風を待つ<最終話>
庾信の表情はほとんど見えなかったが、顔をしかめているとわかる。わずかに天を仰いだ庾信は、悲しそうに吐息を漏らす。
「ああ……いったい何から説明すればよい? おまえは新羅の状況まで見えなくなったのか? そうではあるまい、おれをわざと怒らせようとしているのか?」
「お怒りにならないでください。倭国へは、王太后としてではなく、ひとりの女として行きます。この目が光を失う前に、鎌子殿や子供たちに会いたい。兄上、どうか私の自儘をおゆるしください。兄上にはご迷惑をおかけしませぬから」
「ああ、文明」
庾信は優しく、悲しい声で文明を呼んだ。
「置いてきた子に会いたいのだな。母親としては、当然の感情であろう。だが、おまえの子は新羅にもおるだろう……おまえが倭国へ行くといえば、法敏は二度捨てられたと悲しむ。そうは思わぬか」
そう言われると文明は胸が詰まる。
「それに、おれも悲しい。おまえが倭国へ『帰りたい』と言ったこと。おまえの故郷は新羅だ。そうではないか」
「たしかに、私は新羅の王族として生まれ、新羅のために尽くしてまいりました。ですがそれは、文明王后としてのこと」
文明はすっと鳳簪を引き抜いた。鳳凰のきらめく光が文明の目に映る。視力をほぼ失っている文明にも、この光だけは色褪せずにはっきりと見える。おのれが指標にしていた、鳳簪。
「金氏としての身分がなければ、私はただの女。丸裸になり、はじめて、人に愛されることを知りました。愛を知った我が身には、鳳簪は重く冷たいのです」
庾信は無言で鳳簪を見つめていた。鳳簪をはずした文明の思考を探ろうと、ちらりと文明を見る。
「——いくらおまえの頼みでも、聞けぬ。海は戦場だ……小舟ひとつ、倭国へは辿り着けぬ」
「危険は承知しております」
「せめて、戦が落ち着くまで待て」
庾信は子供をなぐさめるような声で言った。だが、戦が落ち着くまで待つことなどできない。戦が落ち着いたとき——倭国は滅び、文明の目は光を失っているかもしれない。
「それに、おまえが倭国へ行っても、中大兄皇子は歓迎せぬぞ。おまえは紛れもなく新羅の王族だ……たとえ身分を捨てたくとも、捨てられぬ。行けばたちまち処刑されるだろう」
「私の目が見えるうちに、美しい倭国へ行き、風を感じたいのです」
飛びたい。おのれの翼で。おのれの意志で、飛翔したい。今までは時流に乗せられて、なんとか喘いでいたに過ぎない。たった一度だけでいい。風に乗って、飛んでみたい。
「――死にに行くようなものだ」
庾信は苦々しく言った。
「かまいませぬ。海の藻屑となろうとも」
文明は礼をして、庾信の部屋を後にした。
月城からは細い爪のような月が昇っている。いや、おのれの目には細く映るだけで、ほんとうは満月なのかもしれない。細い光は力強く、なぜか月影に鎌子の姿を連想した。すらりと細い体格であるのに、力強い指先と、煌々と光る鷹のような目。
——あなたに会いたい。
文明は動機をおさえるように、胸に手を当てた。
*
倭国軍は海上での戦いには慣れていない。新羅軍が耽羅に兵を置き、百済上陸前に迎え撃てば、容易に潰されるだろう。
すでに百済王子豊璋と、倭国軍の第一軍は百済へ上陸したようである。ここで倭国軍を撤退させなければ、背後を新羅軍に襲われ、壊滅するだろう。
——急がなければ。
文明は、鳳簪を法敏の妃である慈訥へ贈呈した。文明の髪には小さな翡翠の簪がきらめいている。玉石の指輪も、金糸で刺繍された袍も纏わず、質素な衣裳にした。文明の部屋には絵師に描かせた牡丹の絵や、鼈甲の平机などが置かれていたが、すべて慈訥へ下賜した。金の耳飾りも、綾織の敷布も、視力を失った文明には必要のないものだった。文明が倭国へ旅立ったら、文明の財産はすべて慈訥の手に渡るだろう。
倭国へ帰る。
それは文明の生きる支えとなっていた。文明の決意に、尚宮や女官たちは困惑した。正式な訪問ではないために、文明から準備を命じられても、どうすることもできない。困り果てた尚宮たちは庾信に訴えるものの、「休ませておけ」と言われるばかりである。
医官が診察にきて、心を鎮める薬湯を処方した。一時の錯乱状態にあるというのが、医官の見解であった。
