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【第56章・おりんの絵画修行】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

第五十六章  おりんの絵画修行

「先生、出来たよ。どう?」
「出来ました。如何でしょうか、だろ」

 苦い顔をしつつ、吉之助は自分が向き合っている紙面から顔を上げ横を見た。おりんの前には黄金色した真桑瓜がひとつ。彼女は練習用の漉返紙(安価なリサイクル和紙)に墨だけで瓜の形を写し取っていた。

「まあまあ、だな。しかし、そろそろよかろう」
「何が?」
「何がって、お前を町絵師の工房で修行させる話だ。私は殿や間部様の御用があるからな。そうそう見てやれん。まあ、これだけの線が引けるようになれば、他人に預けても大丈夫だろう」

「あたし、才能ある?」
「あると思うぞ。お前の場合、画の才能より行儀作法の方が心配だ」
「はいはい。で、この瓜、もういい?」
「なに?」
「だって、夕飯の後に食べるんだから、井戸で冷やしておかないと」

 現在二人がいる場所は、御長屋の吉之助・志乃夫妻の住まいの向かい、これまで竜之進が使っていた部屋である。

 竜之進は、吉之助たちに遅れること約二ヶ月、七月末に新見美咲を連れて江戸に戻った。案の定、二人は甲府で夫婦になっており、竜之進は同じ棟の家族用の部屋に移った。
 そこで吉之助は、空いた向かいの独身部屋を作業場として使うことを願い出て許されたのである。絵画工房と呼ぶには手狭だが、掛け軸用の画を描く程度なら十分だ。画材や道具類、絵手本を並べる書棚などもすでに運び込んでいる。

 また、それに先立つ六月初旬、隠し金山騒動に関する論功行賞が行われた。

 吉之助は元の十五人扶持から倍増し、三十人扶持となった。一人扶持で米五俵だから米百五十俵、米二俵を一石と計算すれば家禄七十五石相当である。また、納戸役補佐から正の納戸役となり、役料も五十俵に増やされた。藩主の側近くで仕えていることもあり、藩内の序列として、中の上くらいまではきている。

 竜之進も吉之助と同じ三十人扶持となった。元の十人扶持から三倍増。島田家は元々甲斐の名門であるし、今回の奮戦を考えれば当然であろう。

 幕臣の出向組藩士の三男坊である駒木勇佑は、六人扶持で藩士に取り立てられた。彼の人柄と能力を考えれば微禄に過ぎるが、正規の藩士となれば働き次第で出世も可能。一生飼い殺しの部屋住みとは雲泥の差である。配属としては、番方新番衆番士として吉之助の下に付くと共に、間部の御用部屋で文官見習いとしても働くことになった。

 一方、新見典膳に斬られて落命した足軽剣士・赤沢伝吉については、遺族に見舞金として小判二十枚が下賜された。併せて十三歳の一人息子が四人扶持で藩士に取り立てられた。元服を前倒ししての処置なので、役に就くのは二、三年後になろう。

 ちなみに、用人・間部詮房は五十人扶持加増され、三百人扶持(年千五百俵・七百五十石相当)となっている。事前に、綱豊から間部に対し、千石取りの家老職に任ずるとの内意が示されたが、用人の方が動きやすい、と言って間部自身が謝絶したという話である。

 そこで障子戸がすっと開いた。
「あなた、おりん。お茶を入れましたよ。休憩にしましょう」
「あっ、お煎餅。この匂い、今日は味噌煎餅だね」
「ほらほら、手に墨が。洗ってらっしゃい」
「はぁい」

 吉之助、志乃、そしておりん、三人が丸い卓を囲んで座る。
「あなた。おりんの修行先はお決めになったのですか」
「ああ。江戸での最初の任務を覚えているかい? あの時、英一蝶が言っていた彼の兄弟子で、伊藤文竹という町絵師だ」

「英一蝶は科人でしょう? その兄弟子って、大丈夫なのですか。女の子を預けるのですよ」

「心配ない。文竹は、あの厳格な祖父様(中橋狩野家初代・狩野安信)の下で修行をやり遂げているからな。ともかく、明日、おりんを連れて高輪まで行ってみるよ」
「高輪なら通えますね」
「そうだな。一蝶からは神田と聞いていたが、勅額火事の後に移ったらしい。おりん、お前のことだぞ。パリパリ食べてないで、話を聞け」
「高輪って品川のすぐ近くでしょ。美味しい煎餅屋あるかな?」

