小説『エミリーキャット』第66章・Missing
まるで折れ釘のように首と頭を倒して高層マンションを見上げているうちに、その窓々が春の日射しに鏡のような鋭利な反射光を放つのを目(ま)の当たりにして彩は眩暈を感じ、思わず固く瞳を閉じた。
そして熱に浮かされ口走るような口調で彼女は気がつくとこう言っていた。
『ここが…あの森のあった場所?』
『そうだ、彩ちゃん
よく見るんだ、
森は無いし、あの館ビューティフル・ワールドももう無い』
『……』
『そして…エミリーももう居ない』
そう言う山下の口調は渇いた中にも不思議とさりげなく、一見そのことについて何も感じていないかのように彩には見えた。
然しその口調とは裏腹にマンションを見上げる山下の眼は、深い悲しみをどこか遠くに誰にも解らないように秘匿しているようにも感じられた。
それは音も無くどこかで一瞬、
閃(ひらめ)く遠雷のように平静な山下の瞳を透かして時折、不穏な陰となって横切るように彩には見えたからだ。
そんな山下の横顔から彩はそっと視線を反らすと震える吐息をつくようにこう思った。
‘’単に私がそう思いたいだけなのかもしれない、
山下さんがエミリーのことを、
心の中から切り捨ててしまったりして欲しくないという私の甘ったれた願望がそういうふうに想わせるだけなのかもしれないわ…‘’
すると昏く悲しげな眼をしつつも山下はその眼とは真逆の朗るい声で、地上の春霞みから離れて澄み渡る遠く青空の彼方を振り仰ぐようにきっぱりと断言した。
『これが今のビューティフル・ワールドだ、
これ以上でもなければこれ以下でもない、
そしてこれが”今“なんだ、
つまり…
ここはもうビューティフル・ワールドですら無い、
そんなものはもうとうに滅び去ったものだからだ。
遠い時代と人々の記憶と共に…』
『……人々の記憶…』
それ以上の言葉を発することが出来ずに彩は押し黙った。
彼女は高層マンションの何処からかベランダ伝いに子供の笑い声が漏れ伝うのをまるで遠い日の誰かの幻のように聴いた。
それに混じって夫婦であろう男女の笑いさざめく声が和やかに春風に乗って彩の立つアスファルトの足元にまでまるで優しい紙ヒコーキのように届いた。
彩はそれを何故だか虚しく感じ、
溢れてくる泪を耐え、やがてようやくしぼり出すような声で言った。
『…目には見えないだけよ、
きっとあの森もビューティフル・ワールドも今ここにはまるで無いかのように私達には見えるけど、
でも…在るのよ、
今私の目には見えなくても…
それらは決して無くなってしまったわけではないわ、』
『まだそんなことを言っているのかい?
彩ちゃんほら、よく見るんだ!
ここに在るのは僕らと同じ現代に生きる人々が生活するこの聳え立つような高層マンションだけだ、
他にはもう何もないんだ!
マンション群が何棟も連なって建ち並び、その一室一室にたくさんの見知らぬ家族が住んではいても、もうエミリーも猫達も君が逢いたいと願っている者は誰独りとしてここには存在しない、
何故ならそれはもう遠い過去のことだからだ、
ビューティフル・ワールドも、
そしてエミリーの幻影も、
とうの昔に滅び去った世界でしかないんだ、
それらはもう二度と我々の前には戻っては来ないんだ、』
『いいえ、違うわ、
じゃあどうして私はエミリーに呼ばれてあの世界へ行ったの?
半年もの間、私とエミリーはあの森で幸せにそして平和に暮らしていたのよ、
そりゃあ心乱されることもあったわ、でもそれだって、
ひいては二人の絆を強めることに過ぎなかった…
エミリーと私はビューティフル・ワールドで食卓を囲み、
寝食まで共にしたのよ、
そこでのエミリーと私はまるで生まれついての家族のようだったわ、
子供の頃から暖かい家族や家庭に憧れ続けた私が初めて得た、
真の安堵と平安に満ちた…
あそこでの時間は私にとってかけがえの無いものだったわ、
エミリーだって同じよ、
私達は気が遠くなるほど長い年月の孤独の涯(はて)で愛に飢えながら大人になった者同士よ、
だけどここはそんな人間達が、
そんなことを正直にかこつことが果たして許されるような世界かしら?
