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     大壹正史年表

          神楽記

紀元前二百三十六年三月二十七日
 神楽が一国(ひこく)の宗女として生を受ける。神楽の正式な発音はカグラでは無くカムラである。
 神楽の父の系譜は天津神である。神楽はあまり武術や語学が好きではなく隙を見てはおもちゃで遊ぶ様な子であった。
 乳母である安高(アタカ)の茶屋を手伝い幼少期を過ごすが、ある日安高の舞の素晴らしさに衝撃を受けた神楽は以降岐頭術(きとうじゅつ)にハマって行く事になる。
 特に矛を使った技は絶品で神楽の右に出る者はいないほどであった。
 得意武器は矛
 理由は長い分剣よりも得と言った単純な内容である。

紀元前二百三十一年
 神楽が幼月院に入る。二つ上の吼玖利(ククリ)とは仲が悪く良く喧嘩をしていた。
 神楽が十歳になった頃吼玖利をコテンパにして大勝利を決めると以降吼玖利は忠実な臣下となった。

紀元前二百二十三年五月三日
 神楽が長女香苗(カナエ)を出産。


紀元前二百二十一年
 秦王政が八国(やえこく)に秦使を派遣。
 此の秦使の責任者は楊端和(ようたんわ)である。
 中華大陸、日本大陸を支配下に置く倭族討伐を目的とした交渉が始まる。
 若倭根子日子毘々(わかやまとねこひこおおびび)大王は宮殿に迂駕耶(うがや)八国である奴国、不国、薙国、都国、巴国、三池国、鬼国の王。そして出雲六国の出国、津国、伊国、灘国、不呼国、双国の王と一国の一三子(ひみこ)を呼び寄せ此の話について協議した。

紀元前二百十九年
 二十回のやり取りによる協議の結果八国と秦国は共に倭族と戦争をする事に合意。

同年九月
 李斯(りし)主導のもと密約が咸陽で交わされる。
 此の時の内容は以下である。
 帥升を暗殺するのは八国である。
 戦は八国で行うものとする。
 秦国は八国に兵を送り続け倭族を討伐するものとする。
 倭族滅亡後は倭族の歴史を抹消する事とする。
 以降皇帝が変わろうとも八国侵略を許さない事とする。
 である。

同年十月
 呂范(ろはん)貞相(さだそう)東段(とうだん)油芽果(ゆめか)薙刀(なぎな)による帥升(スイショウ)暗殺計画が実行される。手引きを手伝ったのは李禹(りう)である。
 油芽果(ゆめか)と薙刀(なぎな)は宝樹城に侍女として潜入した。侍女としての働きは実に良く。重宝されていた。

二百十八年一月
 帥升の次女である蘭蒼呵(らんそうか)の誕生祭の日に暗殺計画は実行された。呂范(ろはん)東段(とうだん)貞相(さだそう)は油芽果(ゆめか)の手引きにより昨晩の内に宝樹城に潜入した。油芽果(ゆめか)は見事帥升を討ち取るが側にいた侍女に殺され、貞相(さだそう)達も将軍を討ち取るがその場で殺され、呂范(ろはん)は捕まり激しい拷問の末殺された。此の時逃げる事が出来たのは薙刀(なぎな)だけである。
 此の事件がきっかけとなり倭族は秦国と共に八国侵攻を決意。

同年二月
 蘭泓穎(らんおうえい)が帥升に即位。

同年三月
 匈奴族に保護されていた薙刀(なぎな)は李禹(りう)と再会。作戦の成功と出港日を告げる。此の時倭族が秦国の動きに不信感を抱き秦国の民を人質として連れて行く事になる事を教えると、薙刀(なぎな)は自分が船に乗れる様に李禹(りう)に手配を頼んだ。

同年五月
 八国に向けて出港。

同年六月
 若倭根子日子毘々(わかやまとねこひこおおびび)が予定通り八国と一国の兵、約四万二千を現在の橘湾に集結させる。

 秦国が人質を取られ身動きが取れない事を伝える為、薙刀(なぎな)が船室の上から赤粉を上げる。其の直後薙刀(なぎな)は帥升の弓に射殺された。

 一三子(ひみこ)を務める伊都瀬(いとせ)は其の道中で赤粉が上がるのを見やり、急遽一国に使者を送り増援を求めた。
 一三子達は葦船(あしぶね)に乗って向かっている最中であった。

同月十二日
 浜にて大規模な戦が始まる。
 船から赤粉が上がった事に不信感を抱いた若倭根子日子毘々(わかやまとねこひこおおびび)は迷う事無く秦国を敵と見なし攻撃した。
 此の戦は七日七晩続いたが、八国が倭族を船に追い返した事で一旦終了となった。
 此の戦で大吼比(だいくひ)と多くの吼比(くひ)を失った。又末国、伊国、灘国の王が討死にし、伊都瀬(いとせ)が重傷をおった。

