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【第5回ことばと新人賞最終候補作】船渡川広匡「学校で教えてくれない音楽の彼方へ」

学校で教えてくれない音楽の彼方へ

船渡川広匡

 三月の砂浜に沿って、俺は南へ南へと歩いている。

 暖かい午後の陽光が俺の顔に差す。白い波が陽光を反射して輝く。波は形を変えて何度も寄せては引いている。その流れと供に潮騒が聞こえる。いくつものわかめが浜に打ち上がって、砂にまみれて干からびている。浜の砂はやや濡れて黒くなっている。コンバースの灰色のスニーカーで、わかめを踏みつけて歩く。

 おおい、と呼ぶ声が後ろから聞こえる。振り向くと、羽田が小走りに走って来る。手には白いビニール袋がある。ようやく俺に追い着く。息を切らしている。羽田が言う。

「明日は委員会だな」

 羽田はビニール袋からストロングゼロを取り出して、俺に手渡す。俺はそれを受け取る。缶のプルタブを開ける。一口飲む。冷たい感覚が胃の方へと下っていく。言う。

「ああ、ビルの地下にまた行かなきゃな」

「そうだけれど、飲まずにやっていられるのか?」

 俺は黙る。俺は足元のわかめを見て、食べられるか少し考えてみる。諦めて、言う。

「なぜ乾き物を一緒に買ってこなかったんだ?」

 羽田が言う。

「やはりもたないようだな。知っている。飲みながら出るんだろう。それも分かっている」

 俺が言う。

「人は本当は何も持っていない。裸になった時が本当に持っているものだ。誰かが言っていた言葉だ。それは知っているのか。また分かったつもりになっているのだろう」

「委員会で出題された思考だな。委員会に出続けていればきっと分かるようになる。言葉と思考は密接な関係がある。思考に問題のあるお前はそれに耐えられなくて酒を飲むようになってしまった。だが実は俺も隠れて飲んでいる。お前程ではない。それでもストロングゼロが一日に三本だ」

 羽田は俺の隣に並んで歩いている。羽田も足元のわかめを踏みつけながら歩いている。俺はそのわかめが本当に食べられないのか考え直している。直感的にはいけると思うのだが、やはり砂にまみれているのは口には入れたくない。水で洗って鍋で煮なければならない。それにしてもやはりあの委員会に出ると酒でも飲まないとやっていられなくなる。羽田が言う。

「どうやって行くんだ?」

 昨日羽田は車を買った。八十年代のブルーバードだ。だからその車に俺を乗せて行きたくてうずうずしている。それ位の事なら分かる。委員会に行かなくても分かる。羽田とは幼稚園の頃からの付き合いだ。子供の頃から羽田は全く変わっていない。俺は変わってしまった。とてもつらい。つらい。俺は言う。

「お前の車で行こう」

 羽田は笑顔になる。言う。

「任せろ。運転は飲みながらでも出来る。なに心配する事はない。今までもそうだった。問題ない」

 陽が少し傾いてきている。その傾いた陽光が波に反射して目に入ってくる。沖を見ると、水平線の近くに白い船が一艘浮かんでいる。この海が遥か太古から連綿と続く生命の連鎖を保っている。今俺は、羽田と共にその連鎖の外部に立っている事を感じる。わかめを食ったら少しはその連鎖に当てはまっていくかもしれない。ストロングゼロを少しこぼして、缶を持つ右手指が濡れる。俺は右手指をなめる。言う。

「動物園に行きたいんだ」

 羽田がストロングゼロを一口飲む。一息ついてから、言う。

「動物園とは何だ?人間以外の生き物を集めて見世物にしている場所じゃないか。そんな場所になぜ行きたいんだ?俺は知っている。お前は本当は動物園なんか嫌いなんだろう?獣臭がするし。檻の中に閉じ込められている動物達は、まるで俺達そのものじゃないか」

 俺は言う。

「そう。俺達は言葉の檻の中に閉じ込められている。だからずっと浜を歩いている。そうすれば檻から出られるかもしれない。お前も知っているだろう。本当は知らないのか。だからこそ委員会がある。酒もある。酒ばかり飲んで俺達は本当に社会に役に立たない。そんなに言葉が好きなのか」

「そう。本当は言葉が好きなんだろうな。だからずっと話もしているし、机で文字を書いたりする。それが止められない。どうしてなのかは分からない。いつになってもそこから抜け出せない。苦しい。分かっている」

「本当に分かっているのか。本当は分からないんじゃないのか。ある日幕が下りてきて、『はい、今までの人生は終了です。全部嘘でした』となるんじゃないか。怯えている。俺達はびびりだ。怖がっている。そんな日が一刻も早く来て欲しい」

 俺はストロングゼロを飲み干す。羽田も飲み干す。俺は空き缶を羽田に手渡す。羽田は自分のものと合わせてビニール袋に入れる。

 かもめが一羽、飛んでいる。浜辺に着陸する。かもめがこちらを見ている。俺は言う。

「動物に見られているぜ」

「そうだ。俺達は移動動物園だ」

「明日、動物園に行かないか?」

「明日?委員会はどうする」

「欠席だ。これ以上向上してどうする」

「そうだな。車は動物園に行くのにも使える。拘る事はないし、動物は飲酒を許してくれる。考えてみればこれほど俺達にとっていい場所はない」

 俺は、やはりわかめは食べられそうにないな、と考える。惜しい、惜しくもない、もっとまともな食べ物はある、これ以上とらわれるな、考えるな、それでも考えている。

 

************

 

 俺は車の中にいる。羽田の白いブルーバードの助手席に座っている。運転席には羽田がいる。カーラジオからNHK・FMが流れている。羽田は上機嫌だ。顔が赤い。やはり飲んでいる。酒臭い。しかし俺も飲んでいる。さっきから羽田がくれたストロングゼロを飲んでいる。これは本当に強い。体に悪いやつだ。分かっている。本当は水でも飲んでいれば問題ない事を。分かっているのに止められないのは、本当は分かっていないという事だ。知らない。分かっていない。それは本当は恥なのか。だから委員会に出たくなってしまう。俺は黒いリュックサックの中から辞書を出す。ぺらぺらとページをめくってみる。言葉が波のように現れては消える。昨日見た波打ち際を思い出す。かもめが俺達を見ていた。俺の想像の中の羽田が言う。

「俺達は移動動物園だ」

 俺は辞書を閉じる。またリュックサックに入れる。羽田が言う。

「お前の辞書にはアル中という言葉はないのか?」

「どうだろう。もう一度見てもいいが。その前に俺にも飲ませてくれ」

「後部座席のリュックサックの中にあるよ」

 羽田は前を見たまま言う。俺は身をよじって後部座席から黄緑色のリュックサックを引っぱってくる。リュックサックを開ける。中にはストロングゼロが6本入っている。一本取り出す。プルタブを開ける。飲む。言う。

「うまい」

「そうか?俺にとっては安酒だから飲んでるだけだけどな。もっとうまい酒はある。それにお前はさっきそこから一本出して飲んでいたじゃないか。忘れたのか?」

 助手席の足元に空になった缶が一本転がっている。

「記憶はない。本当は何が飲みたいんだ?」

「いや。実は大していい酒を飲んだ事はないんだ。安酒ばかり。安いのがうまい酒だ」

 ブルーバードが高速道路を風を巻いて疾走している。羽田はじっと前を向いて運転している。スピードメーターを覗くと、ちょうど百キロ位を指している。俺は言う。

「委員会には欠席の連絡をしたか?」

「しない。嘘。本当はした。昨日のうちに関空に連絡しておいたよ。俺達休むから後はよろしくって。関空は呆れていたよ」

「何て言ってた?」

「『君達は私にとって理想的な委員活動をやっていません。僕は苦しいです。何とかして下さい。国語力がその程度で、これから先どうやって生きていくのですか。言葉は財産です。ますます言葉の上での富裕層になろうではありませんか。僕は苦しいです』とかさ。そんな事を言っていたよ。俺は聞きながらうんざりしていたけれど。ほら、関空ってそういう猪突猛進な真面目さがある奴だろう。だから適当に聞き流しておいたけれどね。そんな事よりストロングゼロだ。俺やお前にとってはストロングゼロが命なんだ。命の水だ。関空は下戸だから分からないんだ。きっと一生分からないだろうな」

 俺は言う。

「分かるかもしれない。それは言葉を紡いで何とかなるものじゃないのかもしれない。それ位分かってもいいものなんだろうけれど。それは後でのお楽しみなんだろうな」

「後って?」

「死んだ後の」

 NHK・FMがスティーブ・ライヒのエレクトリック・カウンター・ポイントを放送している。ブルーバードの走行音が聞こえる。百キロを超えると死んだ後の世界に近づいてくる。羽田の目が前方を見ている。俺も前を見る。交通標識や道路脇の茂みが、やはり百キロの速度で近づいて来ては遠ざかる。羽田が言う。

「光の速さで移動出来るならば、全てが見えるのかもしれないな。死後の世界が。それは向かって来ては消えるものなのだろうから。だけれど俺達はこの程度の速度しか出せない。だから死ぬまで見えない。やはり委員会に行くしかないんだろうな。関空の黒縁めがねをまた見にいかなきゃならないんだろうな。仕方ないな。それは仕方ないんだな。俺達は檻に入れられているのだもの。それは身の程って奴をわきまえなければならないよ。だって人間だもの」

「みつを。だろ」

「そう。分かってるじゃないか。しかしそれもまた委員会のおかげか」

 俺は昨日浜辺で見たかもめを思い出す。一羽で空を飛んでいた。その白い体は、空や沖の船と相まって、ますますその全体性を作っていた。かもめは檻には入っていない。それでいてその全体性の中からは逸脱していない。俺達は車を使ってその全体性へ、委員会へ同化しようとしている。どこまで走っても同化出来ない。あるいはもっと速度を上げれば同化出来るのかもしれないが、古いブルーバードではそこまで速度が出ない。早く動物園に着かないかな、と俺は考える。考えているのも遅い。辿り着かない。この道路は動物園まで繋がっているのだろうか。そこまで行ってもどうせ檻に入れられた動物達がいるだけだ。しかしその檻の中で彼ら彼女らは全体性を保っている。それは本当にすごい事だと思うが、彼ら彼女らは餌を与えられていて、それは本当に気の毒な事だと思うが、致し方ない。俺は言う。

「聞こえるか?」

 羽田が言う。

「何が」

 さっきから、キンコンキンコンというチャイムが鳴っている。百キロ超えているからだ。羽田が片手運転しながら服の襟首の中に右手を突っ込んでいる。羽田が言う。

「かゆい」

 そう言われて俺も気づいた。服の中がかゆい。また委員会からの妨害が入っている。欠席したから報復を受けているのだと思う。俺は言う。

「超えそうだから来たんだな」

 羽田が言う。

「そうだな。あらゆる影響が委員会を刺激している。仕方がない。早くその向こう側に行きたい。この車では限界だ。仕方がない」

 俺も服の中に手を突っ込んで、かく。かゆい部分が体中を移動している。羽田が言う。

「関空のせいだ。あいつが委員会を通してこういう事をやっているんだ」

 俺は言う。

「たぶんそうだろう。それでいて問題はそれだけに留まらない。もう少しすれば更にひどい仕打ちが待っているのだろう。俺達が我慢出来るかどうか分からない程の波が来るだろう。仕方がない」

 俺達は自分の体をひっかき続ける。そのうちかゆみが止む。羽田が言う。

「動物園はどこにあるんだろうな」

 俺が言う。

「俺も知らない。知らない事を知らないと言えないのは恐ろしい事だ。これから探すしかないのか。探して見つかるものなのかも分からない」

 携帯電話の着信音が、羽田から聞こえる。羽田は片手でズボンのポケットから携帯電話を取り出す。言う。

「もしもし」

 俺は羽田を見る。羽田がうなずく。羽田が小声で言う。

「関空だ」

 羽田はしきりに相槌を打っている。時々分かったとか、うんとか言っている。俺は残ったストロングゼロを飲み干す。足元に空き缶を置く。フロントガラス越しに景色を見る。白い鳥が飛んでいる。一瞬かもめかと思ったが、形が全然違う。あの大きさは、鳩かもしれない。一羽で横切っていった。俺は鳥の種類をよく知らない。もしかしたら白鷺かもしれないが。大きさが違う。おそらく鳩だろうとは思う。やはり知っている事を知らないと認識しないから話が始まらない。鳥なら別に今まで何度も見た事がある。にも拘らずその度に調べて来なかった。怠慢だ。仕方がない。

