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【第35章・竜之進遭難】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

第三十五章  竜之進遭難

 年が明け元禄十二年(一六九九年)、小正月も終わった睦月半ばのこと。築地本願寺の鐘が暮れ六つ(ほぼ午後六時)を告げる。浜屋敷の御長屋では、狩野吉之助と志乃の夫婦が火鉢を間に置いて夕餉をとっていた。
「あなた。お餅、焼けましたよ」
「おお、済まん」
「それにしても、竜之進様、遅いですね」
「今日は道場の稽古始めと言っていたからな。仲間と一杯やってるんじゃないか」

 竜之進は出府以来、道場通いや他家への使いなどで外出の機会も多く、随分と垢抜けた。元々姿のよい若者なのだ。

 無論、浜屋敷の男前と言えば、第一は用人・間部詮房である。ただ、彼の場合、完璧すぎて人間味がない。しかも主君第一、仕事最優先、常に人を寄せ付けないオーラを放っている。従って、あくまで観賞用美男子という存在だ。

 その点、竜之進はさっぱりした気性で、周囲を自然と明るくする雰囲気を持つ。その上、いまだ独り身。最近では家中の若い娘や奥女中などから付け文を渡されることもしばしばで、志乃などは、悪い虫が付かないかとやきもきしている。

「せっかく島田家を再興できたのですよ。次は嫁取りでしょ。ふらふらしている場合ではありませんわ」
「それはそうだが、子供じゃないんだ。あまり世話を焼くと嫌われるぞ」

 その時である。戸口で大きな物音がした。吉之助が何事かと振り向くと、その竜之進が左腕を押さえて入ってきた。袖口から土間に何か液体が、ぽとりぽとりと滴り落ちる。
「おい、どうした?! それ、血じゃないのか」
「ええ、まあ」
「どうしたんだ? 喧嘩か」
「いや、斬られました。しかし、たいしたことは・・・」
「ないわけないだろ。志乃、焼酎と手拭い。あと、湯だ。湯を沸かしてくれ」
「はい」

 上がり框に腰掛けた竜之進は、ひとつため息を吐いた。苦痛や狼狽より、何か考え込んでいるような表情だ。
「本当に大丈夫ですよ。それより、間部様はまだいますかね?」
「間部様だと? そうだな。この時間ならまだ御用部屋で仕事をしているはずだ。それがどうした?」
「あくまで勘ですが、何か大変なことが起きそうな・・・」
「何かとは何だ? ともかく、間部様の部屋を見て来よう。志乃、竜さんの手当を頼む」

 四半時(三十分)後、二人は間部と向き合って座っていた。間部の部下たちはすでに帰っており、室内には三人だけである。間部は竜之進の左腕に巻かれた白布に目を向けた。
「何があったのですか」
「道場の帰り道、いきなり斬り付けられました。相手は、新見典膳と名乗りました」

「新見?!」
 めったに感情を表に出さない間部が顔色を変えた。

「そして、殿のことを新見左近と呼びました。私のことも島田時之の倅と知っていて、お前がなぜ、あの似非君子に仕えているのか。恥を知れ、と怒鳴られました」

「そうですか」と短く応じた間部。すでにいつもの無表情に戻っている。しかし、それで済まされては堪らない。吉竜両名が先を促すように軽く睨むと、間部は仕方なさそうに言葉を継いだ。
「新見左近とは、殿がご幼少の頃に使っていたお名前です。殿は、先代綱重公に正式に嫡子と認めていただくまで、新見正信という綱重公の側近に預けられていたのです。その時、ご身分を隠すため・・・」

「分かりました。では、新見典膳とは何者ですか」と、竜之進が当然の問いを発した。
「その名は知りません。新見家の縁者と思われますが」

 そこで、「竜さん。その男の背格好は?」と吉之助。
「背は高い。吉之助さんより少し低いくらいかな。精悍な感じで、殺気が凄かった。思い出しただけで、ぞっとしますよ」

「間部様。もしや、新見正友ではありませんか。山廻与力のとき、役宅に手配書が来ていた。背丈はぴったりです」
「三年前、監視の庄屋一家を斬殺して甲斐を出奔。以後、行方不明の、あの者ですか。なるほど。下の名は変えたのでしょう」

 しかし、竜之進は逆に疑念を増したようだ。
「おかしくないですか。新見正信は、父上たちが讒訴したとばっちりで切腹したのですよね。新見正信は殿の側でしょう? その息子が、殿を似非君子となじるのは、話があべこべだ」

 そして竜之進は、ポンとひとつ手を打った。
「そうだ。あと、変なことを言ってました。父の遺品を見せろ。遺品の中に、書類や絵図の類があるはずだ、と」

「あるのですか」と間部。
「いや、思い当たりませんね」
「本当に?」
「ええ。間部様、もしや、あの男が何を求めているのか、ご存知なのでは?」

 しばしの沈黙の後、間部は前の二人を見据え、「いいでしょう。今後のこともあるので、話しておきましょう」と言った。

 間部詮房という男は、実に形のいい目をしている。澄んだ白目に漆黒の瞳、長いまつ毛。すべてのバランスが完璧だ。その人形のような目が、これを聞いたら後戻り出来ないぞ、と覚悟を迫っているようで、吉之助と竜之進は、思わず息を飲んだ。

次章に続く

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