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大田南畝という人物像を勝手に妄想
今回のLINEスタンプに大田南畝(おおたなんぽ)による「なんぽだった?」を入れました。
正直、あまり使用頻度はないでしょうね・・・まぁいいか。
本当は、なんぼだった?って金額を聞くスタンプの方が使う機会があるかなって思ったのですが、このお方はあまりそういうことを言うタイプじゃないなと想像して、単に名前を文字ったスタンプにしました。
大田南畝という人物。もともとは新宿あたりの貧しい下級武士の出だったけど、学問や文筆に秀でていたことから、15歳で内山賀邸に入門し、国学や漢詩を学んだ。1767年、当時19歳の若さで狂詩集「寝惚(ねぼけ)先生文集」を発行し、ベストセラー作家となり、天明狂歌ブームの火付け役となる。それまで上方で楽しまれていた狂歌が大衆化。ブームを牽引する四天王として活躍。
この頃は重商主義の経済政策によって景気がよかった田沼時代。南畝は、観月会を開いたり、黄表紙の評論をしたり。勘定組頭に登用された土山宗次郎より経済的援助を得るようになると、吉原の遊女を妾とするなど豪遊しまくる。
しかし1787年に始まる、松平氏の寛政の改革により、幕府の取り締まりが強化され、土山宗次郎は公金横領の罪で斬首。南畝も政府批判をする狂歌「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」の作者として目をつけられるようになる。
狂歌をやめ、幕臣に転身。46歳で幕府の「学問吟味登科済」を主席合格し、支配勘定、大坂銅座、長崎奉行所、玉川巡視などの公職に着きながら、さまざまな随筆を残す。その間にも蜀山人の号で狂歌を再開。
晩年も幕臣の役割を果たし、登城時の転倒が元で死去。辞世の歌は、「今までは人のことだと思ふたに俺が死ぬとはこいつはたまらん」
この人どんな人なのかなって勝手に想像するに、、、根は真面目で頭の回転の速い人なんだけど、つい飲み会とかでノリノリになって羽目を外すお調子者で、結構気さくなおじちゃんだったのかなぁ・・・なんて想像しました。だって辞世の歌が、こんな軽いタッチの歌よ?若い頃にあんだけ一世風靡して持て囃されたのに、行政マンで終わる人生・・・
なんか、時代の流れに逆らわず、その時々に順応して、それなりに楽しんでた人生だったんじゃないかなと想像したら、親しみが湧いてきちゃいました。
本当は苦悩の連続だったりするのかもしれないし、あんまり納得がいってない人生だったのかもしれないし、これ以上調べ上げられてないけど、まぁ、私の中の彼はそんな親しみのある素敵なおじちゃん、ってことで!