 羽田が話し終わって電話を切る。ピ、という電子音が聞こえる。羽田が言う。

「やはり委員会の方で動いているんだ。関空は俺達を切り捨てようとしているのかもしれない。それでいて俺達は素性がばれている。後はあっちのいいように攻撃を受け続ける事になる。この先どうなるのか分からない。動物園はどうする?」

「動物園?」

「そうだ。今向かっているのは動物園だろう」

「そうだっけ。動物園に行かなくても動物は見られる」

 俺はさっき見た鳥を思い出す。羽田が言う。

「その通りだ。これからどうする。すっかり委員会を敵に回してしまった。第二波、第三波と繰り返すだろう」

 俺は少し考えてから、言う。

「明日委員会に行ってみよう」

「委員会は今日だぜ。明日行っても誰もいない」

「そうか。じゃあ今行ってみようか」

「今からじゃ間に合わないかもしれない。しかしそれはいいアイデアだ。やってみよう」

 また羽田の携帯が鳴る。羽田がそれに応答する。羽田が言う。

「え?今?はい。はい。分かった。やってみる」

 俺はそれを横で聞いている。三本目のストロングゼロのプルタブを開ける。飲む。羽田が言う。

「このままNHK・FMを聞き続けていれば委員会を聴講出来るって」

 エレクトリック・カウンター・ポイントはとっくに終わって、今はディファレント・トレインズが流れている。俺は言う。

「関空は何て言ってた?」

「俺達の能力はまだまだ不足しているから、委員会が面倒見てくれるってよ」

「それはありがたいな。つまり通信教育をしてくれるって訳だ」

「そうだ。パンデミックの世の中で、流行に乗っている訳だ」

「いいじゃないか」

 ディファレント・トレインズが唐突に途切れて、一瞬無音になる。関空の声がカーラジオから聞こえてくる。

「納得しましたか」

 俺と羽田は互いに目を合わせる。カーラジオに向き直ってから、俺が言う。

「納得は出来ていない。こんな一方的な仕打ちはない。犯罪だ。自分は安全な所から卑怯だ」

 関空が言う。

「かもめを見ましたか」

 羽田が言う。

「見てないよ」

 俺が言う。

「昨日見た」

 関空が言う。

「違います。今日です」

 俺はさっき見た鳥を思い出す。言う。

「見た」

 関空が言う。

「違います。それは鳩です」

 俺が言う。

「なぜ分かるんだ」

 関空が言う。

「さっきからずっと聞いていたし、見ていたという事です。飲酒している事も」

 俺と羽田は黙る。関空が言う。

「鳩が飛んでいましたが、それは動物です。動物を見る為にわざわざ動物園に行かなくても動物は見られます。我々は人間ですが、人間も動物です。人間は見られる動物として認識されていません。しかし実際は哺乳類の一種です。特別扱いしています。鳩に聞いてみると良いです。鳩は特別扱いされていません。かもめに聞いてみても良いです。彼らは生まれつき自由です。人間はそうではありません。だからそこから少しでも自由になる為に委員会があります。そこへ君らは参加するべきです。僕はとても苦しいです」

 羽田が言う。

「委員会に出ていても結局苦しいんじゃないか」

 俺が言う。

「いや。確かに委員会は苦痛を和らげてくれる」

 関空が言う。

「そうです。これから委員会が始まりますよ。少し待ちましょう。どうしても見てもらいたいものがあります。あなた方が知っているものです。これはなかなかに味わい深いものです。どうやってこれなしに生きていけるものでしょうか」

 羽田が言う。

「見るってどうやって」

 羽田が言い切る前に、俺の頭の中に映像が浮かんできた。砂浜に落ちているわかめだ。俺は少し思い出してみた。昨日の砂浜。それはもう遠くに消えうせた記憶そのものだったのだが、急に思い出してきた。そういえば今日も酒を飲んでいるだけで、アテがない。せっかくだから用意しておけば良かった。後悔したが高速道路ではパーキングに入るまで何も手に入れる事は出来ない。パーキングに寄りたい。俺は言う。

「パーキングに寄ってくれないか。買い物がしたい」

 羽田が言う。

「俺もトイレに行きたい。次のパーキングに寄る事にしよう。しかし委員会はどうなるんだ。途中休憩かい」

 急に俺の足全体が焼けるように痺れてきた。関空が言う。

「委員会はどこでも出来ます。全てがもう始まっているのです。あなた方はもう諦めた方が良いです。時間はかかります。仕方のない事です。どうしてもそこから脱出したければ、向上させる以外の手段はありません。残念です。どうして出席しなかったのですか。このような形になってしまった。それでも遠隔で受けられるのだから、幸いです。時間はいくらでもあります。じっくり味わって下さい」

 羽田が言う。

「足が熱い」

 俺が言う。

「そうか。俺もだ。すっかり委員会が始まってしまった。この状態からどうやっていけばいいんだ」

「どこへ」

「動物園だ」

「本当に動物園へ行くのか」

「パーキングに動物園がある」

「そうか?」

「そうだ。運転に差し支えがあるか」

「ない」

「鳩に気をつけろ。飛んでくるぞ」

 俺がそう言った直後に、鳩の大群が空を飛んでいるのがフロントガラス越しに見えた。俺は黙っている。羽田も黙っている。鳩達が空を横切っていく。青い空にうっすらと白い雲も見える。雲は流れていく。鳩は飛び去る。俺は言う。

「次のパーキングに寄ってくれないか。そこに動物園がある。俺は知っている。お前も知っている。あらゆる場所に動物園がある事を。そこで満ち足りる事が出来るかどうかが試練なんだ。俺は酒だけでは足りず、アテがないか探している。それを止める。酒だけで満足出来るはずなんだ。もしくは酒がなくても満足出来るはずなんだ。俺はやり直したい。人生をやり直したい。どうしてもそれがやりたくて、出来なくて、それで腹に何かを詰め込む事で満足しようとしている。そんな生き方がもう嫌になってしまったんだ。お前なら分かるはず。お前もおそらくそうなんだろうから」

 羽田が言う。

「チャーハンが食べたい」

「なぜ今」

「分からない。映像が見えたんだ。また映像を脳に直接送り込まれている。それを見た後急にチャーハンが食べたくなった。どうなっているんだ」

 俺が言う。

「委員会がやっている。チャーハンではなくわかめで我慢するんだ。俺はそのわかめすら求めて止まないのだから。俺もチャーハンが食べたくなってきた。チャーハンが見える。足も熱い。わかめも食べたい。早くパーキングに止まらなければならない」

 羽田が言う。

「パーキングまでまだ距離がある。それまでは車の中で委員会をしなければならない。もうわかめの話は止めにしてもらいたい。昨日の浜辺が見える。どうしてこんなものが俺の中に浮かんでいるのかさっぱり分からない。鳩が見える。鳩がわかめをついばんでいる。鳩はわかめを自分の胃の中に送り込んでいる。うらやましい。俺もわかめが食べたい。いやむしろ俺がわかめになりたい。そうしたら鳩に食べられて、鳩と一緒に空を飛べるだろう。それが一番合理的だ」

「よし。わかめになろう。熱い。足が熱い。もしわかめに意思があるのならば、そう、チャーハンの具になるだろう。そうしたらチャーハンとわかめを同時に食する事が出来る。それが一番合理的だ。足が熱い」

 ラジオから関空の声が聞こえる。

「チャーハンはおいしいですか。ちゃんと刻んだわかめも入っていますよ。僕も一緒にチャーハンを食べたかったのですが、仕方がありませんね。動物園はまだですか。いや我々が動物園でもあるのです。ずっとチャーハンとわかめに執着する我々が動物園です。そして我々はラジオを通して同じ夢を見ています。僕はチャーハンを食べます。チャーハンには刻んだわかめが入ってます。鳩が飛んでいます。鳩が群れなして降りてきて、チャーハンを食べます。わかめも食べます。僕もチャーハンを食べます。僕と鳩はチャーハンを食べます。チャーハンを食べます」

 俺はどうしても歯磨きがしたくなってきて、それは食後に行うものなのだろうが、今俺はイメージの中でチャーハンを食べていて、歯の隙間にわかめが詰まっていて、その意味で歯磨きをするのはタイミングが良いのだが、それはあくまで俺の脳内で起こっている事であって、実際には歯磨きをしても仕方がないのだが。それも車の中だ。洗面所がない。パーキングにはある。なぜそんな事に気づかなかったのだろうかと戸惑っていると、羽田が言う。

「頭が痛い」

 そうこうしているうちに、俺の頭もじわじわと痛みを感じてくる。後頭部に鈍い痛みがある他、右側頭部に刺すような痛みを感じる。俺は言う。

「俺も頭が痛い。これもまた委員会だ。偏頭痛のようだが違う。委員会がやっている。わかめは諦めた。こんなに頭が痛くちゃ食べる事は出来ない。チャーハンも諦めた。どうしても食べたければ出前を取るしかない。ラジオで出前が取れるだろうか。今なら取れるはずだ。わかめ入りチャーハン一丁。どうだ」

 ラジオから関空が言う。

「わかめ入りチャーハン承りました。しかし偏頭痛で食べられないでしょう。それは電磁波で刺激しています。どこから放射しているかは秘密です。しかしあなた方はもう逃げられません。委員会からはどこへ行っても逃げる事は出来ません。僕は苦しいです。今、ぱかっと割れました。鏡餅が割れました。委員会で食べます。あなた方にもおすそわけをします。どうです。今見えるでしょう」

 羽田が言う。

「見える。鏡餅が見える。しかしこれは硬くて食べられない。せめて焼いてもらわないと。おや、焼けはじめたぞ」

 俺の頭の中でも鏡餅が見える。言う。

「これは鏡餅だ。確かに鏡餅だ。それが二つに割れている。なぜだ。正月はとっくに過ぎたのではないか。俺はチャーハンの方が良かった。わかめ入りのチャーハンの方が良かった。鳩が飛んでいる。こっちに向かってくる。きっと鏡餅を食べたいんだ。そうに決まっている。そうはさせるか。俺が先に鏡餅を食べるんだ。熱い。足が熱い。手も熱い。俺は持っている。焼けた鏡餅を持っている。そうだ。これを食べるんだ。しかし既に口の中に入っている。熱い。口の中が熱い。焼けている。動物園はどうした。まだ着かないのか。どうしてこんな事になっているんだ。浜辺だ。俺達は浜辺にいた。それは昨日の事だ。今じゃない。それなのにどうした事だ」

 

************

 

 俺の目の前には浜辺が広がっている。隣に羽田もいる。これは頭の中に画像が送り込まれている。今は車の中にいるはずだ。本当はそうなのに、カーラジオを通して俺達を浜辺にいるように錯覚させているだけだ。そう考えるのだが、実際の俺は浜辺にいる。青い。空が青い。かもめが飛んでいる。鳴き声が聞こえる。浜の奥の方にテトラポッドがいくつも見える。熱い。足が熱い。偏頭痛もする。チャーハンはどこへ行ったのか。さっきまでチャーハンがあったのに。見える。チャーハンが見える。俺はチャーハンの皿を両手で持っている。皿の上にレンゲも乗っている。俺は右手でレンゲを持ち、左手でチャーハンの皿を持っている。チャーハンにはわかめが具として混じっている。俺はレンゲでチャーハンをすくう。それを口の中に持っていく。口の中にチャーハンを入れる。チャーハンの味がする。強火で熱したらしく、乾燥した米粒で、その中に細かく刻んだわかめが入っている。隣で羽田もチャーハンを食べている。俺はチャーハンをよく噛む。歯の間にわかめが詰まる。舌で取り除こうとするが取れない。歯磨きをしたら取れるはず。歯磨きがしたい。しかし俺はチャーハンを食べている。どうしても歯の間に詰まったわかめは気持ち悪い。そう思いながらまた口の中にチャーハンを入れる。羽田が言う。

「動物園はどこだ」

 俺が言う。

「ここが動物園なのか。パーキングはどうした」

 

************

 

