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風を待つ<第10話>まどろみの中で

 いつの間にか眠っていたらしい。
 目覚めたとき、全身は汗で冷たくなっていた。腰がくだけたように、力が抜けている。身を起こすと、足が震えた。

 寝具を引き寄せると、あたたかな何かを感じた。文姫は驚き、声にならない叫び声を上げた。中大兄皇子が、まだ文姫の横でねむっているのだった。

 夫の金春秋など、文姫を抱いたあとは寝所から去ってしまう。そういうものだと思っていた。次の朝にはもうどこかへ出掛けており、朝の挨拶をかわすこともなく、朝餉あさげを伴食したこともない。

 文姫はおそるおそる、中大兄皇子の頬に触れてみる。

 ――夢ではなかった。

 文姫はまだ、夢から醒めぬ心地でいる。まるで初めて男に抱かれた女のように、頭がぼうっとしていた。

 夫との房事でさえ、これほどの快楽を感じたことがなかった。文姫はおのれの中にある感情におびえた。新羅が危機的な状況に身をおかれているのに、文姫は中大兄皇子を求め、そのぬくもりに安堵していた。

 ただ、中大兄皇子はその後、文姫に会いに来てはくれなかった。
 
 季節だけが巡ってゆく。
 夏が過ぎ、近江大津宮にもひやりとした風が吹くようになった。

 ――やはり、私は額田王とはちがうからか……

 文姫があまりに取り乱すので、同情して抱いただけなのかもしれない。せめてあの夜の契りで懐妊できていればと願ったが、希望は叶わなかった。

 中大兄皇子には多くの妃妾がいる。
 妃妾は、倭国の称号でいうと、夫人、嬪、采女などと称される。

 最も位の高い夫人には、倭姫王やまとひめのおおきみという女がいる。この女は、古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこの娘である。つまり皇族だ。
 古人大兄皇子は、中大兄皇子の異母兄にあたるが、六四五年に謀叛の罪により誅殺されている。
 
 倭姫王は、自分の父を殺した叔父に嫁いでいることになる。

 おそらく中大兄皇子は、遺恨を残さぬために倭姫王を娶ったのであろう。まだ倭姫王との間にひとりの子もないことがその証拠である。

 身分の高さから、夫人の位にいるものの、今後も子は望めないだろう。

 次に、遠智娘おちのいらつめという夫人がいる。

 この女は、蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだのいしかわのまろという豪族の娘で、蘇我氏の血統だ。石川麻呂は、六四五年の乙巳の変で、中大兄皇子に助力している。
 つまり、中大兄皇子の佞臣の娘ということになる。

 遠智娘は、皇子を産んでいる。健皇子たけるのおうじという。
 ただ、健皇子は病弱であるらしい。

 他にも何人か采女や宮人が中大兄皇子の寵愛を受け、子を産んでいるが、女の児ばかりであるという。

 ――中大兄皇子には、まだ有望な男児が生まれていない。

 もし文姫が壮健な男児を産めば、その子が倭王となる可能性は十分にあるのだ。

 すでに新羅で三人の子を産んだ文姫だ。男の児のひとりやふたり、産んでみせる自信はある。だがこればかりは、一人では努力のしようがない。

 ――あの夜だけで、みごもっておれば……
 
 と思うが、懐妊を望む妃は文姫だけではない。

 妃のいる宮を順番に廻っているのであれば、次に文姫のもとを訪れるのは、いったいいつの日になるのだろう。

         *

 年が改まり、六四七年になった。
 宮の門が急に騒がしくなった。文姫がなにごとかと門へ出ると、侍女たちが門前で騒いでいる。

「なにごとだ、騒がしい」
「文姫さま」
 侍女は崩れ落ちるように座り込み、号泣する。涙で顔をくしゃくしゃにしていた。手には書簡を抱えている。

「それは何だ。兄上からの書簡か」
 舎人たちがじろじろと侍女を見ている。文姫は侍女を部屋へ入れて、火鉢の前に座らせた。侍女は、すすり泣きながら文姫に書簡を渡した。

 書簡に目を通すと、恐れていた言葉が目に飛び込んでくる。

 ――女王徳曼、崩御。

 文姫は目眩を覚えた。書簡は夫の金春秋からであった。女王は戦乱の最中に崩御された。病死か、戦死かまでは書かれていない。

 ――やはり、か。

 予感していたことではある。それでも、女王崩御の知らせに文姫は震えた。

 少し心を落ち着けてから、文姫は侍女たちに書簡の内容を伝えた。
 侍女は新羅からの使者から書簡を預かるとき、女王が崩御されたと聞かされたらしい。信じられず、文姫に書簡を届けるまでは泣くまいと堪えていたものの、こらえきれずに門前で泣き崩れていたのだ。

