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【第48章・甲府城月見宴】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

第四十八章  甲府城月見宴

 甲府藩の政庁、すなわち甲府城は、武田家滅亡後に豊臣政権下で築かれた。甲州街道の甲府柳町宿のほぼ中央に位置する。

 徳川家の支配下に置かれた後、この城には特別な意味が与えられた。歴代城主を見れば分かる。徳川家康の九男・義直(後の尾張徳川家初代)、二代将軍秀忠の次男・忠長(後の駿河大納言)、三代将軍家光の次男・綱重。そして現在は、綱重の後を継いだ五代将軍綱吉の甥・松平綱豊である。

 故に、城郭も巨大であった。現代で言うと、主にJR甲府駅の南側、歴史公園として整備されている部分からその西にある県庁ビルの辺りまでを占めていた。

 甲府城の天守台からは、東西南北、甲府盆地を一望できる。

 五月七日の夕方、狩野吉之助と島田竜之進の二人は、その天守台の石段に腰を下ろし、酒を酌み交わしていた。

「少し暗いですが、いい眺めですね。薄っすらと富士も見える。あちらは白根三山でしょ。その上に半月が。満月より絵になるなぁ」
「本当にいい景色だ。だがな、あれは半月の少し前、上弦の月だよ」
「へえ。絵描きってのは、いろいろ知ってますね」
「まあな。それはそうと、美咲殿の返事はどうだったんだ?」
「えっ?!」
「その話じゃないのか。こんなところで一杯やろうなどと」

 吉竜両名は塩山から石和、甲斐善光寺を経て藩庁(甲府城)に入り、間部に事の次第を報告した。その後、吉之助は山役人時代の経験を買われ、藩庁内で書類仕事を手伝わされていた。一方の竜之進は、城下の警戒や間部の視察場所の事前点検などで外に出っ放しであった。二人でゆっくり話すのは久しぶりなのだ。

 竜之進は、「一応、前向きな返事をもらえたと思います」と言うと、台所で分けてもらった小茄子の漬物を一切れ口に放り込んだ。

「本当か。お前さんは何事につけ楽観的だからな。美咲殿は何と言ったんだ?」
「ありがたい話だけど、今の状況を考えると、新見姓のまま殿の側近くに仕える私に嫁ぐのは無理ではないか、と」
「ほう、冷静なものだ。しかし、婉曲に断っているとも取れないか」

「それは悪く取り過ぎでしょう。おりんの影響か、随分明るくなっていて、時折笑顔も見せてくれました」
「そうか。それならいっそ、うちの養女にでもするか」
「それは助かる」
「あっ、いや、駄目だな」
「何で?」
「考えてもみろ、美咲殿をうちの養女にすると、義理とは言え、私は竜さんの親父になっちまう。ましてや子供でも出来てみろ、いきなり爺様じゃないか。勘弁してくれ。第一、志乃に激怒される」
「はっははは、確かに」
「まあ、方針さえ決まれば、養女の件はどうとでもなるよ」
「そうですね。ところで、おりんはどうするんですか」

 吉之助は、懐から二、三枚の紙を取り出して竜之進の前に広げた。
「おりんが美咲殿に教わって、文字の練習をしたものだ」
「へえ、あ奴、字が書けるのか」

「どこで習ったのか知らんが、仮名は勿論、漢字も簡単なものだけなら書けるそうだ。それより重要なのは線だ。なかなかしっかりした線を引く。さらには、つたないながら、文字と文字との調和も取れている。美咲殿が江戸に出るなら一緒に行きたいと言っていたからな。町絵師の工房にでも預けてみようかと思う」

「絵師にするんですか」
「そうなればいいと思うが、続くかどうかはあの子次第だ。そう言えば、笹子峠で妙な娘に会ったよ。峠の景色を写生していたんだが、いい腕をしていた。あれこそ天才だな」

 その時、本丸の方から男が一人歩いてきた。きちっと裃を着た端正な姿、誰だかすぐに分かる。吉之助と竜之進は立ち上がって会釈した。
「これは間部様」
「どうかお楽に。こんなところでお月見ですか。私もご一緒してよろしいかな」
「勿論です」

 竜之進が懐から手拭いを出して席を作る。そして、腰を下ろした間部に盃を渡した。
「地酒です。甲斐は水がいいから、酒も美味いですよ」
「いただきます。それで、何の話をしていたのですか」

 吉之助がおりんの身の振り方について説明すると、間部は何度も頷きながら賛成してくれた。間部は元服直後、父親との関係をこじらせ、一時家を出て猿楽師の下で修行した経験を持つ。人が生きていく上で、手に職をつける大事さを分かっている。

「それで、間部様。竜之進の縁談のことですが」
「おや、そんな話があるのですか」
「ちょっと、吉之助さん」
「いい機会じゃないか。それとも、後日改めて御用部屋に報告に行くかい?」

 竜之進は覚悟を決め、塩山で新見美咲に求婚した経緯について話した。間部は、これにはすぐに賛意を示さなかった。少し考え、やはり、然るべき者の養女にしてからならという条件を付けた。
 結婚自体には承諾を得たと理解し、安心した様子の竜之進を横目に、吉之助は、これまで人目があって訊けなかったことを尋ねる。

「間部様。あの暗号文書は、やはり隠し金山に関するものなのでしょうか」
「間違いないでしょう。島田殿の父親が遺した手習い帳も、恐らく、推測の通りだと思います」

 そこで竜之進も頭を切り替えて話に入ってきた。
「何とか解読したいですね。ここまで来たら金山を見つけましょうよ」
「そうだな」
「松代の真田様に問い合わせてみませんか。真田安房守の長男の家でしたよね。きっとありますよ、いろいろと」
「いや、それは出来ません」と間部。間髪入れずの駄目出しである。
「どうしてですか」
「真田家は外様です。殿が武田の隠し金山を探しているなどと、外様大名の間で噂にでもなれば最悪です」
「そうか。そうなると、やはり諦めるしかないのか」と、竜之進が肩を落とす。