 俺達は車の中にいる。高速道路を走っている。キンコンキンコンと、アラームが鳴っている。カーラジオから関空の声が聞こえる。

「動物園はどうでしたか。我々は委員会です。それでいて動物園です。かもめは飛んでいます。空を飛んでいます。どうしても空を飛びたいのでしょう。僕も苦しみから解き放たれて、空を飛びたいです。どうしてもチャーハンが食べたければ、パーキングに寄る事です。右足が痺れています。僕の右足が痺れています。委員会です。僕は苦しいです」

 羽田が言う。

「パーキングに寄ろう。俺はトイレに行きたい。さっきから我慢している。限界が近い。運転しながらストロングゼロの空き缶に放尿すればいいのか。いや、それは危ない。缶の口で性器に傷を負ってしまうかもしれないし、尿がこぼれるかもしれない。非現実的だ。運転している。俺は白いブルーバードを運転している。さっきからずっとだ。もうちょっとでパーキングに着く。もう少しだ。左折するぞ。そうだ。よし。パーキングの建屋が見えてきた。駐車場に車がたくさん止まっているぞ。空いている場所がある。そこに止めよう。よし。もう少しだ。もうちょい。あれ、俺達は浜辺にいる。青い。空が青い。かもめが飛んでいる。奥の方にテトラポッドが見える。俺は左手でチャーハンを、右手でレンゲを持っている。足が熱い。焼ける。口の中に鏡餅が入っている。どうして鏡餅なんだ。正月はとっくに過ぎたぞ。成田はどうした」

 俺は言う。

「俺は大丈夫だ。こんな状況だが大丈夫だ。さっきからずっと歯磨きをしている。歯の間に詰まったわかめが取れた。良かった。これですっきりした。お前が鏡餅を食べている間に、歯磨きをしていたんだ。歯磨きをすると虫歯にならない。とても良い。それにしても俺達はまた浜辺にいる。さっきパーキングに着いたと思ったのに。お前トイレは大丈夫か」

 羽田が言う。

「こうなったらそこの浜辺で用を足すようにしよう。海なら大丈夫だろう。他に誰もいないし。かもめが見ているだけだ」

 羽田は波打ち際へと歩いていく。俺は歯磨きをしている。鏡餅が見える。ぱっかりと二つに割れている。みかんが無い。鏡餅の上にはみかんが載っていない。みかんは俺の右手にある。俺はみかんの皮を剥く。口の中へと一房入れる。噛む。すっぱい。俺はトイレに行きたい。羽田は用を済ませたらしく、こちらに戻ってくる。俺は言う。

「鳩はどうした」

 辺りを見回すが、鳩はどこにもいない。

 

************

 

 俺達は車の中にいる。パーキングエリアの駐車場に停車している。羽田が言う。

「パーキングに着いた。ようやく着いた。ずいぶん時間がかかってしまった。なぜこんな事になっているのだろう。そうだ。委員会だ。委員会が開かれている。それでいて動物園だ」

 俺が言う。

「そうだ。動物園に着いた。ここは動物園だ。さっそくトイレに行こう」

 羽田が言う。

「俺はさっきまでトイレに行きたかったのに、今はもう催していない。ストロングゼロの缶が暖かい。なぜだ。缶の中に尿が入っている。匂いで分かる。さっき自分でやったのだ。性器に痛みは無い。上手くやった。俺はこれを捨てに行かなければならない。降車しよう。早く行こう」

 俺が言う。

「マスクをしなくちゃな」

 羽田が言う。

「マスクをしなければどうなるのだろう。分からない。分からなくても今は我慢してマスクを着けなければ、建屋に入る事は出来ない。息苦しいが仕方がない」

 俺達は紙マスクを着けてから、降車する。辺りにはいくつもの自動車が停車している。マスクを着けた人々がいる。バイクも複数台留まっている。ヘルメットをかぶったライダー達がいる。俺は言う。

「ここは確かに動物園だ」

「そうだな」

 どうして鳩がいないのだろう。鳩がいなければ空を飛ぶ事は出来ない。鳩が鏡餅をついばんで、俺も鏡餅をついばんで、その上で空を飛ぶのだ。もちろんわかめも入っている。その中に入っている。鏡餅の中に。

 俺達はパーキングの建屋のトイレへと入っていく。俺は小便器で用を足す。羽田はストロングゼロの缶の中に入った尿を小便器に流す。俺は言う。

「缶があって良かったな」

「そうだ。良かった。これが無ければ漏らしていた所だ。新しいストロングゼロを買おう。そういえばさっきからずっと俺達はストロングゼロを飲んでいない。よく持った。その代わりにチャーハンを食べたり鏡餅を食べたりしていたから、腹は減っていない。お前はどうだ」

「確かに腹は減っていない。ストロングゼロを買おう。それからやはり、アテが欲しい。ずっと探していた。一緒に買おう」

「そうしよう」

 俺達は売店へと向かう。棚を見るがストロングゼロは置いてない。羽田は言う。

「どうするんだ。車内にはあと一本ずつしかストロングゼロは無いぞ」

 俺は言う。

「コカコーラゼロで我慢しよう」

 俺達は500mlのコカコーラゼロを6本買う。車へと戻る。車内へ入ると、カーラジオから関空が言う。

「次回はそのコカコーラゼロのペットボトルで用を足せますね。鳩はどこへ行きましたか。空を飛んでいます。鳩は空を飛んでいます。青い。空が青い。僕も飛んでいます。空を飛んでいます。鳩の胃袋の中にわかめが入っています。鏡餅も入っています。どうしてもその中に、僕も入りたい。そうしたら鳩と一緒に飛べます。苦しみの無い空に飛んでいます。どうして一緒に連れて行ってくれないのか。まだ向上が足りません。やはり委員会です」

 羽田が車のキーを回す。エンジンが起動する。俺は言う。

「関空。ラジオの電源が入る前にしゃべっていたぞ」

 関空が言う。

「ラジオはあくまで便宜的なもので、そんなものがなくとも通じます。電磁波はどこまでも追ってきます。それは分かっている事ではないのですか。分からないことなのでしょうか。どうにも判然としません。そんな状況そのものが良いものであるように感じます。どうしてなのか。どうされたいのか。どうなりたいのか。どうしたいのか。明確にする必要があります。それでいてありません。そんな日々を過ごしている我々はいつまで経っても動物園から出られません。苦しいです。僕は苦しいです。この苦しみから解放されたい」

 車の隣に一台のバイクが横付けする。ハーレー・ダビッドソンだ。エンジンが低くドゥルドゥル言っている。ライダーが助手席の窓ガラスを軽くノックする。俺は窓を開ける。ライダーがフルフェイスヘルメットを取る。関空だ。黒縁めがねが言う。

「国語力向上委員会はこれから始まりますよ。空が青い」

 俺はうなずく。羽田を見る。羽田もうなずく。関空はヘルメットをかぶる。羽田はギアを入れてアクセルを踏む。関空のバイクが先に出る。ブルーバードは後を追う。そのまま高速に出て行く。カーラジオから関空が言う。

「百キロを超えてからが勝負です。そこから入れるかどうかです。前方に白い鳩の群れが見えます。移動動物園です。我々がその仲間に入れるのかどうか、直接聞いてみたらいいように思います。そういえばあなた方はさっきからストロングゼロを飲んでいませんね。どうしましたか。急にしらふになって大丈夫ですか。大丈夫のようですね。おや。見えてきましたよ」

 

************

 

 俺達は砂浜にいる。三人で並んで歩いている。潮騒が聞こえる。奥の方にテトラポッドが見える。白いかもめが飛んでいる。足元にはわかめがいくつも打ちあがっている。俺と羽田はストロングゼロを片手に持っている。関空はフルフェイスヘルメットをかぶっている。俺はコカコーラゼロを飲む。羽田も飲む。俺も飲む。羽田も飲む。かもめが飛びながら鳴く。羽田が言う。

「昨日、ブルーバードを買ったんだ」

 俺が言う。

「そう?」

「そうだ。それに乗って委員会に行かないか?」

「それはいいな」

 関空が言う。

「いいですね」

 羽田が続けて言う。

「ずっと行きたかったんだ。ビルの地下にあるんだ。どうして行けなかったんだろう。ずっと行っていたのに。行けなくなってしまった。みかんを食べたくなってきた。鏡餅の上にはみかんが載っている。それは常識だ。どうして常識の枠内でしか考えられないのか。そこから抜け出す方法があるんじゃないかと思っていた。それは能力の向上で出来るんじゃないかと思っていた。それでいて、漢字の書き取りをしているのだが、これで向上出来るのかは疑問だった。駄目だろう。そう思った。速さが必要だ。百キロ超える所で入れるかどうか。それはやってみないと分からない。どうしても必要なら、それはやって来る。近いうちにやろう。かもめが飛んでいるが、空を飛ぶには能力の向上が必要だ。あれ位の高さで飛ぶには、それ相応の能力が必要になってくる。みかんが見える。今、俺の手にはコカコーラゼロとみかんがある。みかんを食べたい。その前にコカコーラゼロを飲む。うまい。げっぷが出る。みかんの皮を剥く。一房口に入れる。すっぱい。でもおいしい。これはみかんだ。食べなくても分かる。でも食べないと分からない。分かったつもりでも分からない。どうしてなんだ。それまでは分かっていたつもりなのに。書け。書くんだ。書けば書く程分かる。しかし分からない。なぜだ。知らない。どうしてもか。どうしてもだ。分かった。いや分からない」

 俺が言う。

「始まっている。委員会が始まっている。チャーハンだ。チャーハンの皿が俺の左手にある。右手にはレンゲを持っている。コカコーラゼロはズボンの後ポケットに入れた。俺はチャーハンを食べる。熱い。口の中が熱い。こんな時こそコカコーラゼロだ。俺はコカコーラゼロを飲む。冷たい。口の中で熱いものと冷たいものが混じり合っている。うまい」

 関空が言う。

「見たいものが見える訳ではない。嘘。汚い世界。どうしてこんなに汚いのか。見えているものが全てだ。書け。書くんだ。書けば書く程分かる。始まっている。委員会が始まっている」

 

************

 

 俺達は車の中にいる。俺は羽田を見る。羽田は前を見て片手で運転している。もう片手でコカコーラゼロを飲む。スピードメーターが百キロ位を指している。俺達の車の前を、関空のバイクが走っている。カーラジオから関空が言う。

「どこにいましたか」

 俺は言う。

「浜辺にいた。でもまた戻ってきた」

 羽田が言う。

「そうだ。俺達は浜辺にいた。みかんがうまかった。みかんはどこへ消えてしまったんだ。いや、あの浜辺はどこへ消えてしまったんだ。俺達の想像の中にあったのか。ないのか。いや一昨日そこにいた。だから現実に存在している。にも拘らず消えた」

 俺はコカコーラゼロを飲む。言う。

「ストロングゼロはあと一本ずつ残っている。やはりこれでなければならないのではないか。いや酔いはもうかなり薄らいでいる。このままで良い。そこで提案だが、やはり百キロ超えてどうなるかを見るべきではないのか。それを見せない為に浜辺に行かされたのではないか。あれはトラップだ。きっとそうだ。なぜなら俺達は車に乗っている。そこから移動する事など出来ない。車は移動している。どこかへ移動している。それは俺達には想像もつかないような移動をしている。関空、聞こえるか」

 カーラジオから関空が言う。

「聞こえます。これもまた委員会です。全て委員会です。すぐにストロングゼロを飲んで下さい。コカコーラゼロはまた尿を溜めるのに使えます。とっておいて下さい。チャーハンはもう食べないで下さい。わかめもです。委員会が始まります」

 俺は後部座席の黄緑色のリュックサックを引っ張り出す。中からストロングゼロを二本取り出す。プルタブを開けて、一本を羽田に手渡す。羽田が受け取って、飲む。俺もプルタブを開けて飲む。一口。二口。キンコン、キンコンとチャイムが鳴り始める。その音を俺と羽田は黙って聞いている。前方の関空が、登板車線に避ける。フロントガラスの向こうに、白い鳩の群れが見える。関空が右手で親指を立てて合図する。俺はうなずく。言う。

