【第21章・突破口】融女寛好 腹切り融川の後始末(歴史小説)
第二十一章 突破口
「し、しばらく、ご両所とも、しばらくお待ちを!」
慌てた町田の声が、急激に熱を帯びた栄と備中守、二人の間に割って入った。
「何だ!」と、自分の言葉を遮った町田に対して備中守が怒鳴った。栄も厳しい視線を向ける。しかし、町田は医師である。しかも、外科医として年間千人を診たという杉田玄白の門下である。修羅場もそれなりに経験してきた。
彼は、ひとつ息を吐いた後、患者を落ち着かせるときのような、静かな口調で言った。
「備中守様、お言葉を遮り、誠に申し訳ございません。ただ、分からないことがあるのです」
「何のことだ?」
「その、お栄殿。物知らずと笑われるかもしれませんが、お栄殿の話の中に何度も出てくる、うかがいしたえ、とは何でしょうか。絵師が画を描くときに最初に下絵を描くことは知っています。うかがいしたえ、とは普通の下絵と違うものなのでしょうか」
「えっ?!」
栄は、意表を突かれた。当たり前に使っていた言葉だが、いわゆる業界用語で、一般の人には分からないらしい。
栄は、すぐにも話し出そうとしたが、町田の穏やかな表情を見て言葉を飲み込んだ。そして、一度静かに細く息を吐き、頭の中を整理してから説明した。
「はい。うかがいしたえ、つまり、伺下絵も下絵は下絵なのです。ただ、絵師が実際に制作に入る前に、注文主に見ていただく下絵を特に伺下絵と呼んでいます。下絵にも何段階かありますが、伺下絵は最終段階の下絵です。描き込みの緻密さや彩色も含め、ほぼ実物同様のものと考えていただいて結構です」
「なるほど」と、町田が真面目な顔で頷く。
「そして、奥絵師が公方様の御用で仕事をする場合、伺下絵をご覧になるのは、当然ながら、公方様です。公方様からご指導をいただき、下絵に手を加えることも、描き直すこともございます。ただし、そこで公方様のご裁可を得たとき、伺下絵はもはや単なる下絵ではなく、その下絵の通りに画を仕上げるようにとの公方様のご命令になるのでございます」
「なるほど。では、伺下絵がさらに変更されることはないのですか」
「そうですね。町田先生は、高名な杉田玄白先生のお弟子さんということでよろしいですか」
「はい」
「例えば、杉田先生が患者の治療や投薬についてご指示を出したとして、弟子が勝手にそれを変更することがあり得るでしょうか」
「医者の場合、診ているのは人間ですから、容体が急変することもあります。しかし、基本的には、先生のご指示を変える必要があれば、先生にお伺いを立て、ご了解いただいてから変えるでしょうね」
「伺下絵も同じです。改変の必要があれば、必ず担当のご老中を通して公方様のご了解をいただかなければなりません」
栄はさらに町田の背後の秋の場面が描かれた襖絵を指さして言った。
「公方様のご了解がなければ、そちらで言えば、落ち葉一枚、雀一羽、足すも引くも許されません」
「なるほど、そういうことですか。分かりました」
「はい。ご理解いただけてよかったです」
栄は、町田の理解を得たことに満足し、上段の間の備中守に視線を戻した。すると、気のせいか、備中守の雰囲気が先程までと少し違う。覆い被さって来るような威圧感が、ほんの少し、萎んだような。
何かあったかしら? 町田先生に伺下絵の説明をしただけなのに。何か、警戒しているような、こちらを探るような目になっているけど・・・。
もしかして、備中守も伺下絵を知らなかったの?
伺下絵を無視して、見分の場で描き直しを命じるなんて、何と理不尽な振る舞いか。公方様のご寵愛を笠に着るにも程がある、と思っていたけれど、もしかして、単なる無知だったとか。
しかし、あの見分の場に出る立場で、伺下絵を知らない、そんなことがあり得るだろうか。
待てよ。そうか、贈呈屏風の最終見分は、従来、老中だけで行われていたものだ。志津様が言っていたじゃないか。半年くらい前だ。この備中守や側用人の水野など、近い将来に老中に昇格する公方様の側近たちが老中の仕事にも加わるようになったのは。
今回の贈呈屏風制作について台命(将軍の命令)が出たのが三年前。それから御用絵師の中で画題や担当を決め、それぞれ制作に取り掛かり、そして、伺下絵を公方様にご覧いただいたのは、確か、一年ちょっと前のことだ。だから、備中守は知らない。伺下絵を見ていないんだ。
他の老中たちはそこにいた。だから、伺下絵の通りに描かれていることを確認するだけで、それ以上の感想など言わない。でも、備中守は知らない。伺下絵を見ていない。だから、自分が見たまま、自分の感想を述べたんだわ。挙句、融川先生と口論になった。そうか、そういうことか。
これは、見方によっては、非常に無礼な振る舞いと言えるだろう。将軍の見識や美意識を真っ向から否定したとも取れる。知らなかったでは済まない。備中守もそれに気づいた。だから、様子が変わったんだ。そうだ。そうに違いない!
突破口、と頭に浮かんだ。ここを突破口にして優位に立てないだろうか。考えろ。考えるんだ。この後、どう話を持って行けばいい?
しかし、栄の考えがまとまる前に、備中守が先に口を開く。備中守にしてみると、話が思わぬ方向に転がり始めた。軌道修正が必要だ。
「話を戻すが、今回のことは、融川法眼の乱心ということでよいな。狩野家にとってもそれが最善の道と思うのだが。狩野家の今後について、予も出来る限りのことをしようではないか」
また乱心か。
備中守は、なぜ、乱心にしたいのか。とにかく、備中守が事を穏便に処理したいと考えていることは確かだ。しかし、穏便にというなら、病死という手もある。むしろ、そちらの方がより安全な隠し方ではないだろうか。
実際、武士の家では、不名誉な死を遂げた者を病死に偽装することなど、よくあることだ。吉原で遊女と心中したとか、恋敵同士が果し合いをしたとか。急な病で死んだことにして闇から闇に葬ってしまうのだ。
備中守の狙いが分からない。事を隠したいなら、なぜ、病死ということにしよう、と提案してこないのか。
融川先生が病死であれば、奥絵師の上役の若年寄にその旨を報告し、後は、検死した町田医師に口裏を合わせてもらえば、それで済むだろう。
しかし、乱心の上での切腹となれば、浜町狩野家がどんなに神妙に対応しても、一度や二度は目付の調べが入るはずだ。そうなれば、切腹の直前の出来事、すなわち、城中での融川先生と備中守の口論のことなども調べられ、記録にも残ってしまうに違いない。それは構わないのか。
どうもこの人の考えはちぐはぐだ。普通の人間とは別な理屈で動いている気がする。その理屈が分からないことには・・・。
議論の流れの中、難攻不落の城を攻略するための小さな突破口を見つけた栄であったが、いまだ備中守の真意を測りかね、その先に進めずにいた。
次章に続く