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【第83章・西之丸入城】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

第八十三章  西之丸入城

「あっ、来た!」
「おりん、駄目ですよ。頭を下げなさい」
「大丈夫だよ。まだ距離があるもの。でも、先生は何処さ? お殿様の傍だって言ってたよね。あの馬に乗っているのがお殿様?」
「あれはご家老の安藤様でしょう。お殿様はお駕籠です。もっと後ろの御行列の真ん中あたりのはずですよ」
「ふぅん」

「あら、そうだわ。今日からはお殿様ではなく、上様とお呼びするんだった」
「何それ?」
「わたくし達のご主君はね、甲府の藩主様から将軍家のお世継様になるのです。今までもその辺のお大名などとは比べ物にならないほど偉いお殿様でしたけど、これからは本当に日の本一の御方になるのですよ」
「そうか。だから、お城に引っ越しするのか」
「そうね」
「お城の中にも長屋ってある? もしかして、あたし等もお城の中で暮らすことに?」

「志乃様、おりんさん、来まわしたわよ。頭をお下げください」
 そう横から声を掛けてきたのは竜之進の妻・美咲である。彼女は二歳の長女を背負い、五歳の長男と手を繋いでいる。みっともないから見に来るな、などと言われても、父や夫、或いは子や孫の晴れ舞台。甲府藩士の家族はほとんど、町衆と共に沿道に並んでいた。

 当たり前だが、行列が目の前を通過する間は平伏していなければならない。
「何だよ。これじゃ足しか見えないよ。誰が誰だか分かりゃしない」
「しっ」

 さて、時間を二時(四時間)ほど戻す。宝永元年(一七〇四年)十二月五日の朝である。

 冬の空には雲ひとつなく、空気は限りなく澄み渡っていた。甲府藩主の居所である浜屋敷。その最後の日。狩野吉之助は、朝一番、誰よりも早く大広間に来た。床の間の前に立つ。そして、それまで掛かっていた狩野探幽の筆による龍虎の双幅を外し、自作の「日月双鶴図三幅対」に替えた。

 中央は主君である松平綱豊と正室・近衛熙子を思わせる二羽の鶴。左右もどちらがどちらとは言わないが、一対を成す日月。そして落款、二人から授けられた号と名で「隨川岑信筆」と入れてある。

 四つ(ほぼ午前十時)の鐘で綱豊と熙子が大広間の上段に登場。下段之間を埋める家臣一同の祝賀を受け、その後、綱豊は行列を仕立てて江戸城に向かった。

 行列は華美なものではなく、むしろ質素であった。意外にも熙子の提案による。

 かつて、太閤秀吉は臨終に際し、豊臣政権の柱石たる五大老の内、長年の盟友である前田利家を愛息・秀頼の傅役に任じ、大坂城に常駐させた。一方、潜在的脅威と見做す徳川家康には政務を託すと言いながら、京都南郊の伏見城に入るように命じて地理的に孤立させる策を取った。
 しかし、秀吉の死後、程なく利家も病死。すると、家康は自らの判断で伏見城を出て大坂城西之丸に入り、そのまま豊臣政権の実権を奪ってしまった。

 豊臣側から見れば太閤の遺命に背く暴挙だが、今は徳川の天下である。神君の果断さを表すエピソードとして語り継がれている。

 そして、百年前、家康が大坂城西之丸に入った際、物見遊山にでも行くような軽装であったと伝わる。
 綱豊の西之丸入城。熙子は、敢えて華美にせぬことで大名や幕臣たちにその故事を想起させようと考えたのだ。派手な儀式については勅使を迎えての将軍宣下の際に行えばよい。

 質素というより質実剛健というべきか。行列は、府内において普通の大名には決して許されない軍勢の体を取っていた。その編成と言えば・・・

 先頭から、先鋒二十名(徒歩)、足軽鉄砲隊四十名(徒歩)、江戸家老(騎馬)、第一家臣団二百名(徒歩)、直衛番士二十名(徒歩)、綱豊本人(駕籠)、近習四名(徒歩)、中老二名(騎馬)、第二家臣団二百名(徒歩)、番頭(騎馬)。さらに足軽槍隊四十名(徒歩)が従う。

 各部隊は二列縦隊で進む。士分の家臣の服装は鼠色の袴に黒紋付、頭は陣笠。吉之助と竜之進も同じ格好で、綱豊の駕籠の両脇を固めている。ちなみに、間部はすでに城に先行しており、行列の中に姿はない。