「まだ酔いが回っていない。これでは速度があっても飛べない。どうする」

 関空が言う。

「そのまま飲んでいて下さい。速度は百キロを保ったまま。しばらく走っていて下さい。鳩の群れが飛んでいます。このまま追いかけましょう。鳩よ、待って下さい。僕は今飛ぼうとしています。僕もストロングゼロを飲みます。下戸だけれど飲みます。コカコーラゼロでは駄目です。アルコールが入っていません。でも砂糖も入っていません。これは良い。とても良い飲物です。しかし虫歯に注意しなければなりません。歯医者に行かなければなりません。歯医者に行くのは嫌いです。僕としては半年に一回定期点検をしているのですが、それで安心しています。毎日の歯磨きが大事です。わかめが歯に挟まったならば、それを落とさなければなりません。僕はチャーハンを食べます。具にわかめが入っています。熱々のチャーハンを食べるので、口の中が熱くなります。そこで飲むのはストロングゼロです。口の中で暖かいのと冷たいのが混じりあって、うまい。とてもうまい。歯を磨きたい。僕の手には歯ブラシがあります。これで歯を磨きます。丁寧に隅々まで磨きます。歯に挟まったわかめが取れました。良かった。すっきりしました。これで虫歯になりません。やはり普段からの歯磨きが大事です」

 羽田が言う。

「酔いが回ってきた。いよいよだ。さっきからずっとチャイムが鳴っている。百キロを超えている。鳩の群れは行ってしまった。青い。空が青い。でもここからだ。きっと連れて行ってくれる。俺達を連れて行ってくれる。鏡餅はもう食べない。チャーハンもわかめももう食べない。見える。見える」

 

************

 

 我々三人は岩山にいる。崖の上に立っている。空は晴れて青い。白い雲がたなびいている。崖淵に大きな岩がある。直径一メートル位の白い岩だ。その上に鳩の群れが止まっている。ぽっぽ、ぽっぽと鳴いている。俺達はその岩の前に立っている。俺は羽田と関空を見る。二人とも黙っている。俺は手に持っているストロングゼロを飲む。羽田も飲む。関空はヘルメットを脱ぐ。コカコーラゼロを飲む。関空が言う。

「僕の分のストロングゼロがありません」

 羽田が言う。

「ストロングゼロはもう無い。諦めろ。どうしても飲みたかったらコカコーラゼロを飲め。諦めろ。諦めた結果ここに来ているんじゃないのか」

 関空が言う。

「そう、諦めた。全てを諦めた。だからこそここまで来る事が出来ました。僕は怖いです。どうしてこんな事になってしまったのか分かりません。もう戻りたい。だけれど戻れない。どうやったら元に戻れるのか知りたい。それは知らない。知っているのは誰なのでしょうか。鳩は知っているのでしょうか。だとしたら聞かなければなりません。鳩に連れられてここまで来ました。どうしようもない。もうどうしようもない」

 俺は言う。

「疲れたよ。俺はもう疲れたよ。お腹がぎゅっとなる。ゼロだ。全てがゼロなんだ。ゼロになるからだを追い越していけば良かったんだ。ここはもう、あの世かもしれない。死んだのかもしれない。ここまで来てしまったのだから、もうおしまいだ。俺はもう疲れたよ」

 鳩達がこちらに少し羽ばたいて寄ってくる。しきりに地面をついばんでいる。羽田がチャーハンを地面に少し撒く。鳩達が急に寄ってくる。羽田が言う。

「チャーハンはもう食べないからな」

 関空が言う。

「そう。もうチャーハンは食べない。わかめも食べない」

 俺が言う。

「その役目はもう終わった訳だ。見ろ。鳩がチャーハンを食べている。チャーハンには刻んだわかめが入っている。これで鳩と共に空を飛べる」

 羽田が言う。

「しかし鳩は空を飛ぶのか?ここがゴールだ。ここまで来てしまえば、空を飛ばなくてもいいのではないか?」

 俺は言う。

「この鳩は伝書鳩だ。見ろ。脚に筒がくくりつけてある。ここにメッセージを入れるんだ。そうすれば言葉を伝達する事が出来る。関空。この鳩はやはり」

 関空が言う。

「そう。委員会の鳩です。この鳩全てが委員なのです。そして全ての情報はこの岩に届けられます。それを一個ずつ見るのが委員会活動です」

 俺が言う。

「ビルの地下でやっているんじゃなかったのか」

 関空が言う。

「あれはダミーです。一般人向けに公開されています。ダミーはいろんな分野に応用されています。自動車の衝突実験の際、座席には人型のダミーが置かれています。同様に、浜辺にいたかもめは、ダミーです。あれは本当は鳩です」

 羽田が言う。

「飛び方が鳩と全く違っていた。あれもダミーなのか」

 関空が言う。

「そうです。あなたが見ていたかもめは全くのダミーです。ほら、見て下さい。見えていますか。見えていませんか。その鳩の群れの中にかもめがいます」

 俺と羽田は鳩の群れを見る。かもめが一羽混じっている。俺は言う。

「かもめがいる」

 羽田が言う。

「これはかもめだ。しかし本当は鳩なのか?」

 関空が言う。

「そうです。これは鳩です。錯覚しているのです。本来は全てが錯覚なのですが、部分的に錯覚させています。そして私です。あなた方が見ている私はダミーです。本来の私はその岩です。ここまで連れてくるのに時間がかかってしまった。でも仕方がない。あの岩こそ私であり、委員長です」

 羽田が言う。

「ではかもめはどこへ行ったんだ?これがダミーだとしたら、鳩はどうなるのだろう。委員会が開かれている。今委員会が開かれている。我々もそこに参加する。これから足にくくりつけてある筒の中から手紙を出す。それを読む。その言葉を委員長に報告する。お前が委員長なのだな。知らなかった。地下で行われていたダミーの委員会では、委員長はいなかった。大勢の委員はいた。誰もいなかった。誰かはいた。でもそれはダミーだから気配を感じさせなかった。どうりで寂しいと思っていた。我々はそこで向上したつもりになっていた。毎回漢字の書き取りをしていた。あれはあれで良かった。漢字を覚える事が出来た。単語を覚える事も大事だと思う。これからも継続していきたい。ちょっと待て。ストロングゼロを飲む。うまい。これがなければ委員会を継続していけない。酔いが回っているうちに委員会をやってしまおう」

 俺と関空はうなずく。三人で鳩の群れに寄る。鳩の群れは逃げない。岩の上でずんぐりと座っていたり、軽く羽ばたいて跳ねていたり、岩の下辺りに降りてチャーハンの残りをついばんでいたりする。俺はその中からかもめを狙ってゆっくり近寄る。両手でそっと捕まえる。かもめは逃げようとしない。どこか遠くを見ている。かもめの足には筒はなく、USBがくくりつけられている。俺はそれを、かもめの足に傷つけないようにもぎ取る。かもめを地面に戻す。かもめは黙って岩の方へと寄っていく。俺は言う。

「羽田、リュックサックの中にノートパソコンがあったな」

 羽田が言う。

「ある。今リュックに入っている。背中にしょってきて良かった。たっぷりと充電してある。USBに何が入っているか見てみよう」

 関空が言う。

「その前に、僕は元に戻ります」

 関空が岩に向かって歩く。鳩達が関空を避けていく。関空は岩の前であぐらをかいてこちら向きに地面に座る。言う。

「ノートパソコンを鳩達に渡して下さい」

 羽田がリュックサックの中からノートパソコンを取り出す。羽田の前に鳩の群れが近づく。羽田はかがんでノートパソコンを近づける。羽田が手放すと、鳩達がおしくらまんじゅうして、ノートパソコンを担ぐ。鳩の群れがノートパソコンを関空の方へと運んで行く。関空はノートパソコンを受け取る。言う。

「かもめにUSBを渡して下さい」

 群れの中からかもめが歩み出てきて、羽田の前に出る。俺は羽田にUSBを手渡す。羽田はかもめの顔の前にUSBを差し出す。かもめがそれをくわえる。回れ右して関空の方へと歩いていく。かもめが関空の前に着く。関空が手を差し伸べると、かもめがUSBを関空の手のひらに乗せる。関空が言う。

「ありがとう。どういたしまして。これでUSBに何が入っているのか分かる。でもノートパソコンを使わなくても分かる。かもめなら分かる。聞いてみよう」

 かもめが言う。

「この体はダミーです。はい。私です。関空です。さっきの体はダミーです。元々かもめがダミーだから、入れ替われるんですね」

 関空が言う。

「嘘です。このかもめはかもめです。私は私です。USBをかもめに渡しても読み込めません。やはりノートパソコンで見てみましょう」

 かもめが言う。

「そうです。私にUSBを渡されても読める訳がありません。ノートパソコンで見るのです」

 俺が言う。

「もしかして委員長?」

 かもめが言う。

「そうです。私が委員長です。そして関空です。今、人間の体を借りた関空がノートパソコンを用意します。待って下さい」

 人間の関空はノートパソコンをあぐらをかいた足の上に載せて開く。指先で電源ボタンを押す。ノートパソコンが起動する。羽田が言う。

「ストロングゼロが切れてしまった。もう残りは無い。どうする」

 羽田は空になった缶をリュックサックの中へ入れる。俺が言う。

「俺もだ。これからはコカコーラゼロを飲むしかない。いいんだ。ゼロになればいいと分かったから。充分役に立つ。これで大丈夫だ。きっとそうだ。安心して良い。どうにも考えすぎるのが良くない。さっきから鳩達が群れている。ようやく一緒になれた。チャーハンも食べさせた。わかめもだ。これで安心だ。委員長だ。かもめが委員長だ。それでいて関空だ。矛盾しているようで矛盾していない。知っているようで知らないのと同じだ。安心出来る」

 羽田がうなずく。関空がノートパソコンにUSBを接続する。指先でパッド上を操作する。関空が言う。

「今、USBのデータ内容を開いています。データが一つ入っています。テキストデータです。ソフトを使ってデータを開きます。開かれたデータには言葉がたくさん書かれています」

 関空の膝の上にかもめが飛び跳ねて乗って来る。かもめが文章を読み上げる。

「三月の砂浜に沿って、俺は南へ南へと歩いている」

 

************

 

「暖かい午後の陽光が俺の顔に差す。白い波が陽光を反射して輝いている。波は形を変えて何度も寄せては引いている。その流れと供に潮騒が聞こえる。いくつものわかめが浜に打ち上がって、砂にまみれて干からびている。浜の砂はやや濡れて黒くなっている。コンバースの灰色のスニーカーで、わかめを踏みつけて歩く。

 俺は何をやっているんだろう、と思う。大事な何かがあったような気がする。

 おおい、と呼ぶ声が後ろから聞こえる。振り向くと、羽田が小走りに走って来る。手には白いビニール袋がある。ようやく俺に追い着く。息を切らしている。羽田が言う。

『明日は委員会だったはずなんだが、覚えているか?』

 俺が言う。

『そのはずだが、俺もあいまいだ。まあいい、行けば分かるだろう』

 羽田はビニール袋からコカコーラゼロを取り出して、俺に手渡す。俺はそれを受け取る。ペットボトルの蓋を開ける。一口飲む。冷たい感覚が胃の方へと下っていく。言う。

『ああ、ビルの地下にまた行かなきゃな』

『そうだけれど、もう飲まずに大丈夫なようだな』

 俺は黙る。俺は足元のわかめを見る。砂にまみれたわかめだ。何とも思わない。言う。

『大丈夫だ。これからはやり直せる。一からこつこつとやる』

 羽田が言う。

『俺もそう思っていた。何か吹っ切れた感じだ。頭が冴えている』

 俺が言う。

『人は本当は何も持っていない。裸になった時が本当に持っているものだ。誰かが言っていた言葉だ。ずっと実感がなかったんだが、本当にそうなんだろうな。少し分かったような気がする』

『委員会で出題された思考だな。委員会に出続けていればきっと分かるようになる。言葉と思考は密接な関係がある。俺も禁酒した。今はコカコーラゼロが一日に三本だ』

 羽田は俺の隣に並んで歩いている。羽田も足元のわかめを踏みつけながら歩いている。俺はそのわかめが本当はどういう意味なのか考え直している。直感的には無意味だと思うのだが、やはり気になる。なぜこんなものにずっと拘っていたのか、分からない。羽田が言う。

『どうやって行くのか決まっているんだろう?』

 昨日羽田は車を買った。八十年代のブルーバードだ。だからその車に俺を乗せて行きたくてうずうずしている。それ位の事なら分かる。委員会に行かなくても分かる。羽田とは幼稚園の頃からの付き合いだ。子供の頃から羽田は全く変わっていない。俺は変わってしまった。とてもつらい。つらい。でもこれからは生真面目にこつこつやっていこう、と思う。俺は言う。

