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【第2章・浜町狩野屋敷】融女寛好 腹切り融川の後始末(歴史小説)

第二章  浜町狩野屋敷

 半時(一時間)ほど時間は戻る。
 血まみれで生死も判らぬ「殿」を乗せた駕籠が、屋敷の中に吸い込まれて行った。この屋敷は、奥絵師四家のひとつ、浜町狩野家の屋敷である。

 江戸時代、画壇を制覇していたのは、いわゆる狩野派である。江戸狩野とも呼ばれる。徳川家康・秀忠親子が関ヶ原の戦いに勝利し、江戸に幕府を開いたのが慶長八年(一六〇三年)。その二年後に、当時京都を中心に活動していた絵師集団・狩野派を率いていた狩野光信に対して、幕府から江戸への移転命令が下された。
 光信はこれを受けた。当時、有力な顧客のほとんどは京都周辺におり、やりかけの仕事も多くあったため、一門の江戸移転が完了するまでには時を要したが、それでも、光信は、この段階で豊臣を捨て徳川を取った。

 後世の我々は、いわば神の目を持っている。徳川の世が二百五十年以上も続くことを知っている。しかし、当時の人々は、室町幕府の崩壊、さらに織田、豊臣と新たに起こった政権が短命で瓦解する様を直に経験してきた。徳川の天下もまた、と考えてもおかしくない。

 光信の決断は、大変な勇気を要するものであったと言えるだろう。

 狩野光信は、安土城や大坂城の障壁画を手掛けた天才・狩野永徳の子であった。画才の面では父に遠く及ばなかったと言われる。光信としては、父の名声が轟く京大坂を離れ、新しい武家の都で勝負したいと思ったのかもしれない。ともかく、彼の決断がその後の狩野派繁栄の基礎となった。

 そして、江戸幕府の草創期、二代秀忠、三代家光の下で江戸城の本丸や御殿、さらに城下の数々の大名屋敷の造営に腕を振るったのが、光信の甥にあたる狩野探幽、尚信、安信の三兄弟であった。

 特に探幽は、絵師として永徳の再来と言われる天才であったのみならず、文化芸術面での将軍のブレーンとしても辣腕を振るった。
 探幽は将軍の意向を受け、殿中から生活面まで、武家社会における種々の様式を定め、格付けを行った。立場としては、豊臣政権下で活躍した千利休に似ている。しかし、探幽は、利休以上に政治家であった。自己の立場の強化だけでなく、狩野派そのものを組織として幕藩体制の中に定着させることに努めたのである。
 探幽は、幕府だけでなく主な大名家にまで、狩野派から絵師を送り込み、「狩野派スタイル」で日本全国を染め上げた。

 江戸幕府は、絵画に関する職制として御用絵師を設けた。そして江戸中期以降、御用絵師は、奥絵師(御医師並)と表絵師の二階層に分けられている。
 二十家ほどある狩野派御用絵師の内、奥絵師(御医師並)の職位に就けるのは旗本格の四家のみ。いずれも探幽三兄弟を祖とした。
 すなわち、狩野探幽直系の鍛冶橋狩野家、次弟尚信を祖とする木挽町狩野家(当初の名称は竹川町狩野家)、末弟で狩野宗家を継いだ安信を祖とする中橋狩野家。そして、竹川町家から分かれた浜町狩野家である。この奥絵師四家は、あたかも徳川御三家の如く、別格の存在として江戸画壇に君臨していた。

 今、黒塗りの駕籠の中で血まみれになっている「殿」こそ、その浜町狩野家の第五代当主・狩野融川寛信であった。官位は法眼。現代に残る作品では、「融川法眼筆」と署名されたものが多い。

 件の駕籠が玄関前に下ろされた。警護役の侍が屋敷内に向かって、「ご家老、ご家老を呼べ!」と叫ぶ。
「何事か。騒々しい」と、のっそり出てきたのは家老の長谷川春長である。長谷川は、融川寛信の父・先代の閑川昆信からの門人で、閑川から「昆」の一字を拝領し、筆名として「昆芳」を用いる。

「ご家老、お早く。殿様が、殿様が大変なことに!」
「何を慌てている? おい、殿のお草履はどうした? それ、持ってこんか」
「草履なんて。とにかく、早く、駕籠の中をご覧なされませ」
「何だと、殿に何かあったのか。お具合でも?」
 長谷川は、駕籠の脇に片膝をつき、「殿、失礼いたします」と、軽く断って引き戸を開けた。

「うっ、これは・・・」
 長谷川は、体勢を崩してその場に尻餅をついた。口をパクパクさせるばかりで次の言葉が出てこない。
 それもそのはず。駕籠の中は、四方に血が飛び散り、幼少の頃から知っている主人は、前のめりに倒れ、坊主頭の後ろを見せるばかり。袴は血まみれ、いや、駕籠の底部全体が血の海と言ってよい惨状である。

 旗本の家老は一代抱えの陪臣とは言え、身分は立派な武士である。しかし、長谷川は、元は町家の出で、絵師としての堅実な腕前と実直な人柄を見込まれて家老職を任されているに過ぎない。この手の修羅場に動転するのも仕方ない。

 少しの間をおいて、「と、殿、ゆ、融川様ぁ。お、お、お気を確かに!」と、ようやく声を絞り出した。
「ご家老、殿は、その、お脈は?」
 そうだ、まずは生死の確認だ。しかし、血まみれの主人の体に触れようと手を伸ばそうとするが、腕全体がひどく震えてどうにもならない。

 玄関の異様な空気に気付いて家臣たちが出てきた。とにかく主人融川法眼をこのままには出来ない。長谷川は彼らに向かって叫んだ。
「板戸を持って来い。い、いや、布団だ。敷布団でも掛布団でも何でもいい。殿を寝かせられるものを持って来い!」

 駕籠の脇にぴたっと寄せて布団を敷き、駕籠から主人の体を引き出して横たえた。そのとき、融川の右手に握られていた脇差がゴロリと落ちた。これも、刀身から柄まで血まみれである。長谷川は、転がった血まみれの脇差を見て、めまいと吐き気を催したが、かろうじて堪えた。
「四隅を持て。布団ごと殿をお座敷にお運びする。よいか。それ!」

 融川を載せた布団は、屋敷の中ほど、客の応接などにも使われる書院横の座敷に運び込まれた。血まみれの衣装はそのまま。それを隠すように上から掛布団をかけた。
 既にこと切れている。しかし、顔は綺麗なもので、布団を掛けてしまうとただ眠っているようにも見えた。長谷川は、現実から逃げるように、融川の顔に布をかけずに部屋を出た。

「ご家老。この後、如何すれば?」
 廊下に出れば、否応なく現実が押し寄せて来る。しかし、この非常事態、何から手を付ければよいのか。そんなことは長谷川にも分からない。誰だ、頼りになるのは誰だ?
「そうだ。おい、猿野町代地の素川章信様に使者を。それと、寛好だ。小杉の栄を、お栄を呼んでくれ。手分けして行ってくれ。急げ!」

次章に続く

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