仮に言ったとしても鼻白むような態度をとられるのがオチだわ、
人々には誰かや、誰かの子供の悲鳴や、SOSなんて耳にしたくもないどうでもいいこと、
とても善良で、この上なく無関心な両極が双璧となって回るこの世の中で普通に生きるということが、どうにもならないほどの労力と困難とを、はらんでいるような人間達はただ歯を食い縛り、
そしてやがては何もかも諦めて、さながら生きる屍のように何も言わなくなってゆく…
何故ならそれしか無いからよ、
悲しい笑顔で薄ら寒い冗談を発する以外はね…。
でも私もエミリーも皮膚が裂け、
骨が砕かれる目に遇いながら育つしかなかったこの世界の一体どこでどう息を接(つ)ぐことが出来たと云うの??
私もエミリーも幼い頃からずっと思ってきたわ、
こんな沈黙の果てに、
こんな微笑みの仮面の果てに、
…いつか救いはあるの?って…!
あまりにも巨き過ぎるその波紋の中でまるで船酔いのように今も尚私達は苦しみ続けているというのに…
シンちゃんはそんな私をとても直視出来ない、
むしろそんな私の生い立ちや苦しみから逃げようとしている…
関心すら持とうともしないわ、
婚約している恋人同士なのに…
だから私は彼に何一つ、
僅かな悲しみの一雫すら、
かこつことが出来ない、
だからいつも遠慮ばかりしているの、彼の前ではしっかり者の彩を演じ続けなければならない、
安心して弱みを見せられないのよ
…息が詰まりそうだったわ、
でもエミリーは違う、
エミリーは私の明暗も…
醜悪な負の部分さえもそのままで、
まるで当たり前のように受け入れてくれたわ…
そして私も素顔のエミリーを受け入れた…。
喜びも愛も怒りも泣き言も…
私達の間に溝が時に出来ても越えられないほど深くはなくて…
陰も陽もお互いの血の一部として否定などせず抱きとめることが努めずしてふたりには出来たの、
…そんな私達が時空を超えて出逢ったのは…
超自然な現象であったにも関わらず、多分…必然でもあったのよ、
それでも山下さんはあのエミリーが奏でるピアノの音色も、
暖炉の炎も、ロイの柔らかくて、ずっしりと豊かな軆の重みも、
エミリーと全てを分かちあった時のあの温もりも…。
彼女の柔らかい髪とあの細長い首すじから抱きしめられた時に薫る麝香(じゃこう)のような幽かで深い匂いも…
全てが幻だったって云うの??』
『彩ちゃん…』
『…違うわ、
あれは幻なんかじゃないわ!
血も肉もそして心も魂も悲しみも悦びも全ての熱量をエミリーから私は痛いほど感じた、
生きている並みの人間なんかよりよほど強く…!
だから私には解るの、
エミリーはきっと私を信じて待っていてくれるわ、
今こうしてここに立っていると、とてもそのことが叶わない遠い夢の世界のように心細く感じてしまいそうになるけれど…
信じたいの、
強く信じていればまた私はあの森へ還れるわ、
エミリーが私を呼んでその声に私は身をゆだね…そうすればあの森へと続く扉がきっとまた開かれるはずよ』
『…森へと続く扉?』
『そう、
それは私にだけ開かれる扉で…』
と彩は冷ややかに山下に泪に濡れ光る一瞥を呉れると、幽かに唇を震わせながら断言した。
『私だけにしか見えないし、
入ることも許されないんだと思うわ、何故ならば…
ビューティフル・ワールドはエミリーと猫達と…
そして私だけの世界だから…!
今見ているこのマンションは、
あの森の片鱗すら見ることの出来ない居丈高な鉄筋コンクリートの建物でしかないけれど…
私はこの今、目の前に在る石やコンクリートや硝子といった堅牢な物質の粒子の隙間を掻い潜(くぐ)るようにして超えた世界へすんなりとなんの抵抗も無く到達することが出来るのよ、
エミリーやロイ達とのことが、
たった今見ているこの世界からは山下さんが言うように欠けて失われてしまった遠い過去のようにしか思えなくても…
それは今、肉眼では見えないだけなのよ』
『肉眼で見えないものはもう今、失われて無いからなんだよ
彩ちゃん!』
『いいえ山下さん!
