【青森県深浦町】日本海を望む「賽の河原」の絶景と消えゆく信仰
※今回紹介する場所は現在十分に整備されている場所とは言い難い状態です。経緯と現状を紹介したいと強く思った為に記事にしていますが、当記事は来訪をおすすめするものではありません
北東北、特に青森県内には「賽の河原」の名を関する地名が数多くある。
青森県内だけでも以前資料館を紹介した八甲田山行軍遭難事故の現場や、イタコで有名な五所川原市にある賽の河原地蔵尊、恐山の中にも賽の河原の名を冠する場所がある。
これについて、以前南祖坊について調べている際にお邪魔した青森県八戸市にある普賢院 の住職の方曰く「元々飢饉の多かった青森では乳児の死亡率が高く(口減しなどもあったのだろうが、栄養状態が悪いと母乳が出ないためにそれで命を落とすことも多かったのではないかとの話だった)、それが青森県内の各地に広がる地蔵信仰につながったのではないか」とのことであった。
そんな青森県各地の賽の河原の1つが、秋田県とも程近い青森県南西部の町である深浦町にある賽の河原だ。
深浦町を含む青森県の日本海側や秋田県などの海沿いは、グリーンタフと呼ばれる海底火山の活動でできた凝灰岩の一種の地層が広がっている。日本海側のこれら地域の海岸が岩石に覆われているのは、このグリーンタフによるものらしい。
千畳敷や不老ふ死温泉に代表されるように、深浦町はこの岩がプレート運動や波による侵食で削られ、隆起して生まれた奇岩が様々な場所で見られる。
そんな深浦町の奇岩を望む名所の1つが森山海岸だ。
森山海岸は海沿いの集落を抜けた先にある小さな場所なのだが、この辺りは波による侵食で生まれた海蝕洞が点在している。以前は観光船が出ていたり、一部の民宿で小舟を出してくれたりして海蝕洞のすぐ近くまで行けたようだ。
現在これらの海蝕洞に近づくことは非常に難しいが、かつて海蝕洞は地元の人々の信仰の場所であった。そんな海蝕洞の1つであるガンガラ穴のあるガンガラ岩の上にあるのが、今回紹介する深浦町の賽の河原だ。
賽の河原があるのは小高い丘を登った先である。駐車場に車を停め、10分ほどかけて登っていく。
駐車場がある丘の麓には地蔵尊があり、恐山などを開いたと開いたと伝えられている慈覚大師 円仁がここを開いたという伝承がある。
階段を登った先にあるのが賽の河原なのだが、この階段がなかなかに険しい。というか、最近はあまり整備されていないらしく階段自体が大きく歪んでいたり、手すりが壊れていたりする部分も見られる。
賽の河原への道中の分岐に名前のある日和見山は、かつてこの辺りが北前船の停泊地として栄えた時代に沖の天気を見るために登って確認した場所だと伝わっており、深浦町の史跡にも登録されている。
また、この近くでは以前ダム工事用の道路を建設する際の工事で遺跡が発見されているのだが、この遺跡も日和見山遺跡の名がつけられている。
最初に書いた通りに賽の河原と名のつく場所は数多いが、このように海に面している場所は珍しい。
この日は晴天であり海も凪いでいた為に穏やかで美しい日本海を望むことができたが、特に冬は凄まじい風雪が叩きつけ、まさに彼岸と此岸の狭間のような景色が広がるのだという。
賽の河原を歩いていると、ボロボロに朽ちかけた小さな祠があった。
この祠は10年ほど前までは屋根がついていたのだが、ここ数年の間に吹き荒ぶ風で飛ばされ、そのままになってしまっているらしい。
とはいえ供えられているものの様子などを見るに、今でも定期的に訪れる人がいるようだ。
また、祠のすぐ裏には慰霊碑がある。
慰霊碑によると今から60年ほど前のこの森山海岸にて、現在の藤崎町にあった若松小学校 (現在は統合により廃校)の学校行事で水難事故が発生し、2名の命が失われたのだという。
かつて賽の河原では、8月24日と25日に例題祭が行われていた。当時は出店があったりイタコによる口寄せなども行われていたりしたらしいのだが、深浦町の観光課の方によると2007年か2008年ごろを最後に行われなくなってしまい、今後も恐らく行われる予定もないという。
現在は地元の有志の方による整備が行われるのみで、遠からず完全に忘れ去られてしまうのかもしれない。
改めて書くが、現在賽の河原周辺の階段や手すりなどは劣化が進んでおり、更に岩場の断崖となっていることや過去に海難事故が起きており離岸流などの恐れもあることから当記事ははこの場所の来訪を勧めるものではない。
しかし今まさに消えゆく伝承や信仰の1つとして、この場所の存在を知って欲しく思えたため記事として公開した。
戦後に水子供養が悪徳商法に利用されたことにより、こういった幼くして死んだ子供の冥福を祈る信仰そのものが近年捏造されたものだと思われることも珍しくない。しかし青森県内各地の「賽の河原」に代表されるように、そういった伝承や信仰は確かに存在していた。
その信仰が今まさに消えゆくものだとしても、確かにかつて存在したものがあったことを伝えていかなければ、それが誤解されたり酷い場合は悪意ある形で利用されてしまったりすることさえありえる。
微力ながらも当ブログが、こういった記録を伝えていく一助になれば幸いである。