【第44章・待ち伏せ笛吹川】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)
第四十四章 待ち伏せ笛吹川
「私だって助けたい。しかし、出来ないものは出来ない。寺に乗り込み、境内で乱戦になれば飛び道具が使えない」
吉之助は恐々付き従っている地元の役人と猟師たちを振り返った。彼等は近接戦闘の戦力にはならない。若い駒木勇佑も同様だ。従って、斬り合いとなれば三対六、勝ち目はない。
川越藩の潜入部隊を率いる新見典膳は、隠し金山の手掛かりを求め、甲府藩の元家老・太田正成の嫡子を探している。その者は父親の死後に出家し、禅僧となった。覚隆の名を授けられ、最初、恵林寺の塔頭・恵春院に入った。その後、笛吹川の崖の上にある恵光院に移り修行を続けている。
吉之助たちはまず恵春院に向かった。そこで住職から、二日前、突如踏み込んできた六人の侍に脅され、覚隆の所在を明かしてしまったこと。そして、その者たちが恵光院に向かったことを聞かされた。今、その後を追っているところだ。
「典膳たちが覚隆殿に手荒な真似をしないことを祈るしかない。連中は寺を出たらこの坂を真っ直ぐ下りて来る。そこの広場に来たところで、一斉射撃だ。その後に私と赤沢さんが斬り込む。竜さんは、私たちが敵と斬り結ぶ一瞬前に側面から突っ込んでくれ」
「承知」
「狩野様。一斉射撃の後、私はどうすれば?」と、弓上手の駒木が訊いてきた。
「一斉射撃を終えたら猟師をすぐに逃がせ。民間人だからな。その後、駒木と役人組は、出来るだけ弓で援護を頼む。もし斬り掛かってきたら、応戦せずに距離を取れ。そして、追って来なくなったら戻って再び援護だ。その繰り返しで頼む。駒木、お前の腕なら中の一人を狙えるだろう。お前は、仕留めるまで新見典膳を狙い続けてくれ」
「分かりました」
「最初の射撃で死んでくれないかなぁ」と竜之進。
「そう願うよ。皆、準備はいいな」
吉之助、竜之進、駒木、そして中年剣士の赤沢伝吉、江戸から来たこの四人はいずれもたすき掛け。額には鉢金、腕には手甲を巻いている。
「よし。位置についてくれ」
長身の吉之助とずんぐり体型の赤沢が並んで片膝を付き、窮屈な格好で茂みの中に身を隠す。二人の前方は開けた広場で、左下に笛吹川が流れている。この辺りは渓谷と言っていい。涼し気な水音が聞こえる。
逆側の大きな岩の陰に竜之進。羽虫でも飛んでいるのか、盛んに顔の前で右手をバタバタさせている。まったく、落ち着かない奴だ。
すると、「綺麗なものですな」と、赤沢がぼそりと言った。
「うん?」
「ああ、いや。藤の花です。藤というのは、このように豪快に咲くものですか」
四月下旬から五月の上旬、甲斐ではよく見られる景色だ。野生の藤の木に数え切れない紫の房が垂れ下がり、山野を覆う。ここでも、渓谷の対岸に二、三本の大きな藤の木があるようで、崖一面、紫の花で覆われていた。
「私も甲斐に来て初めて見たときは驚きました。江戸では、藤と言えば、庭の端っこの藤棚で品よく咲いているものですからね」
「はい」
「赤沢さん。貴殿には申し訳ないと思っています」
「狩野様?」
「いや。赤沢さんに声を掛けたとき、ここまでの修羅場に付き合わせることになるとは、正直、予想していませんでした。貴殿は、浜屋敷の門番として勤めを全う出来れば、それで満足だと言っていたのに・・・」
「お気になさらず。家内の後押しもありましたが、最後に決めたのは自分です。あっ、狩野様。来ました」
吉之助は、藤の花に覆われた崖から正面の坂道に視線を戻した。
あれが、新見典膳か。
坂を下って来る一団の中、顔半分ほど上に出た男がいる。六尺二寸(約百八十五センチメートル)ある吉之助と比べると少し低いようだが、この時代においては十分大男の部類に入る。
今の今まで、吉之助の典膳に対する印象は三年前のままだった。台ヶ原で監視の庄屋一家を斬殺し、山中に姿を消した。そうした手配書の記述から、薄汚れた野盗か野武士のように思っていた。
