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【第7章・蘭方医の検死】融女寛好 腹切り融川の後始末(歴史小説)

第七章  蘭方医の検死

 奥絵師・板谷桂意から情報を得るため栄を派遣すると決めたところで、素川章信が加えて言った。
「お栄の駕籠を呼ぶついでに、杉田玄白先生のところから町田さんを呼んできてくれ」

「町田先生、ですか。蘭方医の?」
「そうだ。融川と一緒に西洋の医学書の挿絵を見たくて、玄白先生の医学所に行くと、決まってあの人が相手してくれるんだ。この屋敷にも何度か来てるから、皆、顔くらい知ってるだろ。ともかくだ。この後、目付の調べが入るか否か、どういう扱いになるか分からんが、一度、しっかりした医者に見せておく必要はあると思う。町田さんなら腕も確かだし、仕事柄、口も堅い」
「確かにそうですな」と、家老の長谷川が頷く。
「近くだから、呼べばすぐ来るだろうさ」

 町田医師は本当にすぐに来た。町田の所属する杉田玄白の医学所は、浜町狩野屋敷から二町(約二百二十メートル)ほどのところにある。
 浜町周辺(現代の地下鉄馬喰町駅から東日本橋駅辺り)には、中級の旗本屋敷が集まっていた。古地図を見ると、絵師以外にも、蘭方医、漢方医、儒学や算術、茶道など、一芸をもって仕えた技術系幕臣の名がちらほら見える。

 町田昌豊は、当年二十四歳。小浜藩医から幕臣に取り立てられた西洋医学の先駆者・杉田玄白の門弟である。
 町田の家は、近江堅田藩一万三千石の堀田家に仕えている。昌豊は長男だが、元服後すぐ江戸に出て玄白門下に入ってしまい、その後は学問三昧で藩士としての実体はほぼない。そのため、家は弟が継ぐことになってしまったが、本人はそのことをむしろ喜んでいる。タレ目が印象的な学問好きで気のいい青年だ。

 融川が横たわる座敷に通された町田は、融川の遺体に対して合掌一礼した後、衣服を脱がせ、栄が巻いたさらしを外し、切腹の跡を確認した。その後、いろいろな角度から診察する。

 町田が融川の遺体を調べている最中、素川だけが横に付き、栄と家老の長谷川は邪魔にならないように座敷の端の方に座っていた。

 栄の位置からは、座敷の全体が見渡せる。書院に隣接するこの座敷は、融川が日常もっとも時間を過ごしていた部屋だ。正面奥には床の間があり、浜町狩野家の祖・隨川岑信の筆による菊慈童図一幅が掛かっている。
 しかし、左右の襖は無地である。よく見れば、京都から取り寄せた鳥ノ子紙に雲母で細かな文様を入れた贅沢なものだと分かるが、遠目には部屋全体、至ってシンプルな印象である。

 融川が生前、自分で描いた画で飾り立てるほど自意識過剰でもねぇし、かと言って、親父や爺様の画では四六時中見張られているようで息が詰まる。その他の絵師だと、自分より上手けりゃ腹が立つし、下手な奴のは論外だ、などと言っていたことが思い出されて胸が痛む。

「死因は、腹部と首筋の刀傷、そこからの出血多量で間違いありません」という町田の落ち着いた声に、栄の意識もそちらに向く。
 町田の横で素川が尋ねた。
「本当に腹と首以外に傷はないか。誰かに刺されたとか、切られたとか」
「ないですね。二ヶ所の傷以外、特に異常はありません」
「病ってことは? 酒が好きだったからな。そっちで何か。何か発作でも起こして、苦しさに耐えかねて自害したとかはどうだい?」
「それも考えにくい。法眼様は、確かに酒量は少々多かったと思いますが、まだお若いですし、特に持病もありませんでした。この様子から見て、覚悟のご自害としか思えません」と言って、町田は融川の腹部にさらしを巻き直し、衣服を丁寧に戻した。

「しかし、どうしてご自害を?」
 町田の素朴な問いに長谷川が、「我々にも見当がつかないのです。町田先生、しばらくこの事は他言無用でお願いします」と返した。
「承知しました。何かお力になれることがあれば、いつでもお呼び下さい」

 町田が狩野屋敷を出ると、すぐに二人の侍に左右から挟まれた。きちっとした身なりから、どこかの家臣であろう。
「私に何か御用ですか」
「蘭方医の町田先生とお見受けします。ご足労ですが、このまま当家の上屋敷までお越し下さい」
 言葉遣いは丁寧だが、有無を言わせぬ迫力があった。町田も身分としては武士だが、もとより剣術はからっきしだ。逃げ足にも自信はない。諦めが肝心である。
「承知しました。同道つかまつる」

 町田と二人の侍の姿が見えなくなって程なく、栄を運ぶための町駕籠が来た。時刻は七つ(ほぼ午後四時)を少し過ぎていた。

次章に続く

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