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【第61章・暗雲】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

第六十一章  暗雲

 二月下旬、ちらほら小雪舞う夕暮れ。浜屋敷御長屋の狩野家、志乃とおりんが食事の準備を済ませてひと休み。
「ねえ、これ見てよ。鶴の祟りだってさ」
「まあ、怖い」

 障子戸が開いた。吉之助帰宅。
「お帰りなさいませ」
「先生、お帰り」
「ただいま。いい匂いだな。今日はしじみ汁か。それで、何の話をしてたんだ?」
「そうそう。先生。鶴って食べられる?」
「は? 食べる? そうだな、食べられると思うぞ。確か軍記物か何かの中に記述が。おい、しかし、今は公方様の御触れがあるからな。勝手に獲るなよ」
「獲りゃしないよ」

 おりんが一枚の紙を畳の上に放り出した。何気なくそれを取り上げた吉之助、見る見る顔色が変わる。

「し、志乃! 私は間部様のところに戻る。おりん。これ、借りるぞ」
「あなた、お夕飯は?」
「それどころではない!」

 吉之助の慌てっぷりに驚き、おりんと志乃が顔を見合わせた。
「変な先生」
「ね。いいわ、先にいただいちゃいましょう。お茶碗出して」

 間部の御用部屋には竜之進もいた。駿河台の旗本屋敷まで使いし、ちょうど戻ったところだという。吉之助は、二人の前に持参の紙を広げた。

「間部様、これをご覧ください。竜さんも見てくれ」
「何です? ああ、読売ですか」と竜之進。

 間部は無言。しかし、一瞬で事の重大さを理解したようだ。紙面を凝視し、内容を吟味している。

「さる高貴な姫君が鶴の祟りを受けて明日をも知れぬ、か。これが何か」
「分からないか。その姫の絵を見てみろ。着物の柄は?」
「鶴ですね」
「後ろの屏風は?」
「松? いや、杉かな。その隣に、これは井戸ですか。変な絵だな」
「松でも杉でもいいが、それは木だ。そして、井戸の井、つまり紀伊だよ」

「あっ。紀州様の御簾中・鶴姫様ってことですか」
「その通り」
「えっ、待って下さいよ。鶴姫様って、公方様の姫君でしょ」
「そうだ」

 間部が無表情のまま腕を組んだ。この男が着物にしわが寄るような動きをするのは珍しい。
「公方様は、たった一人のお血筋・鶴姫様の婿である紀州公をご自身の後継者にとお望みです。しかし、鶴姫様にもしものことがあれば、紀州公の目はなくなります」

「それなら、姫君には気の毒だけど、殿にとっては好都合じゃないですか」と、竜之進がのん気に応じた。

「そうも言ってはいられんぞ。文章を読んでみろ。この書き方では、まるで殿が鶴御成で鶴を狩ったせいで鶴姫様が祟られているようじゃないか。さらに、読み手に悪意があれば、殿が鶴姫様を呪って鶴を狩ったとも取れる」

 吉之助の物騒な物言いに竜之進はあんぐり口を開けた。
「馬鹿な。そんなことあるわけない。ですよね、間部様」
「当たり前です」

 間部即答。それはそうだろう。この三人は祟りや呪いなど端から信じていない。しかし、江戸時代の日本では、それはむしろ少数派と言える。

 そこで吉之助は読売の末尾辺りを指した。
「問題は情報の出どころだ。そこに、大奥出入りの商人が女官から聞いた話では、とある。もし大奥でこんな噂が広まっているとしたら、公方様や桂昌院様のお耳にまで達している可能性がある」

「不味いじゃないですか。殿はただでさえ嫌われているのに。しかし、実際どうなんですか。鶴姫様がピンピンしていれば何の問題もありませんよね」
「いや。鶴姫様のご病気は本当です。しかも、ご病状は芳しくないと聞きます」と間部。

「本気で不味いですよ。しかし、こんな形で世に広めるってのは何でしょう? これも出羽守様の謀略でしょうか」

「何かの布石とも取れますが、しかし、出羽守様のいつものやり方とは違う気がします。鶴姫様は公方様と桂昌院様にとって正に掌中の珠。さぞやご心痛でしょう。それを謀略の材料に使うなど・・・」

 間部は途中で言葉を切り、少し考えた後、吉之助に目を向けた。
「狩野殿、この読売の版元から話を訊くことは出来ますか」
「さあ、どうでしょうか。その者とは直接の面識はないのです。おりんがこの版元と協業している町絵師の下で画の修業をしているというだけですから」
「なるほど。しかし、事は重大です。当たるだけ当たってみて下さい」
「承知しました」