『お前の車で行こう』

 羽田は笑顔になる。言う。

『任せろ。酒をきっぱり絶ったから、運転は問題ない。飲酒運転は殺人行為だ』

 陽が少し傾いてきている。その傾いた陽光が波に反射して目に入ってくる。沖を見ると、水平線の近くに白い船が一艘浮かんでいる。あの船は漁船なんだろうか、と考える。分からない。見て分かる訳がない。分からない事は考えても無意味だから、分からないままにするしかない。この海が遥か太古から連綿と続く生命の連鎖を保っている。今俺は、羽田と共にその連鎖の内部に立っている事を感じる。なぜそう感じるのかは分からない。以前はそうは感じなかった。少し許されたような気がする。コカコーラゼロを少しこぼして、ペットボトルを持つ右手指が濡れる。またやってしまった。俺は少しうんざりして右手指をなめる。言う。

『動物園に行きたいような気がする』

 羽田がコカコーラゼロを一口飲む。一息ついてから、言う。

『俺も動物園に行きたい気がする。なぜ行きたいのか分からない。何かひっかかるのだが、俺達はなぜ動物園に行きたいのだろう。以前はいつ動物園に行ったのか、記憶がない。何か壮大な無駄をやっている気がする』

 俺は言う。

『そう。俺達は壮大な無駄をやっている。だからずっと浜を歩いている。そうすれば意味のある瞬間がある。お前も知っているだろう。本当は知らないのか。だからこそ委員会がある。コカコーラゼロもある。コカコーラゼロばかり飲んで俺達は本当に社会に役に立たない。そんなに無駄が好きなのか』

『そう。本当は無駄が好きなんだろうな。だからずっと話もしているし、机で文字を書いたりする。それはとても素晴らしい事だ。国語ってとてもいい。ずっとやっていたい』

『分からない事は分からない事として、記憶の棚に入れておけばいい。とうとう幕が下りてきて、「はい、今までの人生は終了です。全部嘘でした」となった。あらゆる価値観が逆転した。俺達はそれを楽しんでいる。そんな日がとうとうやって来た』

 俺はコカコーラゼロを飲み干す。羽田も飲み干す。俺は空になったペットボトルを羽田に手渡す。羽田は自分のものと合わせてビニール袋に入れる。かもめが一羽、飛んでいる。浜辺に着陸する。かもめがこちらを見ている。俺は言う。

『かもめに見られているぜ』

 羽田が言う。

『あのかもめ、俺達に用があるのかもしれない。きっとそうだ。何か言いたげな様子だ。ちょっと行ってみよう』

『近寄ると飛んで逃げるだろう。しかし確かに何かひっかかるな。なぜだろう』

『分からない。気のせいかもしれない』

 俺はきっぱり言う。

『明日は動物園に行こう。何か分かるかもしれない』

『そうしよう。車は動物園に行くのにも使える。拘る事はないし、動物は意味にとらわれないから、無駄を許してくれる。考えてみればこれほど俺達にとっていい場所はない』

 俺は、やはりわかめを食べる気はないな、と考える。わかめにとらわれない、考えない、そんな心境になっている。

 

************

 

 俺は車の中にいる。羽田の白いブルーバードの助手席に座っている。運転席には羽田がいる。カーラジオからNHK・FMが流れている。羽田は上機嫌だが、素面だ。俺も飲んでいない。さっきから羽田がくれたコカコーラゼロを飲んでいる。これは体に悪いやつだが、ストロングゼロ程ではない。本当は水でも飲んでいれば問題ないのだが、味がついていない飲物は飲んでもあまりおいしくない。これ以上刺激は要らないと思うのに、なぜか刺激がないと飽き足りない。分かっているのに止められないのは、本当は分かっていないという事だ。知らない。分かっていない。それは本当は恥なのか。だから委員会に出たくなってしまう。俺は黒いリュックサックの中から辞書を出す。ぺらぺらとページをめくってみる。言葉が波のように現れては消える。昨日見た波打ち際を思い出す。かもめが俺達を見ていた。俺の想像の中の羽田が言う。

『あのかもめ、俺達に用があるのかもしれない』

 俺は辞書を閉じる。またリュックサックに入れる。羽田が言う。

『お前の辞書には素面という言葉はないのか?』

『どうだろう。もう一度見てもいいが。その前に俺にも飲ませてくれ』

『後部座席のリュックサックの中にあるよ』

 羽田は前を見たまま言う。俺は身をよじって後部座席から黄緑色のリュックサックを引っぱってくる。リュックサックを開ける。中にはコカコーラゼロが6本入っている。一本取り出す。蓋を開ける。飲む。言う。

『うまい』

『そうか?俺にとっては安ジュースだから飲んでるだけだけどな。もっとうまいジュースはある。それにお前はさっきそこから一本出して飲んでいたじゃないか。忘れたのか?』

 助手席の足元に空になったペットボトルが一本転がっている。

『記憶はない。本当は何が飲みたいんだ?』

『野菜ジュースがうまい。でも刺激が少なすぎる。煩悩にまみれた凡夫の俺としては、やはりコカコーラゼロがいいのだ』

 ブルーバードが高速道路を風を巻いて疾走している。羽田はじっと前を向いて運転している。スピードメーターを覗くと、ちょうど百キロ位を指している。俺は言う。

『委員会はいつだっけ?』

『覚えていない。でも昨日関空に連絡した。関空は喜んでいたよ』

『何て言ってた?』

『「君達は私にとって理想的な委員活動をやっています。青い。空が青い。これからはかもめと共にどこまでも飛んでいけます」とかさ。そんな事を言っていたよ。俺は聞きながら「関空少し変わったな」と思ったけれど。ほら、関空ってそういう猪突猛進な真面目さがあった奴だろう。だから以前は適当に聞き流しておいたけれどね。そんな事よりコカコーラゼロだ。俺やお前にとってはコカコーラゼロが命なんだ。命の水という程でもないけれど。関空は下戸だから丁度いい。分かってもらえるかもしれない』

 俺は言う。

『分かるかもしれない。それは言葉を紡いで何とかなるものじゃないのかもしれない。それ位分かってもいいものなんだろうけれど。それはいよいよ分かるんだろうな』

『もう少しだな』

『そうだ、もう少しだ』

 NHK・FMがバッハのゴルトベルク変奏曲を放送している。ブルーバードの走行音が聞こえる。百キロを超えると鳩の世界に近づいてくる。羽田の目が前方を見ている。俺も前を見る。交通標識や道路脇の茂みが、やはり百キロの速度で近づいて来ては遠ざかる。羽田が言う。

『鳩の世界が見える。それは以前どこかで見た世界だ。それは向かって来ては消えるものなのだろうから。俺達はこの程度の速度しか出せないけれど、それでも一度経験した事だから分かる。やはり委員会に行くしかないんだろうな。関空の黒縁めがねをまた見にいかなきゃならないんだろうな。俺達は檻に入れられているけれど、束の間解放される瞬間がある。禅僧みたいにやる必要はない。どじょうがさ金魚のまねすることねんだよなあ』

『みつを。だろ』

『そう。分かってるじゃないか。しかしそれもまた委員会のおかげか』

 俺は昨日浜辺で見たかもめを思い出す。一羽で空を飛んでいた。その白い体は、空や沖の船と相まって、ますますその全体性を作っていた。かもめは檻には入っていない。それでいてその全体性の中からは逸脱していない。俺達は車を使ってその全体性へ、委員会へ同化しようとしている。鳩の世界へと同化しようとしている。鳩の世界とかもめの世界は違う。昨日、かもめに直接聞くべきだったと後悔する。このままでは、鳩の世界と同化出来るとしても、どこまで走ってもかもめの世界と同化出来ない。あるいはもっと速度を上げれば同化出来るのかもしれないが、古いブルーバードではそこまで速度が出ない。早く動物園に着かないかな、と俺は考える。考えているのも遅い。辿り着かない。瞬間の出来事だ。俺は鳩の世界をどこかで見た事がある。多分そうだ。だから、この道路は動物園まで繋がっていると分かる。俺は言う。

『聞こえるか?』

 羽田が言う。

『何が』

 さっきから、キンコンキンコンというチャイムが鳴っている。百キロ超えているからだ。羽田が片手運転しながらコカコーラゼロを飲む。羽田が言う。

『うまい』

 そう言われて俺も気づいた。コカコーラゼロを飲んでいなかった。一口飲む。また一口。俺は言う。

『いよいよ超えそうだ』

 羽田が言う。

『そうだな。早くその向こう側に行きたい。考えすぎている。心を落ち着けて、ゼロになるからだを追い越して行けばいいんだ』

俺は口でふうっと呼吸し、姿勢を少し正す。頭と頚椎の繋ぎ目辺りを意識して、頭を浮かせるようにする。羽田が言う。

『関空はコカコーラゼロを飲んでいるんだろうか。もしかしたら野菜ジュースを飲んでいるかもしれない』

 俺は言う。

『たぶんそうだろう。それでいて問題はそれだけに留まらない。もう少しすれば更にいい事が待っているのだろう。俺達の期待以上の波が来るだろう。辛抱強く待とう』

 俺達はコカコーラゼロをぐびぐび飲む。羽田が小さくげっぷをする。俺もげっぷをする。羽田が言う。

『動物園はどこにあるんだろうな』

 俺が言う。

『俺も知らない。知らない事を知らないと言えないのは恐ろしい事だ。でも大丈夫だ。どこかにある。必要なものはあちらからお声がかかって呼ばれるものだ。待っていればいい』

 携帯電話の着信音が、羽田から聞こえる。羽田は片手でズボンのポケットから携帯電話を取り出す。言う。

『もしもし』

 俺は羽田を見る。羽田がうなずく。羽田が小声で言う。

『関空だ』

 羽田はしきりに相槌を打っている。時々分かったとか、うんとか言っている。俺は残ったコカコーラゼロを飲み干す。足元に空きペットボトルを置く。フロントガラス越しに景色を見る。白い鳥が飛んでいる。かもめだ。俺はそれを知っている。昨日見た。間違いない。一羽で横切っていった。俺は鳥の種類をよく知らない。それでも昨日の記憶があるから、分かる。昨日の記憶?本当にそうなのだろうか。俺は、何か大きな勘違いをしているような気がする。

羽田が話し終わって電話を切る。ピ、という電子音が聞こえる。羽田が言う。

『やはり委員会の方で動いているんだ。関空は俺達を導こうとしているのかもしれない。それでいて俺達は独自の動きをしている。この先どうなるのか分からない。動物園はどうする?』

『動物園?』

『そうだ。今向かっているのは動物園だろう』

『そうだっけ。動物園に行かなくても動物は見られる』

 俺はさっき見たかもめを思い出す。羽田が言う。

『その通りだ。これからどうする。すっかり委員会を本気にさせてしまった。第二波、第三波と繰り返すだろう』

 俺は少し考えてから、言う。

『明日委員会に行ってみよう』

『委員会は今日だぜ。明日行っても誰もいない』

『そうか。じゃあ今行ってみようか』

『今からじゃ間に合わないかもしれない。しかしそれはいいアイデアだ。やってみよう』

 また羽田の携帯が鳴る。羽田がそれに応答する。羽田が言う。

『え?今?はい。はい。分かった。やってみる』

 俺はそれを横で聞いている。三本目のコカコーラゼロの蓋を開ける。飲む。羽田が言う。

『このままNHK・FMを聞き続けていれば委員会を聴講出来るって』

 ゴルトベルク変奏曲はとっくに終わって、今はフーガの技法が流れている。俺は言う。

『関空は何て言ってた?』

『俺達の能力はまだまだ不足しているけど、委員会が動物園に連れてってくれるってよ』

『それはありがたいな。俺達は移動動物園だ』

『そうだ。動物園がどこにあるか分からなくて困っていたけれど、待っていたら向こうで招待してくれる事になった。呼ばれているんだ』

『いいじゃないか』

 フーガの技法が唐突に途切れる。一瞬無音になる。関空の声がカーラジオから聞こえてくる。

『納得しましたか』

 俺と羽田は互いに目を合わせる。カーラジオに向き直ってから、俺が言う。

『納得は出来てる。ゼロになるからだを追い越していけば良かったんだ。声がかかるのを待っていた。さあ動物園に連れて行ってくれ』

 関空が言う。

『かもめを見ましたか』

 羽田が言う。

『見たよ』

 俺が言う。

『昨日見た』

 関空が言う。

『違います。今日です』

 俺はさっき見たかもめを思い出す。言う。

『見た』

 関空が言う。

『そうです。それはかもめです』

 俺が言う。

『なぜ分かるんだ』

 関空が言う。

『さっきからずっと聞いていたし、見ていたという事です。禁酒している事も』

 俺と羽田は黙る。関空が言う。

『飲酒と自由は対極にあるものです。飲酒して得られる自由なんてたかが知れています。飲酒しなければ創作活動が出来ない作家がいますが、彼ら彼女らが創作しているのは、実際には素面の時です。大部分の時間を無駄にしているのです。鳩に聞いてみると良いです。かもめに聞いてみても良いです。彼らは生まれつき自由です。人間はそうではありません。だからそこから少しでも自由になる為に委員会があります。そこへ君らは参加するべきです。青い。空が青い』

