【第15章・護衛道中】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)
第十五章 護衛道中
「おい、サンピン。通して欲しけりゃ、ちょっと酒代を」
そう言って突っかかってきた職人風の男のみぞおちに竜之進が刀の柄頭を突き入れた。「ぐっ」と発して前のめりになった後頭部に肘打ち。男が無様に路上に転がる。そして、竜之進がひと睨みすると、三、四人いた男の仲間は蜘蛛の子を散らすように消えてしまった。狭い路地に充満した安酒の臭いが鼻につく。
「吉之助さん。こりゃ、裏通りを行くとかえって面倒かもしれませんよ」
「そうだな」
すると、二人の背後から、中間姿の小男が顔を出した。
「いやぁ、申し訳ない。立派なお武家さんにあっしみたいな半端者の護衛をさせちまって」
「気にするな。主命だ」
狩野吉之助と相棒の島田竜之進は、彼等の主君・松平綱豊の命により、町絵師・英一蝶を浜屋敷まで連れて行く道中にある。
一行は、吉之助と竜之進が前を歩き、一蝶が付き従うとい形だ。吉竜両名は、ひと目でどこかの藩士と分かる紋付姿。一蝶は、挟み箱を肩に担ぎ、渡り中間を装っている。
英一蝶は、将軍が寵愛する側室を遊女に見立て、有名な「朝妻船図」を描いた。儒学に熱心で、世の人々に忠孝や礼節を説く将軍綱吉の漁色家ぶりを嘲笑い、その言行不一致を揶揄した、所謂、風刺画であった。
それが、綱吉の側近で、今や大老格老中首座の地位にある柳沢出羽守の知るところとなり、一蝶に対する捕縛命令が出された。
対して、一蝶と懇意で、次期将軍に綱豊を推す派の有力者・内藤家の隠居が、綱豊を頼ってきたのであった。一蝶を保護し、浜屋敷の船着場から船で安房に逃がして欲しい、と。
「それにしても、凄い剣幕だったな。内藤家のご隠居は、出羽守様が心底お嫌いのようだ」と、竜之進が半ば呆れつつ言った。
「そりゃそうだ。この辺り、見渡す限り、以前は内藤家の土地だったんですぜ。たった三万石にしちゃ、不釣り合いな広さだ。恐れ多くも権現様が、乱に備えて騎馬の調練を怠るな、と直々に下さったそうで。ご隠居の一番の自慢でさ。こっちは耳にタコですがね」と一蝶。
三河以来の譜代大名・内藤家が、徳川家康から与えられた屋敷地は、現代で言うと新宿一帯、東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保にまで及ぶ広大なものであった。
「それを出羽守様が取り上げた?」
「ええ。全部じゃありませんけどね。形としては、新しい宿場の用地として進んで公儀に献上したことになってますが、そんな訳ないでしょ。まあ、一番悪いのは将軍だ。騎馬の調練なんて文治の世には必要ない、と言いやがったそうで。しかし、将軍に直接文句は言えないからねぇ。自然、諸悪の根源は柳沢ってことで」
すでに暮れ六つ(ほぼ午後六時)を過ぎ、江戸の町は完全に闇に包まれている。しかし、稲荷の祭礼で大通りから細い裏路地まで、人々が出て賑わっていた。あちこちからお神楽の囃子や子供たちの笑い声が聞こえてくる。大人たちは道端にむしろを敷いたり長椅子を出したりして宴会中。物売りや辻芸人なども出ている。
「これなら役人に誰何されることもないでしょう。祭礼期間中は、木戸も深夜九つ(ほぼ午前零時)まで開いてるそうです。浜屋敷まで十分行けますよ。案外楽な任務で助かりましたね」と竜之進。
内藤家下屋敷(現代の新宿御苑)を出発し、中級以下の武家屋敷や町家がひしめく地域を抜け四谷へ。さらに進み、妙にしんとした寒風の吹きすさぶ一角に入ったところで、一蝶が足を止めた。
「どうした? 疲れたか」
「いや、違います。旦那方。ここ、その柳沢の、川越藩の下屋敷があった場所なんですよ」
「下屋敷? しかし、所々塀が残っているだけではないか。何だ、あの柵と小屋は? 気味の悪い場所だな」と吉之助が眉をひそめる。崩れかけの木柵が風にガタつく。竜之進が反射的に腰の刀に手を掛け、厳しい視線を辺りに配った。
「ははは、大丈夫ですよ。ここは、例の犬小屋(野犬収容施設)だったんです。今は中野に移っちまいましたけどね。こっちは正真正銘、柳沢の奴が、将軍のご機嫌取りで屋敷地を差し出して作ったんです。馬鹿でしょ」
竜之進が刀から手を放し、懐から絵地図を出す。
「すると、今はここか。吉之助さん、この先どうします? このまま外濠から汐留川沿いに行きますか」
「ああ、それでいいだろう」
吉之助と竜之進は再び歩き出したが、一蝶は動かない。何事かと振り向くと、一蝶が今までにない真面目な顔をしていた。
「旦那方、ちょいと頼みがあるんですがねぇ」
次章に続く