 翌日、吉之助はおりんを連れて高輪へ。伊藤文竹の工房は表通りに面していてすぐに分かった。予想以上に堂々たる構えである。

 元禄時代において職業絵師の身分は概ね二つに分けられる。幕府及び諸藩の御用絵師(士分)と町絵師(町人身分)である。

 幕府諸藩いずれにせよ、御用絵師の世界を牛耳っているのは狩野派であり、その最高峰に君臨するのが、探幽・尚信・安信の三兄弟を祖とする狩野派御三家、すなわち、鍛冶橋狩野家、竹川町狩野家(後の木挽町狩野家)、中橋狩野家。

 画壇の家康とまで言われた狩野探幽在世中は鍛冶橋家が他を圧倒していたが、探幽の死後、狩野派の宗家でもある中橋家が強勢となった。中橋家の初代・安信は、絵画の才能は兄たちに遠く及ばなかったが、組織の管理者・教育者としては有能であった。かつ、長命でもあったため、長く狩野派の総帥を務めた。

 そして、安信の死後、一門を率いることになったのが、吉之助の父である竹川町家二代目の狩野常信。常信は同時代中では技量抜群、これは間違いない。ただ、旅好きの父親同様に芸術家肌で、政治工作には無関心であった。

 その隙を突いて勢力を増しているのが、大和絵系の住吉派である。住吉家は大和絵の古い家だが、鎌倉時代の中頃に一度絶えた。しかし、寛文二年(一六六二年)、後西天皇の勅命により家名復活。その際、復活住吉家の初代となったのが土佐光吉の門人・住吉如慶であった。

 ところで、狩野探幽は絵師として万能の天才と言える。狩野派本来の漢画だけでなく、大和絵についても土佐派の絵師たちを上回る技量を持っていた。探幽は、江戸幕府にかかわる絵画の仕事は、漢画・大和絵問わず、すべて狩野派で独占しようとし、半ば成功した。しかし、その後が続かなかった。世が安定すると武家も貴族化する。大和絵の需要も増すばかり。結局、京都から専門の絵師を招かざるを得なくなった。

 貞享二年(一六八五年)、幕府が狩野派以外から登用した初の御用絵師、それが住吉如慶の長男・具慶である。住吉具慶は、江戸時代を代表する大和絵の名手と言ってよい。さらに、将軍生母・桂昌院が何事にも京都風を好み、具慶を重用した。為にこの時期、具慶を頭とする住吉派は、少数派でありながら、勢いとしては狩野派を凌ぐものがあった。

 一方、町絵師の世界も変わりつつある。江戸時代、町絵師もまずは狩野派の御用絵師の下で一定期間修行し、その後に独立するという道をたどることが多かった。御用絵師の画塾を卒業した者は師匠に従って幕府や大名家の仕事に参加し、それが安定収入になったからである。

 しかし、時は流れ、経済の支配権が武士から商人に移る。武士の都である江戸においても町人文化が花開き、絵師の仕事も町人向けの比重が増えていた。
 御用絵師は、どんなに金を積まれても町人向けの仕事はしない。従って、そこをカバーするのは町絵師ということになる。仕事は増え、絵画のスタイルも多様化して行く。浮世絵の前身となる風俗画や役者絵などが出始めるのもこの時期であった。

 伊藤文竹は、おりんの修行を快く引き受けてくれた。話によると、遠島になった英一蝶は至極元気らしい。よく手紙を寄越すそうで、師匠の孫にあたる吉之助の世話になったこともその中にあったという。

 帰り道、吉之助とおりんは並んで歩いていた。おりんは今や志乃の着せ替え人形で、外見はすっかり小綺麗になっているが、まだ親子には見えない。かと言って、主従でもない。おりんは堂々と横に並んでいるのだ。不思議そうな顔をしてすれ違って行く者が多い。

「どうだった、文竹は、いや、文竹先生は? やっていけそうか」
「うん。顔も体も丸っこくて、狸かと思ったけどね。あたし、頭の上に葉っぱが載ってないか、探しちゃった」
「ははは。お前、上手いこと言うな」

「優しそうで安心した」
「そうだな。考えてみれば、あの英一蝶と長年付き合っているんだ。人格者であることに違いない。四日行って二日休みということだ。朝に行って昼までは工房の手伝い。昼から一時(二時間)は自分の勉強だ」

