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路地裏ダイアローグ
なあ聞いてくれよ
また1人、俺の周りから人が離れた
家族、友人、恋人、次から次へと消えていく
…俺が精神障碍者だからか?
色々とやらかしちまったからか?
そりゃそうか…
嫌われても当然か…
夜更けの路地裏の一番奥にある居酒屋の立ち飲み席で、とある中年男性の愚痴が唐突に始まった。
独り言にしてはハッキリとした活舌だった。そこにいる誰もが容易に聞き取れるほどの声量だった。
男性はかなり酔いが回っているらしい。上半身はグラグラとバランスを崩して揺れていた。グラスを掴もうとして手元が定まらず椅子からずり落ちそうになり、周りは迷惑そうに眉をひそめていた。
よくある見慣れた光景のはずだった。
その時だれかが答えた。
「ちがう!」
低いがよく通るその声に周囲の雑音が少し静まった。
僕は向かい側の角の席に座って黙々と焼酎を飲んでいる男に目を向けた。
「好きとか嫌いとかじゃなくて本能なんだよ。」
ボサボサの頭でくもった眼鏡をかけてシワシワのコートを引っ掛けた男が口を開いた。
なんだ?どういう意味だ?と僕は男に注目した。
「人間ってのは、元から理解できない異質なものを排除したがる動物なのさ。そこら辺は野山にいる生き物と変わんねえ。一見人間らしく見える、好きとか嫌いの感情の向こう側には、恐怖っていう本能がちゃんとある。生存するために絶対に必要な本能ってやつがね。」
身なりはみすぼらしいが男の両眼は、眼鏡の奥から真っ直ぐに相手の眼を射抜くような光を放っていた。
知性的でかつ野生的な光だった。
「だいたいなあ…」
とグラスを置いて男は続ける。古びた上着の袖口から、風貌に全く似つかわしくない洒落た時計がチラリと顔をのぞかせたのを僕は見逃さなかった。
「仮に、あくまで仮だ。内部疾患みたいなものがあっても、おまえさんの障害とおまえさんという人格は全く関係がない。偏見や差別によって性格は歪むかもしれん。だが性格と人格は別物だ。そこんとこを履き違えるからそういう思考にハマっていくんだよ。人間のアイデンティティはそこじゃないだろ。」
なるほど。それは一理あると僕は納得した。
嘆いていた男性は意表をつかれて呆然としている。
店の灯りが不規則に点滅しだしたのでおかみさんが洗い物をしながら、あらもう寿命かしら、いやあね。と電灯を見上げた。
呆気に取られていた中年男性は、我に返ったのか急に拳を振り上げて主張し出した。
「お、おれはっ!し、障害のせいで仕事も金もなくなるし、それでも自分にだけは負けちゃあ終わりだって、必死にろくに寝ないで非正規で働いてたんだ。だけどすぐに会社都合で切られちまって、助けてくれる知人もいなくて人生詰んで行き場所なくて、もう、窒息しそうなんだ!世の中不景気で、一部の奴らだけ贅沢の限りを尽くしていてさ、その反動で弱者から落っこちて、汚れた真っ黒な沼地に沈んじまってよお、あがいてもあがいても抜けだせない。この世に平等なんかない。スタートから既に差は歴然だった!もうおれには吸える空気がない気がして窒息寸前なんだ!あんたなんかに何がわかる。」
すると鋭い眼光の男は答えた。
「俺にはわかんねえよ、人の病気なんか知らねえよ。社会の格差や不平等だなんて今に始まったことじゃないだろ。 だけどよおまえさん、被害者ですこの国の社会が教育が、政治が犯人ですって看板下げたまま一生この先の道のりを歩いていくつもりなのか?
だったらそんなもん自我の消滅だろ。家族なんて俺に言わせたら、そんなもん幻想だ、まぼろしだよ。他人より当てにならないもんさ。去っていくやつを追うんじゃねえ。互いに縁がなかったとさっさと諦めるんだ。」
「でもそんな風に中々割り切れないのが家族の絆ってもんじゃないですかね。人情ってやつじゃないですかね。人間はだれしも一人じゃ生きていけないじゃないですか。」
僕までつい唐突に切り出してしまった。
我慢ができなかった。僕には身体障碍者の姉がいる。しかも母親は鬱病でもう何年も笑顔を見せていない。
「兄さんよお、ずいぶんとぬるま湯みたいな居場所につかってきたんだなあ。」
そう言われて反射的に僕は思わず立ち上がってしまった。
何も知らないくせに!
