【第20章・黒書院の対決】融女寛好 腹切り融川の後始末(歴史小説)
第二十章 黒書院の対決
阿部家上屋敷黒書院、上段から見下ろす備中守・阿部正精も困惑していた。
なんと、本当にこの娘一人か。
狩野法眼、絵師とはいえ立派な旗本であろう。家老や用人の類はいないのか、と思った。出鼻を挫かれた感は否めない。家臣を同席させなかったのは正解だ。こんな小娘相手に密談しているところを見られては、藩主の沽券にかかわる。まあ、よい。さっさと終わらせよう。
「夜分に関わらずよく来てくれた。予が備中守である」
江戸時代、大名に対して、ここでガバッと頭を上げて口を利く馬鹿はいない。栄は平伏したまま、自分と備中守のほぼ中間に座る町田医師に向けて言った。
「取次ぎの方に申し上げます。わたくしは、奥絵師・法眼狩野融川様の弟子、旗本・高井飛騨守様家来・小杉吉弥の娘、栄と申します。この場には、狩野家奥様の名代としてまかり越しました」
すると、町田の声がする前に備中守の声が頭の上に降ってきた。
「うむ、直答を許す。面を上げよ」
「ありがとう存じます」
それでも、栄の視線は畳の上にある。半分ほど頭を上げるのは、あちらからこちらの顔が見えるようにするためで、こちらがあちらの顔を見ることは許されない。
「法眼の弟子と申したが、そなたも絵師なのか」
「はい。さようでございます」
「修行して何年になるか」
「はい。十二年でございます。法眼様の下では十年になります」
「そうか。ともあれ、此度の件、狩野法眼には気の毒なことであった。お悔やみ申し上げる」
感情のない備中守の一言。ここで初めて、栄は顔を上げた。備中守の顔を見た。色白で面長、典型的な殿様顔だ。
何を言いやがる。こうなったのは全部てめぇのせいじゃねぇか。頭巾の素川章信ならそう怒鳴りつけるところだろうが、栄は堪えた。
「恐れ入ります」
「うむ。では、夜も遅い故、本題に入ろう。狩野家としては、この件どう処置するつもりなのだ?」
「それは、どういう?」
「町奉行からの報告では、法眼は下城途中に駕籠の中で切腹して絶命した、ということだが、間違いないか」
「えっ、奉行所からの?」
そうか。備中守は寺社奉行も兼ねていると言っていたっけ。寺社奉行は、幕府の数ある奉行職の中でも、唯一、大名がその地位に就く奉行職の筆頭だ。それで町奉行から報告が行ったのか。何でもお見通しってことかしら。怖いな。
しかし、これは栄の買い被りである。寺社奉行は確かに奉行職の筆頭だが、日常、奉行同士の横の連絡はない。
今回は、与力から報告を受けた町奉行が、奥絵師という城中奥深くまで入って仕事をする特殊な立場の者のことなので、同派のボスである側用人・水野出羽守に気を利かせて通報した。それが、水野から備中守に伝えられたに過ぎない。
ただ、備中守としてはそんな種明かしをする必要はない。こちらは何でも知っている、という態で優位に立とうとするのは、交渉ごとの常とう手段である。
「駕籠の中での切腹というのは尋常ではない。乱心の上での所業としか思えんが、どうか」
「乱心、でございますか」
栄は呆気に取られた。浜町狩野屋敷で、素川章信や家老の長谷川たちとも、融川が切腹した理由について様々に議論したが、誰も「乱心」という言葉は口にしなかった。栄自身、思いもしなかった。
「それ以外に考えられるか」
「し、しかし」
「そなた、分かっているのか。乱心ならば狩野家が残る道もあろうが、覚悟の切腹となれば、それは即ち、公儀に対する反逆となるのだぞ」
確かにそうだ。乱心となれば、現代でいう責任無能力状態での行為ということで、江戸時代においても罪一等を減じられるのが普通だ。場合によっては、お咎めなし、ということもあり得る。
しかし、覚悟の切腹となれば話は違う。
役目の上で何か問題が起こり、それについて抗議するのであれば、上司を通して訴え出て、沙汰を待つべきなのだ。それをせず、勝手に腹を切ってしまうということは、組織としての公儀を信用していない。さらには、以後の奉公を自分勝手に放棄した、と取られても仕方ない。
武士の世界では、腹さえ切れば済む、という時代もあった。しかし、徳川の天下が定まって二百年、そう単純には行かなくなっている。
栄は、血の気が引く思いをしつつ、一方で、乱心と決めつけられることに対して、本能的な拒絶感があった。
「し、しかし、しかしながら、乱心とは、納得いたしかねます」
「ほう、乱心ではないと?」
備中守は、目にやや侮蔑的な色を宿して続けた。
「しかし、正気の上でというなら、腹を切るにしても、屋敷に戻ってそれなりに支度をして装束を整え、作法に乗っ取って切るべきではないか。それとも、駕籠の中での切腹は、絵師によくあることなのか」
確かに、そう言われると一言もない。しかし、やはり乱心にはしたくない。恐らくこれは、狩野融川寛信という人間を知っている者と知らない者の違いだろう。
栄の知っている融川は、遊び好きの融川、女好きの融川などと言われながらも、品のいい名門の若殿様の範疇を出ない。決して粗暴粗野な人ではない。
何より、絵画に取り組む姿勢だ。狩野派絵師の中では、感性を大事にする方だと思うが、一方で、古画の研究や絵手本の稽古にも熱心で、決して感情に任せて筆を走らせる絵師ではない。
栄の中の融川像と、どうしても、乱心という言葉が繋がらない。素川も、家臣や画塾の弟子たちも、無論、融川夫人の歌子も同じ思いに違いない。
恐らく、満座で備中守に奥絵師としての誇りを踏みにじられ、一時の感情の高ぶりで・・・。
そうか、その一時の感情の高ぶりが、「乱心」と言えば言えるのか。もしかしたら、私以外は、思っていても口に出さなかっただけなのか。分からなくなってきた。何より、乱心とした方が、本当にお家のためには良いのだろうか。
駄目だ。考えがまとまらない。
町田が心配そうに栄の様子を窺っているのが視界に入った。備中守はと言えば、余裕の表情で見下ろしている。
癪に障ること!
