命の別名 ~存在するものへの語り~
中島みゆきに「命の別名」という歌がある。
聴く人の心を強く揺さぶる。
周知のことだがこの曲は知的障害者への虐待をテーマにしたドラマのために作られた。
「知的障害」という呼称はすでに現代社会において広く認知された福祉・教育用語である。
かつて「知恵遅れ」というとてもわかりやすい言葉があったが、
「精神薄弱」という制度上の用語が差別的、蔑視感情があるという理由で法改正されたことに合わせて時代の隅に取り残された。
差別とは呼称の属性ではなく人の認識の形態である。
「遅れる」ことに負の烙印を押すのは優劣を至上とする社会であり、変わるべきはその社会を作る一人ひとりであることを理解しない限り、排除という社会構造がなくなることはない。
障害は次々と新たな概念に分類され、専門化をたどる用語や技術と共に対人援助が市場に飲み込まれていく潮流にはもはや抗うことはできない。
『この歌は知的障害者のことを歌っているように見えて、実は私たち健常者にも当てはまることを中島みゆきは伝えている』
という内容のブログが一つの典型としてネット上に散見される。
何を歌っているかは、受け取る側が何を感じるかである
作り手の魂を孕んだ言葉との感応である。
いったい知的障害者とはどこに存在するのか?
健常者とは何をもって健常者と自らを名乗り得るのか?
「知的障害」という呼称にどのような意味を付加するかは
それぞれの人の「在り方」である。
「遅れる」という在り方はどういうことなのか?
「遅れていないこと、遅れていること」
その違いの存在論的な意味は何か?
これは人が生を受け、老いて病み、そして死んでいくことと同義の主題である。
そして生きること死ぬことは文学という言語表現により伝えられる。
だからこそ「命の別名」は一編の詩として
人の心を大きく揺り動かし、人を存在の奥深くに広がる無窮の地平へといざなう。
ここには障害や健常などというあまりにも些末な眼差しなど皆無である。
幾千年もの齢を重ねる樹、悠久の時を刻んだ苔むす石、
あるいは大地を空を海を満たし幾憶年もの星霜を巡り経た水。
それらあまたの命との共鳴の中で、人の健常性など何ほどのものであろう?
ある批評家が
「この歌は酒鬼薔薇聖斗のことを歌ったのではないか」
と書いていると仄聞した。
然らば、問うてみよ。
酒鬼薔薇聖斗と私を分かつものは何か?
あるいは植松聖、吊るされた麻原彰晃らと私とを隔てるものはどこにあるのか?
自己の奥に潜む漆黒の深淵をのぞき込むがよい。
全ての存在者は何ぴとでもあり得た、いや、遍く石や樹や水としてあり得た。
私もあなたもすべての人は名もなき存在者である。
「名」とは記号に過ぎず、「存在」に名前などない。
いつの時代にあってか、私は彼であった
いつの時代においてか、あなたもまた彼となる。
いみじくも「さるべき業縁のもようさば、いかなるふるまいもすべし」とは
親鸞の言葉である。
繰り返す悲しみは全ての存在者から溢れ落ち
繰り返す過ちとは全ての存在者の宿痾である
奇しくも植松聖は「心失者」という表現を用いた。
しかし、省みるがいい
出生前検診によって命を選別しているのは誰か?
「命につく名前を心と呼ぶ」
《植松さん、ならば、心失者とは何を言うのか?
有限の時間の中で向き合って下さい
あなたの生死がいかなるものであろうと
あなたの過ちと悲しみもまた、
あなた同様全ての名もなき心によってかざされ、照らされているのだから》
と、語りかけたい。
否、これは自分自身への語りである。
全て、存在するものへの語りである。
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