目を閉じて見なければ見えないことだってあるわ、
エミリーは私を待っていてくれる、私は信じているの、
きっとまたあの森へ還れるって、
そして…
あの全てのしがらみを投げ出して素顔で生きられる世界で私達はまるで子供に返ったかのように素直な気持ちでなんのこだわりも怖れも無くなって、まるでお互い幼い双子の姉妹か、
支えあう仲睦まじい老いた夫婦のように寄り添って分かち合って、親友として恋人として私達はふたりで一人、同じ心臓をもつ者同士として生きてゆくの、
永久(とわ)にね…』
『…永久(とわ)にか…
でもそれは…永久に続くまるで煉獄(れんごく)のようなものじゃないのか?一見美しくてもそれは夢でもなければ現実でもない、
そして地獄でもないかもしれないが…
決っして天国でもない、
その狭間(はざま)で迷う魂が棲まうしょせん永遠の迷いの地でしかないんじゃないのか!?』
『山下さんに何が解るというの??』
堪え切れない泪がまるで熱湯のように狂おしく溢れ出るのを抗うように彩はまるで悲鳴のような声を上げた。
『山下さんは私とエミリーとの絆に嫉妬してるんだわ!』
『……』
不意打ちのエアガンのように飛び出した彩の意外な言葉にいつもフラットな平静さを見せる山下の顔が一瞬、
慄然(りつぜん)とし、傷ついたような昏い瞳を見せた。
そして彼は鏡の奥に連なる鏡像の如くまるで虚しい谺(こだま)となってただ無言で見つめ返していた。
『幼馴染みのエミリーが貴方より私のほうを選んだことを、
エミリーと私が愛し合い共に呼び合い必要としあうその強い絆を…
あなたは嫉妬しているのよ!
貴方にはそんな強い絆はきっと無いからだわ、
でもどうかお願い、
山下さんそんな嫉妬で私達を引き裂こうとしないで、
私にはエミリーが必要だしエミリーにも私が必要なの、
私達はロケットペンダントの片割れ同士なの、
生まれついてのベターハーフなのよ、
彼女が居なければ私は生きてゆくこの虚しさにとても正気で耐えることは出来やしないわ!』
彩はそう言い残すと山下に踵(きびす)を返し、ヒールの音高く慌ただしい歩調で遊歩道を立ち去った。
そして山下の呼び止める、あの谺(こだま)のような遠く虚ろな声から耳を塞ぎ、逃げるようにしてやがて一目散に駆け出していった。
『ああエミリー!
あの時のように私を呼んで!
私を固く抱き寄せるように貴女の世界の扉を早く私に開いて!
私をこの世界に置き去りになんてしないで!
お願いよエミリー、
どうか私を独りにしないで!!』
彩は泣きながら駅の傍まで一時間以上かけて帰ってきたが、駅前の古ぼけた喫茶店へ逃げ込むように入るとまるでため息をつくように珈琲を頼んだ。
胸の内に渦巻く昏い嵐に呑み込まれまいと彩は奥の壁際のブース席へ隠れるようにして座ると、コーヒーカップの中で虚ろに回る珈琲の表面の渦(うず)を一心に見つめた。
珈琲の表面を回る渦にだけ心を収斂(しゅうれん)させて他のことは何も考えたくなかった。
“今山下さんのあの言葉を思い出したら……
私は二度と立ち直れなくなる…”
彩はそう思って珈琲の渦の中央へ泪を一雫まるで狙い澄ましたかのように落とした。
喫茶店を出ると夕刻を越え、
既に夕闇が駅周辺のコンビニエンス・ストアやパチンコ店やあらゆる賑々しい建物が蝟集する辺りをどこか単純なネオンの輝きで充溢し、それによって足元に伸びる自分の影さえもがまるで人工物の切れ端のように見えた。
その濃く伸びやかであると同時に不安定な影の中にこそ、実は現実の世界がひそんでいてその影の持ち主である自分はまるで脱け殻のように渇いて脆(もろ)く夜風が吹けば一瞬にして飛び散ってしまうかのように彩には感じられてならなかった。
彩は気がつくとバスに乗り、
再びあの森の在った地に建つマンション前へ降り立った。
そしてマンションに向かうあの緩やかなスロープを登って行った。
『このスロープを登っている時に後ろ足に黄金(きん)いろの花粉をつけたあの愛くるしい蜂が飛んできて私に留まったんだった、
エミリーは輝くような笑顔を見せてこう言ったわ、
蜂にキューピッドになってもらって私にビューティフル・ワールドに咲く薔薇の花粉を受粉したんだって、
だから私はもうエミリーのもの、エミリーももう私だけのエミリー、その私達がもう逢えないなんてことあり得ない、
そんなこと…あってはいけない、
そんなの駄目よ、
駄目よ、エミリー!』
彩は思わずキャメル・ブラウンの革の手袋に包まれてはいるものの震える凍えた指先でコートの襟を慌ただしく掻き寄せた。
そしてその奥へ冷えきった小さな顎先を埋めると共に、追いつめられて口ごもる幼い少女のように気がつくと彼女は偲(しの)び泣きつつ一心にこう独りごちていた。
『…エミリー!エミリー!
