【第14章・近親憎悪】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)
第十四章 近親憎悪
吉之助は、間部から内藤家の家老宛の書状を渡され、彼の周到さ故に、ひとつの疑問が浮かんだ。
「間部様、ひとつ伺ってよろしいでしょうか」
「何でしょう?」
「つまり、殿や間部様の命を受けて動く、その、兄君の、西田春之丞様のような方は他にいないのでしょうか」
「何かご懸念が?」
「お話を聞くと、この件、殿のご信用にかかわる大変なお役目ではありませんか。もし、我らの他に動いている者があるとすれば、承知しておいた方がよいかと。何かの拍子に同士討ちにでもなっては大変ですから」
「なるほど。しかし、心配ご無用。ご懸念のような者はおりません」
「一人も?」
「いません。だからこそ、お二人が甲斐から呼ばれたのです」
「しかし、国元では、間部様が何人もの隠密を放って領内を監視しているともっぱらの評判でした。先年、藩庁における公金横領が発覚したのも彼等の働きであったと」
「確かに、甲府へは私の部下を定期的に行かせています。しかし、隠密などではありません。普通の役人です。不正の調査については、種も仕掛けもない。日頃から藩庁の業務記録と会計帳簿を丹念に見ていれば分かることです」
「へえ」と、竜之進が心底感心した顔になる。
「ふっ、隠密ですか。そんなものを使えるなら苦労はしません」
そう吐き捨てた間部。吉之助は、初めて彼に人間らしい感情の動きを見た。
間部は、ひとつ大きなため息を吐くと、いつもの無表情に戻り、甲府藩と自分たちの主君が置かれている特殊な地位について説明してくれた。
曰く、藩主・松平綱豊は、形式的には一大名だが、将軍の家族という立場にある。御三家に匹敵する官位を与えられ、参勤交代や手伝い普請などの負担も免除されている。その一方、勝手に江戸を離れることは許されず、常に公儀の監視下にある。
古今東西、専制君主にとって、親族は最も頼りになる味方だが、同時に、最も警戒すべき脅威でもあるのだ。
「許可なく隠密団など組織すれば、大変なことになります」
さらに、甲府藩は、藩士の半数以上を幕臣の出向組と幕臣の親族が占め、人事面でも公儀の影響を強く受けざるを得ない、という。
「当藩において一番難しいのは、秘密保持です。幕臣の出向組や元幕臣の家臣にも信用に足る者はいます。しかし、本人はともかく、背後関係まで考えると、殿が心底信頼し、ご自身の手足として動かせる藩士を探すのは、非常に難しい。また、いたとしても、殿は、家臣に板挟みを強いるような用い方をよしとなさいません。それ故、私の兄に動いてもらっていたのです。将来、家臣一人一人に、真の主が誰であるか、選択を迫る局面が来るかもしれません。しかし、それまでは、慎重の上にも慎重を期さねばならないのです」
間部は淡々と話しているが、内容としてはかなり際どい。吉之助は、重ねて尋ねた。
「せっかくなので伺いますが、殿と公方様が不仲であるという噂、あれは本当ですか」
「はい」と、間部は予想以上にはっきり答えた。
「しかし、不仲という表現は正確ではありません。公方様が一方的に殿を嫌っておられるのです」
「なぜ?」
「今の公方様は、本来、将軍職に就くはずのない御方でした」
間部の容赦ない物言いに吉之助と竜之進は顔を見合わせた。間部は構わず続ける。
「すなわち、四代将軍の家綱公に御世継がいれば、無論、出番はありません。そして、御世継がいない場合、次は、三代家光公のご次男、つまり、我が殿の父君である綱重公が継ぐはずでした。綱重公の跡目は当然、殿です。本来、家光公の四男である公方様に出番はなかった。しかし、綱重公が家綱公よりも先に亡くなったことで順番が狂いました」
「もう一人、幼少時に亡くなったご三男もいたわけでしょ。二重三重の棚ぼた将軍、か」
「おいおい、竜さん。さすがにそれは」
「いや。公方様ご自身がそうお考えなのです。しかも、家綱公は、弟の公方様より甥である殿に期待をかけ、いずれ殿をご養子として迎えた上、将軍職をお譲りになるおつもりだったのです」
「ほう」
「その証拠に、家綱公の命により、殿のご正室には、公方様のご正室よりさらに高貴な姫君が都から迎えられました。しかし、家綱公のご逝去が急過ぎました」
「棚ぼたとは言え、そこまで期待されてなかったとすると、公方様もいっそ気の毒だな」と竜之進。
「いずれにせよ、そういう経緯で、公方様は殿を嫌っておられます。何かにつけ遠ざけようとなさいます。甲府藩の本邸は、元々外桜田のお城の真ん前(現代の日比谷公園)にありました。それを取り上げ、浜屋敷に移るように命じたのも公方様です。表向きは、京都からいらした高貴な姫君にゆっくりお過ごしいただくため、とのことですが」
「あからさま過ぎるなぁ」と、竜之進が呆れ顔になる。この若者、いちいち反応が素直だ。
「しかし、公方様の思いとは逆に、公方様に御世継ぎたる男子がいない現在、将軍職を本来の筋目である我が殿へ返せという声が、譜代衆の間で大きくなっています。それがまた公方様のお気に障るようで・・・」
「悪循環ですね」と吉之助。
「はい。問題は、公方様のお側に、あの者、柳沢出羽守、様がいるということです」
「具体的に何か。まさか、殿の御身に危険でも・・・」
そこで竜之進がたまらず止めた。
「吉之助さん、その辺にしときましょう。日が暮れちまう。とにかく、言われた通り、絵師を一人、ここに連れて来ればいいんでしょ。まずはやり遂げることだ。殿や間部様だって、私らが使えないとなれば、別口を探さないといけないでしょうし。ですよね」
「その通りです」と、真顔で頷く間部。
「そうか、そうだな。よし、行こう!」
「おう!」
吉之助と竜之進は、揃って勢いよく立ち上がった。英一蝶脱出作戦。それが、吉之助の江戸での初任務となった。時に、元禄十年(一六九七年)二月五日のことである。
次章に続く
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