しかし、一歩一歩近づいて来るその男は、どこから見ても、立派な武士である。月代は綺麗に剃り上げ、無精髭もない。こげ茶の野袴、その縁布は濃紺のビロードだ。薄茶の小袖に黒の羽織。いずれも上物と思われる。
近付くにつれ、顔もはっきり見えてきた。力強い顎に高い鼻梁、そして鋭い目つき。やはり只者ではない。なるほど。腰の佩刀は、竜之進の言っていた通り三日月のように反っている。
その典膳を中心に六人が何かを話しながら、まとまった状態で広場に至った。吉之助の手持ちの射撃部隊は火縄銃が二挺、半弓四張り。両方の有効射程を考慮し、広場から三十間(約五十五メートル)ほど離れた林の中から狙っている。
吉之助は、自分の足元と得物の杖(身長より少し短い赤樫の棒)の握り位置をもう一度確認した後、黙って左手を挙げ、前に振り下ろした。射撃部隊への合図である。
ダダーンと銃声が渓谷に響き、さらに四本の矢が六人に向って飛んだ。駒木がさらに二本三本と連続して矢を放つ。
六人の内二人がその場に倒れた。一人は眉間に銃弾を受け即死。もう一人は太腿に矢を受け動けない。典膳がその者を庇うように前に出る。そこに駒木が放った矢が飛来し、典膳の左肩に突き立った。典膳はそれにも構わず仲間に声を掛ける。
「青山、柳原、十河。林の中に銃と弓がいる。あっちを頼む。幸田、動けるか」
「甲府藩士・狩野吉之助である。役儀によって捕縛する。刀を捨てろ。手向かいしなければ命は取らぬ」
「黙れ!」
典膳は一声吠えると、左肩の矢を力任せに引き抜き、吉之助に向かって走り出した。走りながら、反りの深い大刀を抜き放つ。
次の瞬間、これも竜之進から聞いた通り、ほぼ水平に凄まじい斬撃が来た。それをかろうじて躱したところで、横合いから竜之進が走り込む。
「同じく島田竜之進。新見典膳、覚悟!」
典膳は竜之進の上段からの斬り込みを受けると、それを右に流した。そして、その動きのまま下段から刃を跳ね上げようとしたところ、駒木の放った矢が再び飛んで来た。典膳はそれを跳び退いて避ける。
「ちっ、邪魔な!」
吉之助が後方に目をやると、吉之助の駆け出すのに一歩遅れた赤沢が射撃部隊に向かった三人を追っている。赤沢がその一人を斬った。典膳からもそれが見えたようだ。
「ちっ。青山、十河、戻れ! 幸田に肩を貸してやってくれ」
それに対して吉之助は一瞬考え、竜之進の方を見た。目が合う。二人は頷き合った。
「赤沢さん、こっちに来てくれ。残りの連中はいい」
それを聞いた典膳は、仲間を助け起こした二人に言う。
「お前たちは川沿いに退け!」
「し、しかし」
「行け! ここは俺一人で十分だ」
「一人で十分だと。舐めるな!」と竜之進。
典膳がギロリと睨む。「島田の倅か。貴様、まだあの似非君子に仕えているのか。言って分からぬなら仕方ない。俺が引導を渡してやる。あの世で親父に詫びるがいい」
赤沢が走ってきた。吉之助、竜之進、赤沢の三人で新見典膳を囲む形になる。典膳の左肩は矢傷で赤く染まっているが、表情に動じたところは微塵もない。
刀より遠間から攻撃できる吉之助が、まず突きを入れた。次いで、側面から典膳の首筋目掛けて竜之進が斬り付ける。
しかし、典膳は、それを同時に薙ぎ払うように水平に刀を振り抜いた。吉之助の杖が弾かれ、竜之進の刀も横に飛ばされた。二人とも大きく態勢を崩す。暴風の如き凄まじい破壊力である。
典膳が刃を返し、逆側に振り抜こうとしたところ、後方の赤沢が典膳の背に突きを入れた。典膳は身を翻し、これを躱す。その隙に吉之助と竜之進も態勢を立て直した。今度は、吉之助と赤沢が前、竜之進が典膳の背後という形になった。
典膳が上段から赤沢に斬り掛かった。赤沢がこれを受ける。ガキンと鈍く重い音。赤沢の頬にごく細い傷ができ、薄っすら血がにじむ。刃こぼれした破片がかすったのだろう。赤沢は名門道場の師範代まで務める遣い手だが、今の今まで、これ程の斬撃を受けたことはない。しかも、道場での稽古とはまるで違う。相手は完全に自分を殺そうとしているのだ。その威力と迫力に圧倒され、赤沢はその場に刀を落としてしまった。