ああエミリー!!』
するとスロープの向かい側から、降りてくる背の高い、ややがっちりと大柄な中年の女性の姿が見えた。
大型犬をリードで繋いでゆったりと降りてくるのがスロープ伝いに灯る街灯の灯りに照らし出され、その姿は宵闇の中、蒼白くまるで光のレリーフのように浮かび上がって見えた。
彼女とやや肥り肉(じし)の犬とが彩に近づくにつれ、彩は微睡みから覚めるようにはっとしてその女性を思い出した。
その女性(ひと)は佐武郎のタクシーの中から見たあの不倫の果てに何もかもを失ってそれでも恋人と一緒になったというあの夫婦の妻のほうであった。
確かあの犬は夫が前の家庭から唯一の財産として連れてきた彼しか愛する者のいなかった愛犬のシベリアンハスキーのタロウだ…
と彩は思った。
彩の脳裏に佐武郎のタクシーの中で聴いたふたりの会話が昨日のことのように鮮やかに蘇った。
腕を組み仲睦まじいふたりの横をタクシーはなめらかなスローモーションで素通りした。
『“ピーターラビット”借りてきた!』
『えーそんなの借りたの?』
『あら、貴方のお目当てのもちゃんと借りてきたわよ、
えぇっと?
ミッションインポシブルの最新作、』
『バッカだなぁ、
もう最新作借りたのぉ?
新作はまだ借りなくていいんだよう、その一つ前のでよかったのに、』
『いいのよ、
明日は貴方の誕生日でしょう?
でも明日は私が夜勤だから、
これはささやかな私からのお誕生日プレゼント、』
ふたりは談笑で辺りの宵闇を明るませるように輝く笑顔を交わし、タロウも一緒になって巨きな臀部を左右にゆさゆさ揺らし、
それに連れて太い尻尾を振るというより、ぐるんぐるんと回転させてそれがまるで彩からはプロペラの回転のように愉快に見えた。
男のほうは胃を半分以上切り取るまでの想いを凌(しの)ぎながら、
女もまた悩み疲れ、
ストレスの限界の果て四十路にならずして閉経してしまい、若くして二度と子供の産めない身体となってしまった。
それでも尚、石持て追われるような人生を選んだその最果てでやっと得たささやかな幸せがその犬の回る尻尾の動き総(すべ)てに集約されているかのように見え、それが彩には眩しかった。
彩がそんな追想に囚われて思わず足が止まったことにも気づかずにすれ違いざま、彼女がタロウに向かって呟く低い声が幽かに彩の耳を打った。
『馬鹿ね私ったら…
懐かしくてついまた来ちゃったけど…
もうここに来たってあの森なんて無いのに…
ね?タロウ?
お母さんはお馬鹿さんね…』
彩はさながら夜気をえぐるように鋭く彼女を振り返った。
その激しい挙措に釣られるように驚いたような顔の女もまた同時に彩を振り返った。
と、彩は気がつくと彼女に向かい、思わず鋼鉄の冷感を秘めた何故か不敵な声でこう問うていた。
『…森を…知ってるんですか?
