私と“人との関わり”について

明日までの大物のエッセイの課題にほぼ何も手を付けてない状態ではあるが、このもやもやを書き出さないと課題にも手がつかないと思いnoteを開きました。

Twitterでも呟いたように私の最近のテーマはもっぱら「人」です。

これは単に一時的なもので放っておけばいつの間にかどうにかなっているのかもしれないけど、今の私にとってはとてもとても重要なこと。

今までの私は、人というものに真剣に向き合ってきたことがほとんどありませんでした。いや、向き合わなくても何となく上手くやってこれたし、安心できる場所がある、そんな恵まれた環境で育ってきたんだと思います。
人間関係でごたつきそうになったこともあるけど、結局そこを回避してきたし、少なくとも猛烈な孤独感を感じたことはありませんでした。

でも、本当の意味ではいつも孤独で、誰も真剣に心から信頼したことはないし、誰に対してもその人と自分との間に一本線を引いていた気がします。
だから、生まれてからこのかた親友も彼氏もいない。一人が気楽。

でももしかしたらみんなそうだったりするのかな。

そんな中でも活動の中で出会った人とのある種ゆるい関係が私に合っていたし、それで私は十分でした。
活動をしていると自然と色々なコミュニティに絶えず所属していて、MTGやら何やらでその人たちと繋がっていました。
そうやってここまで来たけど、最近1つずつ所属していた団体やプロジェクトを離れ、定期的に関わる人が少しずつ減ってきました。

そうなった時、「あ、私の人との関わりって何なんだろう。」と猛烈な孤独感を感じました。今まで自然にあった人との繋がりが1つずつ減っていったとき、私は急に1人ぼっちになった気がしてなりません。

恐らくこれまでずっと、誰かと深い関係になるのが怖かった。本当は「あなたが代替不可能で絶対的だ」と思ってくれる人を強く求めていたけれど、私がそう思ってたとしても相手はそう思っていなかった時のことを考えると、もう最初からそんな関係は望まないようにしようといつからか思っていました。そんなのおこがましすぎる。そしてその関係が終わることが怖かった。

はぐくむ合宿を通して、期待していこうと意気込んだけど、私の期待の仕方が下手なせいで勝手に期待して勝手に傷ついてしまいます。

でもなんで私はそもそも「あなたが代替不可能で絶対的だ」と思ってくれる人を強く求めているのかと考えると、やはり幼少期の経験が原体験になっているのかなと思ったりします。

私は3人兄弟の長女で、妹が生まれる4歳までは両親含め周りの大人の愛は全て私に注がれていました。でも妹が生まれた途端、私に全て注がれていた愛が妹にも分配され、結果として私への愛が減ってしまったのです。もちろん両親はそんなはずはなかったと思いますが、少なからず当時の私はそう感じていたと思います。

その経験が、自分のことを一番に考えてくれる誰がを求める原体験になった気がします。それが今にまでつながっていると思うと恐ろしい。このようなことは兄弟であればよくあることで、決して私だけではないと思います。
だからそこも含めて私は皆さんに問いたい。

“あなたは自分のことを一番に考えてくれて、自分を代替不可能で絶対的な存在だと言ってくれる存在を求めていますか?”
”そんな存在を求めている私は異常ですか?”

私はそんな存在を求めているせいで自分を苦しめている気がしてなりません。

はぐくむ合宿を終えてのnoteに書いたように、私は人との関わりを彼氏や友達、仲間といったように何かの枠に当てはめるのではなく、その人とどんな関係でいたいのか考えようと思うようになりました。
※詳しいことは以下のnoteより

でも、それはすごくすごく難しいということが分かりました。

どんな関係ってどんな関係?

↑まさにこんな感じです。言語化が難しすぎる。相変わらず人としての好きと恋愛対象としての好きが分からないし、友達と上手くいかなかったときの対処法が分からない。

愛の受け取り方も届け方も分からない。
受け取ってしまったらそこに依存して、結局自分か勝手に傷つきそうで怖い。

やっぱり私は自分で自分ことを満たせる強くてかっこい女性になりたいのかもしれない。

でももう少し人と向き合ってみようと思います。


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