【第53章・韮崎宿の女傑】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)
第五十三章 韮崎宿の女傑
源八と呼ばれる若い衆がすぐに三人の同僚を呼んで来た。厳四郎を戸板に載せて旅籠の内に運ぶ。彼等はそのまま二階へ。嵐子も続こうとしたが、女将に止められた。
「あんたはまず風呂だよ」
「でも、厳四郎様を一人には出来ません」
「うちは宿屋だよ。そのまんま部屋に入られたら、畳が血で汚れるじゃないか。言うこと聞けないなら放り出すよ。お染、この子を風呂場に連れて行って丸洗いにしちまいな」
女中に引っ張られて行く嵐子。すると、女将が加えて言った。
「待ちな。腰のそれ、こっちに渡してもらおうか」
女将はちょうど階段を下りてきた源八に嵐子の脇差を渡した。源八が無造作に鞘から抜いて刀身を見ると、血と脂でベトベトだ。刃こぼれもひどい。
「お、女将さん、こ、これ。これは人を斬ったばかりだ。しかも、一人や二人じゃこうはなりませんぜ。だから言ったんですよ。あ奴らはやばいって」
「百も承知だよ。いいから、柳斎先生を呼んできな」
嵐子が女中に伴われ二階の部屋に入ってきた。女将に手招きされ、厳四郎が横たわる布団の脇に座る。厳四郎は下帯だけで仰向けになった状態。そこに覆い被さるように白髪交じりの中年男が熱心に手当てをしている。傷口に塗り込んでいる薬の臭いが鼻を衝く。
嵐子はちょこんと座ってしばらく青白い厳四郎の顔を見ていたが、ふと顔を上げると女将と目が合った。
「さっぱりしたわね。おや、可愛らしい顔してるじゃないか」
「あの、あたしの刀は?」
「あれは宿を出るまで預かっておくよ。文句ないね?」
「はい」
「着物は洗濯したらすぐ返すけど、そのままでいいじゃないか。似合ってるよ」
嵐子は女中たちと同じ桜色の小袖を着せられていた。洗い立ての垂髪はまだ湿り気を帯びているが、すっかり娘らしい。この旅籠では女中に揃いの絹の小袖を着せている。ただ、丈夫で比較的安価な郡内織(甲斐絹とも呼ばれる甲斐の特産品)。それに対して、向かいに座る女将がまとっている着物は同じ絹でも明らかにものが違う。さらに濃紺に流水と花菖蒲の総柄という凝った意匠。素人目にも特上品であると分かる。女としての貫禄が違う。
「それで、厳四郎様の具合は? 助かるんですよね?」と嵐子。
「先生、どうなんだい?」
「ああ、命は大丈夫じゃ。止血をしたのはお前さんか。そのお陰じゃよ」
「本当? よかった。本当によかった。あ、ありがとうございます」
嵐子は強く目を閉じて上を向いた。そうしないと涙がこぼれ落ちそうだったから。しかし、ほっとして体中から力が抜けたところで、医者が衝撃的なことを言った。
「だがな、この左腕は駄目じゃ。もう使い物にならん」
「え?!」
「肘の腱が切れておる。この男は侍じゃろ。刀に沿えるくらいなら出来るが、振るのは無理だな」
「そ、そんな。ひどい、ひど過ぎる!」
医者に飛び掛からんばかりの嵐子を女将が静かに諭す。
「あんたね。気持ちは分かるけど、これだけの傷だよ。命が助かっただけで御の字としなきゃ」
医者は後の処置について指示を出すと、余計な詮索はせずに帰って行った。意識の戻っていない厳四郎を挟み、嵐子と女将が向かい合う。
「そうだ。あんた、名前は?」
「嵐子。水分嵐子、です」
「お嵐ちゃんか。あたしはね、この宿の女将、滝っていうんだ。よろしくね」
お滝は、女盛りの三十六歳。韮崎宿の女傑と呼ばれていた。八年前に歳の離れた店主の後妻としてこの宿屋に来た彼女は、夫の死後、強欲なだけで無能な先妻の子と古参の番頭などを叩き出し、事実上、身代を乗っ取った。
彼女は生来度胸がよく、気配りも出来た。さらに口が堅い。宿屋の経営者には大事な資質である。彼女は、甲州街道を往来する幅広い客の信頼を集めて店を富ませた。今では役人筋からも頼りにされ、宿場を代表する顔役の一人にまでなっている。
「あの、女将さん。お金は、二十両ばかりなら。足りなければ、下働きでも何でもします。あと、あたしに出来るのは・・・」
たまに駆け込んでくる足抜け女郎などであれば、体で返す、と続くはずだが、この娘は違う。源八を睨み付けた鋭い眼光、そして、あの血塗られた脇差を見れば分かる。
「やめな。その先は言わなくていいよ」
「はい」
それから三日間、嵐子は付きっ切りで厳四郎の看病をした。容態は安定しているが意識は戻らない。
