まで広まっていたのね。たしかに、身長は169センチで、髪も短いから男の子に見られるのかもしれないけど。女子なのに王子ってなんだろうって思うよね。物珍しくて、どんな女か見たいよね。でも、わたし、悟に他校生を紹介された覚えないけど」
「……別に、紹介する必要ないだろう」
「まぁ、そうね。知らない人だと会話にも困るしね」
悟が目をそらす。あぁ、そっか。知っている人同士でも、会話に困るよね。わたしと悟だって、こんなに話したのは久しぶりだ。
幼稚園から、わたしの視界にはいつも悟がいた。だから、なんとなく、彼の動向はわかっていた。特別に会話を交わさなくても、わかりあえている気になっていた。
「卒業証書がいらないとなると、なにか卒業っぽいものないかな。あ、これいる?」
証書が入っていた、筒を指す。
「いらん」
「ですよね」
どうしたものかと思ったときに、ふとスカートのふくらみに気がついた。
ポケットからコサージュを出す。
「悟、息を止めてて」
「なんだよ」
「悟の胸にコサージュをさしたいんだけど、わたし、汗臭いのよ」
「別に構わないよ」
「わたしが嫌なんだけど」
悟がため息をつき、わざとらしく指で鼻をつまんだ。なので、わたしは安心して悟に近づき、青いコサージュを彼の胸につけた。そして、少し離れて、彼の姿を見る。
「卒業生っぽい」
「これ、渚がもらったものだろう」
「そうだよ。陸上部の後輩たちから。でも、写真もとったし、思い出は作ったよ」
「あの女の子たちか。渚、好かれていたからな。彼女たち、ぼくがコサージュを貰ったと知ったら、怒るだろうな」
「大丈夫だよ。もう、卒業したんだもん」
「そうだよな。卒業したんだもんな。もう、いろいろと面倒なことはないんだな」
悟が、手で「おいで、おいで」をしてくる。はて、と思い近づくと、突然、抱きしめられた。
「なに、どうしたの」
「渚がいなくなったと聞いて、心臓が止まりそうになった。いなくなられるって、キツイな」
「それは、そうだよ。悟のこと、みんな心配しているよ」
「みんななんて、どうでもいいんだ」
「どうでも良くないよ。生徒会のひとや、悟のクラスの子たち。みんな、悟と連絡が取れないって、わたしにまで聞いてきたよ」
「……渚だけでいい」
悟の腕が緩む。悟とわたしのおでこがくっくけられる。
「なにもかも捨てて出ていくとなったとき、ぼくの心残りは渚だけだった」
悟の真剣な眼差しは、わたしだけに向けられている。
「渚が好きだ。なのに、好きだって言えなかった。言わなかった。ぼくは、ずるかった」
悟の告白に、わたしの腰は抜けた。彼の腕を掴みながら、しゃがみ込んでしまったのだ。すると、わたしに合わせて彼もしゃがんだ。
「悟に好かれているなんて、これっぽっちも気がつかなかった」
「だろうね」
「わたしも、好きだよ」
「だろうね」
「いまさ、無性に腹が立ったんだけど、なんでかな?」
むっとして言い返すと、悟が笑った。
悟の家に向けて歩き出す。繋いだ手が、重なる体温が、わたしと悟が今までとは違う関係になったと言っている。
「……大学、どうだった?」
「受かったよ。渚は、清野女子大だろう。留守電に入っていた」
「悟は大学に、ここから通うの?」
「四月になったら、二番目の兄のマンションへ転がり込む予定。ここよりは、大学に近いからね」
悟がわたしの髪をくしゃりと撫でる。なんだか、甘いな!
「悟の家は、どこ? あと、どれくらい?」
「そうだな。この先、300メートル行ったところだよ」
この先、300メートル!
多分、永遠に、悟の家には着けないと思う。
短編目次