ふらふらと夜更けに彷徨する文明の姿は、誰から見ても錯乱状態にあった。部屋からひとりで出られぬようにと、文明には多くの女官が付けられた。
月城から出たいと言えば、尚宮や花郎たちに制止される。庭の散策すらもままならぬ状態となり、文明は気落ちし、痩せ衰えていった。
——もはや、叶わぬ夢か。
視界は依然として白く、鮮やかな裳の色さえも映らなくなっている。このまま枯木のように朽ちてゆくのだろうか。倭国への帰国が叶わなくとも、せめてあの潮風を感じたい。
文明が唯一、出歩いてもよい場所は瞻星台であった。瞻星台に登ると、月城よりも心地よい風を感じられる。気分の良い日は、瞻星台から夜空を見上げ、星讀師に空の様子を説明させた。星は見えなくとも、満天の空を思い浮かべることはできる。
「母上様」
ふいに背後から声がした。法敏の声だ。
法敏が王位について依頼、文明はほとんど法敏と会っていない。本来ならば毎朝、母への挨拶を欠かさぬことが新羅王族の礼儀であるが、文明は母親としての礼をうるさく言うつもりになれなかった。おのれは法敏を捨てた。いまさらどうして、母として振る舞えようか。
文明は声のする方位に顔を向けた。
「手を取っておくれ、法敏」
遠慮がちに触れた手は、金春秋の手とも庾信の手とも似ておらず、見知らぬ男の手のようだった。とまどうような法敏の体温を感じると、文明はすぐに手を離した。
「法敏、今宵は満月か」
「ええ――雲ひとつなく、美しい満月にございますよ」
法敏の声は固い。どんな表情で、文明に向き合っているのだろうか。おそらく笑ってはいないだろう。声だけでは、法敏の心はわからない。ますますおのれの子が遠くなった気がした。
突然、法敏が文明の手を握り返した。
「母上様は、倭国へ行きたいそうですね」
静かだが、責めるような口調だった。当然といえば当然で、庾信の忠告が蘇ってくる。
『おまえが倭国へ行きたいと知れば、法敏は二度捨てられたと悲しむだろう』
だが、法敏は、そもそも文明を母と思っているのだろうか。母として許容しているのだろうか。まことに母と思っているのであれば、毎朝の礼を欠かすとは思えない。
「理由を聞いてもよろしいですか。倭国とはこれから戦になるでしょう。それをわからぬ母上様ではございますまい」
「……兄上には事情を話してある」
子に話せるような理由ではなかった。倭国の夫と子に会いたいなどと、言えるはずもなかった。
「急に倭国を出ることになり、女帝や皇子たちへの礼を欠いた。ともに過ごした侍女たちの弔いもしたかった。だが、どうやら叶わぬ夢となりそうだ」
法敏の手が汗ばんでいる。文明の手をきゅっと握ると、耳元で囁いた。
「……残してきた子を連れ帰りたい、というお気持ちはないのですか」
「それはない」文明は笑った。「倭国で産んだ子は、倭国の大臣の子であるから……。新羅に引き取る気持ちなど微塵もない」
法敏は、文明が倭国の子に未練を残していると思ったのだろうか。確かに、氷上娘や不比等を文明が連れて帰れば、新羅王室の公主、王子となる資格がある。法敏が恐れるのも無理はない。
「もし、倭国へ行けたら、母上様は何をなさるおつもりですか」
「何も……」
法敏はすっと手を離した。
「危険を冒してまで倭国へ行き、そこで何もせぬとは、私にはどうにも理解できませぬが、倭国は母上様にとって、それほど魅力のある国であったのでしょうね」
法敏は、ふうと嘆息してから、小さな声で言った。
「上将軍には内密にしていただきたい。実は、倭国から書簡が届いております」
文明ははっと瞠目した。「書簡とは」と聞き返す声が掠れる。
「先日、倭国の間者を捕らえたのですが、その者が母上様の名を挙げて、どうしても書簡を渡したいと。間者を処刑する前に、母上様のお耳に入れておこうと思いまして」
「それで、書簡は――」
もしや鎌子からの書簡ではないか。文明の胸は激しく高鳴る。法敏の袍をつかみ、「書簡は」と繰り返した。
「失礼ながら、母上様が倭国で何かなさるおつもりかと疑っておりました。ですが、間者と母上様は何の関係もないのですね」
「むろんだ。私がどうして倭国の間諜と通じえようか」
法敏の布靴が擦れる。歩きながら思考しているようだった。
「書簡には、何が書かれておった? 法敏、おまえは読んだのか」