 翌日、絵画の稽古に行くおりんと共に高輪の伊藤文竹の工房へ。顔も体型も狸のような文竹先生はすぐに連絡を取ってくれたが、あいにく風神堂の主人は留守であった。

「商売柄、忙しない人でしてね。滅多に店にはおりませんよ」
「そうですか。お手数をお掛けした」
「いやいや。何なら、戻ったら知らせましょうか」
「いや、それでは遅い」
「例の、鶴の祟りの話ですな」
「ご存知ですか」
「ええ。しかし、真に受ける必要はないと思いますがね」

 文竹は立ち上がると一度工房の奥に消え、すぐに一枚の紙を手に戻った。
「ご覧ください。これは来月の頭くらいに出す版の草稿で、挿絵を頼まれています」
「ほう」
「内容は、ある商人が内藤新宿の拡張工事を独占的に請け負うため、幕府の高官に賄賂を贈った。ところが、別の商人も同じような動きをしていて、二人が競い合い、憎み合い、最終的にその高官に裏切られて共倒れ、という話です」

「内藤新宿の利権というと、容易に対象が絞れそうですが、大丈夫なんですか」
「まあ、実名ではないし、ギリギリでしょうか。ともかく、風神堂さんの批判の対象は権力者全般で、狩野様のご主君を狙い射ちにしているわけではありません。その点、ご理解ください」

「なるほど。ところで、この手の話はどの辺から取って来るのでしょうか。何か知りませんか」
「さて? 方々、としか。情報源は命の源、訊いても無駄でしょう」
「でしょうな」

 すると、工房の方からおりんがやって来た。
「先生、いつまで話してんのさ?」
「こら、外では言葉遣いに気を付けなさい。そなた、しっかり稽古してるのか。今日描いた分を持って来なさい」
「はいよ」

「まったく。あれは如何ですか。江戸に来て半年以上経ちますが、相変わらずです。ご迷惑をかけているのではありませんか」
「いやいや、むしろ助かってますよ。何せこちらはしがない町絵師。弟子や職人たちも然りです。礼儀正しいお嬢様では却って困ります」

 おりんは、藩への届出上、志乃の遠縁の娘ということになっている。しかし、江戸に来た当初、当然ながら武家の娘には全然見えなかった。志乃が何かと世話を焼き、若い娘用の着物や装身具で飾り立て、随分それらしくなってきたが、あくまで外見だけ。言葉遣いや挙措動作は一向に改まらない。

 おりんが練習用の帳面を持ってきて吉之助にひょいと渡す。
「はい、先生。あと、親方、お昼来たってさ」
「馬鹿。親方とは何だ。文竹先生と呼びなさい」
「ははは、いいのですよ。うちではみんなそう呼んでますから。おりん殿、今日はもういいよ。狩野様と一緒にお帰り」
「うん」
「うん、じゃない。はい、だ」
「はいはい」

 吉之助とおりんが通りを並んで歩いていると、誰かが追ってきた。
「おりん様、待って。ちょっと待って下さい!」
「うん? あっ、餅つき金ちゃん」
「何だって?」と、吉之助も振り向いた。
「餅屋の金ちゃんだよ。金ちゃんのついたお餅は最高に美味しいんだ。ほら、さっきの親方のところのお昼」

 江戸時代、身分を問わず一日二食が基本であった。ただ、腹が減っては戦は出来ぬ。職人などは朝と夕の間に適当に栄養補給をする。文竹の工房では、彼の好物でもある安倍川餅がよく供されるらしい。

「どうしたの金ちゃん?」
「おりん様。失礼します。こちらがおりん様の師匠である狩野様ですか」
「そうだけど」

 するとその若者、路上に身を投げ出すように勢いよく土下座して叫んだ。
「狩野様、お願いします。私を家来にして下さい!」
「は?」
「お願いします。私を家来に!」

 十四、五だろうか。年の頃はおりんとさして変わらない。ツギハギの半天に股引姿。体格は貧相だが、澄んだいい目をしている。

「とにかく立ちなさい。そこの茶店にでも入って話を聞こう」
 おりんがすかさず言う。
「あっ、それならあっちの店にしようよ。あそこの蒸し饅頭、一度試してみたかったんだ」
「好きにしろ」

