巫蠱(ふこ)第二十一巻【小説】
▼赤泉院④
いや、水たまりでなく小さな泉だろうか。
というのも、水面から人のあたまが現れたから。
少なくとも首から下の胴体を隠す程度の深さはあるらしい。
出て来た顔は口を天に向け全開にして過呼吸の音を繰り返した。
かぼそく切れ切れに「瞑想記録……更新」とも聞こえた。
▼赤泉院蓍と桃西社睡眠⑤
言うまでもなく、泉に入っていたその人物が筆頭巫女の赤泉院蓍である。
彼女は睡眠に引っ張り出され、シズカたちの座す部屋の隣室に連れていかれた。
ややあって、衣装などを整えた蓍が縁側をとおって顔を出す。
「悪いね。緊張して思わず逃げた」
まだ息が乱れている。
▼茶々利シズカと桃西社睡眠①
ついで蓍のあとから睡眠が姿を見せる。
「茶々利シズカ」
睡眠は蓍の肩に手を乗せてその動きを制しながらシズカの目を見た。
「十我によると、あなたが人質とか。脅迫や拘束はしません。筆頭巫女とは一定の距離を保ち、言葉は最低限の返答のみでお願いします」
「はい」
▼茶々利シズカと桃西社鯨歯④
座布団から立ち上がり後退するシズカ。
ここで、部屋の入り口に控えていた鯨歯がその座布団を拾う。
ある程度、後ろにさがったシズカが畳の上に正座しようとした瞬間、彼と畳とのあいだに座布団をすべりこませる鯨歯であった。
シズカは座布団の上に落ち着き、黙礼した。
▼赤泉院蓍と桃西社鯨歯⑱
「で、鯨歯」
睡眠の片腕にもたれかかり、蓍が声を出す。
「おまえも人質になるらしいけど、どうすんの」
「大丈夫です筆頭」
鯨歯は大きく胸をそらした。
「客人がたが危なくなったら、わたしがわたしを始末します」
「それをどう信じさせる」
「シズカさんなら分かると思います」
▼茶々利シズカと桃西社鯨歯⑤
鯨歯はしゃがんでシズカと目を合わせた。
口角をあげずに笑顔を作る。その目は据わっている。
「シズカさんってこちらの言ったことをあっさり受け容れすぎなんですよ。
「信用できない相手に対して。
「でもこれ無警戒のせいじゃなくて……人の腹の底、分かるからでしょ」
▼茶々利シズカと桃西社鯨歯⑥
「嘘をついたか推測できる程度だ」
「すごいですよ。当てずっぽうのわたしと違って。あなたならこちらの本気も見抜いてくれますね」
「ああ」
「ありがとうございます。……シズカさんはわたしの身の上話も疑わず聞いてくれました。
「いのちを懸けるには充分すぎますよね」
▼茶々利シズカと桃西社鯨歯⑦
見つめられつつもシズカは鯨歯を分析する。
(不充分。不充分なんだよ、それは。
(たかが話に耳を傾けてもらっただけで、いのちを懸けようなんて思うものか。
(彼女の覚悟は最初から疑いなかった。俺たちを特別視する理由もない。
(つまり鯨歯は誰に対しても、こうなんだ)
▼草笠クシロと赤泉院蓍①
シズカと鯨歯のやりとりにうなずいて、蓍が畳にひざをつく。
「あいさつが後れて申し訳ない。わたしが赤泉院蓍だ」
彼女はシズカでなく草笠クシロを見た。
クシロは姿勢を正してあいさつを返したあと、あたまをさげた。
「このたびは我々を受け容れてくださり感謝します」
▼草笠クシロと赤泉院蓍②
「薄暗くなってきたし」
首を回し、蓍はそとの景色を確認する。
「話すのはあしたにしようか。
「きょうはふたりともうちで休んで。それぞれ個室を貸すから」
「重ねてお礼を」
「クシロ、客人ならもっと図々しく。
「それとひとつ聞いとくけど、おまえら善知鳥に言われて来たの?」
▼草笠クシロ⑤
蓍にたずねられたクシロは一瞬シズカのほうに目を向けた。
シズカは首を少し縦に振る。
その合図を受け、答えるクシロ。
「あなたの言う人物かは分かりませんが善知鳥は我々の上司です。
「ここを訪れる前、一緒に話し合いました。
「訪問を提案したのはシズカさんですが」
▼赤泉院蓍⑯
「なるほどな……
(善知鳥の指示じゃないなら御天と戦争と巫蠱が終わりかけているとまでは気付かれていない。
(雲なき雨と皇を同日に見たとシズカが訴えたってところか。
(そしてわたしと面識があることを少なくとも善知鳥はクシロに話さなかったな)
「……ありがと」
▼茶々利シズカと草笠クシロ⑭
あくびを二三回連続させる蓍と鯨歯を残し、客人ふたりはその部屋を出る。
個室に案内される途中の廊下でシズカはクシロに一言だけ伝えた。