「女王が――あの女王が、どうして」
 泣き止んでいた侍女たちは、また哭泣しはじめた。
 侍女たちの嗚咽が収まるまで、文姫は侍女たちの痩せた肩をさすった。

 毗曇ピダムが、女王を討ったのだろうか。
 兄上は? 夫は? 無事なのだろうか。

 わからぬままに、悩む日が続いた。夜も眠れず、食事も進まなくなった。
 そんなある日、中大兄皇子がふらりと宮を訪れた。
 雪の激しく降る日であった。

「不安であろうかと思ってな」
 中大兄皇子と会うのは、じつに半年ぶりであった。皇子は、寒さで鼻の先まで赤くなっている。文姫はすぐに熱い酒を用意させた。

「女王が崩御されたと……新羅の内乱はどうなったのでしょうか」
「何も知らぬと、不安であろう。吾が知っていることを話してやろう」

 中大兄皇子は文姫に新羅の状況を伝えるため、宮へ足を運んでくれたのだった。
 心細く過ごしていた文姫は泣きそうになり、つんと喉の奥に痛みを感じた。

「内乱は無事に制圧したそうだが、女王は陣中で病に斃れたらしい」

 女王は善徳と諡された。
 庾信はただちに勝曼公主を王位に就かせ、第二十八代の新羅王とした。
 勝曼公主はまだ若く、三十歳。王位に就けば女王としての在位期間も長くなるであろう。

 ――我が子らは無事なのだろうか。

 女王崩御の衝撃をやわらげるために勝曼公主をつなぎとして女王にたてたのだと思いたい。だが、文姫は勝曼公主の性格をよく知らない。もし新羅王の座にこだわり、金春秋への禅譲を拒絶すれば、金春秋は年齢的にもう王位には就けぬだろう。

 ――兄上の判断は、正しいのだろうか。
 
 不安がよぎる。
 次の新羅王は金春秋ではないのか。
 文姫が王后となれる日は、もう来ないのか。

 文姫の表情を覗き込みながら、中大兄皇子は、「まだ、続きがあるのだが……」と文姫を案じている。

「金氏は解放されるや、ただちに唐へと向かったそうだ」
「あ――」
 文姫はすぐに兄の計略を理解した。

 新羅の状況はまだ落ち着いてはいないのだ。毗曇の乱、女王の崩御と、不測の事態が立て続けに起きたが、百済との戦はあいかわらず続いている。金春秋と庾信は、百済と戦わねばならない。唐と交渉し、援軍をもらわねば百済には勝てない。そのためには、金春秋を王座にすわらせておくわけにはいかないのである。

「やはり聡い女だな、そなたは」
 再び文姫の顔を覗き込んだ中大兄皇子は、ふっと笑った。

 文姫は唐突に理解した。金春秋と、中大兄皇子は同じだ。
 なぜ中大兄皇子が乙巳の変のあと王位に就かなかったのか、ずっと疑問だった。その理由は、金春秋と同じなのだ。中大兄皇子にはまだ成すべきことがある。倭王となれば、身動きがとれない。

 ――皇子の成すべきこととは、いったい……なに?

 少し恐ろしくなった。文姫を優しく抱いた皇子の手は、また何者かを誅殺しようとしているのだろうか。

 文姫は静かに中大兄皇子に礼をした。
「ありがとうございます、少し安心いたしました。皇子は、きょうはこちらにお泊まりになりますか」

 倭王の子を産むという大任を、文姫はまだ果たせていなかった。中大兄皇子を目の前にして、文姫は顔が熱くなる。もしかして、とかすかな期待を寄せた。中大兄皇子に愛撫されることを想像すると、全身が熱くなる。

「おお、そのつもりだ」
 中大兄皇子は、からりと笑った。

 その夜、文姫の首筋に舌を這わせながら、中大兄皇子は、
「そなたは、馬に乗れるか?」とささやいた。

「馬……ですか」
「明日、大島山へ出かけようぞ。馬に乗れぬなら輿を用意させよう」
「こんな雪の日に?」
「明日はきっと晴れるさ」
 中大兄皇子が予言したとおり、次の日の朝は、冬とは思えぬ快晴となった。

        *

 中大兄皇子は文姫に毛皮の上着を与えてくれた。狐白裘こはくきゅう(*1)ほどではないが、じんわりと暖かい。

 悶々と過ごしていた文姫の胸に、冷たく清らかな冷気が入ってゆく。雪にはじけるような光が、全身を浄化する。枯木には、小さな葉が芽吹き始めている。冷たい土からは、春を待ちきれぬと、ふきとうが顔を出していた。

 中大兄皇子は、さらに奥へと馬を進めてゆく。舎人たちが護衛のために、皇子の後ろに付き従っている。舎人たちも、時折目を細めて、咲き始めた梅を眺めていた。

 広く開かれた場所にたどりつくと、中大兄皇子は馬を下りた。

 文姫も輿から下りて、身体を伸ばす。きらきらとした陽日を浴びると、春の喜びが聞こえてくるようだった。

「顔色が良くなった」
 中大兄皇子は、白い歯を見せて笑った。
「ええ……倭国の風景は美しくて好きです」

 それは本心であった。倭国に到着したときから、この国にそよぐ風を心地よく感じていた。血なまぐさい戦争など、この国には相応しくない。

「それは良かった」
 中大兄皇子は、ごろりと叢に寝転がる。「濡れますよ」と文姫はとめたが、皇子は笑う。

「こうすると、空が高く感じられる。吾など、ちいさな人間だと思い知らされる。小さな倭国で、小さな政治をするだけの、小さな皇子よ」


(*1)狐白裘《こはくきゅう》……狐のわきの下にある白い柔らかな毛だけを集めて作られた上着。高級品。


 第11話へ続く


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菅野稀|Kanno Mare
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