立った勢いで倒したハイボールのグラスが派手に音を立てて割れた。
それを見てニヤニヤしている男の顔をにらみつけ、その眼が全然笑っていないことをいっそう不快に感じた。
周りの人がこぼれて広がった氷や酒やグラスの破片をあわててよける。
あらあら、まぁ何やってんのよもうしょうがないわねえ、とおかみさんが素早く布巾と箒とちりとりを持ってきた。 おかみさんは嫌な顔ひとつせずに「大丈夫ですからね。」とあっという間にきれいに片つけて、僕に新しいおしぼりを笑顔で手渡してくれた。波だった僕の感情はおかみさんのやさしさに半分救われた気持ちがした。
男は続けた。
「去っていったやつは、仮に去らなかったとしたってどうせ最後は裏切るんだ。だったら今消えた方が楽でいい。集団に合わない人間は無理に自分を偽らなきゃならないだろ?そうやって尖った部分を削りながらまあるく、小さくなっていくんだ。でもそんなもんは続かないし、続いたところでそれも偽物、自我の消滅じゃないか。大事なのは今のその歪な形のままで自分を生きる、これしかないんだよ。誰かのわき役じゃないんだ。誰にも、他の誰にも主役のあんたの代役なんかできやしないんだよ。」
そう言い切って「かみさん、勘定!」と言いながらポケットから皺くちゃな紙幣を数枚台に置いて、ボサボサ頭の演説男は出て行ってしまった。
その時、一瞬頭の中にある既視感が閃光のようによぎった。
僕は慌てて勘定を支払ってから、コートを引っ掴み彼を追いかけた。
歩く速度が半端ない。
僕は全速力で半ば走るように追いかけた。
「あの!すいません!ちょっと待ってください!」
人並みをかきわけ、行き先を阻むようにしてやっと追いついて彼の前に回り込む。その時には、僕の息は切れそうだった。
「なんか用か?」
深夜営業のドラッグストアのライトに照らされて顕になった彼の顔を見て僕はかたまった。
こんな奇跡のような偶然があるだろうか。
「もしかして浅田さん?あの浅田竜次監督ですか?」
「なんだよ忙しいんだよどいてくんない?」
間近で顔を見、声を聞いて僕は確信した。
やはり、世界的に有名な映画監督の浅田竜次だ!
僕は興奮して叫ぶように言った。
「あ、あのすっごい尊敬してます。僕映画大好きで、監督の映画大好きで!あなたの初期の作品に死ぬほど心えぐられて感動しちゃって。大学やめて公務員の道に進むのもやめて劇団に入って、今役者志望なんですよ。」
「ふうん、そうか、まあがんばれよ。」
と初めて笑顔を浮かべて監督は握手をしてくれた。すると、後ろに中年男性がひょっこりと姿を現した。
あ!さっきの男性だ。あの格差社会グダまき男が人懐っこい笑顔で「いやあ、先ほどは失礼しました。」と言って頭を下げた。
「こいつ、うちの映画のキャストでな、さっきのはセリフなんだよ。無論映画のじゃない、アドリブでさ、周りは迷惑だっただろうけどな。」
そう言ってまたニヤッと笑って監督と中年男性は二人連れだって去っていこうとする。
浅田監督は自身が主役兼監督の映画を半年後に控えていた。
「毎回監督の映画のオーディション受けてます、いつか絶対合格します!」
「おう、がんばれよ。」
手を振って街に吸い込まれていく二人の背中を、僕は熱い気持ちでいつまでも眺めていた。
真っ黒な天から羽のようなものがひらひらと舞い降りてきた。初雪。群衆と賑わしかった路地裏の界隈もようやく雪と共に眠りの支度を始めだす。希望をはらんだ明日のために。街からは、ひとつまたひとつと灯りが消えていった。
完