しかし、実は備中守も栄が見て取ったほど余裕はない。むしろ焦っていた。この娘は、なぜ乱心で納得しないのか。こちらが助け船を出しているのが分からんのか。とにかく、手早く片付けたい。より強く出るべきか、と。
ここで栄は、考えをまとめることを放棄した。備中守が乗ってくれることを祈りつつ、話題を別方向に転じた。
「お尋ねしてもよろしいでしょうか。備中守様は、融川法眼様の描いた屏風の、どこがお気に召さなかったのでしょうか」
「なに? ああ、屏風か」
「はい」
「そなた、あの屏風が何に使われるのか存じておるのか」
「はい。公方様が朝鮮国王に贈られるものと承知しております」
「その通りだ。上様の、すなわち、日本国の威信を示す贈り物だ。あのような貧相なものでは困る」
「貧相とは、どの辺りが?」
「金の使い方だ。なぜあのようにまばらに金粉を使うのか。ところどころ剥げ落ちているようで、至極見た目が悪いではないか」
「恐れながら、あれは遠景と近景、すなわち遠いところと近いところの奥行きを示すための表現でございます」
「何であろうと貧相なものは貧相だ。それに、予も少しは絵画のことを知っておる。あれは狩野派の伝統的な技法から逸脱し過ぎているように思える」
「確かに、あの金泥や金砂子の使い方は、融川法眼様の新しい工夫でございます。しかし、決して伝統からかけ離れたものではございません。狩野派の絵師として、求められる格式の中での工夫でございます」
「いずれにしても、貧相なものは貧相だ。上様の贈り物として相応しくない」
「それは合点が参りません」
「まだ言うか」
「あの屏風は、伺下絵の通りに描かれております。今更、公方様の贈り物として相応しくないとは、納得いたしかねます」
「下絵がなんだ。駄目なものは駄目ではないか」
備中守のこの一言を聞いて、栄の堪忍袋の緒が切れた。描画に集中し過ぎたときに出る険が目に宿り、声のトーンも変わる。
「馬鹿な! それはご本心でございましょうか」
「何だと!」
「ある方より、備中守様は公方様の股肱のご重臣と伺いました。そのような方が、公方様のご意思をないがしろにされるのですか」
「小娘、何を言う。無礼を申すな!」
「無礼なのはそちら様です!」
「なにを!」
「備中守様は、融川先生にその場で描き直しを命じられたと聞き及びます。誠でしょうか」
「ああ、言った。何が悪い。下絵は下絵、大事なのは現物の出来上がりだ」
「お心得違いも甚だしいと存じます。伺下絵の通りに描かれた画を勝手に直すなど、あり得ません。それこそ不忠の極みと申すもの!」
「黙れ! 言うに事欠いて、不忠とは何だ。不忠とは、誰に対する不忠か!」
「知れたこと。奥絵師のお城の御用に関すること。忠義の対象はお一人しかございません!」
「そなた正気か。予が、上様に対して不忠だと申すのか。陪臣の小娘風情が、この備中守に、上様に対する忠義の何たるかを説こうというのか。身の程をわきまえよ!」
「確かに、わたくしの家は卑賤な陪臣でございます。されど、武士は武士。そして、公方様は武士の棟梁。公方様への忠義に直参も陪臣もございますまい!」
「何だと。そ、そなた・・・」
「し、しばらく、ご両所とも、しばらくお待ちを!」
話題の転換とともに、急激に熱を帯びた二人のやり取りに慌てたか。町田が青い顔をして割って入った。
次章に続く