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『芭蕉通夜舟』

随分月が綺麗だなあと思ったら十三夜だった。あまりに満たされて自分でも不思議なくらい足取りかるく帰ってきた。

十月十五日、こまつ座『芭蕉通夜舟』を観劇し朝からの腹痛もどこへやら(昼に飲んだ鎮痛剤のおかげやも)憑き物が落ちたようにすっきりしている。

井上ひさしの脚本に舌を巻いた。
内野聖陽さん演じる芭蕉に好感をもち、進むにつれ惹き込まれた。
ちっとも知らない俳諧の世界に足を踏み入れたような気になれる。
それこそ、自分に何か俳諧や芭蕉のエッセンスがしみ入るような心地がする。

目の前のひとに、ことばに、音に、文字に、動きにひたすら目を凝らし耳をすまして過ごす百分間の、無心で何かを貪り尽くすような感覚。
普段あっちこっちに跳ねる意識を舞台の上ひとつに集約していく重みで、地に足をつけてしっかり立てるような気になる。

無用の用、絵空事にすべてをかける
ときめいていた過去ともう滅ぶしかない未来とを同時に匂わせるのだ、という芭蕉の台詞。
俳諧があらわれてようやく、庶民は感情をのせる器を手に入れた。もし俳諧を高尚なものにしようとするならば、それは庶民から器を取り上げてしまうということだ、という西行からの忠告。

あらゆる台詞にはっとして、でも一度聞いただけでは色々なものが自分からこぼれ落ちてしまっているようで、近く図書館で全集を借りて改めて確かめたい。
俳諧、芸術、目に映るもの生きること生きていること。

こんな経験はきっとなかなか出来るものではないから、しあわせな観劇の記憶としてとりあえずここにも残しておく。

帰路目に入った月が妙に綺麗だった。舞台で見た月が自然と浮かんだ。
芭蕉は十三夜を眺めたらどんなふうに句を詠んだだろうと思って調べたら、しっかりと残っていた。

木曽の痩もまだなほらぬに後の月

うつくしいものの余韻が残ったまま迎えるまたもうつくしいものに感じ入る幸福を私は味わっている。
三百五十年前に思いを馳せて、少しつながった気がした。

観劇前の栗釜飯

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