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【第16章・一蝶の覚悟】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

第十六章  一蝶の覚悟

 護衛対象である英一蝶が、「旦那方、ちょいと頼みがあるんですがねぇ」と言いだした。聞けば、高輪に女がいて、金を渡しに行きたいという。

「高輪だと? それは無理だ。方角が逆だし、品川宿のすぐ近くではないか。東海道の出入口だ。警戒も厳しいに違いない」と、吉之助は撥ね付けた。
「でもねぇ。このまま江戸を出ちまうと、一生会えないってこともあるでしょ」と、一蝶も諦めない。

「それなら、金子は私が預かって、後でその女に届けよう。約束する」
「信用しないわけじゃないが、初対面だしね」
「一蝶。いや、一蝶殿。内藤家のご隠居の前でも名乗った通り、私は狩野吉之助。今は甲府中納言様に仕えているが、竹川町の、狩野常信の次男だ」

「ええっ?!」と、一蝶が素っ頓狂な声を上げた。
「従って、そなたの師であった永真安信は、母方の祖父になる」

「驚いたな。あんた、安信先生の孫か。い、いや、お孫様ですか」
「そうだ。だから、信用して金子を預けてもらいたい」
「駄目だな。そりゃあ、駄目だ。安信先生の孫と知っちゃあ、尚更、あっし如きの使いっ走りには出来ねぇ。すぐ終わりますから、頼みますよ。ね、この通り」と、一蝶が手を合わせる。
「しかし・・・」

 そこで竜之進が割って入った。
「吉之助さん、高輪辺りもどうせお祭り騒ぎだ。ここで揉めてるより、行っちまった方が早い」
 吉之助は、竜之進と一蝶の顔を交互に見て、軽くため息を吐く。
「仕方ないか。で、高輪のどの辺りなんだ?」
「泉岳寺の裏手ですよ。品川の料理茶屋の女中なんですけど、これがいい女でね」

 泉岳寺の裏、寺領と武家町に挟まれた細長い町人地の中に粗末な長屋があった。その左端から三つ目の部屋。障子戸の中、小さな明かりがひとつ瞬いている。

「旦那方、ここですよ。お園さん、いるかい?」
「はい、ただいま。どなた?」と中から聞こえた声は、全く擦れた感じがない。
「おお、いてくれたか。一蝶だ」
「えっ、一蝶先生?!」

 女は障子戸を三分ほど開け、するりと体を外に出すと、ピシャリと閉めた。
「な、なんで? 一蝶先生、どうして?」
「突然すまねぇ。急に江戸を離れることになってな。渡しておきたい物があるんだ。入れてくれねぇか」
「で、でも。ちょっとだけ待っておくんなさい。散らかってるから」と言って、女は一人で中に入るとまた戸を閉めた。

「男でもいるんじゃないか」
「おい、竜さん」
「これは失礼」
「いやぁ、当たらずしも遠からず、でしょうよ」と、一蝶がのん気に言うと同時に、中から「どうぞ」と声がした。

 貧乏長屋に侍姿は目立ち過ぎるので、吉之助と竜之進も中に入った。入ってすぐの台所横に一畳分の土間があり、土間の奥が四畳半の居室。畳ではなく、板の間にむしろを敷いただけ。典型的な庶民の住まいである。

「座布団もありませんけど、よかったら上がって下さいな」
「いや、ここでいいよ。この旦那方は、壁とでも思ってくれ」と、一蝶は土間に立ったまま言った。そして、懐から長財布を出し、板の間に正座する女の前にそれを置いた。

「二十両入ってる。さっきも言った通り、江戸を出ることになった。いずれ所帯でも、なんて言っておきながら、この始末だ。罪滅ぼしだよ。受け取ってくれ。しかし、もう、あの店はやめなよ。これでやり直してくれ。それだけだ」

 その時、奥に置かれた夜具の陰でガタガタと音がした。吉之助は、目立たぬよう、得物の杖を携行していない。慣れない動作で刀に手を掛けた。横の竜之進は、すでに鯉口を切っている。
「待って、待っておくんなさい!」という女の強張った声に被って、何とも可愛らしい声がした。
「か、母ちゃん、もう駄目だ。寒いし窮屈だし、堪んないよ」と、五、六歳と思われる男の子が転がり出てきた。

「ち、違うの。一蝶先生、こ、この子は・・・」
「お園さん、いいんだよ。分かってたよ。じゃあな、坊主と仲良く暮らしなよ。旦那方、そら、出た出た。行きますよ」

 外に出ると路地を吹き抜ける風が冷たく、吉之助は、思わず身震いした。そこで竜之進が一蝶に尋ねる。
「いいのか。あれ、騙されてたんじゃ?」
「その通り。騙されてたんですよ。あっしは、吉原みたいな、いかにもって場所が苦手でね。お園みたいな料理茶屋の女中の方が好きなんだ。岡場所の安女郎と違って、連中は、気に入った客としか寝ない。でもね、やはり好きで体を売ってるわけじゃない。仕事なんですよ。生きて行くためのね。そして、嘘も仕事の内さ。だからね、それを知った上で、綺麗に騙されてやるのが男の甲斐性ってもんなんです」