…あの森を…。
ビューティフル・ワールドへ行ったことがあるんでしょう?
…私、貴女を知っているわ』
『……』彼女の顔色が夜目にも街灯の灯下、音を立てるかと思うほど崩れ落ちるように一変するのを彩は見た。
『私、知ってるんです、
エミリーとお逢いになったんでしょう?
タクシーの中で佐武郎さんがそう言っていたわ、
ご夫妻で歩いていらっしゃるのを車中からお見かけした時…
ビューティフル・ワールドへご夫妻のうちのどちらかが来たことがあるはずだって、
佐武郎さんは曖昧にそう言ったけれど私、きっと…
あれは貴女のことだと思う、』
犬を連れた女は困惑に怯えたような眼を彩に放つと囁くように
『貴女…いったい…』
と言うと彼女は固唾を飲んで張り摘めた声を出した。
『…誰なの?』
『……』
彩は答えようとしてその答えを意識が飛んだように真っ白となって見失い、何も言えなくなってただ悲しみで濡れた瞳を宙に向けた。
マンション周辺に植樹された桜並木の花弁が風も無いのに不安な飛翔を見せ、やがては墜落してゆく運命に負けまいと足掻くように、まるで闇の中で舞う白い蝶にも酷似した動きで彩の頭上を旋回した。そしてやがて力尽きたかのように彩の足元に一片(ひとひら)だけのその花弁はあの狂おしい飛翔を見せた同じ花弁とはとても思えないほど非常に素っ気なく舞い落ちた。
桜の花弁が路面へ舞い落ちるなど当たり前のことなのに、その時の彩はそれを当たり前と感じることがどうしても出来ず、慄然としてその場にそそり立った。
彩は路面に落ちたその花弁を見て、まるで人が目の前に落下してきたかのように背筋が凍り、血の気が引いてゆくのを感じてもしかしたらもう自分は既に半分死んでいるのではないだろうか?
と疑った。
…それなのにエミリーは居ない、
彼女は目の前が真っ暗になった。
『ねぇ…貴女…もしかして……
貴女も…エミリーさんと逢ったの?』
彩の想いとは裏腹に犬連れの女の固い質問の声は遠慮がちに続く。
『……』
彩は舞い落ちた桜の花弁に視線を打ち留めにしたまま、
一条(ひとすじ)の泪を流した。
その泪は花弁の隣の渇いた路面を雨の雫のように小さく濡らした。
女はその泪を見てまるで全てを理解したかのような声を出した。
『…そう…そうなのね…?
私、初めてだわ、
彼女と逢ったことのある人と出逢ったの…
今までこのことは誰に話しても信じてくれなかったし、
あまり言うと気味悪がられてしまうから、今じゃもう…誰にも言わなくなってしまったの、
彼だけは信じてくれるけどね、
あの森へ行ったことも、
そしてあの森の涯(はて)にある館、
ビューティフル・ワールドのことも、そしてそこに棲むエミリーのことも…』
彩は耐え切れず堰を切ったようにむせび泣きながら言いつのった。
『でももう…森は無くなってしまったわ…
ここにはもう…何も無い…
まるで遠い宇宙の闇の奥へ抜け落ちてしまったかのように全てが、失われてしまったの…
それと一緒にエミリーはどこかへ消えてしまったわ…
彼女はまるでジグソーパズルの一番大切なピースのように闇の中へ森と共に消えてしまって…
だからもうすぐ完成すると思っていた大切な計画が叶えられなくなってしまったの…。
だってどうやったらエミリーとまた逢えるっていうの??
