【第9章・御前試合】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)
第九章 御前試合
甲府浜屋敷は、現代の都立浜離宮恩賜庭園である。甲府藩から将軍家、さらに皇室へと受け継がれ、太平洋戦争後、東京都に下賜された。旧築地市場や地下鉄汐留駅のすぐ近く、東京湾の入り口という場所にある。
最初、甲府藩の先代藩主・松平綱重が江戸湾を埋め立て、別邸として建てた。敷地は、東京ドーム約五個分と極めて広い。
現代では、園内の建物は、茶室と小さな休憩所程度しかない。しかし、この物語の時代、敷地の半ば以上が豪壮華麗な御殿によって占められていた。
御殿は、概ね三区画から成る。藩主の執務や藩政の事務が行われる表、藩主の生活の場である中奥、正室や側室を含む藩主の家族が住む奥である。各区画は回廊が結ぶ。
そして、御殿の周囲には防御施設も兼ねた三棟の侍長屋が配置されていた。吉之助と志乃が入ったのは、その一番西側の棟である。
吉之助は、八つ(ほぼ午後二時)の鐘が鳴る少し前から、江戸家老・安藤美作の部屋の前で待っていた。
旅装のままでもよいと言われたが、さすがに着替えた。顔を洗い、月代も剃り直した。腰には脇差一本。大刀は持たず、得物である杖だけを携えている。紋付は、志乃が風呂敷に包んでくれた。
腕を見たいということだが、何をさせられるやら。
少なからず緊張してきたところで、安藤が出て来た。彼に連れられて御殿の奥に向かう。大きな書院らしき部屋の前まで来たところで、庭に下りるように言われた。
そこは、庭というより広場である。ただ、一面、美しい白砂が敷き詰められ、足を踏み入れるのが憚られる程、綺麗な砂紋が施されていた。
見ると、濡れ縁と庭を繋ぐ階段の脇に一人の若者が、片膝を付いて控えていた。二十代半ばだろうか。吉之助と同じく軽装である。吉之助は自然と、階段を挟んだ反対側に、同じ様に控えた。
「殿。狩野吉之助を召し連れました」
「よろしい。帯刀、始めよ」
「はっ」
すると、五十過ぎと思われる白髪交じりの武士が庭に下りてきた。
「わしは、番頭・鳴海帯刀である。御命により試合の審判を仕る。両名とも、構えぃ!」
待て、待て。いきなり試合をするのか。安藤様め、説明不足にも程があるぞ。
相手の若者は、素早くたすき掛けとなると、木剣を持って立ち上がった。そして、すっと正眼に構える。
こうなれば、吉之助も立たざるを得ない。懐からたすきを出し、袖をまとめる。両手で杖を持ち、中段に構えた。
吉之助は、剣術については素人同然である。しかし、向き合った若者が、真っ当な筋のいい剣士であるということはすぐに分かった。
次の瞬間、「やっ」と短く発し、若者が正面から打ち込んできた。吉之助は冷静に、杖の先端で相手の木剣を弾く。しかし、若者は、それを予想していたかのように、自然な流れで切っ先を返し、胴を払う。
対して、吉之助は体を半回転させると、杖の尻側で受け、そのまま、若者の木剣に全体重を伝えるようにして押し弾いた。
吉之助は巨漢であり、力が強い。衝撃で相手が態勢を崩してくれれば、追い打って勝負あり、となるはずだ。実際、若者も横に飛ばされた。しかし、彼は、態勢を崩すことなく、たん、と地面をひと蹴りすると、大きく跳び退いて構え直した。
砂紋の乱れが痛々しい。いや、それどころではないぞ。この若者、この身のこなし、強いな。
吉之助も対人戦の経験は多くない。特に武士相手となると、数年前、村で狼藉を働いた食い詰め浪人を捕えたとき以来だ。目の前の若者は、あの時の浪人とは、剣士としての洗練度が明らかに違う。となれば、受けてばかりはいられない。いっそ、攻めに出るか。
吉之助は、ひとつ息を吐いた。そして、自分から間合いを詰めるべく、わずかに膝を曲げ、腰を落とす。相手の呼吸を見極め、前方に体重を移動しようしたところで部屋の奥から声がした。
「帯刀、もうよい。止めよ。怪我でもしたら元も子もあるまい」
「はっ。両名とも、それまで!」
吉之助と若者は、鳴海帯刀の両脇に分かれて片膝を付き、見えない相手に頭を下げた。その後、前もって決められていたかのように、若者が鳴海に伴われて下がって行く。吉之助は一人残された。
すると、部屋の中らから別の声が。
「狩野殿、お召しです。御前まで進むように」
吉之助が、どうしたものか、と廊下の端に座って試合を見物していた安藤家老に目を向けると、彼は、庭から階段を上がったところの廊下の床板を指さした。
しまった。紋付を庭に下りる前に向こうに置いてしまったぞ。
仕方ないので、たすきを外し、軽く衣装の乱れを直しただけで廊下に上がった。そのまま平伏。それと入れ替わりで安藤が室内へ。芝居を見ているような流れである。
吉之助は、わずかに顔を上げた。部屋の奥には上段之間がある。その中央に藩主がいるはずだが、角度的に上段と下段を分ける横木しか見えない。
上段から下がって、左側に安藤。そして、右側にもう一人。その端然と座っている男が、先程入室を促した声の主だろう。横目でちらりとその顔を見て、吉之助は、あっ、と思った。
その整った顔立ち、一度見れば忘れない。去る四月、笛吹川で出会った自称御家人・西田春之丞ではないか。
次章に続く