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【液体小説】のほほんとコパカバーナ

part2: なにも変わらない非日常

警察を出ると雑誌数社が僕を囲んだ。                 悪い気はしなかったがとにかく空腹で疲れていたので、「何も話すことはありません!」と、さも恋人が目の前で自殺し、生きる術すら失った世界一惨めな男を無難に演じ僕はタクシーへ飛び乗った。
ドアを開けると冴子の白いヒールの片方が三日前に買ったジミーチュウの革のシューズに重なっていた。僕はヒールのひもを人差指と親指で摘み上げキッチンのダストボックスへ捨てた。さっきの嘔吐で嫌な匂いがしたので慌ててバンッと閉めてから気を取り直し、ソファに座り缶ビールを飲んでいるとスマホが鳴った。
彼女は電話が繋がらなかったことに対する不満とこれから逢いに来ると言う願望をいつもよりも少し高揚した口調で一気に話したが、昼間公園を走った後、風呂に入りながら小説を読んでいたらのぼせてしまい、夕食も食べられない始末だった。でも本当に愛しているから、よければ明日の朝来てくれないかとはぐらかすと、「わかったわ、クロワッサンとレタスを買っていくから一緒に朝食をとりましょう」とすっかり機嫌を直してサヨナラも言わずに彼女は一方的に電話を切った。
いつも通り明るくて心地よい彼女の声の余韻の中、
あのバカな刑事の名前が[ヒライ]だったことを僕は突然思い出した。
 
チャイムに起こされ時計を見ると午前十時二十分だった。        麻耶は身体の半分はある長い足に白のパンツを履き、黒いタートルの上に同じ色のジャケットを羽織ってドアの前に立っていた。
「おはよう」と僕が言うと、麻耶はスーパーの紙袋で隠れた小さい顔をちょこんと覗かせ
「GoodMorning!!」と大きな瞳で笑いかけた。       その微笑みはあどけなさと相反するサディスティックな麻耶の隠れた深層心理の扉をたたく合図のようで、僕はその瞬間だけ麻耶を世界で一番愛しい存在だと錯覚した。
キッチンで少し遅めの朝食の支度をする麻耶の題名のわからない鼻歌を聞きながら、僕はネットニュースをパラパラと検索した。どこかの国でタンカーが座礁し原油が溢れ近郊の海域を汚染しているという記事が目に入った。現地の環境ボランティアらしい人群が浜辺に立ち尽くす写真が載っていた。今朝だけは海がどんなに汚れようと僕にとってたいした意味はなく、そんなことより冴子の死を世界は知っているのだろうか?それが何よりも優先される朝だった。
だけど冴子の記事はどこにもない。
変わりに一度も聞いたことのない四流大学の願書受付の広告が大々的にバナーを彩っていた。僕は十八時間ぶりに初めて冴子のことが可哀想になり、冴子が僕に言った最後の言葉を必死で思い出した。
「口紅終わっちゃった。今度は何色がいいと思う?」          たぶんそんな感じだった。

麻耶は昨夜の予告通り、クロワッサンとレタスのサラダをテーブルに並べた。僕が残り僅かなオレンジジュースを二つのグラスに注ごうとすると、「全部飲んでいいよ、私、コーラ買ってきたから」と言ってソファーに座り、長い足を窮屈に組んだ。僕は昨夜の空腹が嘘のようで、冴子のことも夢であればいいと一瞬思ったが、口の臭い刑事と、折れ曲った冴子の遺体が頭の中で複雑に絡みあい、原形をとどめないミトコンドリアの渦巻きのように一つに粘りあって、気がつくと麻耶の笑顔に凝縮し象徴されていた。      パンとサラダに口をつけない僕を麻耶は少し不機嫌な瞳で見たが、僕は気づかないフリをしてリモコンの再生を押した。

いつまでも忘れられない素敵な夏が終わると僕らは大人になってしまう、だからどんな未来が来るとしても、せめて今日のこの日のことだけは二人の瞳の中に焼き付けておこう 

そんな歌詞の歌が流れた。 
「いい歌ね」と麻耶が言ったので、
「そうだね・・」と僕は答えた。

もうすぐ正午だ。道を挟んだ隣の公園で子供たちがはしゃいでいる。ベランダに出て思いきり空を見上げると、目の前が一瞬真っ白になり、すぐに六角形の光の大群が僕を覆った。

どこかで懐かしい匂いがする。
何の匂いなのだろう?風の冷たさと重なり、幼いころから僕を不意に襲うこの匂いは・・とにかく今日も穏やかで、死にたくなるくらいゆっくりと時間だけが僕の中を通り過ぎて行く。そしてもう懐かしい匂いはどこにない。 要するにそんな日なのだ。
「Tシャツと短パンでうろうろしてると風邪ひいちゃうよ」と麻耶が言った。その時初めて、僕の目から涙が流れていることに僕は気づいた。
いつのまにか麻耶はソファーの上で眠っていた。ブラインドの隙間からこぼれる午後の陽射しが、麻耶の白い首筋の産毛を金色に染めている。僕は透けて見える麻耶の青い血管にそっとキスをした。
「どうしたの?悲しい顔しちゃって。いつも変だけど、今日はなんか特別ね」と言って目を覚ました麻耶がやさしく微笑んだ。

麻耶は近いうちに車でどこか旅行に行こうと言い、           ちゃんと眼鏡をかけてくれるのなら考えてもいいよと僕が答えると、   麻耶は大きな声で笑った。
そして僅かな静寂の後、

「・・・・冴子が死んだんだ・・・・」

僕は麻耶にと言うよりかはほとんど天上に向かってその言葉を発した。

麻耶は「そう」とだけ言い、
「明日、葬儀に行ってくる」と言いかけた僕を麻耶の柔らかい唇で塞いだ。

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