見出し画像

風を待つ<第11話>鏡の名

 文姫は、中大兄皇子の横に座った。
 中大兄皇子の見つめる視線の先には、大鳥が飛んでいる。悠々と翼を広げ、風を操るかのように。

「……あの大鳥は、まるで殿君のよう」
 自由に飛ぶ大鳥を見て、文姫はせつなくなった。大鳥は、新羅へも飛んでゆけるだろうか。唐へは? 高句麗へは? 文姫を置いて、きっとどこまでも飛んでゆく。

「私は、置いてゆかれました。こうなることはわかっていたつもりなのに、可笑しいですね」

 中大兄皇子は文姫の言葉を否定もせず、肯定もせず、じっと空をみつめている。

「金氏のような勇敢な男は、そうはおらぬ。あのお方はきっと後世に名を残す名君となろう。そなたは誇りに思え、そして待っていればよい」

「なぜでしょう。うれしくありませぬ」

 夫を褒められても、心にむなしさが増す。

「そなたは、いっしょに飛びたかったのだな」中大兄皇子は身を起こした。「だがな、男は身勝手なものだ、男というものはな――戦うときはひとりで戦いたい。戦いの場には女を連れてはゆかぬ。女は、止まり木のようであってほしいと思う」

「待っている間に、私は枯れてしまいますわ」
 首をのけぞらせて大鳥を目で追いかける。大鳥はさらに遠くへと飛翔していった。
「私はもう二度と、夫には会えませぬ。あんなに遠いところへ行ってしまったんですもの」

 金春秋は王への道を歩み始めている。文姫の力など要らぬとでも言うように。

「どうやら私は、思い違いをしていたようです。自分がいなければ、夫は王にはなれぬと驕《おご》っておりました。でも、夫はもう飛び始めている。私などもう、かれには必要ありません」

 金庾信や文姫の後ろ盾がないと、新羅王にはなれぬだろうと、たかくくっていた。だが、金春秋は最初から、文姫など眼中になかったのだ。

「そんなことはなかろう。きっと金氏はそなたを迎えに来る」
「そうでしょうか」
「そうじゃ。吾なら、そなたのような妻を離しはせぬ」

 ただ、と中大兄皇子は付け加える。
「新羅は重大な局面にあるゆえ、迎えはしばらく先になるであろうな。老いてみすぼらしくならぬようにな」
「まあ」
 文姫はむっとして、口を尖らせた。中大兄皇子が笑う。

「怒るな。からかっただけだ。金氏はよく時制を読んでおる。数年のうちに王となり、迎えに来てくれるさ」

 それを聞いて、文姫はふと思った。中大兄皇子も、本来ならば天皇位につく皇子であったはず。だが、母親の皇祖母尊を譲位させ、軽皇子を天皇として即位させた。その理由をいまなら聞けるのではないか。

「あなたさまは、なにゆえ天皇にならなかったのですか。大兄という称号は、天皇位につく資格のある皇子だと聞きましたが」

「天皇になると、自由がなくなる。見えぬことがあるからだよ」

 中大兄皇子は蒲公草たんぽぽを摘むと、花弁をちぎった。花はうっすらと白く綿をつけている。

「まだ、時宜ではない――大きく飛翔できる、風を待っている」
 中大兄皇子は、蒲公草にふっと息を吹きかける。蒲公草はふわりと舞い上がったものの、すぐに落ちていった。

「このような小さな風なら、何度でも吹いた。でも、小さな風では高く飛べぬ。高く飛ぶために、吾はまだ耐えておる――金氏もおなじだ。ずっと耐えて、耐えてきた。金氏はようやく風に乗ったのだ。これからもっと高く飛ぶだろう」
「あんなに高く飛んでいるのに?」

 まだ、遠くへ行くのだろうか。恐ろしいほどに、高く。

 中大兄皇子も金春秋も、文姫の見えぬ景色を見ているのだろうか。

「そなたは別の意味で帰れぬかもな。天皇となった吾の子を産めば、新羅へ帰したくなくなる」
 中大兄皇子が文姫を見つめている。どこか金春秋の凛々しい目と似ている。その視線から目を逸らし、文姫はうつむいた。
「皇子のつかの間の止まり木となれるなら」