 饅頭屋に併設された所謂イートインスペースで、若者と向かい合う形で吉之助とおりんが並び、式台に腰掛けた。
「初めてお目にかかります。私は、米田金七と申します」
「これはご丁寧に。私は、甲府藩士・狩野吉之助だ。しかしそなた、姓を名乗るということは、武士の子なのか」
「はい。いえ、そう言えますかどうか。何せ祖父の代からの浪人暮らし。父は日雇い人足でした。私は父が刀を差しているところを見たことがありません」
「出身は?」
「はい。讃州高松でございます」

「それで?」
「私は画が好きで、出来れば絵師になりたいのです」
「それなら文竹先生の弟子になればよいのではないか」
「はい。しかし、私の家は貧しく、とても束脩(授業料)を払えません。文竹先生は私の安倍川餅を贔屓にして下さり、時々画の描き方を教えて下さるのですが・・・」

「しっかり束脩を払っている弟子がいる以上、頻繁には無理か」
「左様です。しかし、そこにおりん様がいらっしゃいました」

「ふっ、おりん様か」
 吉之助が横を見ると、様付けされたおりんが夢中で蒸し饅頭にかぶり付いている。

「はい。伺うに、狩野様は御絵師で、おりん様は文竹先生のお弟子である前にまず狩野様のお弟子であるとのこと。もし、狩野様の家来になれれば、私にも画を教えていただけるのではないか、と考えました次第。無論、家来としてしっかり働きます。決してご損にならぬよう懸命に勤めます」

 吉之助は、前で真剣に訴える若者と次の饅頭に手を伸ばそうとしているおりんを見比べ、軽くため息を吐いた。

「そうか。ともかく、そなたもお上がり」
「あ、ありがとうございます。でも、これ、持ち帰ってもよろしいでしょうか」
「うん?」
「はい。家に妹がおります。土産にしたいと」
「妹さんがな。では、土産は別に用意するから、それはそなたが食べなさい」
「でも、そんな」
「いいから。いつもおりんが世話になっている礼だよ」
「ありがとうございます」

「お土産、あたしの分もね」
「馬鹿。わたくし、と言え。それにお前、何個目だ? もう十分だろ」
「全然。あっ、そうだ。小母さんのお土産だよ」
「まったく・・・」

 吉之助とおりんのやり取りを、米田金七がまぶしそうな目で見ている。それに気付いて吉之助は話を戻した。

「ああ、私の家来になりたいという話だったな。しかし、そなたは誤解している。よいか。私はあくまで武士として殿にお仕えしている。御用絵師ではないのだ。従って、親族扱いのこ奴以外、弟子を取るつもりはない。それに、藩邸内の長屋住まいだ。勝手に家来を持つことなど許されん」

 吉之助は、横で饅頭を食べ終わり指を一本一本舐め上げているおりんの首根っこを大きな手でがしっと掴んでそう言った。それに対して、おりんは猫のように体をよじって器用に逃れ、そして言い放つ。

「金ちゃん、ごめんね。うちの先生、まだ下っ端なんだ」
「黙れ」

 しかし、おりんは構わず続けた。
「先生が出世したら、弟子でも家来でも、絶対してもらうからさ。それまで待ってよ」
「ほ、本当ですか」
「うん。あたしが請け負うよ」

 おりんの約束は果たされる。それどころか、この餅つき金ちゃん、後に豊田隨園と名を改め、伊予松山藩松平家の御用絵師にまで出世するのである。ただ、そこはこの物語と直接関係ないので割愛する。

「危ない!」
 饅頭屋から通りに出た瞬間、吉之助が前にいたおりんと金七少年の襟首を同時に引いた。二人をかすめるように大八車が砂塵を巻き上げ疾走して行く。
「どいた! どいた! 道を開けてくれ!」
「やい、怪我でもしたらどうすんだ。気を付けやがれ!」
 しかし、おりんの怒声は、次の車の音にかき消されてしまった。

「えっ、何これ? 次から次へと、どんどん来るよ」
「畳を運んでるみたいですね」と金七。 
「引っ越し?」
「いや、引っ越しにしては数が多過ぎる。近くの大名屋敷で急な畳替えでもあるんじゃないか」と、二人の背後から吉之助が言った。

「まったく、殿様ってのは我が儘だね。急げ急げ、間に合わなかったら腹を切れ、とか叫んでそう。金ちゃん、侍奉公ってのも大変だよ。本当にいいの?」

 冬空に鈍色の雲がかかり、また粉雪が舞い始めた。この時、緊急の畳替えが行われていたのは大名屋敷ではなく、寺であった。芝の増上寺。年賀答礼で京都から江戸にやって来る勅使を迎えるためである。

次章に続く

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