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込み上げる寂しさと向き合うこと
昼もとっくに過ぎた頃 「お腹すいたな」とは思ったが特に何か食べたいものも浮かばないし とりあえず街を歩く
途中で足が止まった「豆花かぁ…」少し悩んだが身体はその店に吸い込まれた
以前友人親子と訪れた店だ
熱豆花 トッピングは紅豆(あずき)花生(ピーナッツ)芋圓(タロイモ団子)
豆花のトッピングと言えば決まってこれにしてしまう いつも冒険できないまま
薑汁(生姜シロップ)と迷ったが普通の糖水(オリジナルのシロップ)で
注文し終えたら以前と同じ席ついた
すぐに出された豆花 ひと口食べてそのおいしさに思わずホッとする
そして次に沸き起こる感情は思いがけず"寂しさ"だった
以前は友人と食べた豆花 今は1人で食べる豆花
同じものがなんだか違うものに見えてくる感覚だ
彼女はわたしが台湾に住み始めて最初にできた友人だが すでに駐在を終えて日本に帰国しているので今は気軽に会うことは出来ない
家族ぐるみの付き合いだったので、彼女らが台湾を去った後もこちらが一時帰国の際にはお互いの時間を捻出して会っているし、連絡もちょくちょく取っている
それなのに急に湧き出てきてしまったこの感情に戸惑いながら そして誰もいない店内の虚しさも重なり サクッと食べるはずの豆花をじっくりと味わうことになった
この店は東区(主に忠孝復興、忠孝敦化、国父紀念館付近をそう呼ぶ)と呼ばれる賑わう街の中にあるのだが、この東区には日本人にも人気の豆花店がいくつかある
そのうちこことは別の一店にわたしが台北に住んで初めて行った豆花店がある
思い返せばその時一緒に行ってくれたのも彼女だった
まだお互い妊婦だった頃の話だ
その時から ふらっと豆花を食べたり、カフェに出かけたり、ショッピングにヨガ、勉強なんかも一緒にした
娘たちの昼寝の時間だけタイミングが合ったら会う
なんてこともした
わたしにとって台湾で育児をする上で欠かせない同士だった
もちろん離れて暮らす今も同士で、まさに好朋友だ
ただ、彼女らに気軽に会える日常は今はもうない
この店一緒に来たなーとかそんなことはよくあることで、その度に浸ったりするわけではないのだが
この時はなぜか込み上げる感情を封じ込めることは難しかった
そういうことって誰しもあるだろう
例えば昔好きだった人をふとした瞬間に思い出したり 今は亡き大切な誰かへの想いだったり
人は確かに「寂しさ」と生きている
ふいに込み上げるそれは 常に内に潜んでいて いつでも出てくるタイミングを待っているのかもしれない
楽しい時は人はそれと向き合わない
だからふと息をついた時 その人にきちんと向き合ってもらえるタイミングをいつも待っているようにも思える
だけど「寂しさ」はそこに楽しさがあった証拠だ
素晴らしい時間を過ごした証
今これから刻む素晴らしい時間は 今込み上げた「寂しさ」を包み
またいつかの「寂しさ」になっていくかもしれない
そしてまた包まれて
そうやって素晴らしい時間を繰り返し生きてゆく
だからもう「寂しさ」を怖がる必要はない
豆花の優しい味がしみわたる中でそんなことを考えた日