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【第26章・涙】融女寛好 腹切り融川の後始末(歴史小説)

第二十六章  涙

 栄と新十郎が浜町狩野屋敷に着き、門脇のくぐり戸から中に入ると、玄関前が妙に騒がしい。十五、六人の男が集まって気勢を上げている。見ると、大工の棟梁、火消し、やくざ者っぽいのから相撲取りまでいる。

「何の騒ぎでしょうか」
「さあ。新十郎さん、訊いてみて下さる」

 新十郎は、少し身構えつつ、一団に近寄る。
「ちょっと。あんたら、何してるんですか、こんな所に集まって」
「何って。あっしら、義によって素川様をお助けする文化の赤穂浪士ですよ」
「ええっ?!」
「何でも阿部なんちゃらっていう悪い大名のせいで、融川の殿様が無念の最期を遂げたっていう話じゃないですか。仇討ちですよ、仇討ち。素川の旦那を大将に、討ち入るんです。なあ、みんな」
「おお!」

 新十郎が振り向くと、栄がすぐ後ろに来ていた。
「お栄様、だそうです」
「だそうです、じゃないでしょ。素川様も戻っているようですね。新十郎さん、悪いけど素川様と長谷川様を呼んできて下さい」
「承知しました」

 栄は、騒いでいる連中に話しかけた。
「皆さん、お疲れ様です。融川先生の無念を晴らすためにお集まり下さった、とのこと。ありがとう存じます。でも、四十七士には少し足りないんじゃありませんか」

「いやぁ、関取は五人分ってことで。それでも足りなきゃ、あとは気合いでさ」
「馬鹿なことを。よろしいですか。阿部備中守様は十万石のお大名、三河以来の武門のお家です。お公家の出来損ないのような吉良様とは訳が違います。上屋敷のお長屋だけでも一騎当千の藩士が百人は詰めているのですよ」

「えっ、そりゃあ強そうだ」
「当たり前です。こんな有象無象で討ち入ったって、あっと言う間に返り討ちです。とにかく皆さん、その手に持っている物騒なものをあちらの松の脇にでも片付けて、台所に回って下さいませ。お夜食に何か用意させますから」

「でも、素川の旦那が・・・」
「大丈夫です。素川様にはわたくしから話します。冷えますからね。少しですけど、お酒も付けましょう」
「本当ですかい。さすが姐さんだ!」
「誰が姐さんですか、まったくもう。さあ、あちらへ」

 男たちがぞろぞろ歩いて行くのと入れ替わりに、素川章信と家老の長谷川が玄関に出てきた。
「お栄、やっと戻ってくれたか。素川様が大変なのだ。お前からも軽挙は慎むよう言ってくれ。い、いや、それはともかく、それで、阿部様との話し合いは、ど、どうなった?」

 長谷川は素川をなだめるのに苦労していたのだろう。さらに憔悴して見えた。一方の素川は、白いたすきで袖をまとめ、どこから持ってきたのか、腰には大刀を差している。本気で討ち入るつもりらしい。
「で、お栄。備中守はどうだった? どんな奴だ?」

「はい。正真正銘、十万石のお大名でした」

「お栄、そんなことはどうでもいい。お家は無事に済みそうなのか。奥様もお待ちなのだ。早く聞かせてくれ」と、長谷川が先をせかす。
「備中守様とは話がつきました。二つのことをご承諾いただきました」
「二つとは何だ?」
「はい。ひとつは、融川先生の描いた屏風の取り扱いについてです。公方様が朝鮮国王に贈る品目から外されることのないよう、ご尽力くださる、と」

「もうひとつは?」と素川。
「はい。簡単に言うと、融川先生の切腹はなかったことにします」

「なかったことにって、お前・・・」
 素川は絶句し、今にも駆け出して行きそうだった勢いが消えた。長谷川はと言えば、意味が分からず、栄の顔をまじまじと見ながら、口をパクパクさせている。