…これじゃまるで行方不明…
私はどうしたらいいのか…
…もう…解らない…!』
『行方不明…』
思わず顔を覆って肩を震わせ泣きじゃくる彩を蒼白い灯下、見つめたまま、女はふたりきりで立ち尽くす冷たい夜気の中でその冷静さを反動的に取り戻していった。
『…ねえ貴女…
このマンションの敷地内を全部、歩いたこと…ある?』
彩はまだしゃくり上げながら震える声で女の問いをおうむ返しにした。
『…敷地内…全部?』
『ええそう、全部』
と言った後で女は泣き濡れた彩のどこか少女じみた顔を見て勝手に納得するとこう言った。
『そうか、無いのね、
いいわ、
じゃあ私が案内してあげる、
ついでに貴女と少し…
話したいから…構わない?』
『……』
喉の奥に薄いグラシン紙でも貼りついたかのような異常な渇きに彩は吐き気すら感じ、咄嗟に声を出すことが出来なかったが辛うじてひとつ彼女は頷いた。
『じゃ行きましょう、
森はほとんどが無くなってしまったけど、マンションの中にある公園の隅の一角に少しだけ、
小さな木立ちとしてあの森の一部が残されている部分があるのよ、』
『公園…そこに森の一部が残されているんですか??』
やっと発することの出来た彩の声は別人のように弱々しくひび割れたように掠れていたが、彼女はエミリーへの回帰に関することならなんでもいいからすがりたかった。
『ええ、でも森の一部ということすら憚(はばか)られるほど…
なんといえばいいのかしら、
慰み程度にほんの数本あの森の木が残されているだけに過ぎないんだけど…
でも…行ってみたいでしょう?』
『……』
彩は再び声が出なくなり、指をたわめて革の手袋に包まれたこぶしを固く軋むほど握りしめた。
『迷うようなら行かないほうがいいかも…』
と女はまるで試問するかのように決して大きくはないが妙に円い眼を瞪(みは)るようにして言った。
『迷ってなんか!』
と、急に彩の声は打てば響くと言わんばかりに飛び出した。
女はほんのりと鷹揚な微笑みを浮かべるとハスキー犬が甘えたように鼻を鳴らすその前に膝まづき、犬の頭や顔周りを優しく撫でさすりながら彩を見上げると言った。
『貴女はどうやら何も知らないのね…でもね私達はある意味仲間なのよ』
『仲間?』
彩はその言葉を聴いて急に耳を打たれたような衝撃を感じた。
『ええ、そう、
だってエミリーとこの世で逢ったことのある人間はそうは数居ないっていうわ、
彼女はビューティフル・ワールドへ招く人をとても厳密に選ぶから…。』
『……』
女の言葉は水面(みなも)への投石の如く見る見る彩の中に深く大きな波紋を拡げた。
エミリーは彼女のことも愛したのだろうか?
彩は不安と嫉妬の芽生えとに激しい狼狽と立ち眩みを覚えた。
それらが沸沸と煮立つように彩の内側を焼き焦がす苦しみを懸命に抑え、平静を装ってその場に立っているだけで彼女はやっとの思いとなった。
そんな彩の心模様を露知らぬ女は
むしろ親しげな口調で彩を頻(しき)りに誘った。
『来て、
そこで貴女に是非見せたいものがあるの、』
そう言って女が誘(いざな)うように先立って歩き出し、彩はやや遅れてフラフラともつれた足取りで、その後を追った。
だが彩は女の後ろ姿を見ているうちに言いようの無い悋気(りんき)と不満とこれから見に行く森の名残への小さな期待とが、ない交ぜになり小さな乱気流が胸の内に密かに湧き起こるのを感じた。
あの暖炉の灰の中ですっかり消えかかり、ぐずぐずと燻っていた燠(おき)をエミリーが火掻き棒で突つき起こし、燠がたちまち目覚めたように黒い塊の奥で朱い炎を小さく帯びてやがてじわじわと燃え盛るのにも似て、自分の中で徐々に強度を増す蒼白く同時に紅蓮に燃え上がる外焔のようなものを彩は女に対して覚えた。
それと同時に彩はいつの間にか女に向かって吐露するように食い縛った歯と歯の隙間からこう言い放っていた。
『…でもそれは慰み程度に残されたほんの僅かな森の木なんでしょう??
私が知っている森はそんなものじゃなかったわ!』
彩の狂おしいまでに平静を努めた無理矢理なその声は別人のように低く冷たく不自然に張り詰め、
それでいて今にも切れそうな弱い末期の弦(つる)のように微弱な緊張の震えを帯びていた。
しかし女はそれには全く頓着せず、むしろ朗らかに、そしてその朗らかさにふさわしくない意外な言葉を言い放った。
『いいえ、そうじゃないわ、
それはマンションの建設工事が着工された時に森の中の地中奥深くから偶然発見されたもの…
ある女性の人骨に纏(まつ)わるものよ』
to be continued…
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