クシロはそれを心で復唱する。
(俺の顔色をうかがうな)
声は案内役の睡眠にも聞こえたはずだが、とがめられることはなかった。
▼赤泉院身身乎⑥
ところで、いま蓍と鯨歯のいるその部屋にはふたつの隣室があった。
ひとつは蓍が衣装などを整えた場所。
そして、もうひとつの空間。そこに人がひとり潜んでいた。
蓍たちと客人らの様子を隙間からずっと観察していた彼女が、仕切りを動かし息をつく。
「さて、蓍姉様」
▼赤泉院蓍と身身乎⑨
「おまえはあのふたりをどう思う」
そんな蓍の問いに対し、見解を述べる身身乎。
「茶々利シズカは厄介です。彼は人を死ぬほど見てきた人間ですね。
「おそらく鯨歯の本質も見抜かれています」
「もうひとりは」
「善良ですが愚かではありません」
「わたしも好感を持った」
▼赤泉院身身乎と桃西社鯨歯④
「問題は鯨歯のいのちと彼等の脅威度、どちらが重いか」
身身乎は一瞥した。
座布団二枚を下敷きに横たわる長身の彼女を。
自分の話題に移ったのに気付いた当人は、そのままの姿勢で意見する。
「三女さん、わたしも利用価値で計量してください。
「いのちは比べられません」
▼赤泉院身身乎⑦
「確かに、ずるい表現でした。
「問題は人質のあなたを代償に客人ふたりを始末する必要があるか。
「たとえば向こうが『いま巫蠱は安泰か』と質問する。蓍姉様は『安泰だ』と答える。
「しかし茶々利は嘘を看破するでしょう。
「そのときは犠牲を厭わず、彼等を生かして帰さない」
▼巫女たち⑧
客人への対応について話を詰める三人。
「シズカさんを別室に待機させるのは」と鯨歯。
「それだと重大なことを隠していると勘付かれる」と蓍。
「なにごともなく帰ってもらうのが一番です」と身身乎。
結果、危険な話題が飛んでこないよう蓍が会話を誘導することになった。
▼草笠クシロと桃西社鯨歯①
……また夜が明ける。
目元に朝の光が当たり、彼は目覚める。
シズカとは別の個室で眠っていたことを思い出しながらクシロは自身の手足を伸ばした。
ここで部屋の戸がたたかれる。
彼はゆっくりそれをあける。
見ると、廊下に鯨歯が立っていた。
「おはようございます」
▼桃西社鯨歯⑨
クシロは鯨歯についていく。
案内された部屋は、きのう蓍と話した場所。
「空気の入れ換えは大切です」
そとに続く戸を鯨歯があける。泉が、みえる。
そして彼女は両手で自分の首をつかんだ。
右手は前を、左手はうなじを押さえている。
「よし、これなら大丈夫でしょう」
▼赤泉院蓍と桃西社鯨歯⑲
そのとき、あくびをしつつ蓍が部屋に入ってきた。
「おはようクシロ。鯨歯も」
声をかけられたふたりは、あいさつを返す。
蓍は目を細める。
自分自身の首を両手で押さえる鯨歯に気付いたからだ。
「そうでもしなきゃ自分を始末しようとしても睡眠にとめられるってわけか」
▼茶々利シズカと桃西社睡眠②
「さすがに、とめられないね」
そう言いながら姿を見せたのは当の睡眠であった。
後ろにはシズカが立っている。
彼女に連れて来られたらしい。
「茶々利シズカ、部屋のすみに」という言葉に彼は従い、指示通りの場所に移動する。
隣には睡眠がぴたりとくっついている。
▼之墓簪⑤
各自が座布団に腰をおろしたところで部屋に食事が運ばれてきた。
それを持ってきたのも巫蠱のひとり。
手のふさがった鯨歯の口元に箸を持っていきながら彼女は言う。
「お客さんたちは館と会ったの。ほら、絵をかくのが好きな。
「わたしは簪。あの子のお姉ちゃんだね」
▼草笠クシロと赤泉院蓍③
食事の合間に蓍がたずねる。
「クシロは熟睡できた? 昨晩に限らず十我の家でも」
「おかげさまで」
「メシは」
「ありがたくいただいています」
「マジか」
「どういう意味です」
「わたしたち、得体が知れないだろ。毒を盛られるとか寝込みを襲われるとか警戒するのが普通では」
▼草笠クシロ⑥
(シズカさんが警戒するそぶりを見せなかったので)とクシロは答えようとした。
が、やめた。
きのう本人に、俺の顔色をうかがうなと言われたからだ。
他人がどうこうではない。
自分の思いを伝えるべきだ。
「みずから訪ねた客人が、先方を信頼するのは当然の礼儀です」
(つづく)
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