障子戸が赤く染まり始めた。また一日が終わる。嵐子はふらっと立ち上がり廊下に出た。宿場は日が傾きかけた頃が一番騒がしい。全ての旅籠が一人でも多くの宿泊客を獲得するため躍起になるからだ。嵐子が通りの喧騒をぼんやり見下ろしていると、お滝が階段を上がって来た。
「おや、お嵐ちゃん。どんな様子だい?」
「相変わらずです」
「そっか。あまり根を詰めるんじゃないよ。柳斎先生も言っていたじゃないか。いずれ気が付くって」
「はい」と弱々しく答えた嵐子の横顔は、夕陽を受けた陰影で一層不安げに見えた。
「まったく、捨てられた子猫みたいな顔して、こっちまで悲しくなるじゃないか」
「すみません。あの、女将さん。どうして、どうして助けてくれたんですか」
「さあね。暇つぶしかな」
「暇つぶし?」
「そう。男と女が逆だったら、助けてないね。ありきたりだから。役人を呼んで終わり」
「・・・」
「でも、あたしが声を掛けてなかったら、あんた、源八を斬ってただろ?」
「・・・」
「いいんだよ。あの目、ゾクッときたよ。面白いね、あんた。それよりさ、あの人の容態が心配なのは分かるけど、この後、どうするんだい? 行く当てはあるのかい?」
「厳四郎様はたぶん、名古屋へ行くと思います。そこに行けばしばらくは・・・」
厳四郎に同情的な国家老の娘が尾張柳生に嫁いでいたはずだ。厳四郎が頼れる相手としては、そこくらいしか思い浮かばない。
しかし、嵐子のその返答に対して、お滝がにべもなく言った。
「男の料簡はどうでもいいんだよ。あたしは、あんたがどうするのか聞きたいんだ」
「あたし?」
「そう、あんた」
「あたしは、厳四郎様について行くだけだから」
「様付けしてるってことは、あんた、あの人の家来なのかい?」
「あたしはそのつもりだけど、よく分かりません。でも、とにかくあたしは、厳四郎様について行くと決めてるんです」
「ふぅん。でもね、あの腕じゃ、あの人はもう侍としては駄目だろ。どうやって生きて行くんだい? あんた自身にやりたいことはないの?」
「考えたこともありません」
「じゃあ、今から考えな」
「えっ?!」
「いいかい。男なんて生き物は勝手なものだ。怪我でも病気でも借金でも、弱っているときに助けたら、そこでしっかり言質を取っておかないと、またすぐにどっか飛んで行っちまう。一生後悔するよ。今まではどうだか知らない。でもね、今回は、まずあんたが自分の進む道を決めて、あの人を引っ張って行くんだ」
「・・・」
「しっかりしな!」と嵐子の背中をひとつ叩くと、お滝は鼻歌交じりに行ってしまった。
お滝という女は、容色は十人並みだが、肌が白く、左目の下に妙な色気を発する黒子がある。何より財産持ちの後家さんだ。放っておいても男が寄って来る。彼女も嫌いではない。適当に見繕ってはつまみ食いをする。ただ、長続きはしない。しかも相手が図に乗ってちょっとでも主人面をしようものなら、店の若い衆に半殺しにさせて叩き出すという始末。
そんな彼女が、この夜は幸い一階の奥の部屋で一人寝していた。深夜、妙な気配に目を覚まし、同時に、ぎょっとした。真っ暗闇の中、自分の顔の上に小さな二つの光が浮いている。
なに? 目? 人の目? 総身に鳥肌が立つ。声が出ない。手足も動かない。なるほど、これが金縛りという奴か。
すると、その暗闇に浮かぶ二つの目が声を出した。
「女将さん。あたし、考えました」
「なっ、な、あ、あんた、あんたか。びっくりするじゃないか! 心の臓が止まるかと思ったよ」
「女将さん。四日、いえ、五日だけ厳四郎様を見ていて下さい。あたし、必ず戻りますから。ここに二十両あります。これまでの宿賃と治療代です。お願いします」
「当てはあるんだね」
「はい」
「なら、行ってきな」
最後に、「ありがとう」と小さく聞こえたかと思うと、嵐子の気配は霧のように消えた。五月となり、日中は夏の暑さの日もあるが、朝晩はまだ冷える。お滝は布団に入ったままうつ伏せになった。頬杖をつき、枕元に置かれた湯呑に手を伸ばす。白湯をひと口。白い首筋がぐびりと動く。濡れた唇と少し崩れた高島田の髪も色っぽい。
「しっかし、驚いたね。ふふ。ほんと、面白い娘だよ。どこに何をしに行ったのか知らないけど、しっかりやるんだよ」
次章に続く
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