「私は恥ずかしながら、倭の言葉がよくわかりませぬ。お会いになりますか、母上様。書簡を残しておくわけにはゆきませぬが、お読みいただき、すぐに破棄していただけるのならば」
「頼む」
文明は即答した。法敏がそっと離れる。制止する兵たちに、「私が責任を取る」と言って下がらせた。
「急ぎましょう。南川で舟に乗ります。私が同行しますから、ご安心ください」
法敏は文明の頭にそっと布をかぶせた。
馬を使えば花郎に気づかれる。王といえども、花郎を自由に動かすことはできない。花郎の長は庾信だ。人目につかぬよう、そろそろと文明は歩いた。見えぬせいか、遠い道のりに感じられた。
川のせせらぎが聞こえる。月城のすぐそばに流れる川は、南川という。南へ下ってゆけば海につながる。倭国の間諜は海から南川へ侵入したところを捕らえられたのだろうか。
法敏の用意した舟は、小さな刳舟であった。水手がひとり、法敏、文明が乗ると、ゆっくりと動き始める。静かなたゆたいが続いた。
「間者は、どこに捕らえている?」
法敏は護衛の兵もつけずに、間者のもとへ行くつもりだろうか。文明は不安になった。
「まもなくですよ、母上様――」
そのとき舟が大きく揺れた。法敏に捕まろうとすると、舟梁に手が当たる。手を伸ばして、法敏の姿を探したが、何も捕まえられない。
「法敏、どこにおる? 支えてくれ」
「ふっ……あはは……」
返ってきたのは法敏の笑声だった。それも遠くから聞こえる。
「母上様。あなたはいま、おひとりで舟に乗っておられます」
「何だと」
手で探ったが、棚板や梁に触れるばかりで、法敏にも水手にも触れられなかった。木板の棘が刺さり、文明は悲鳴を上げた。先ほどの大きな揺れは、法敏と水手が別の船へと飛び移ったためか。
「倭国に行きたいのなら、行きたまえ。その舟で辿り着けるかどうか、風しだいですがね」
「法敏……私を謀ったのか。間者の書簡というのは」
「あんなものは嘘ですよ。まさか、こうも容易に食らいつくとは思いませんでしたが。母上様はまことに倭国の大臣に惚れているらしい」
法敏の言葉は次第に低くなり、怒りに変わっていった。
「倭国からの間者など、王太后であれば、ただちに処刑せよと命じるのがふつうでしょう。あなたときたら、間者の書簡を読もうなどと……」
どん、と法敏が何かを打ちつけた。剣の柄で舟を叩いたのか、波が揺れ、振動が伝わってくる。
「色欲に狂った淫乱女め。新羅王族の夫より、野人の大臣にうつつを抜かすとは。恥を知れ!」
「法敏――」
さざなみの音が、文明の声をかき消してゆく。舟には帆が張ってあるようで、強く煽がれた音がする。
荒い風は、法敏の心そのものだった。強く強く文明に吹き荒れる。法敏の心の叫びを、文明はようやく耳朶にとらえ、愕然とした。
「法敏……私を捨てるのだな。私がおまえを捨てたから。おまえに見向きもせず、二度もおまえを捨てようとしたから。すまぬ、法敏……」
文明は舟板に伏せるようにして泣いた。
朝の礼を欠かす法敏の心を、もっと深く考えてやればよかった。新羅のために身を捧げた母を、法敏はどんな心情で迎えたのだろう。子よりも新羅を愛した母ならともかく、倭国への寂念を募らせる母を、法敏はどんな思いで耐えていたのだろう。
冷たい風が文明の体温を奪った。
おのれが望んだ結末であった。文明を乗せた舟は南川を下ってゆく。風は強くなり、水はしぶきをあげて、文明の身体を濡らす。次第に意識が遠くなる。
潮のにおいがした。心地よい風を感じている。文明の目には、澄んだ空が広がっていた。白い鳥が大きく羽を広げて、のびやかに飛翔している。
流れ、流されて、倭国へたどりついたのだろうか。
身体を起こすと新緑の森があった。呼子鳥の鳴く声が聞こえてくる。
「だれか、いるの」
森の奥からは誰の声もしなかった。ただ、懐かしい風のにおいと、鳥の鳴く声。その奥からは兵士たちの喚声が聞こえるような気がした。
だが文明の耳には戦の音は聞こえない。ぶつかりあう船の音も、兵たちの絶叫も、血に染まる碧海も見えてはいなかった。
おのれの身体は新羅の王を産み、そして無になる。もう誰も文明を捉えるものはない。
文明の目には、小さな青黒い島々が見えている。
少しでも近づきたくて、手を海につけた。思いのほか温かく、文明の身体はやがて海へとのみこまれていった。
(了)