 中大兄皇子は微笑する。その横顔にはわずかだがかげがあった。文姫は少しだけ、中大兄皇子の孤独を知った気がする。

「そうだ、歌を教えてほしいといっていたな」
 中大兄皇子は起き上がり、しばらく考えたあと、歌を詠んだ。

   妹が家を 継ぎて見ましを 大和なる
   大島の嶺に 家もあらましを

 歌の意味は、愛しい妹(妻)の家が大島の山の上にあればいいのに、というものだ。文姫の家が大島にあればよい、新羅へ帰らずに過ごせばよい、との気持ちを歌っているのだろう。

 倭国では歌を贈られたら「返歌」といって、歌で返事をする。文姫は宮に戻ってから、幾日もかけて、初めての歌をつくった。

   秋山の 木の下隠れり 行く水の
   我こそ益さめ 思ほすよりは

 秋山の木の下にひそかに流れていく水のように、私の思いはあなたが思うよりもずっと増している、という意味を込めた。

 ――歌に記す倭名がほしい。

 金文姫、ではどうにも倭の歌に合わない。それに、宮に住まう者たちは文姫のことを額田王と呼ぶ者もいた。世子嬪セジャビンとの呼ばれ方も、近江大津宮に住まううちにそぐわなくなってきた。

鏡王女かがみのおおきみ

 文姫はみずから倭名をつくった。鏡は儀礼に使う宝物である。王から王への贈り物としても使われる。新羅から倭国へ贈られた、文姫の名にふさわしいではないか。

 ――どうか、これからも皇子のおそばにいられますよう。
 文姫の願いは、もはや新羅のためではなく、中大兄皇子を愛するひとりの女としての願いであった。

  ***

 文姫が倭国へ来て、四度目の春が過ぎようとしている。

 六四九年(大化五年)、金春秋はついに唐との同盟に成功したらしい。新羅の猛攻はすさまじく、百済は逆に劣勢となっていた。

 新羅の情勢を文姫に伝えたのは、金春秋ではない。
 文姫の前には中臣鎌子が座っている。最近は、中臣鎌子がさまざまな知らせを文姫に伝えてくれていた。むろん中大兄皇子の命令であろう。
 ただ、文姫は中臣鎌子が苦手であった。感情がなく、淡々としている鎌子は、いったい何を考えているのかよくわからない。

 新羅の情勢の変化は、中大兄皇子と文姫との関係にも微妙な変化をもたらしている。
 倭国では、百済を支援して新羅をたおすべし、という声が高まっていた。そのため、中大兄皇子は文姫のもとを訪れる回数を減らしていた。春になってからは、一度も訪れていない。

 文姫はいまだに中大兄皇子の子を懐妊できなかった。何度も夜を共にしても、子を宿すことができぬままだった。

 ――殿君の子は、たった一度の交わりでも、すぐに懐妊したのに。

 文姫は不思議でならなかった。

 中大兄皇子の訪問が絶えた暮らしは、じつにあじきない。文姫は暇をもてあましている。侍女を相手に、歌を詠むなどしているが、一日がとても長く感じていた。

 鎌子のことは苦手であったが、新羅や倭国の状況を伝えてくれる。文姫はいつしか、鎌子の訪問を待ち侘びるようになっていた。

 皇子の妃の宮に内臣が訪問するなど、本来ならありえぬことであろう。
 そのように采女たちが囁いているのを文姫は知っている。
 鎌子はそのうち、文姫をめとるのではないかと言うのである。

 ――莫迦ばかげている。

 文姫のような王族が、なにゆえ臣下の妻になるのか。
 目前には衣冠を正して座る鎌子がいる。この男からは色欲などまったく感じられない。まったく文姫を女として見ておらぬではないか。文姫を娶るなど、言いがかりも甚だしい。