そこを典膳の第二撃が襲う。吉之助は、横から赤沢の胴を思い切り蹴った。赤沢は横倒しとなり、かろうじて典膳の刃を避けた。同時に竜之進が後方から斬り掛かり、典膳を引き付ける。その隙に赤沢が刀を拾い上げ、中段に構え直した。
「赤沢さん、しっかりしろ!」
「はっ」
その時、吉之助の視界の端に半弓を手にした駒木が、姿勢を低くして近付いて来るのが見えた。吉之助が目配せすると、竜之進が典膳の喉元に突きを入れた。典膳は、刃に刃を沿わせる格好で攻撃を逸らす。刃と刃が擦れ、火花が散った。
この時、そのまま前に抜けるか、横に跳ぶか、竜之進は一瞬迷った。その隙を見逃してくれるはずがない。典膳は、今度こそ確実に竜之進を両断すべく、三日月のような刀を水平に大きく引いた。
しかし、典膳が必殺の斬撃を放つより一瞬早く、駒木の放った矢が典膳の左腰に命中。「うっ」と短いうめき声を上げ、地面に膝を付く典膳。そこを吉之助が杖で襲い掛かる。典膳は地面を転げて吉之助の攻撃を躱した。
典膳が素早く起き上がる。しかし、今度は竜之進の攻撃が殺到。竜之進の攻撃は、軽いが速い。典膳に反撃の余裕を与えず連続して斬り付ける。キンキンキンと高い金属音が渓谷に響き、遂に四太刀目が典膳の体に届いた。右の脇腹を斬った。
「ぐっ」と短くうなった直後、典膳は方向を変え、猛然と赤沢の方に突進した。そして、渾身の水平斬撃をかます。赤沢はこれを受けたが、完全には受け切れず、典膳の刃が赤沢の首筋に食い込んだ。
「あっ!」と、吉之助と竜之進が同時に声を上げた。
赤沢がどうと倒れる横をすり抜けて走り去る典膳。吉之助はその背を追って反射的に走り出したが、竜之進に止められた。
「吉之助さん、待ってくれ! 止血だ。血を止めないと死ぬぞ!」
上半身血まみれで横たわる赤沢。吉之助はその脇に片膝を付き、傷口に布を当てている。すると、赤沢が虫の息で言ってきた。
「狩野様、め、面目ありません。私は、あの時、最初の一歩も出遅れた。わ、私の剣は役立たずだ。三十年の修行は無駄だった」
赤沢は、竜之進も出入りする名門道場で師範代を務めている。しかし、藩内の身分は足軽である。足軽は、厳密には武士とは言えない。そのため、藩主の前で腕前を披露する機会もなかった。彼にとって、道場での修行こそが人生の本道であった。にもかかわらず、その修行が全くの無駄だったとは、悲し過ぎるではないか。
「違う。それは違う。赤沢さんは一人倒してくれたではないか。典膳に対してだって、赤沢さんがいなければ私も竜之進もとっくにやられていた。出遅れたのも当たり前だ。私は自分で号令を掛けた。だから、自分の呼吸で動けただけだ。赤沢さんが遅れたわけじゃない」
「あ、ありがとうございます」
「もうしゃべるな」
「わ、私が死んだら、息子に・・・」
「縁起でもないことを言うな!」
下の川で水を汲み竜之進が戻ってきた。彼が崖の上に目をやって言う。
「上の寺まで運べますかね」
「そうだな。寺なら、薬か何かあるかもな。駒木、済まないが、寺の様子を見てきてくれ。竜さんは、そこらにいる役人と猟師たちを集めてくれないか。あと、戸板などあれば助かるが・・・」
「承知」
竜之進が見つけてきた戸板に赤沢を寝かせ、運べるように準備していると、駒木が凄い勢いで坂を駆け下りてきた。しかし、声をかける間もなく、青い顔をしてその場にへたり込んでしまった。何を問うても首を振るばかり。
駒木は竜之進が差し出した竹筒から水を飲むと、少し落ち着いたようであった。そして、絞り出すように声を出した。
「死んでる。み、みんな死んでる。上は、ち、血の海です。ひ、ひど過ぎる。あんな・・・」
次章に続く
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