「いや、そうとも言えんぞ。あるだろ、もうひとつ真田家が」と吉之助。すると、間部もポンと手を打った。
「何です、もうひとつの真田って?」と竜之進。
「旗本の真田家だよ。確か、安房守の弟の家系だったと思う」
「詳しいですね」
「ほら、先年、勅額火事の後に方々見舞いの使者に行かされただろ。その中にあった。幸い、屋敷の一部が焼けただけで、先祖伝来の武具や文書は無事だったと言っていた記憶がある」

「へえ。これは江戸に帰るのが楽しみになってきたな。あっ、でも、幕臣なら柳沢様の配下では?」

 この疑問に対して今度は間部がいい意味で否定してくれた。
「いや、真田家は神君に直々取り立てられた名家です。幕府の高官として出羽守様の下で働いていても、個人的な忠誠心はないでしょう。こちらが丁寧に説明すれば協力してくれるかもしれません」

「では、間部様。この件、我らにお任せいただけますか」と吉之助。
「いいでしょう。頼みます」

 間部がそこで、ふう、と息を吐いて月を見上げた。月明かりを受けた彼の横顔は、名人が作った人形の如く、非の打ちどころのない造形美である。

 今回間部がわざわざ甲府まで出張った目的は、隠し金山の件もあるが、それ以上に、将軍継嗣問題の正念場が近付いている。故に、まずは国元の綱紀粛正を果たし、後顧の憂いを断っておくことにあった。

 そして、この日の午後、その総仕上げをした。昼過ぎ、間部は、大広間に城代家老以下甲府にいる藩士全員を集め、上段から藩主・松平綱豊の訓辞を朗々と代読。その後、最小限ながらツボを押さえた人事異動を発表し、併せて今後の藩庁運営に関する指示を申し渡した。その様、威ありて猛からず。誠に見事なものであった。

 そこで竜之進が呟いた。
「新見典膳たちは、まだ領内にいるのでしょうか。出来れば、一人くらい生き証人を確保しておきたかったですね」

 間部が強く頷く。そして、盃の酒を一気に飲み干してから言った。
「出羽守様は実に用心深い。公儀の力を行使する際は、公方様の御名をもってするか、そうでない場合は、根拠となる法令先例を挙げ、必ず全ての幕閣連名という形を取ります。逆に、今回のように陰謀めいた動きをするときは、ご自身の手駒しか使わず、決して証拠を残しません」

「よくご存知ですね」と吉之助。間部の口調に敵意を感じないのが意外であった。

「ええ。私にとって、あの方は最大の警戒対象であると同時に最良の手本でもあるのです。実に興味深い方だ。ずっと見てきました。今この日の本で、私ほど出羽守様について詳しい者はおりますまい。暇さえあれば、書物の一冊でも記したいくらいです」

 吉之助は改めて間部の整った横顔を見た。この人は、次の柳沢になりたいのだろうか。ともかく、明日の釜無川の視察が最後だ。それで間部の甲府での予定はすべて済む。無事に終わってくれるとよいのだが・・・。

 辺りはすっかり暗くなった。月がますます美しい。そのとき、本丸の明かりを背負い二つの影が近付いて来た。反射的に吉竜両名が立ち上がり、間部を守る姿勢を取る。しかし、来たのは、宿直の若い役人と彼に先導された駒木勇佑であった。駒木は駆け通しに駆けてきた様子で、汗まみれ埃まみれだ。

「駒木、どうした?」と、直接の上司である吉之助が問う。
「か、狩野様。赤沢殿が亡くなりました」
「えっ、助かるという話だったではないか」と竜之進。血相を変えている。吉之助も右に同じ。

「はい。庄屋殿の屋敷に移した後も順調で、一時は意識も戻ったのです。しかし、一昨日の夜半、傷口が開いて多量の出血を。その後、高熱を発し、昨日早朝に息を引き取りました。美咲様やおりん殿にもお手伝いいただいて看病に努めたのですが・・・」

「そうだったか。気の毒なことをした。それで、後のことは?」
「はい。お骨だけでも江戸に持ち帰れるよう、庄屋殿に荼毘の手配をお願いしました。私は、とりあえず狩野様に報告すべきと思い・・・」
「分かった。お骨は江戸に戻るときに引き取るとしよう。駒木、ご苦労だった」

 吉之助は、間部の方を向いて居住まいを正した。
「間部様。赤沢伝吉は、足軽ながら殿の御ため、命を懸けて働きました。くれぐれもお忘れなく」
「承知しています。死者、負傷者を含め、全員の働きを正確に殿にご報告申し上げると約束します。必ずや適切な恩賞が下されるでしょう」

 すると、竜之進が駒木を手招きして盃を渡した。次いで彼は自分の盃に酒を満たし、「赤沢さんと亡くなった方々の御霊に」と言い、その酒を地面に撒いた。その後、間部、吉之助、駒木、自分の順に酒を注ぎ、「献杯」と唱えると、すでに天頂近くにある月に向けて盃を上げ、ぐいっと飲み干した。他の三人もそれに続いた。

 夜空に上弦の月が青白く輝いている。吉之助が月から目線を下げると、月光を反射し、銀の糸のようにキラキラと細く輝く釜無川が見えた。

次章に続く


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