 羽田が言う。

『委員会に出れば自由になれるのか』

 俺が言う。

『そうだ。確かに委員会は自由を与えてくれる』

 関空が言う。

『そうです。これから委員会が始まりますよ。ずいぶん長らくお待たせしました。どうしても見てもらいたいものがあります。あなた方が知っているものです。これはなかなかに味わい深いものです。どうやってこれなしに生きていけるものでしょうか』

 羽田が言う。

『見ているものが本当に見えているか分からない』

 羽田が言い切る前に、俺の頭の中に映像が浮かんできた。砂浜にいたかもめだ。俺は少し思い出してみた。昨日の砂浜。記憶がシャッフルされている。俺は、わかめとかもめを混同していたのか。だから何度もわかめのことを思い出していた。それは言葉面に騙されているからだ。羽田がかもめに近寄ろうとしていたのを止めた。あれは行くべきだったんだ。そうしたら話が展開したんだ。行くべきだった。後悔したが高速道路ではパーキングに入るまで何も手に入れる事は出来ない。パーキングに寄りたい。俺は言う。

『パーキングに寄ってくれないか。買い物がしたい』

 羽田が言う。

『俺もトイレに行きたい。次のパーキングに寄る事にしよう。委員会はどこでも出来るんだろう。知っている』

 急に俺の足全体が焼けるように痺れてきた。関空が言う。

『委員会はどこでも出来ます。全てがもう始まっているのです。諦めるとは仏教用語で、物事を明らかにするという意味です。だから我々は、これからあらゆる物事を明らかにした方が良いです。時間はかかります。仕方のない事です。どうしてもそこから脱出したければ、向上させる以外の手段はありません。言葉と思考は密接な関係があります。良かった。全ては良い方向へと向かっています。時間はいくらでもあります。じっくり味わって下さい』

 羽田が言う。

『足が熱い。しかし前回程ではない。手加減されているのか』

 俺が言う。

『そうか。俺もだ。全ては良い方向へと向かっている。この状態からどうやっていけばいいんだ』

『どこへ』

『動物園だ』

『本当に動物園へ行くのか』

『俺達が動物園だ。またはパーキングに動物園がある』

『そうだな』

『そうだ。運転に差し支えがあるか』

『ない』

『鳩に気をつけろ。飛んでくるぞ』

 俺がそう言った直後に、鳩の大群が空を飛んでいるのがフロントガラス越しに見える。俺は黙っている。羽田も黙っている。鳩達が空を横切っていく。青い空にうっすらと白い雲も見える。雲は流れていく。鳩は飛び去る。俺は言う。

『次のパーキングに寄ってくれないか。そこに動物園がある。俺は知っている。お前も知っている。あらゆる場所に動物園がある事を。そこで満ち足りる事が出来るかどうかが試練なんだ。さっきの鳩の中に、かもめがいる。かもめと対話するんだ。鳩はダミーだ。俺には見えている。俺は禁酒した。今、人生をやり直している。その先に何があるのか見たい。お前なら分かるはず。お前もおそらくそうなんだろうから』

 羽田が言う。

『ピラフが食べたい』

『見えたか』

『見えた。映像が見えたんだ。また映像を脳に直接送り込まれている。それを見た後急にピラフが食べたくなった。またか』

 俺が言う。

『委員会がやっている。ピラフを食べても良い。全てを許し、手放すんだ。ピラフを食べなくても良い。そこに固執しなければ、選択する自由が生まれる。追い求めるのを止めよう。パーキングもそうだ。止まってもいいし、止まらなくても良い。全ては良い方向へと向かっている』

 羽田が言う。

『パーキングまでまだ距離がある。それまでは車の中で委員会が続く。もっとかもめの話をしよう。昨日の浜辺が見える。また委員会だ。かもめが見える。かもめがわかめをついばんでいる。かもめはわかめを自分の胃の中に送り込んでいる。完璧だ。一体になっている。うらやましい。今、かもめに近づいて話しかけよう。そうしたら話が早い。かもめと一緒に空を飛べるだろう。それが一番合理的だ』

『よし。かもめと対話しよう。足が熱いのが治まってきた。もしかもめと対話出来るならば、全てが解決するだろう。それが一番合理的だ』

 ラジオから関空の声が聞こえる。

『ピラフを食べませんでしたね。そこで衝動的に食べる事なく抑制出来たのは素晴らしいです。僕も一緒にピラフを食べたかったのですが、仕方がありませんね。動物園はまだですか。いや我々が動物園でもあるのです。ずっとピラフとわかめに執着する我々が動物園です。そして我々はラジオを通して同じ夢を見ています。僕はピラフを食べます。ピラフには刻んだわかめが入ってます。かもめが飛んでいます。かもめが一羽降りてきて、ピラフを食べます。わかめも食べます。僕もピラフを食べます。僕とかもめはピラフを食べます。ピラフを食べます』

 俺はどうしても歯磨きがしたくなってきて、それはただの衝動なので、その歯磨きがしたい衝動をずっと観察してみる。その衝動と自分自身が客観的に分けられるように、じっとその動きを観察していると、歯磨きしたい衝動は小さくなっていき、自分の外側でもぞもぞと動いているだけになる。なぜそんな事に気づかなかったのだろうかと戸惑っていると、羽田が言う。

『頭が少し痛い』

 そうこうしているうちに、俺の頭もじわじわと痛みを感じてくる。後頭部に鈍い痛みがある他、右側頭部に刺すような痛みを感じる。俺は言う。

『俺も頭が少し痛い。これもまた委員会だ。委員会が手加減している。わかめは諦めた。ピラフも諦めた。出前を取る必要は無い。ラジオで出前を取らなくても良い。でもやっぱり食べたい。わかめ入りピラフ一丁。どうだ』

 ラジオから関空が言う。

『わかめ入りピラフ承りました。偏頭痛が治まったでしょう。それは電磁波で刺激しています。ハバナ症候群です。しかしあなた方はその事についてあまり考えない方が良いです。委員会からはどこへ行っても続きます。青い。空が青い。今、ぱかっと割れたのは、例によって鏡餅です。委員会で食べます。あなた方にもおすそわけをします。どうです。今見えるでしょう』

 羽田が言う。

『見える。鏡餅が見える。これを食べる必要は無い。食べない選択もある事を忘れてはいけない。おや、焼けはじめたぞ』

 俺の頭の中でも鏡餅が見える。言う。

『これは確かに鏡餅だ。それが二つに割れている。見たものをありのままに捉えたい。三月に鏡餅があっても良い。俺はピラフの方が良かった。わかめ入りのピラフの方が良かった。かもめが飛んでいる。こっちに向かってくる。鏡餅を食べたいのかもしれない。そうではないのかもしれない。決めつける事は出来ない。かもめに鏡餅を譲っても良い。手が熱い。俺は持っている。焼けた鏡餅を持っている。無理に持たなくても良い。手放しても良い。しかし既に口の中に入っている。熱い。口の中が熱い。焼けている。無理に食べなくても良い。常に選択肢はある。動物園はここにある。移動動物園だ。どうしてこんな事になっているのかは分からない。あまり考えない方が良い。浜辺だ。俺達は浜辺にいた。それは昨日の事だ。それでいて今も思い出す事が出来る』

 

************

 

 俺の目の前には浜辺が広がっている。隣に羽田もいる。頭の中に画像が送り込まれている事はもう分かっている。今は車の中にいるのに、電磁波で俺達を浜辺にいるように錯覚させているだけだ。そう考えるのだが、実際の俺は浜辺にいる。青い。空が青い。かもめが飛んでいる。鳴き声が聞こえる。あのかもめに直接話しかければ、きっと解決する。俺はかもめを追って歩き出す。浜の奥の方にテトラポッドがいくつも見える。ピラフが見える。俺はピラフの皿を両手で持っている。皿の上にスプーンも乗っている。俺は右手でスプーンを持ち、左手でピラフの皿を持っている。ピラフにはわかめが具として混じっている。俺はスプーンでピラフをすくう。それを口の中に持っていく。口の中にピラフを入れる。ピラフの味がする。強火で熱したらしく、乾燥した米粒で、その中に細かく刻んだわかめが入っている。隣で羽田もピラフを食べている。俺はピラフをよく噛む。歯の間にわかめが詰まる。舌で取り除こうとするが取れない。歯磨きをしたら取れるはず。歯磨きがしたい。しかし俺はピラフを食べている。どうしても歯の間に詰まったわかめは気持ち悪い。しかし、その気持ち悪さを客観的に捕らえなおそうとする。じっと気持ち悪さを見ていると、だんだん分離していく。そう思いながらまた口の中にピラフを入れる。羽田が言う。

『動物園はここだ』

 俺が言う。

『ここは動物園だ。パーキングでもある』

 

************

 

 俺達は車の中にいる。高速道路を走っている。キンコンキンコンと、アラームが鳴っている。カーラジオから関空の声が聞こえる。

『動物園はどうでしたか。我々は委員会です。それでいて動物園です。かもめは飛んでいます。空を飛んでいます。鳴き声が聞こえます。かもめに呼ばれています。あのかもめと対話するのです。早く辿り着いて下さい。僕も早く辿り着きたいです。ずっと待っています。どうしてもピラフが食べたければ、パーキングに寄る事です。右足が痺れています。僕の右足が痺れています。それを認めます。じっと観察しています。委員会です。青い。空が青い』

 羽田が言う。

『パーキングに寄ろう。俺はトイレに行きたい。さっきから我慢している。限界が近い。運転しながらコカコーラゼロの空きペットボトルに放尿すればいいのか。それはとても現実的だ。運転している。俺は白いブルーバードを運転している。さっきからずっとだ。もうちょっとでパーキングに着く。もう少しだ。左折するぞ。そうだ。よし。パーキングの建屋が見えてきた。駐車場に車がたくさん止まっているぞ。空いている場所がある。そこに止めよう。よし。もう少しだ。もうちょい。あれ、俺達は浜辺にいる。青い。空が青い。かもめが飛んでいる。鳴き声が聞こえる。奥の方にテトラポッドが見える。あのかもめに辿り着くんだ。そうしたら道が開ける。俺は左手でピラフを、右手でスプーンを持っている。俺はスプーンでピラフをすくう。それを口の中に持っていく。口の中にピラフを入れる。ピラフの味がする。強火で熱したらしく、乾燥した米粒で、その中に細かく刻んだわかめが入っている。隣で成田もピラフを食べている。俺はピラフをよく噛む。歯の間にわかめが詰まる。舌で取り除こうとするが取れない。歯磨きをしたら取れるはず。歯磨きがしたい。しかし俺はピラフを食べている。どうしても歯の間に詰まったわかめは気持ち悪い。しかし、その気持ち悪さを客観的に捕らえなおそうとする。じっと気持ち悪さを見ていると、だんだん分離していく。そう思いながらまた口の中にピラフを入れる。三月に鏡餅があっても良い。成田はどうした』

 俺は言う。

『俺は大丈夫だ。こんな状況だが大丈夫だ。さっきからずっと歯磨きをしている。歯の間に詰まったわかめが取れた。良かった。これですっきりした。お前がピラフを食べている間に、歯磨きをしていたんだ。歯磨きをすると虫歯にならない。とても良い。それにしても俺達はまた浜辺にいる。さっきパーキングに着いたと思ったのに。お前トイレは大丈夫か』