 鎌子は、いつになく白い顔をしている。
 何か話があるのだろうが、なかなか切り出さない。白湯を飲み、大島山に咲いた黄花龍芽おみなえしの話などをして、文姫の様子を伺っている。

「鎌子どの、きょうは何かお話があるのでは?」
 とうとう文姫は、自分から話を催促した。鎌子は「は」と言って、姿勢を正す。

宅子娘やかこのいらつめが、男児をお産みになりました。――大友皇子です」

「そうですか。おめでたきことにございます」
 文姫は感情を押し殺して祝いの言葉をのべた。
 采女の宅子娘という女が、中大兄皇子の寵愛を受けて男児を産んだ。

 先に生まれた健皇子は、言葉が話せぬらしいから、中大兄皇子は男児の誕生を待ち侘びていたはずだ。
「皇子も、きっとお喜びでしょうね」
「は……」
 鎌子の返答には、なにか含みがある。

「いかがしたのです。喜ばしいことではないのですか?」
「それが」鎌子は視線を落とした。「大海人皇子にもお子がお生まれになったのですが、死産でした。その腹いせかと思われるのですが……中大兄皇子に後継たる男児がなければ、次に倭王となるのは大海人皇子ですから。男児が生まれ、焦燥としておるのだと思うのですが」

「まわりくどい」文姫は耐えきれずに鎌子の言葉をさえぎった。「言いたいことを早う、申さぬか」

「は」鎌子は小さく呻く。「倭国では、百済を支援して新羅との戦も辞さぬ構えをみせております。そのような折に、新羅の妃を妻にしておる中大兄皇子は、倭王への謀反を企んでおると……大海人皇子が仰せに……」

詭弁きべんであろう」文姫は鼻でわらった。「私が中大兄皇子と新羅を結び、倭王を斃すとでも?」

「倭国の内情が新羅に筒抜けなのでは、と危惧する群臣は多くおりまする」
「ふん……それで? 私にどうしろと言うのか。新羅へ帰れというのか?」

 文姫に言いにくいことを、鎌子は言おうとしている。それはわかる。だが、どうにも鎌子の心情が読めず、苛立つばかりである。

「ひとつ確かなことは、皇子はもうこの宮へはお越しになりませぬ」
「……さようか」
 もう中大兄皇子とは、会えぬ。
 覚悟はしていたが、文姫は身体を締められたように動けなくなった。文姫を通じて新羅と交誼こうぎを深めていると誤解されぬように、文姫との縁を切るのであろう。
「では、私はもう新羅へ帰るしかあるまいな。兄上に書簡を送りたい。迎えが来るまでは、ここにいてもよいか」
「それが――」

 鎌子は一区切りごとに話を止める。まわりくどい態度に文姫はとうとう怒って、「なんじゃ、はっきりと申せ!」と鎌子に罵声を浴びせた。

「文姫さまには、近江大津宮を出て、臣の屋形へお移りいただきたく……」
 ふつふつと怒りが込み上げてくる。

「なにゆえ私が、そなたの屋形へ行かねばならぬ」
「中大兄皇子の命令にございます。皇子はあなたさまの身を、臣にお預けになりました」
「なんだと……」
 中大兄皇子は、文姫を臣下に下げ渡すというのか。

「子を産まぬからか」
 文姫を捨てて、臣下に下げ渡せば、よからぬ風聞に悩まされることもない。近江大津宮には新羅の妃などおらぬと、文姫の存在を排除するつもりだ。

「なんと非情な皇子であろう! 私はそなたの屋形になど行かぬ。新羅からの迎えが来るまで、この宮から一歩も動かぬぞ」
「文姫さま」
 炯々けいけいとした両眼が、文姫を睨む。

「新羅へお帰りになるのが最善であろうと、中大兄皇子は新羅へ書簡を出したのです。しかし、新羅からの返答はありませんでした。あなたさまを捨てたのは、中大兄皇子ではなく、金春秋どのです」

 第12話へ続く


よろしければサポートお願いいたします。サポートは創作活動費として使わせていただきます。