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【第68章・衝突前夜】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

第六十八章  衝突前夜

 四谷の御犬小屋跡地がよく見える。狩野吉之助と島田竜之進、そして駒木勇佑の三人は、谷ひとつ挟んだ丘の上の草地に身を伏せていた。翌日に控えた主君・松平綱豊の六義園視察。行列の経路上のこの地における襲撃の有無を判断するため。

 最初に遠眼鏡を覗いた竜之進が言った。
「半信半疑でしたが、これはやる気ですよ。連中は本気だ」

「見せてくれ」
 遠眼鏡を受け取り吉之助も見た。行列の退路を閉ざすためか、道に可動式の柵のようなものを設置している。周囲の塀や柵も補修中。さらに、元犬小屋と思われる木造の建物に物資を運び込んでいるのが見えた。

「竜さん。悪いが、この周辺に四、五十人の部隊を隠せるような場所がないか見てきてくれ」
「承知」
「駒木、お前は弓の上手だから目もいいだろ。人数を数えてくれ。侍と人足は分けてな」
 吉之助は駒木に遠眼鏡を渡すと懐から矢立と紙を出し、目の前の状況を絵図として描き始めた。

 一時半(三時間)後、浜屋敷に戻り主君に報告。
「敵の意図と備えは・・・」と、吉之助が絵図を指し示しながら説明する。さらに竜之進が続けた。
「人数は侍三十を確認。しかし、それだけとは思えません。近くに犬小屋が四つ。それぞれ三十人は入れます。少なく見積もって、百二十人による攻撃を想定すべきでしょう」

「川越藩も定府(参勤交代を免除された藩)だ。江戸にいる藩士は多くない。あくまで自前の戦力だけで、という前提になるが、妥当な線だろう」と江戸家老の安藤美作。さらに間部が続ける。
「副使として同行する本庄豊後守様がどう動くか。本庄家の行列は家格から言って十四、五名。それも合わせて、念のため、百五十と見積もっては如何でしょうか」

「よかろう。で、どうする? 御三家に加勢を頼むか。尾張、紀州はともかく、水戸家は兵を出してくれるのではないか」と綱豊。
「し、しかし、万が一、他家に声を掛けて空騒ぎに終わった場合、大恥をかきます」

 たじろぐ間部を無視して、綱豊の横から熙子が言った。
「そのようなこと、どうでもよい。殿、とにかく、自前で二百人の軍勢を用意しましょう。これ、先程の大きな地図を持て」

 近習が地図を持ってきた。吉之助と竜之進がそれを受け取り、藩主夫妻の前にを広げる。
「狩野。そなた、当然、こちらの兵の配置についても考えてきたな」
「はっ」
「申してみよ」

「はい。殿の御行列を本隊と考えれば、中間や人足も藩士が化け、最大で五十名。別に、明朝五十名を先行させ、先程我らが偵察拠点とした丘の南側、そこの林の中に潜ませます。さらに今夜のうちに百名を、出羽守様とは犬猿の仲の内藤家の下屋敷に置かせていただければ・・・」

「内藤新宿では遠かろう。間に合うまい」と、綱豊が心配げに言う。
「はい。ですから、殿の御行列が四谷に至る時刻を決めておき、小分けにして北側の入り口付近まで前進させておくのです」

「なるほど。それで敵の背後を衝くか。お照、どう思う?」
「いいでしょう。では、内藤新宿の百名の指揮は、美作殿にお願いします。よろしいですか」
 熙子が安藤美作を見た。皆の視線が美作に集まる。

 彼は父親の跡を継いで甲府藩の江戸家老を務めているが、この職は幕府から派遣されている所謂「付家老」なのだ。美作が綱豊を支持すれば、幕臣の出向組や幕臣を親族に持つ藩士たちも動揺せずに綱豊に従うであろう。逆に、美作が離反すれば、とても二百人など揃えられない。

 しかし、熙子は、美作の支持を確信していた。安藤一族は神君創業の功臣・安藤直次を祖とする。この有能な一族の忠誠心は、将軍個人ではなく、徳川宗家、ひいては幕府そのものに向いている。幕府の行く末を思えば、綱豊を見捨てることなどあり得ない。

 安藤美作は一拍置き、且つ重々しく、熙子が期待した通りの答えを口にした。
「お任せ下さい。殿の御ため、命を懸けましょう」

 熙子が大きく頷く。そして、ほっとした雰囲気に包まれた座を再び引き締めるように両の鳳眼を一層輝かせて言った。
「皆の者、これは好機じゃ。敵は自ら墓穴を掘った。このような暴挙、正気とは思えぬ。天が許すはずもない。明日、殿を守り切ることが出来れば、出羽守は勿論、将軍も終わりです。新年祝賀の儀は、我が殿が新将軍として執り行うことになるでしょう。さあ、準備にかかりなさい!」

 吉之助は、熙子の覇気に圧倒されて平伏した。横を見ると竜之進も同様だ。竜之進もこちらを見た。畳の上で目が合う。思わず吹き出しそうになるのを必死に堪える二人であった。

 熙子はそこで奥に消え、上段には綱豊が一人残った。いつもの穏やかな丸顔。その前で、安藤美作と番頭の鳴海帯刀が中心となって次々と決めて行く。本隊(綱豊の行列)の人選、武器を隠し持つ方法、別働隊の人選、別働隊の装備と兵站、本隊と別働隊の連絡手段、さらに内藤家との調整要領など。

 吉之助と竜之進は行列に加わり、主君の駕籠脇につくことに決まった。敵の攻撃に対して最後の盾とも言えるポジションである。

 この間、間部が、自分も行列の一員として出ると主張したが、美作が、一人分戦力が落ちるだけだと一蹴。間部は尚も食い下がったが、綱豊から、事後の大名旗本に対する政治工作こそ重要である。それを任せられるのは間部しかおらず、そちらに専念するよう諭され、ようやく引き下がるという一幕があった。

 日が落ちると、美作が指揮する別働隊が少人数に分かれて浜屋敷を出て行った。全ての手配が終わり、吉之助と竜之進が御長屋に戻ろうとしたとき、すでに夜の四つ(ほぼ午後十時)を過ぎていた。雪でも降りそうな寒い夜であった。

「大変なことになったな」
「まったく。そう言えば、いませんでしたね」
「誰が?」
「新見典膳ですよ」
「ああ、言われてみれば。明日はどうだろうか」

「しかし、以前新井白石先生が言っていたように、仮病で逃げられないんですかね」
「いや、難しいと思う。今回は幕命というより公方様ご自身の命令だ。仮病で回避したとして、それが明るみになれば不敬罪に問われかねない。そこを狙ってという可能性もある。受けた上で跳ね返すしかないよ」

「なるほどね。あっ、そうだ。言い忘れていましたが、実は、美咲がまた身籠りました」
「そ、そうか。いや、何はともあれ、めでたいな」
「我らが討ち死にした場合、間部様が面倒を見てくれますよね」
「そうだな。そこは信じてよかろう」

 家では志乃とおりんが起きて待っていた。長火鉢の前で肩を寄せ合い二人で一枚の丹前をかけている。揃って心配そうな顔。昼過ぎから浜屋敷全体が騒がしくなっていたから、大体のことは承知しているのだろう。
「まあ、侍だからな。こういうこともある。おりん、万一のときは志乃を頼むぞ」

次章に続く

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