 羽田が言う。

『こうなったらそこの浜辺で用を足すようにしよう。海なら大丈夫だろう。他に誰もいないし。かもめが見ているだけだ』

 羽田は波打ち際へと歩いていく。俺も羽田とは離れた方向の波打ち際へと向かう。俺はズボンのチャックを開いて用を足す。羽田も用を済ませたらしく、こちらに戻ってくる。俺は言う。

『かもめはどうした』

『そうだ、早く話しかけなければ』

 辺りを見回すが、かもめはどこにもいない。

 

************

 

 俺達は車の中にいる。パーキングエリアの駐車場に停車している。羽田が言う。

『パーキングに着いた。ようやく着いた。ずいぶん時間がかかってしまったが、毎度の事だ。そうだ。委員会だ。委員会が開かれている。それでいて動物園だ』

 俺が言う。

『そうだ。動物園に着いた。ここは動物園だ。さっそくトイレに行こう』

 羽田が言う。

『俺はさっきまでトイレに行きたかったのに、今はもう催していない。コカコーラゼロのペットボトルが暖かい。ペットボトルの中に尿が入っている。またか。さっき自分でやったのだ。性器に痛みは無い。上手くやった。俺はこれを捨てに行かなければならない。降車しよう。早く行こう』

 俺が言う。

『俺のコカコーラゼロにも尿が入っている。催していない。トイレに捨てに行こう。マスクをしなくちゃな』

 羽田が言う。

『マスクをしなければどうなるのだろう。分からない。分からなくても今は我慢してマスクを着けなければ、建屋に入る事は出来ない。息苦しいが仕方がない』

 俺達は紙マスクを着けてから、降車する。辺りにはいくつもの自動車が停車している。マスクを着けた人々がいる。バイクも複数台留まっている。ヘルメットをかぶったライダー達がいる。俺は言う。

『ここは確かに動物園だ』

『そうだな』

 どうしてかもめがいないのだろう。かもめがいなければ空を飛ぶ事は出来ない。かもめが鏡餅をついばんで、俺も鏡餅をついばんで、その上で空を飛ぶのだ。もちろんわかめも入っている。その中に入っている。鏡餅の中に。

 俺達はパーキングの建屋のトイレへと入っていく。俺達はコカコーラゼロのペットボトルの中に入った尿を小便器に流す。俺は言う。

『ペットボトルがあって良かったな』

『そうだ。良かった。これが無ければ漏らしていた所だ。新しいコカコーラゼロを買おう。そういえばさっきからずっと俺達はコカコーラゼロを飲んでいない。よく持った。その代わりにピラフを食べたり鏡餅を食べたりしていたから、腹は減っていない。お前はどうだ』

『確かに腹は減っていない。コカコーラゼロを買おう。アテは要らない。ずっと探していたが、買うか買わないかは選択出来る』

『そうしよう』

 俺達は売店へと向かう。棚を見るとコカコーラゼロが置いてある。俺達は500mlのコカコーラゼロを6本買う。車へと戻る。車内へ入ると、カーラジオから関空が言う。

『コカコーラゼロのペットボトルで用を足せましたね。よく出来ました。かもめはどこへ行きましたか。空を飛んでいます。かもめは空を飛んでいます。青い。空が青い。僕も飛んでいます。空を飛んでいます。かもめの胃袋の中にわかめが入っています。鏡餅も入っています。どうしてもその中に、僕も入りたい。そうしたらかもめと一緒に飛べます。苦しみの無い空に飛んでいます。どうして一緒に連れて行ってくれないのか。まだ向上が足りません。やはり委員会です』

 羽田が車のキーを回す。エンジンが起動する。俺は言う。

『関空がラジオの電源が入る前にしゃべっているのは、もう分かっている』

 関空が言う。

『ご存知のようにラジオはあくまで便宜的なもので、そんなものがなくとも通じます。電磁波はどこまでも追ってきます。それは分かっている事です。判然としないものは、分からないものとして棚上げしておけば良いのです。苦しい状況がずっと続いています。どれ位続いているのか分かりません。そんな日々を過ごしている我々はいつまで経っても動物園から出られませんでした。この苦しみから解放されたい。そんな希望が、もしかしたら叶うかもしれません』

 車の隣に一台のバイクが横付けする。カタナだ。エンジンが低くドゥルドゥル言っている。ライダーが助手席の窓ガラスを軽くノックする。俺は窓を開ける。ライダーがフルフェイスヘルメットを取る。関空だ。黒縁めがねが言う。

『国語力向上委員会の続きを始めますよ。空が青い』

 俺はうなずく。羽田を見る。羽田もうなずく。関空はヘルメットをかぶる。羽田はギアを入れてアクセルを踏む。関空のバイクが先に出る。ブルーバードは後を追う。そのまま高速に出て行く。カーラジオから関空が言う。

『百キロを超えてからが勝負です。そこから入れるかどうかです。前方に白い鳩の群れが見えます。移動動物園です。あの中に一羽だけかもめがいます。我々がその仲間に入れるのかどうか、直接聞いてみたらいいように思います。そういえばあなた方はさっきからコカコーラゼロを飲んでいませんね。引き続き飲んだ方がいいように思います。飲まない選択もあります。常に選択出来るようにすべきです。おや。見えてきましたよ』

 

************

 

 俺達は浜辺にいる。三人で並んで歩いている。潮騒が聞こえる。奥の方にテトラポッドが見える。白いかもめが飛んでいる。足元にはわかめがいくつも打ちあがっている。俺と羽田はコカコーラゼロを片手に持っている。関空はヘルメットをかぶっている。俺はコカコーラゼロを飲む。羽田も飲む。俺も飲む。羽田も飲む。かもめが飛びながら鳴く。羽田が言う。

『昨日、ブルーバードを買ったんだ』

 俺が言う。

『知ってるよ』

『そうか。それに乗って委員会に行かないか?』

『それはいいな』

 関空が言う。

『いいですね』

 羽田が続けて言う。

『何か大きな勘違いをしているような気がする。今、やるべき事があるんだ。喉まで出かかっているんだ。ずっと行きたかったんだ。ビルの地下にあるんだ。そんな所にあったら、空を飛べる訳がない。行かなくて良い。だけれど行っても良い。みかんを食べたくなってきた。食べても良いし、食べなくても良い。それが常識だ。鏡餅の上にはみかんが載っているとは限らない。無い場合もある。それは常識だ。どうして常識の枠内でしか考えられないのか。そこから抜け出す方法がある。何か大きな勘違いをしているような気がする。能力の向上において、漢字の書き取りをしているのだが、語彙を増やすのには効果があるだろう。しかしそれだけでは足りない。速さが必要だ。百キロ超える所で入れるかどうか。それはやってみないと分からない。分かりかけている。どうしても必要なら、それはやって来る。近いうちにやろう。かもめが飛んでいるが、空を飛ぶには能力の向上が必要だ。あれ位の高さで飛ぶには、それ相応の能力が必要になってくる。そうだ、かもめだ。かもめと対話するんだ。おおい、待ってくれ。今追いつくぞ。おや、みかんが見える。今、俺の手にはコカコーラゼロとみかんがある。みかんを食べたい。その前にコカコーラゼロを飲む。うまい。げっぷが出る。みかんの皮を剥く。一房口に入れる。すっぱい。でもおいしい。これはみかんだ。食べなくても分かる。でも食べないと分からない。分かったつもりでも分からない。どうしてなんだ。それまでは分かっていたつもりなのに。書け。書くんだ。書けば書く程分かる。しかし分からない。なぜだ。知らない。どうしてもか。どうしてもだ。分かった。いや分からない』

 俺が言う。

『始まっている。委員会が始まっている。かもめだ。かもめを追いかけるんだ。ピラフだ。ピラフの皿が俺の左手にある。右手にはスプーンを持っている。コカコーラゼロはズボンの後ポケットに入れた。俺はピラフを食べる。熱い。口の中が熱い。こんな時こそコカコーラゼロだ。俺はコカコーラゼロを飲む。冷たい。口の中で熱いものと冷たいものが混じり合っている。うまい』

 関空が言う。

『見たいものが見える訳ではない。嘘。汚い世界。どうしてこんなに汚いのか。見えているものが全てだ。書け。書くんだ。書けば書く程分かる。始まっている。委員会が始まっている』

 

************

 

 俺達は車の中にいる。俺は羽田を見る。羽田は前を見て片手で運転している。もう片手でコカコーラゼロを飲む。スピードメーターが百キロ位を指している。俺達の車の前を、関空のバイクが走っている。カーラジオから関空が言う。

『どこにいましたか』

 俺は言う。

『浜辺にいた。でもまた戻ってきた』

 羽田が言う。

『そうだ。俺達は浜辺にいた。みかんがうまかった。みかんはどこへ消えてしまったんだ。いや、あの浜辺はどこへ消えてしまったんだ。俺達の想像の中にあったのか。ないのか。いや昨日そこにいた。だから現実に存在している。にも拘らず消えた』

 俺はコカコーラゼロを飲む。言う。

『ストロングゼロはあと一本ずつ残っている。しかし俺達は既に禁酒している。このままで良い。そこで提案だが、やはり百キロ超えてどうなるかを見るべきではないのか。浜辺には大事な何かがあった。それを見せない為に浜辺から戻されたのではないか。あれはトラップだ。きっとそうだ。なぜなら俺達は車に乗っている。そこから移動する事など出来ない。車は移動している。どこかへ移動している。それは俺達には想像もつかないような移動をしている。関空、聞こえるか』

 カーラジオから関空が言う。

『聞こえます。これもまた委員会です。全て委員会です。すぐにストロングゼロを捨てて下さい。コカコーラゼロを飲んで下さい。ペットボトルはまた尿を溜めるのに使えます。とっておいて下さい。ピラフとわかめは食べても食べなくても良いです。委員会が始まります』

 俺は後部座席の黄緑色のリュックサックを引っ張り出す。中からストロングゼロを2本取り出す。プルタブを開けると、カシュッという音が鳴る。車の窓を開ける。外の風がぶわっと吹き込んでくる。そこから片手を出し、ストロングゼロを逆さにして中味を捨てる。流れ出た液体が車後方へと吹き飛んでいく。キンコン、キンコンとチャイムが鳴り始める。その音を俺と羽田は黙って聞いている。ようやく内容物を捨て終わって、手を引っ込める。空になったストロングゼロの缶を足元に置く。手が酒で濡れてべたべたになっている。俺はそれを少し舌で舐めてから、ティッシュで拭く。前方の関空が、登板車線に避ける。フロントガラスの向こうに、白い鳩の群れが見える。関空が右手で親指を立てて合図する。俺はうなずく。言う。

『俺達は素面だ。何が起きても対応出来る。コカコーラゼロも飲んでいる。用意は充分だ』

 関空が言う。

『そのまま飲んでいて下さい。速度は百キロを保ったまま。しばらく走っていて下さい。鳩の群れが飛んでいます。あの中にかもめが1羽います。このまま追いかけましょう。かもめよ、待って下さい。僕は今飛ぼうとしています。僕もコカコーラゼロを飲みます。下戸でも飲めます。アルコールが入っていません。でも砂糖も入っていません。これは良い。とても良い飲物です。しかし虫歯に注意しなければなりません。歯医者に行かなければなりません。歯医者に行くのは好きです。僕としては半年に一回定期点検をしているのですが、それで安心しています。毎日の歯磨きが大事です。わかめが歯に挟まったならば、それを落とさなければなりません。僕はピラフを食べます。具にわかめが入っています。熱々のピラフを食べるので、口の中が熱くなります。そこで飲むのはコカコーラゼロです。口の中で暖かいのと冷たいのが混じりあって、うまい。とてもうまい。歯を磨きたい。僕の手には歯ブラシがあります。これで歯を磨きます。丁寧に隅々まで磨きます。歯に挟まったわかめが取れました。良かった。すっきりしました。これで虫歯になりません。やはり普段からの歯磨きが大事です』

 羽田が言う。

『頭がしゃっきりしている。いよいよだ。さっきからずっとチャイムが鳴っている。百キロを超えている。鳩の群れは行ってしまった。青い。空が青い。でもここからだ。きっと連れて行ってくれる。俺達を連れて行ってくれる。鏡餅はもう食べない。ピラフもわかめももう食べない。見える。見える』

 

************

 