「自分の勉強って、何をすればいいの?」
「先生が課題を出してくれるから、それをすればいい。基本は絵手本の模写だな。狩野派では学ぶ順番も決まっている。まずは初級の絵手本を使って山水、花鳥、人物と練習して行く。次は中級の絵手本だ。そこまで済めば、徐々に先生の仕事の助手を務めたりすることになるが、今はそこまで考えなくていい。いずれにせよ、順を追って教えてくれるから、当面は言われた通りにやってくれ」
「分かった」

「休みの日も家で習ったことの反復練習だぞ。最初はとにかく描きまくるしかない。頑張れ」
「うん」
 嫌な顔をするかと思ったら、意外にも素直にうなずいた。この子なりに決意するところがあるのだろう。

「ところでさ、狸の工房の前の店は何? 随分騒々しいけど・・・」
「あれか。あれは、読売(現代の新聞)の版元だよ。文竹先生は、あの版元と協業するために高輪に移ったと言っていた。読売は伸び盛りの商売だ。今後、読売の挿絵描きは町絵師の大きな収入源になるだろう。まずは狩野派の技法を習得することが一番だが、少し余裕が出たら、そちらも習っておくといい」
「うん」
「返事は、はい。まずはそこからだな」

 品川は東海道の出入口であり、その延長線上にある高輪近辺も人通りが絶えない。二人はしばらく黙って歩いていたが、不意に「あっ、そうか」とおりんが声を出した。
「どうした?」
「うん。店を構えるなら、何で江戸のど真ん中にしないのかと思ったけど、分かったよ」
「どういうことだ?」

「ほら、こんなに人が多いでしょ。江戸に入る人は今江戸で何が起きているか知りたいから必ず読売を買う。江戸から出る人は田舎への土産に買って行く。紙だからね。きっと何枚も、下手したら何十枚もまとめて買って行くよ。滅茶苦茶儲かる」

「なるほど。お前、変なところに知恵が回るな。絵師やめて商人になるか」
「それなら煎餅屋がいいな。最高に美味しい煎餅を発明して京や大坂にも店を出してやる」

 通りには商家も多い。季節に合わせ、八百屋では水菓子(カットフルーツ)が、饅頭屋では蒸し饅頭に代わって水飴が売られている。煎餅屋はいつも通り。キョロキョロ視線の定まらないおりんを見て思い付いた。

「そうだ。中間はどうする? 藩お抱えの者を借りられるのは、月に数度だろう。やはり口入れ屋で雇うしかないか」
「えっ、中間って、あたしのお供ってこと?」
「そうだ」
「冗談じゃないよ。一人で通えるよぉ」
「そうは行かん。お前は、志乃の遠縁ということで藩に届けを出している。一応は武家の娘なんだぞ。一人で外をウロウロさせられるか」

「でも、しょっちゅうお煎餅買いに出てるけど」
「浜屋敷の周辺だけだ」
「そんなぁ。ほんと、勘弁してよ」
 これについては心底嫌そうである。
「仕方ないなぁ。一人で通うとして、約束できるか。絶対に寄り道しないと。どうだ?」
「する。約束するよ。真っ直ぐ行って、真っ直ぐ帰る」

 二人がそんなことを話していると、路上から一斉に人が消えた。脇道や屋内に逃げられなかった者はその場に平伏する。
「あっ、大名行列だ!」
「ほら、私の横に。膝は付かんでいい。会釈だけしろ」
 将軍の甥を藩主とする甲府藩は御三家と並ぶ家格であり、家臣も幕臣(将軍の直臣)相当とされる。基本、道端で平伏までする必要はない。

 参勤交代ではなく単なる市中の移動らしく、大名行列と言っても二十人程度。すぐに行ってしまった。人々が動き出す。
「どこの殿様?」
「駕籠の横にあった家紋を見たか」
「えっと、丸があって、中に、何だろうあれは?」
「二枚の鷹の羽を交差した意匠、丸に鷹の羽という紋だ。絵師は観察眼も大事だぞ」
「で、どこの大名なのさ?」
「さてな。よくある紋だからな。どこだか知らんが、泉岳寺にでも行くんだろう」

 ほどなく紀州徳川家の下屋敷など大名屋敷が並ぶエリアに入った。延々と続く白壁が午後の日差しに照らされて目に眩しい。元禄十二年(一六九九年)、夏のことである。

次章に続く

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