『スパイの妻』における複層性と「毒を以て毒を制す」が如き策略
*扉絵:コグニティブ・フォートトーク、ビジョンクリエーター生成
*以下の論考は映画『スパイの妻』のネタバレが含まれる。
黒沢清監督作品『スパイの妻』は、主人公の福原聡子が、盧溝橋以後泥沼にはまりゆく日中戦争下の日本で彼女が享受する与えられた幸福について、その幸福を与える夫の福原優作が自ら幸福を壊しに掛かるという認識から、彼は幸福を壊すのではなく狂気を終わらせるのだという認識へと変遷する物語である。
戦時下においても何不自由なく暮らす中で、優作と彼の甥である竹下文雄が満州で関わった「何か」に疑問を持った聡子は、その時点で、今ある幸福を壊しにかかる優作を理解出来ない。文雄に「貴方にはわかりようがない」と難詰された聡子は、言葉で説明されても理解出来ないその「何か」について、優作と草壁弘子の関係を疑うが、優作の不在を見計らい金庫を開けてノートと共に発見したフィルムを通じて、聡子は彼の地で何があったのかを知る。
そして聡子は、そうとは気付かずに途方もない筋道の扉を自ら開く。文雄から渡された資料に優作が関与している証拠がないこと、文雄は優作の目的に共鳴しており口を割らないであろうこと、そして憲兵分隊長の津森泰治が自身に想いを寄せているということを勘案し、優作に危害が及ばないと踏んだ聡子は、関東軍が満州で実施したペスト菌生体実験に関するデータの原本を泰治に渡す。
文雄は拷問で口を割らず、剥がされた生爪を泰治に渡された優作はおののくが、聡子は英訳した資料と原本が記録されたフィルムの原盤で告発が可能と見抜き、文雄を「大望を遂げるための犠牲」と見做す。そして優作は、行き詰まりかけていた計画を遂行する。
この物語は、主人公の福原聡子の視点ではなく、夫の福原優作の視点から見ることで各要素が整理される。
出張先の満州で、行きがかりに弘子を救った優作と文雄は、彼女が持つ資料の重大さを理解し、告発へと動き始める。しかし優作が手配し、弘子が潜伏先に女中として入り込んだ旅館で、不測の事態が発生する。旅館の主人が弘子に恋慕し、強姦した果てに彼女を殺害する。旅館で資料の英訳に勤しんでいた文雄は、周囲に事件捜査の憲兵が張り付くことで不用意には動けなくなる。
当初、彼の地の所業を告発する手筈を考えていた優作は、弘子が企てとは無関係の事件に巻き込まれて死んだことで、計画の再考を余儀なくされる。その段階で、妻の聡子が上述の行動に出る。
「身内も棄てずにどうします」と言い放つ聡子の大胆さによって監視の目が緩んだ期を逃さず、優作は計画を再考して準備を整える。ところが聡子は、尾行がいないか見張りをするにも、尾行はいないと言いつつ優作を見失い、実際の尾行に気付かず浮かれ調子の有様である。その上で、彼女の準備が整っていると判断した優作は、亡命の計画を実行する。二手に分かれて密航するように見せかけて妻を密告し、捜査の耳目を聡子に集中させて、資料と共に自身は確実に日本を脱出する。
そうとは知らない聡子は、自身が持っているフィルムが生体実験を映した物と信じて疑わず、泰治が取り調べる中で毅然とした振る舞いを見せる。彼女は自身が密航することを何故知ったのか泰治に確認して訝しみつつ、泰治に再考を促す。そして確認のために上映されたフィルムが会社の忘年会で上映されたフィルムと判明した途端、聡子が置かれている状況の複層性が顕わになり、次第に合点がいった彼女は笑いながら「お見事です」と絶叫して卒倒する。経緯を知るのは優作と聡子のみであり、彼女が説明しない限り、泰治は彼女が狂っていると判断するしかない。
狂った時代の狂った社会において、正気でいることは狂った社会を脅かす狂気と見做され、優作はその正気であるが故の狂気を一身に引き受ける。しかし、そのような社会性を帯びない無垢な狂気は、無害な物として社会から切り離され、外部化される。優作は聡子を無垢な狂気が成立する状況に置くことで、彼女に危害が及ばないよう計らう。彼女を精神病棟に閉じ込めてしまうこのような所業は妻を裏切る非道の行いでなど決してなく、「大望を遂げるための犠牲ですらないただの我慢」のみならず、妻を危険にさらすことが出来ない優作にとって、狂った社会に一人残す妻の安全を確保する上で取り得る確実な方法である。狂気には狂気を以て制するのだ。
文雄を地獄に追いやり、それを「大望を遂げるための犠牲」と見做した聡子は、自身が攪乱要因として棄てられたとしても「ひどく納得」するのである。神戸大空襲の間際に訪れた野崎医師との面会でそう述べた彼女はある種の諦観にあり、優作が死亡した可能性を伝えられても素っ気ない。戦況が解らない聡子は大空襲で日本が負けることを悟り、地獄絵図を目にして浜辺で嘆き悲しむ。
しかし、彼女が置かれた複層性は、大望のために甥を棄て、同じようにして棄てられた自業自得の女というものではない。貨物の箱に隠れて密航することが精神病棟に閉じ込められて狂った社会を生き延びるメタファーであり、それが「大望を遂げるための犠牲ですらないただの我慢」であるなら、彼女が志を果たすまでの空虚な期間もまた、死ぬことに比べれば我慢でしかない。「身体が離れることは、心まで離れることだろうか」という優作の問いは、その結末において意味を成す。優作は聡子がその意味を理解出来ると信じ、彼女が生み出した複層性を包み込むのだ。
聡子は棄てられたのではなく、守られたのである。そして敗戦から数年後にアメリカに旅立つ彼女は、既に優作の問いの意味を理解しているだろう。
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