「ほう。それが江戸っ子の粋って奴か。なるほど、勉強になったよ」
「馬鹿、そんなこと勉強しなくていい」

 吉竜の二人に構わず一蝶が続ける。
「店の女将に聞いちまったんですけどね。あいつの亭主は、蒲焼の屋台をやっていたそうです」
「蒲焼って、鰻の?」
「ええ。それが、あの馬鹿な御触れで、鰻は禁漁に。で、穴子に替えて商いを続けていたらしいですけど、今度は穴子がやたら値上がりしやがって。しかも、その割に売れない。客はやっぱり、鰻を食べたいからねぇ。で、鰻を穴子と偽ってお縄に。遠島になった挙句、島で死んじまったそうで」
「そうだったのか」

「あっしには、分かりませんね。生き物を大事にしろってのはいい。しかし、鰻は駄目で穴子はいいっていう理屈が、さっぱり分からねぇ。将軍様の頭の中は、一体、どうなってるんだか」

「一蝶殿は、それであの画を?」
「あれは別口ですけどね。言われてみりゃ、そういう意味もあるかな。さて、旦那方。あっしの用は済んだ。ここで別れましょう。あっしは、品川の番所に自首します」

 危うく聞き逃しそうになったが、一蝶は容易ならざることを言い出した。
「何だと。もしや、最初からそのつもりで?」
「ええ。ここまではどうしても来たかったんでね。護衛してもらいました」

「しかし、我らにも主命がある」と、吉之助は声を尖らせた。横で竜之進も頷く。
「首に縄を掛けても連れて行きますか」

「そうは言わんが、浜屋敷から安房に渡った後、好きにすればいいのではないか」
「それじゃ駄目だ。一度逃げちまったら、二度と江戸には戻れない。絵師として勝負するなら、やはり江戸ですよ。まさか、打ち首獄門ってことはないでしょう」
「しかし、百叩きや所払い程度で済むとも思えん。普通に考えて、島送りは避けられんぞ」
「まあね」

「島の暮らしは厳しいと聞く。現にその鰻屋だって・・・」
「分かってますよ。でもね、あっしは体だけは頑丈で。それに、絵筆一本ありゃ、どこでも稼げる。暮らしには困りません」

 一蝶は、一見風采の上がらない中年の小男だが、吉之助の顔を正面から見据え、ぐっと背を伸ばすと、さすが画壇の風雲児。そういう迫力を纏っていた。

「凄い自信だな」
「自信だけじゃない。あっしの腕は本物だ。旦那は、すっかり侍奉公が板に付いて見えますが、もう筆は折っちまったんですか」

「いや。江戸を離れるとき、私も安信のお祖父様に言われたよ。何があっても画の修行は続けろ。外に出て初めて見えるものもあるだろうから、とね」

「安信先生らしいや。あっしも破門になって、それはあっしが完全に悪いんですがね。以降、一度もお目通り叶いませんでしたが、何だかんだ裏で手を回して、あっしが町絵師として食っていけるように動いてくれていたみたいで。亡くなった後に兄弟子から聞かされました。腕じゃ、兄貴二人(長兄の狩野探幽と次兄・尚信)に遠く及ばなかったですけどね。人としては、なかなかどうして、大きな方でしたよ」
「そうだな」

「あっしは、恩返しにね、あっしのような天才を破門にした愚かな師匠として、安信先生の名を歴史に刻んでやるんだ。ざまぁ見ろってね」

「きっと喜ぶだろう」
「ええ。江戸に戻ったら、旦那の作品も見せて欲しいですな」
「ああ、是非」
「そうだ。もし、この後、絵画のことで困ることがあったら、あっしの兄弟子を訪ねてみるといい。堅物の多い宗家一門の中では話の分かる人ですよ。神田鎌倉横町の町絵師で、名前は、伊藤文竹」
「ありがとう。覚えておくよ」

 泉岳寺の長い土塀の角に一蝶の背中が消えると、横から竜之進が言った。
「本当にいいんですか。行かしちまって」
「仕方ないだろ」
「私たち、いきなり任務失敗ですよ。殿はともかく、間部様が問題だな。許してくれますかね」
「さあな。駄目なら、山廻与力に戻るだけさ。甲斐に帰ったら、久しぶりに鰻でも食うか」

 自首した英一蝶は、奉行所で取り調べを受け、翌年、三宅島に流された。時に一蝶四十七歳。当時から彼の描く洒脱な風俗画は人気が高く、江戸の商人たちは、島に画材などを送って一蝶に画を描かせ続けたという。
 一蝶が赦免され、江戸に戻ったのは十一年後のこと。それからも活躍し、遂には自ら一派を起こすまでになった。上野の東京国立博物館には、町ゆく江戸の人々の様子を活写した彼の傑作「雨宿図屏風」がある。

次章に続く


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