「はい。融川先生には、しばらく生きていただきます」

 栄は、自分が備中守に提案し、承諾を得た筋書きについて二人に説明した。
 すなわち、融川は城中で備中守と口論の最中、急に胸が苦しくなり下城した。そして、駕籠の中で大量に喀血してしまった。一命は取り留めたものの、重度の労咳(肺結核)であることが判明。以後、郊外に移り療養することになった、ということである。

 労咳は、現代では治る病気だが、江戸時代はこれにかかるとまず助からない。ただただ滋養のつく物を摂り、安静にしているしかない。
 しかも、伝染する病気なので隔離が必要だ。そして、顕著な症状として喀血することも広く知られている。備中守の話では、奉行所の与力が駕籠の中で血まみれの融川の姿を見ているという。それも状況証拠として利用させてもらう。

「そして、三年か四年の後、舜川昭信様の家督相続が可能となった段階で、融川先生の病死を公表します」

「すげぇこと考えたな、お前。死して三年って、信玄入道かよ」と、素川があきれ顔で言う。
「養子を避け、舜川様に直接融川先生の後を継いでいただくには、これしかないと存じます」
「しかしよ、城での勤めはどうするんだ。半年やそこらならともかく、三年も四年も登城しないわけにはいかないぜ」

「そこは、他の奥絵師三家にご協力いただき乗り越えたいと存じます。そのため、備中守様から木挽町の伊川法眼様宛に一筆書いていただきました。浜町狩野家のため、最大限の便宜を図るように、と。伊川様は政治向きにも詳しい方と聞き及びます。公方様側近のご指示を無下にはしないでしょう。さらに、舜川様の家督相続まで、浜町家所属の絵師は皆、伊川様のお下知に従う、と申し出れば、まさか断りはしますまい」
 栄は二人を混乱させないよう、伊川栄信に対する不信と不安については、ここでは敢えて伏せた。

 素川は腕を組んでしばし考え、そして言った。
「確かに、この浜町が罪を得て取り潰しにでもなれば、御用絵師筆頭であり、本家でもある木挽町も監督責任を問われるだろう。協力せざるを得ないか。う~ん、なるほどな。しかし、お前、綱渡りだぞ」
「覚悟の上でございます」
「ふん、いい度胸してるぜ」

 一方、暗い未来しか見えていなかった長谷川は、にわかに表情を明るくした。
「阿部様と伊川様のご助力があるなら、上手く行くに違いない。そうだな? お家は無事と考えてよいのだな? うん、何よりだ。うん、よかった。早速、奥様に報告してこよう」

 小躍りして屋敷に駆け込む長谷川の様子を見て、栄もようやく肩の力を抜いた。そこに素川の声がした。
「伊川殿に話をするときには俺も行こう。宗家(中橋家)や鍛冶橋への工作は、伊川殿に任せりゃいいだろう」
「助かります」
「しかしよ、融川がまだ奥の部屋で寝てるってことにするなら、討ち入りどころか、通夜も葬式もなしだよな」
「はい」
「覚悟の腹切りが、なかったことに、か」

 栄は、しみじみと発せられた素川の一言にハッとした。

「よかれと思ってしたことですが、わたくしは、大恩ある融川先生の死を無意味なものにしてしまったのでしょうか。先生のお心の内を何も分かっていなかったのでしょうか」

「そうさな。備中守がそのままってのは癪に障るが、お前はこの浜町狩野家を守ったんだ。そして何より、融川の屏風を守った。奴が絵師として生きた証をな。これ以上は誰がやっても無理だろう。うん、無理なことさ。勝手に腹を切った野郎に文句を言われる筋合いはねぇよ。な~に、洒落の分かる奴だ。面白いことになったじゃねぇかって、笑ってるんじゃないか」

 素川はそこで、するりと白だすきを外した。そして、絵筆を持つときにしか見せないような鋭く真剣な眼差しを向け、はっきりと言った。
「お栄、いや、法眼狩野融川の一番弟子・栄女寛好、よくやった。お前はよくやったよ」

 小さな声で、「ありがとう存じます」と応じて会釈をした栄の目から、ほろりと涙がこぼれた。なまじ一度肩の力を抜いていたせいか、その後も、ほろほろと涙が止まらない。

次章に続く

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