翌十三日
 李禹(りう)が若倭根子日子毘々(わかやまとねこひこおおびび)の宮殿に訪れ事の成り行きを告げた。
 若倭根子日子毘々(わかやまとねこひこおおびび)は此の事に深く心を痛めた。
 若倭根子日子毘々(わかやまとねこひこおおびび)は三三子の協力を得る為一国(ヒコク)に使者を派遣した。

同日
 一三子の使者が一国に到着した。
 一三子不在の為朝廷はニ三子(ふみこ)、三三子(みみこ)そして二十人の吼比(くひ)を交えて開催された。
 ニ三子とは一国の安全や謀反を取り締まり幼子の教育を行う組の長である。三三子は他国の謀反や八国に危害をあたえる者達を暗殺する組の長である。
 使者が持って来た内容は増援の要請であったが、各組の考えが入り混じり、此の朝廷は三日三晩続けられる事となる。が、話は難航し中々話が進まなかった。此の事に宗女である神楽は非常に胸を痛め、其の席に赴き宗女である思いを告げた。
以下が其の言葉である。

 我が国、存亡の考え如何に愚か。
 国消滅なれば皆奴婢である。
 我等教え忘れ何を交わす。
 我等思い。
 我等願い。
 坐して何も伝わらず。
 すべきは今である。

 此の神楽の言葉により難航していた話は纏まり神楽を総大将とした四万の兵が葦船に乗って迂駕耶(うがや)に向かう事となる。

同月十四日
 若倭根子日子毘々(わかやまとねこひこおおびび)は残った王を集め朝廷を開いた。一国は一三子が重傷を負っていた為、八人の吼比(くひ)が出席した。
 一国(ひこく)の吼比(くひ)は水豆菜(みずな)榊(さかき)津馬姫(つばき)多江夏(たえか)巫沙妓(ふさぎ)弥生(やよい)巴図樹(はずき)眞姫那(まきな)である。
 倭軍、秦軍の増援に対抗する為各国が保有する全ての兵を迂駕耶(うがや)に終結させる事で合意。秦国の民は三三子の返答待ちと言う事になった。

同月二十日
 倭軍、秦軍の攻撃が再開。
 多くの兵を失ったままの八国の状況は非常に悪く更に多くの兵を失う事になる。此の戦いは倭軍、秦軍にも多大な損害を与えた。
 しかし倭軍と秦軍の攻撃は止まらず、麃公(ひょうこう)と楊端和(ようたんわ)の軍が出てきた事もあり八国は浜を放棄する事になった。
 この日蘭泓穎(らんおうえい)は初めて八国に降り立った。

同月二十二日
 若倭根子日子毘々(わかやまとねこひこおおびび)は不国迄撤退すると、迂駕耶(うがや)の民を徴兵する事を承諾した。此の日、周辺諸国からの増援が不国に集まる。

同月二十四日
 戦での傷がもとで伊都瀬(いとせ)が死亡。使者が一国に吉報を伝えに行く。

同月三十日
 神楽の軍が迂駕耶(うがや)に到着。橘湾に向けて進軍を開始。

同年七月二十八日
 迂駕耶(うがや)に倭軍、秦軍の増援が到着した。

同年八月五日
 神楽が不国に到着。伊都瀬(いとせ)の死を聞き神楽は非常に悲しんだ。 
 一国の吼比(くひ)は神楽がまだ十八才であったので一三子の即位は未だ早いと考えていた。此の事に神楽の右腕的存在である吼玖利(くくり)は不満であった。

同月十日
 十万の兵が不国に侵攻を開始。

同月十二日
 再び戦が始まる。この時神楽は秦軍の将軍楊端和(ようたんわ)を討ち取り其の存在を皆に知らしめた。だが、三月に及ぶ此の戦は若倭根子日子毘々(わかやまとねこひこおおびび)の討死を持って八国が敗退する事になる。
 神楽は此の戦で倭軍の将軍である黄仙人(こうせんい)汎紋亥(はんもんい)花螺無姫(からむじ)を討ち取った。
 この功績により神楽は満場一致で一三子に即位する事となる。だが、此の戦で神楽は右腕である吼玖利(くくり)を戦死させてしまう。

同年十月十三日
 倭族は不国を占拠。
 三三子の長である三佳貞(みかさ)が神楽達と合流。今後の動きについて話し合った。
 三佳貞(みかさ)は直轄の吼比(くひ)に迂駕耶(うがや)にいる女、子供を出雲に避難させる様に命令を出し、李禹(りう)と情報を共有出来る様に其の情報網を整備する様に伝えた。

同年十一月
 幼年である王太子の即位に疑問を持つ者が多かった為、母である気長足姫(おきながたらしひめ)が大王となった。

続く…。


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