音をこぼしているとき

わたしは音をすぐ、遠くにやってしまう類の人間だ。
目の前にあるものないし頭のなかのもので感覚の器がすぐ満杯になる。そのときわたしの体はいちばんに耳からのものをこぼしてしまうのだ。仕方の無い理由として、聴力が弱いというのはあるけれど。

例えば本を読んでいるときに、人に呼ばれる。体は「はい、はい、」と口を使って答えているようだが、脳にその詳しい情報までは届いていないようで、そのときどんなやり取りをしていたか、全く記憶にないことが多い。ときには、耳を塞ぐように声の音という段階から届いていないこともある。

このような場合だとわたしは、こぼれていることにその場では気づかないが、そうでない場合があるのです。
それは、音のある何かを目にして、その派生で頭に大きなものが巡っているとき。

映画のなかの人物たちの会話が聞こえていないこと。海の前にいて波の打ち寄せる音が消えていること。
そのとき頭には考えや回想やそんなものが、ただひとつだけ、激しく、大きくあって、他の余地が無い。それは音付きなのだろうか。それについてはよくわからない。


この話をしたのは、先日、折坂悠太呪文ツアーの大阪公演を観に行ったときに見た、ひとつの演出について書きたかったからだ。

アルバム『呪文』収録の『無言』という曲が演奏される。
「悪いことがまた起きる時のために手紙を書いている」曲中その文言が最初に出てきた後、折坂くんはアコギをそのまま掻く、ゆったりとしたテンポ。徐々に、あたりをそのとき生き物に近い空気のような音たちが押し寄せて、ギターの音はのまれ、完全に消えてしまう。折坂くんの手はなおギターを弾き続けている、音は聞こえていないのに。
は、と気がつくと、生き物のようなその大きな他の音のうねりにギターの音が混じって、また戻ってきている。

こういう演出。その意図をわたしは知らないけれど、わたしは先程述べたような、音をこぼしてしまう時と同じ状況に置かされたという考えをした。
手紙を書くとき、頭のなかにはものをよほど大きく浮かべている。あなたと何年も前に過ごしたあの夏、今わたしが住むアパートの匂い、そいいうものがゆるゆると境界線をなくしながら頭のなかに渦巻く。あなたに伝えるために書くこと、川縁に座っていたとしても、音は、聞こえていないだろう。
「君に手紙を書いている」その言葉が折坂くんから放たれたあと、数秒わたしの頭は手紙を書いているときだった。大きく押し寄せた、ギターとリズム(ベース、ドラム)以外の音は、頭の中の、柔らかいが密度の高いうねりの音だった。

手紙を書く、というとても個人的なことを、演出によって疑似的に現した(重ねて言うが個人の感想として)彼に、その繊細な日々の編み様に、そしてこのライブと曲たちに、わたしは遠くからでもお辞儀をしたい。

あるいは呪文によって起こされた、空間の曖昧さだったのかもしれない。
何も、大丈夫ではない、今日を過ごすということに僅かな体力を直接注いでいるような、懸命な日々に、願いなどかける余分もないようなものものでなんとか形を保っている社会に、それでも何か願うのであれば。
そのときの一本の光の糸のような願いと決死の呪文、生き物はこの世界の線を歪め、しなやかに曲線を描くことはできるだろうか。

こんなにも待ち侘びた秋が訪れたこの頃。

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