 前日までに府内各所に幕府から達しがあった。行列のコース上にある屋敷では、昼九つ(ほぼ正午)に当主が門前に出て行列を迎えるべし、と。
 庶民についても行列を見ることが許された。無論、現代のパレードと違い、声を掛けたり手を振ったりは出来ない。路上に土下座して迎え、見送るだけである。それでも、沿道は新時代の到来に期待する老若男女で鈴なりとなった。

 人間、生きている内に一度や二度は晴れがましい気持ちになることがある。

 吉之助は今、一歩一歩、新たな天下人と共に城に向かっている。甲斐で山役人をしていたところを江戸に呼ばれて九年。さらには勘当同然に家を出され、失意の内に江戸を去ったのが二十四年前。まさかこんな日が来ようとは・・・。

 吉之助が少なからず感傷に浸っていると、沿道に見知った顔がちらほら。同じ御長屋に住む藩士の家族たちだ。見れば、妻の志乃とおりんまで。その横には竜之進の妻子も。

 まったく、御長屋で待っていろと言ったのに。

 すると、平伏しながらも器用に上目遣いで行列を観察しているおりんと目が合った。

 馬鹿、しっかり頭を下げんか。

 同時に、隣の美咲に竜之進は逆側だと伝えて欲しいと思ったが、言葉を交わすわけにも行かない。しかし、おりんはそれに気付いたようだ。美咲の袖を引いて何やら話し始めた。

 その後、行列は新橋から銀座に進んだ。日頃近寄らないようにしている実家(現代の銀座七丁目)の近くを通った。
 さらに京橋へ。しばらく行くと武家屋敷と商家が混在する地域を抜けた。城は目前。ここまで来れば最早大名屋敷しかない。
 各屋敷の前では裃を着た各藩の重臣たちが平伏している。大名自身の姿はない。この超一等地に屋敷を与えられている者は例外なく幕府で要職を占め、城中にいるからだ。

 この日も行列は桔梗門から入城。普通、大名は桔梗門の前で駕籠から出る。行列を解き、家臣たちは門の外で待たねばならない。しかし、綱豊は駕籠に乗ったまま、行列も隊形そのまま、武装も解かずに門内に入って行く。

 行列は将軍綱吉のいる本丸には寄らず、直接西之丸に向かう。桔梗門から西之丸までの経路上、幕府の即応常備戦力である大番各組により道の左右が固められていた。

 行列が西之丸御殿の正面に到着。駕籠が下ろされ、綱豊が姿を見せると、出迎えの幕閣一同が揃って片膝を付き頭を下げた。その顔ぶれは以下の通り。

 大老格老中首座・柳沢吉保(従四位下侍従兼出羽守、武蔵川越藩主八万石)
 老中次席・小笠原長重(従四位下侍従兼佐渡守、三河吉田藩主五万石)
 老中・土屋政直(従四位下侍従兼相模守、常陸土浦藩主七万石)
 老中・稲葉正往(従四位下侍従兼丹後守、下総佐倉藩主十万石)
 老中・秋元喬知(従四位下侍従兼但馬守、甲斐谷村藩主三万石)

 若年寄・加藤明英(従五位下越中守、下野壬生藩主二万五千石)
 若年寄・井上正岑(従五位下大和守、常陸下館藩主四万石)
 若年寄・稲垣重富(従五位下和泉守、下野烏山藩主三万石)
 若年寄・永井直敬(従五位下伊賀守、播州赤穂藩主三万石)

 そして、お歴々の背後に同じように片膝を付いて控える男が一人。いつもの無表情、いつもの裃姿、甲府藩用人・間部詮房である。

 まず、間部の案内で数名を率いた安藤家老が御殿内の点検に向かう。同時に主力は番頭鳴海の号令で西之丸各所の警備に散って行った。その後、綱豊が柳沢に先導されて御殿の中へ。

 吉之助と竜之進の任務は綱豊の身辺警護。綱豊の背を見ながら壮麗な御殿の奥へ奥へと進む。横では竜之進が顔を引きつらせている。動きもぎごちない。後続の甲府藩士、皆、似たり寄ったりである。吉之助は松之大廊下で刃傷事件のあった日の初登城以来、何度か綱豊の供をして城に来ているからそこまでではないが、気持ちは分かる。彼にしても西之丸に足を踏み入れたのは初めて。しかも、今後はここが自分の職場になるのだ。別の意味で怖くなる。

 後は柳沢の指揮で、実質的には間部の指図により流れるように事が進んだ。一時(二時間)後、西之丸大広間において諸大名の将軍世嗣への拝謁が始まる直前、吉之助と竜之進は大玄関の式台の位置にいた。衣装は裃にチェンジ。来賓の案内役だが、最終的な本人確認、ボディチェック、挙動の監視という警護官としての役割もある。

