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当事者として優生思想に思うこと
きっかけ
先日、いつも通りTwitter(現X)を見ていたら、精神科医によるとある投稿を見かけた。精神疾患当事者の方が挙児希望を述べている投稿を引用し、様々な懸念点を連ねた上で「熟考を」と言ったものだった。
私はこの投稿は倫理的に非常に問題があると思った。しかし当事者への影響が計り知れないため、ここでは直接引用しない。今回はこの投稿から連想したことを記事にしていきたいと思う。
投稿の問題点
件の投稿の問題点はいくつかある。まず、主治医がいるはずであろう当事者に対し、精神科医を名乗って勝手にアドバイスをしたことだ。次に、精神疾患のある人が妊娠・出産する際の懸念点のみ伝え、相談窓口などを紹介しないことだ。そして最後に、特定の属性(精神疾患や年齢層)をもってして妊娠を「熟考」するように促すという、性と生殖に関する健康と権利=リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(以下、SRHR)(出典:公益財団法人 JOICFP)を侵害しかねないものであった。さらにこれは優生思想にもつながりかねないことであると私は思う。したがって、ここでは主に優生思想について論じたい。
優生思想・優生学と断種政策
優生学は、1883年にイギリスのフランシス・ゴルトンが提唱した。「優生学は主に『適者』と『不適者』を二分し、より質が高いとされる人々の生殖を最大化することを目指すものと、より質が低いとされる人々の生殖を最小化することを目指すもののいずれか、あるいはその両方である。」(出典:第3編 諸外国における優生学・優生運動の歴史と断種等施策)こうした優生学は世界各地に広まり、各国での断種法やユダヤ人迫害などにつながったとされる。
日本もその影響を受け、1940年に国民優生法、1948年6月に旧優生保護法が成立した。(出典:第2章 旧優生保護法の制定過程)後に様々な批判によって、1996年になってようやく優生保護法は母体保護法に改められた。(出典:第5章 優生保護法から母体保護法へ)
なお、日本における優生思想とは、「障害者が生まれないようにすること(=優生学)だけでなく、障害者を殺すこと、さらには障害者を社会の至る所から排除すること、それらをまとめて表現する」そう。(出典:第3編 諸外国における優生学・優生運動の歴史と断種等施策)つまり、旧優生保護法が存在した時代の言葉を借りて表現すれば「特定の属性を劣っているとみなし、その劣っている人々を排除する」という考えが優生思想となりうるだろう。
これより、旧優生保護法は優生学や優生思想に基づく法律であったが、優生学や優生思想の全てを具現化しものではなく、優生学や優生思想そのものは優生保護法よりも幅広い概念であると私は理解している。
旧優生保護法下の人権侵害
旧優生保護法の制定によって、日本各地の保健所では優生相談が行われ、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」として法に基づく強制 / 任意不妊手術が行われた。(出典:第4章 旧優生保護法改正等の動き)これは、SRHRの侵害であり、すなわち人権侵害であることは言うまでもない。
この被害に遭われた方々による国家賠償請求が行われたことは記憶に新しいだろう。(出典:最高裁判所判例 令和5年(受)第1319号)
他国でもそうであったように、日本でもこうした優生手術の対象に精神疾患のある人が含まれていた。「精神障害者は、大なり小なり、社会の負担になるものであり、またしばしば凶悪な犯罪を犯して社会的災害をもたらしているものであるから、精神障害者のうち、少なくとも悪質遺伝性素質に基因している者ならびに現に発病していないが、悪質遺伝病の素質ある者について、その子孫の増殖を防止しようとすることは、民族衛生上避けがたい要請である」と言われていた。(出典:日本における優生政策とその結果について)
また日本では、1960年代〜70年代にかけて「不幸な子どもの生まれない運動」が兵庫県が発端となり全国的に広がった。(出典:「不幸な子供の生まれない県民運動」についての資料)
当時の精神科医もまた、こうした動きに加担していた者もいた。例えば、1955年の高木四郎「精神医学・精神衛生(第2版)」では、「精神薄弱者(註:当時の表現、現在の知的障害)は、ただ社会の人たちに負担と迷惑をあたえるだけで何らの利益をもたらさぬのであるから、なんらかの優生的処置を行うべきであろう。」と述べていた。(出典:精神衛生と優生教育)
こうして、主に1950年代後半〜1970年代前半にかけて特定の属性の人たちを対象として強制 / 任意不妊手術が行われてきた。(出典:精神神経学会と優生学法制一精神科医療と人口優生政策ー)
優生思想や旧優生保護法の問題点
「強制不妊手術の問題は、根本的なところに医師と患者の権力関係の問題があるが、それ以外にも、医局内の上下関係、ジェンダー、外部(保健所・施設)からの圧力など、何重もの権力関係が関わっているということが、今回紹介した事例からはうかがえる。さらにインタビューの中では、『かつて精神病者は『三流国民』『棄民』だったのであり、罪を問うとしたら、棄民扱いをした国民全体の問題として問うべき』(岡田会員)、『精神障害者の治療の歴史は、差別、差別、差別ですよ。これはその中のほんの小さな1ページにすぎない』(齋藤会員)というように、当時の社会のあり方や国民意識という広い文脈の中で精神科医療の果たした役割を理解すべきだという要望も出された。」(出典:優生手術への精神科医の関与-学会員を対象としたインタビュー調査-)
