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「悟りを目的に生きるしかない」と腹に落ちた日の話
いやいや、突然何の話ですか、という感じですが。
ちょうど11月の頭ぐらいに、不意に
ああ、もう自分は悟りを目的に生きるしかないんだ
と、すとんと納得してしまい、そこから2週間ぐらい過ごしているのですが、自分の人生でまさかそんな風に思いながら生きる日が来るとは思いもしませんでしたよ。
たぶん、家族も会社の人にも変わったとは思われてないと思いますが、自分の在り方はのそのそと変わりつつある気がしています。
「悟りを目指すというのは、どういうことですか?」と聞かれることも無いと思うので自分で書くのですが、特定の宗教に入るとか、そういうことではないです。
ただただ、解放を目指す。
悟りを意味する「モクシャ」という言葉は、もともと「解放」「自由」「放免」といった意味も含むようなのですが。
解放というからには、何かに束縛されている、囚われているわけです。
お釈迦様は、自分の子どもをラーフラ(束縛する者)と名づけます。
家族の愛や子どもすら、自分を束縛するものです。
ただ、それを切って捨てることが解放か?悟りか?と言われると、それもまた違うような気がします。「解放」という概念に束縛されている気がします。
そこで、古代インド(お釈迦様もインドの人ですね)は上手いこと考えました。
人生を4つの期間に区切って、あるときは勉強に励み、またある時は家族に尽くし、悟りたいならそれから悟ればいいじゃないか。
それが四住期(アーシュラマ)という考え方です。
この考え方に立つと、一生懸命働いて、仕事をしたり子育てをしたり、家族の安寧を守るのも、悟りの道の一つです。
ただ、そこに束縛されてはいけない。子どもはいずれ家を離れるし、仕事もいずれ辞める日が来ます。
「それではなんのために働き、子を育てるのだ?」という問いが湧くとしたら、それは究極には「いずれ死ぬのなら、なぜ生きるのだ?」という問いに行きつきます。
それでも答えは同じです。自分はいずれ自分を離れるし、自分を辞める日が来ます。
だから、自分自身についてさえ、束縛されてはいけない。
それでも「生きている」という事実自体は残ります。
何事も思うようにならないし、物事はいろんな形に変化するし、頼りになる明確なものもないけれど、生きている。
それが「諸行無常・諸法無我・一切皆苦」の三相です。
ただ、「生きているとは、そういうものなのだ」とありのままに捉えることが「涅槃寂静」への入り口であり、四法印に至る道です。
その辺りが整理できてきたので、囚われずに生きるという解放を目指しながらも、目の前の家族や仕事を大切にし、世の中のために役立つように生きていくということが、自分の中で矛盾なく統合されるようになりました。
妻も娘も大好きですし、とても大事な存在で、失ったらひどく落ち込むし、嘆き悲しむと思いますが、それでも無常であり、無我です。
「そこに一切囚われていない」とは口が裂けても言えませんが、「とても大切な存在であり、同時に束縛である」と捉えた方が自分にとってはしっくり来る。おそらくそれが自分にとっての「世界を正しく見る見方」「解放された世界との関わり方」につながると感じています。
2024年という時代に、ピュアに(?)悟り=解放を目指していますという人がどのぐらいいるか分かりませんが、それはそれで自分にとっては大事な気づきであり変化でしたので、書き残してみました。
ちなみに3年ほど前、「ビジネス」と「悟り」を結びつけて書いた記事があるのですが。
内容は悪くないものの、今から見ると「ビジネス」と「悟り」を分けようとし過ぎてて、めちゃくちゃ囚われてるな!と感じます。
今日のこの文章も、何年後かに読み返した時に「あの頃はまだまだ分かってなかったな」と思えるようになっていることを願いつつ。
これからも家庭も仕事も頑張りつつ楽しんで過ごしていきますが、同時に片方の目は悟り=解放=モクシャを見据えて過ごしていこうと思います。