「吉之助さん、どうしましょう? 来ますよ」
「来ないでどうする。まずは御三家。それが終われば御一門、次いで譜代、続々来るぞ」
「これまで使者としていろいろな家を訪ねたけど、大名と直に接する機会はそうなかったからなぁ。ましてや御三家って・・・」
「慣れるしかない。これからは、この西之丸が幕府の中心になるのだから」

 そう言えば、殿が、いや、上様が将軍になったら私を御用絵師の筆頭にして下さるという話だったが、将軍世嗣ではまだ駄目かな。そもそもご記憶ではないか。

 吉之助がそんなことを考えていると、大手門(西之丸大手門)の方から次々声が聞こえてきた。
「尾張中納言・徳川吉通様、ご到着!」
「紀伊中納言・徳川綱教様ご名代・松平内蔵頭頼職様、同じく松平主税頭頼方様、ご到着!」
「水戸宰相・徳川綱條様、並びにご嫡子・左衛門督吉孚様、ご到着!」

 一方、ところ変わって西之丸とは真逆の三之丸、城の北側隅櫓の上。そこからだと大手濠越しに登城する大名や旗本の行列を見下ろすことが出来る。将軍綱吉の側室にして大奥御年寄・大典侍局お気に入りの場所である。

「姐さん、ここでしたか。桂昌院が呼んでますよ」
「ああ、今行く。お熊、ほら、ご覧な。続々と来やがる」
「西之丸への挨拶ですか」
「そうさ。いい加減な連中だよ。結局、奴らは主が誰だって構やしないんだ。大事なのは自分の家と出世だけさ」

 お熊は元妓楼の下働き。命の恩人と信じる女主に従って大奥に入って五年半、今や球磨川と名乗る役付きである。元々弁慶のような大柄、その上に衣装が立派になっているものだから、大層な貫禄だ。最初は単に邪魔者を腕力で黙らせる役だったが、面倒見のいい性格が功を奏し、今では彼女自身も相当な顔になっている。ただ、大典侍局と二人だけのときは元のお熊に戻ってしまう。

「でも姐さん。あたしは頭が悪いから分かんないんですけど、将軍世嗣って、何なんですか」
「まあ、次の将軍だね」
「分かんないなぁ。次のってことは、今の将軍はそのまま? 甲府の殿様はどうしてすぐに将軍にならないんですか」

「息子じゃなく甥だからね。それがいきなり将軍になっては、将軍の地位を簒奪したと世間に思われる。何より史書にそう記されちまう。それが怖いんだ」
「さんだつ?」
「力尽くでぶん捕るってことさ。でも、そんなこと怖がってどうする? あたしが奴の立場なら、絶対、将軍を殺してる。最低でも隠居させてるね。幕府の実権を握ったと言っても、奴はまだ将軍じゃない。玉はまだこっちが握ってるんだ。勝負はこれからだよ」

 その美しい横顔に陰りはなく、どんな堅物もいちころの桃花眼がらんらんと輝いていた。姐さんはめげてない。そうだ。誰もこの人の行く手を阻むことなんて出来やしないんだ。お熊は何やら嬉しくなってきた。
「はい!」
「何だい、急に大きな声を出して」
「へへ」
「変な子だね。ところで、以前赤兵衛に渡されたしびれ薬、まだ残っているかい?」
「半分は」
「それはいい。残り全部、桂昌院に飲ませちまおう」
「いいんですか。もう随分弱ってるから、死んじまいますよ」

「あの婆さんはもう用済みだ。いや、それ以上に邪魔なんだよ。これからは、将軍が頼りにするのはあたし一人じゃなきゃ困るからね」
「分かりました」

「そうだ、婆さんで思い出した。洗濯場のお絹が宿下がりだって?」
「もう歳ですから、力仕事はさすがにきついようで」
「ここを出た後は? 家族はいるのかい?」
「甥っ子が府中宿で小間物屋をやっていて、そこを頼るそうです」
「そう。よく働いてくれたからね。渡すもの渡して、あと、そっちでひどい扱いを受けないように、しっかり面倒を見て上げておくれ」
「分かってます。ふふ、姐さんは優しいなぁ」

 社会の最底辺から這い上がってきた大典侍局にとって、同じ人として尊重すべきは下働きの老婦であり、将軍もその生母も、そして新たに出現した将軍世嗣も、所詮は狩りの獲物に過ぎない。彼女は、眼下を行く男たちの列をもう一度きっと睨み付けると、踵を返して御殿の方に戻って行った。

次章に続く