いつか終わりがやってくる
旅行の計画は想定外に終わった
いつかニューヨークに行こう。今年がその計画を実現する年のはずだった。しかし、春を迎えずして計画は白紙となった。昨今の新型コロナウイルスの影響だ。
仕事の多忙を理由に先延ばして、気づけば5年も経っていた。マイルも貯まったし、新しい旅行バッグも買った。3か月前になったら特典航空券を取るタイミングもカレンダーに書いていた。
今後も続くと思っていた日常は突然終わりを告げる。
特に社会人以降は、予告なく終わりが訪れることが多くなったと感じる。まるで毎週見ていたテレビ番組が「本日をもちまして終了です」と突然打ち切りにされた感覚だ。
明日もきっと来る、と思っていた日常は、実は当たり前ではなかった。
ふと思い出したのは、決して忘れることのできない20代半ばの出来事だった。
「終わり」は突然やってきた
社会人4年目の時、上司が突然病死した。訃報を受けたのは、クリスマスを挟んだ12月の連休明けの月曜日だった。私は前日のクリスマスパーティの疲れが残り、いつもより10分出勤が遅れた。朝8時には部長も含めほぼ全員揃う職場だ。「やばい」といいう気持ちを抱え、通用口のドアをくぐった。当時の出勤時のルールは、ドアの傍の名札を赤から白にひっくり返すことになっていた。部長の札だけ出社未済の赤だった。「ラッキー!部長まだ来てない。今日はセーフだ」その時点で率直に思った。
執務室の雰囲気は何かがいつもと違った。上司もバタバタしているし、普段は談笑している先輩の表情も硬かった。
席に着くなり目の前の後輩が言った。「朝出勤したら部長が突然お亡くなりにファックスが来ていたんです。葬儀のご案内が…」
そのあとの言葉は頭に入ってこなかった。数秒前まで「ラッキーだ」と思っていた気持ちが嘘のように消えた。
年末の葬儀まではあっという間だった。年始にご家族が机の中の荷物を取りにきた。来年就職だと言っていた自慢の息子さんと奥様が一礼して職場から去っていった姿は今でも鮮明に思い出せる。
業務は通常営業に戻っていった。部長の席は相変わらず空いていたが、今は冬休み中だったのではないか、という気さえした。つい1週間前まで一緒に取引先のお客さんと来年について談笑もしていたのだ。
他部署の関係者や同期から「大変だったね」という言葉をかけられても、整理がつかず、答え方が分からなかった。数週間後に後任の部長が来ても実感が湧かなかった。
自分の日常に居て当然の人だったのだ。こんなにも簡単に日常だと思っていた時間が終わってしまうことが信じられなかった。
ただ、最後に交わした言葉を思い出す時だけ、驚くほど「終わり」を実感する。最後に話した内容は、部長からの質問に対しての口答えだった。なぜあの時笑顔で終わる話にできなかったのだろう。もう取り返かえすことができない、と思った時だけ、今後一緒の時間を過ごすことが叶わないことを実感してきた。
その後、当時同じ職場だった後輩も二人、もう再会ができないお別れをした。異動後に本社の食堂で交わした今度飲みに行こうの「今度」の約束は叶わなかったし、冬の恒例のぶりしゃぶ会も開催されなくなった。
日常には突然終わりが来る。意識するには、20代後半に経験した出来事は十分すぎるきっかけだ。
「後悔先立たず」を痛感した
居心地のよかった職場の関係者との別れは、もう一緒に楽しい時間を過ごすことができない悲しみとともに、「後悔先立たず」ということを強烈に痛感されられた。
「終わ」ってしまったらリカバリーは決してできない。だから、感情に引きずられ判断を誤ったり、やろうと思ったことを実行しないと、二度とやり直しのチャンスは訪れないかもしれないのだ。上司の不遜な態度を挽回する機会も、今度飲みに行くの約束を果たす機会は、これから永遠に訪れない。
学生時代のように、引退や卒業という「終わり」に向けたクライマックスは、人生では実は準備されていることが少ないのではないか、ということを思い知らされた。
「さよならだけが人生だ」
「さよならだけが人生だ」唐代の詩人于武陵(うぶりょう)の詩「勧酒」(かんしゅ)に付した井伏鱒二の妙訳の一部だ。
井伏鱒二文学碑には以下のように記されているそうだ。
勧 君 金 屈 卮(このさかづきをうけてくれ)
満 酌 不 須 辞(どうぞなみなみつがしておくれ)
花 発 多 風 雨(はなにあらしのたとへもあるぞ)
人 生 足 別 離(さよならだけが人生だ)
(出典:広島県観光連盟「ひろしま観光ナビ 観光スポット-井伏鱒二文学碑」)
同時に思い出したのは、仏教の「会者定離」という言葉だ。
「会者定離」とは、この世で出会ったものには、必ず別れる時がくる運命にあり、究極的には人生の終わりは必ず別れであることを意味する。二度と同じ瞬間は訪れない、という「諸行無常」の例えだ。「勧酒」も「会者定離」に通じているとのことだ。
いつか終わりを迎える。終わりを迎えたときに、少しでも後悔が小さくできているのか、状況をありのまま受け入れられるのか。
何かに後悔する度に思い出させてくれる20代後半の出来事は教訓と彼らの存在は、私の中でこれからも生き続けていく。