また、哲学者のヴィクラー(Daniel Wikler)らは、優生学の問題点を次の五つに整理し、「①疾患の予防と疾患の可能性のある生命の予防の混同、②誰が理想的な人間の基準を設定するのかという問題、③生殖の自由の侵害、④国家主義、⑤負担と利益の配分の不公正」と述べている。(出典:第3編 諸外国における優生学・優生運動の歴史と断種等施策)
当事者として思うこと
私が優生思想を知ったのは、小学生時代に読んだ「アンネの日記」がきっかけであった。優生思想に対して非常に恐怖を覚えたものの、でもどこか遠い国の話だと思っていた。
その後、高校生になって進路に悩んで手に取ったとある書籍で、日本に旧優生保護法が存在したことを知った。端的に言ってショックだった。自分の国で戦後もこうしたことが行われていたことがショックだった。しかしながら、当時の私にとってはどこか遠い時代の話に感じていたのも事実だった。
奇遇にも大学院生の頃の指導教官の専門が医療倫理学だったため(私の専門は医療倫理学ではない)、そこでも旧優生保護法について教わった。その頃になっても、私には当事者意識はあまりなかった。自分は差別に加担したくないという思いはあったが、なぜか自分が差別される側にはならないと驕っていたと思う。
私は修士課程修了後に精神障害者保健福祉手帳を取得し、それから結婚した。結婚してから妊娠についてはかなり葛藤した。その葛藤についての詳細は割愛するが、現実でもネット上でも精神障害当事者の妊娠に対して数々の差別的、優生思想的発言に触れた。そこで初めて当事者側から優生思想に触れることとなった。
やはり人は、差別される側になって初めてその差別をまざまざと感じるものであると思った。想像の何十倍も、何百倍も人権の無さを感じる日々である。
そうした中で見かけたのが、冒頭で触れたツイートである。初めて読んだときは言葉を失った。繰り返すが、精神科医が特定の属性(精神疾患や年齢層)に対して妊娠を「熟考」するように促すことは、SRHRの侵害であることはもちろん、優生思想につながりかねない。
さらにそのツイートに付いているたくさんの引用で大量の優生思想的発言を見て、恐怖を覚えた。
先の精神科医のインタビューを再掲する。
「かつて精神病者は『三流国民』『棄民』だったのであり、罪を問うとしたら、棄民扱いをした国民全体の問題として問うべき」(岡田会員)
「精神障害者の治療の歴史は、差別、差別、差別ですよ。これはその中のほんの小さな1ページにすぎない」(齋藤会員)
一学会員を対象としたインタビュー調査一
ある個人が何らかの優生思想を持つことはあり得るだろう。あくまでその人個人としてその思想を抱くことまで、私は否定するつもりはない。例えばある個人が優生思想的な考えによって、自分自身の子供を設けないとすることを私は否定しない。
しかしそれを他者に押し付けたり、ましてや集団で優先思想を持つことは、かつての過ちを繰り返すことになりかねないのではないか。専門職はそうした動きを抑止する側にいるはずなのに、それとは真逆の立場に立つことは果たして倫理的であるだろうか。
精神障害当事者の中には、自分は妊娠しないから関係ないと思う人もいるかもしれない。けれども、これは精神障害者という大きな属性に対する人権侵害なのである。精神障害者に対して人権を制限することを是としているのである。本来なら自分が自由に決定できるはずのことを、精神障害者であるという一点のみをもって、勝手に制限されていることなのである。
それを精神科医が発端となって行い、集団でその思想を肯定しているのである。まるで国民優生法や旧優生保護法が支持された時代と同じではないのか。
おわりに
せっかく医学の進歩によって妊娠・授乳に影響の少ないお薬が増え、福祉の増進によって不十分でありながらも支援が増えているのに、その恩恵を精神障害当事者が享受できないとしたら、その進歩は誰のためのものなのか。
当事者がより良い生活を送れるようにと皆が思って進歩させてきたものではなかったのか。
そうした進歩によって、精神障害者であっても病に左右されることなく、他の方々と同じように人生の様々な選択が可能となったこの時代に生きていて良かったと私は思っている。それはすなわち、病があっても不幸とは限らないと言えるのではないか。
件の投稿にかかわらず、しばしば優生思想につながる発言をする精神科医を見かけるが、精神科医にはかつての過ちを繰り返さないような立場であってほしいと願う。
社会から特定の属性を排除するのではなく、また勝手に特定の属性を不幸と決めつけるのではなく、様々な人々の人権を尊重し合い、誰であっても生きやすい社会であってほしい。
蛇足ながら…
あえて言うまでもないが、この世に生まれてくる子供の人権は最も尊重されるべきだろう。
私に挙児希望があることに関し、Twitterで何人もの人たちから、もし私が子供を産んだらその子供を私が虐待すると言われた。
もちろん、私が100%虐待しないと言い切れるわけではない。それは私に限らず、誰しもがそうであろう。虐待しないと言い切る方が、いざ虐待をした際に虐待を認められないから危険である。
ただ、親に精神疾患があることと虐待をすることは必要十分条件ではないはずだ。少なくとも私のSRHRを侵害(人権侵害)をするような方々に言われる筋合いはないし、私はそうして人権侵害を受けてもなお、そうした方々へ私から人権侵害はしていないはずだ。相手が社会的弱者であるという属性をもってして攻撃するのはやめていただきたい。
また、こうして私の人権を主張することとが、子供の人権侵害となると主張される方もいるが、それも必要十分条件ではない。親子それぞれの人権が尊重されるべきであって、一方の人権が尊重されることが一方の人権侵害となるとは限らない。
破綻した論理の押し付けで他者の人権侵害をするのはやめていただきたい。子供には生まれた瞬間からその子自身の人生があり、それを最大限尊重したいと私は思っている。なぜなら、私が受けたような苦痛を子供には背負わせたくないからである。