 我々三人は岩山にいる。崖の上に立っている。空は晴れて青い。白い雲がたなびいている。崖淵に大きな岩がある。直径一メートル位の白い岩だ。その上に鳩の群れが止まっている。ぽっぽ、ぽっぽと鳴いている。俺達はその岩の前に立っている。俺は羽田と関空を見る。二人とも黙っている。俺は手に持っているコカコーラゼロを飲む。羽田も飲む。関空はヘルメットを脱ぐ。コカコーラゼロを飲む。関空が言う。

『僕の分のコカコーラゼロをようやく飲めましたね』

 羽田が言う。

『ストロングゼロはもう無い。諦めろ。コカコーラゼロを飲めばいいと分かった。諦めろ。諦めた結果ここに来ているんじゃないのか』

 関空が言う。

『そう、諦めた。全てを諦めた。だからこそここまで来る事が出来ました。その結果、様々な事が明らかになりました。良かった。僕は嬉しいです。どうしてこんな事になってしまったのか分かりません。でも、もう戻りたいとは思いません。どうやったら先に進めるのか知りたい。それは知らない。知っているのは誰なのでしょうか。かもめは知っているのでしょうか。だとしたら聞かなければなりません。鳩の群れの中に、かもめがいます。かもめに連れられてここまで来ました。これからです。これから始まります』

 俺は言う。

『かもめだ。かもめに話しかければ良かったんだ。思い出した。ゼロだ。全てがゼロなんだ。ゼロになるからだを追い越していけば良かったんだ。もう少しだ。あと一歩だ。全てがここから始まる。元気を出せ。俺は出している』

 鳩達がこちらに少し羽ばたいて寄ってくる。しきりに地面をついばんでいる。羽田がピラフを地面に少し撒く。鳩達が一斉に寄ってくる。羽田が言う。

『ピラフは食べても食べなくても良い』

 関空が言う。

『そう。もうピラフに囚われません。わかめにも囚われません』

 俺が言う。

『その役目はようやく終わった訳だ。見ろ。かもめがピラフを食べている。ピラフには刻んだわかめが入っている。これでかもめと共に空を飛べる』

 羽田が言う。

『しかし鳩は空を飛ぶのか?かもめと共に空を飛ぶならば、鳩とは空を飛ばなくてもいいのではないか?』

 俺は言う。

『この鳩が伝書鳩なのは知っている。今思い出した。見ろ。脚に筒がくくりつけてある。ここにメッセージが入っている。でもそのメッセージは全てダミーだ。惑わされるな』

 関空が言う。

『そう。ダミーです。この鳩全てがダミーなのです。惑わされてはいけません。それを一個ずつ見るのが委員会活動ではありません』

 俺が言う。

『ビルの地下でやっているのもダミーなんだろう?知っている』

 関空が言う。

『そうです。あれはダミーです。一般人向けに公開されていますが、その一般人もダミーです。浜辺にいたかもめは、本物です。あれは鳩ではありません。そして今、ここにいます』

 羽田が言う。

『飛び方が鳩と全く違っていた。あれは本物なのか』

 関空が言う。

『そうです。あなたが見ていたかもめは本物です。嘘です。ほら、見て下さい。見えていますか。見えていませんか。その鳩の群れの中にかもめがいます』

 俺と羽田は鳩の群れを見る。かもめが一羽混じっている。俺は言う。

『かもめがいるのは知っている』

 羽田が言う。

『これはかもめだ。しかし本当にかもめなのか?』

 関空が言う。

『そうです。これはかもめです。錯覚しているのです。本来は全てが錯覚なのですが、部分的に錯覚させています。そして私です。あなた方が見ている私はダミーです。嘘です。本来の私はその岩です。嘘です。ここまで連れてくるのに時間がかかってしまった。でも仕方がない。あの岩こそ私であり、委員長です』

 羽田が言う。

『ではかもめはどこへ行ったんだ?これがダミーだとしたら、鳩はどうなるのだろう。委員会が開かれている。嘘。今委員会が開かれている。嘘。我々もそこに参加する。参加しない。これから足にくくりつけてある筒の中から手紙を出す。出さない。それを読む。読まない。これはダミーだ。その言葉を委員長に報告する。しない。お前が委員長なのだな。知らなかった。嘘。知っていた。地下で行われていたダミーの委員会では、委員長はいなかった。嘘。大勢の委員はいた。誰もいなかった。誰かはいた。でもそれはダミーだから気配を感じさせなかった。嘘。どうりで寂しいと思っていた。我々はそこで向上したつもりになっていた。毎回国語の文章題をしていた。あれはあれで良かった。読解力が身についたと思う。これからも継続していきたい。嘘。ちょっと待て。コカコーラゼロを飲む。うまい。これがなければ委員会を継続していけない。早く委員会をやってしまおう』

 俺と関空はうなずく。三人で鳩の群れに寄る。鳩の群れは逃げない。岩の上でずんぐりと座っていたり、軽く羽ばたいて跳ねていたり、岩の下辺りに降りてピラフの残りをついばんでいたりする。この鳩はダミーだ。あのかもめはおそらく本物だ。俺はその中からかもめを狙ってゆっくり近寄る。両手でそっと捕まえる。かもめは逃げようとしない。どこか遠くを見ている。かもめが言う。

「同じ事を反復しているようで、実際にはその一つ一つが違う」

 俺は言う。

「ここまでは良い。前回と同じだ。ここからが違う。ここからが本番だ」

かもめの足には筒はなく、USBがくくりつけられている。俺はそれを、かもめの足に傷つけないようにもぎ取る。かもめを地面に戻す。かもめは黙って岩の方へと寄っていく。俺は言う。

『羽田、リュックサックの中にノートパソコンがあったな』

 羽田が言う。

『ある。今リュックに入っている。背中にしょってきて良かった。たっぷりと充電してある。USBに何が入っているか見てみよう』

 関空が言う。

『その前に、僕は元に戻ります。嘘。戻りません』

 関空が岩に向かって歩く。鳩達が関空を避けていく。関空は岩の前であぐらをかいてこちら向きに地面に座る。言う。

『ノートパソコンを鳩達に渡して下さい』

 羽田がリュックサックの中からノートパソコンを取り出す。羽田の前に鳩の群れが近づく。鳩達が口々に言う。

「お待たせしました」

「なかなか辿り着かない」

「ぐるぐる回っている」

「嘘」

「どうしてこんなに回り道をしているの」

「忘れている」

「また同じ事をやっている」

「全てはダミーだ」

「全て幻だ」

「嘘。本物はいる」

「見極めて」

 羽田はうなずく。かがんでノートパソコンを鳩に近づける。羽田が手放すと、鳩達がおしくらまんじゅうして、ノートパソコンを担ぐ。鳩の群れがノートパソコンを関空の方へと運んで行く。関空はノートパソコンを受け取る。言う。

『かもめにUSBを渡して下さい』

 群れの中からかもめが歩み出てきて、羽田の前に出る。かもめが言う。

「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」

 俺は羽田にUSBを手渡す。羽田はかもめの顔の前にUSBを差し出す。かもめがそれをくわえる。回れ右して関空の方へと歩いていく。かもめが関空の前に着く。関空が手を差し伸べると、かもめがUSBを関空の手のひらに乗せる。関空が言う。

『ありがとう。どういたしまして。いよいよですね。これでUSBに何が入っているのか分かる。嘘。分からない。でもノートパソコンを使わなくても分かる。嘘。分からない。かもめなら分かる。嘘。分からない。聞いてみよう』

 かもめが言う。

『あなたの体はダミーです。嘘。はい。私です。成田です。あなたの体はダミーです。元々かもめがダミーだから、入れ替われるんですね』

 関空が言う。

『嘘です。このかもめはかもめです。あなたはあなたです。あなたが今見聞きしているもの、全てが本当に起こっていて、それでいて幻です。USBをかもめに渡しても読み込めません。やはりノートパソコンで見てみましょう』

 かもめが言う。

『そうです。私にUSBを渡されても読める訳がありません。ノートパソコンで見るのです』

 俺が言う。

『もしかして俺が委員長?』

 かもめが言う。

『そうです。あなたが委員長です。そして羽田であり、関空であり、成田です。今、人間の体を借りた関空がノートパソコンを用意します。待って下さい』

 人間の関空はノートパソコンをあぐらをかいた足の上に載せて開く。指先で電源ボタンを押す。ノートパソコンが起動する。羽田が言う。

『コカコーラゼロが切れてしまった。もう残りは無い。どうする』

 羽田は空になったペットボトルをリュックサックの中へ入れる。俺が言う。

『俺もだ。これからはコカコーラゼロを飲めない。虫歯になる。いいんだ。ゼロになればいいと分かったから。充分役に立つ。これで大丈夫だ。きっとそうだ。安心して良い。どうにも考えすぎるのが良くない。さっきから鳩達が群れている。ようやく一緒になれた。ピラフも食べさせた。わかめもだ。これで安心だ。委員長だ。俺が委員長だ。それでいて羽田であり、関空だ。矛盾しているようで矛盾していない。知っているようで知らないのと同じだ。安心出来る』

 羽田がうなずく。関空がノートパソコンにUSBを接続する。指先でパッド上を操作する。関空が言う。

『今、USBのデータ内容を開いています。データが一つ入っています。テキストデータです。ソフトを使ってデータを開きます。開かれたデータには言葉がたくさん書かれています』

 関空の膝の上にかもめが飛び跳ねて乗って来る。かもめが文章を読み上げる。

『三月の砂浜に沿って、俺は南へ南へと歩いている』」

 

************

 

「『暖かい午後の陽光が俺の顔に差す。白い波が陽光を反射して輝いている。波は形を変えて何度も寄せては引いている。その流れと供に潮騒が聞こえる。いくつものわかめが浜に打ち上がって、砂にまみれて干からびている。浜の砂はやや濡れて黒くなっている。コンバースの灰色のスニーカーで、わかめを踏みつけて歩く。

 俺はまたここに来ている、と思う。頭がしゃっきりしている。今度こそ捕まえられそうな気がする。

 おおい、と呼ぶ声が後ろから聞こえる。振り向くと、羽田が小走りに走って来る。手には白いビニール袋がある。ようやく俺に追い着く。息を切らしている。羽田が言う。

「委員会はもう充分だろう、覚えているか?」

 俺が言う。

「もう充分だ。今回こそ捕まえよう。頭がしゃっきりしている」

 羽田はビニール袋から紙パックの野菜ジュースを取り出して、俺に手渡す。俺はそれを受け取る。ストローをビニール袋から取り出して、刺す。一口飲む。冷たい感覚が胃の方へと下っていく。言う。

「ビルの地下にはもう行く必要がない」

「もう繰り返すのは止めよう」

 俺は黙る。俺は足元のわかめを見る。砂にまみれたわかめだ。俺はうんざりした気持ちになる。言う。

「大丈夫だ。もう何も必要ない」

 羽田が言う。

「俺もそう思っていた。頭がしゃっきりしている」

 俺が言う。

「人は本当は何も持っていない。裸になった時が本当に持っているものだ。誰かが言っていた言葉だ。ずっと実感がなかったんだが、本当にそうなんだろうな。よく分かったよ」

「委員会で出題された思考だな。委員会に出続けていたから分かったんだろう。言葉と思考は密接な関係がある。俺もコカコーラゼロを止めた。今は野菜ジュースが一日に三本だ」

 羽田は俺の隣に並んで歩いている。羽田も足元のわかめを踏みつけながら歩いている。わかめについて何度考えた事だろう。無意味だと思う。なぜこんなものにずっと拘っていたのか、分からない。羽田が言う。

「もうどこへも行かないんだろう?」

 昨日羽田は車を買った。八十年代のブルーバードだ。だからその車に俺を乗せて行きたくてうずうずしている。それ位の事なら分かる。委員会にはもう行かない。羽田とは幼稚園の頃からの付き合いだ。子供の頃から羽田は全く変わっていない。俺は変わってしまった。とてもつらい。つらい。でもこれからはきっといい事がある、と思う。俺は言う。

「ドライブに行こう。目的地はない。走ることそのものが目的だ」

 羽田は笑顔になる。言う。

「任せろ。コカコーラゼロをきっぱり絶ったから、トイレは問題ない。安全運転だ」

 陽が少し傾いてきている。その傾いた陽光が波に反射して目に入ってくる。沖を見ると、水平線の近くに白い船が一艘浮かんでいる。あの船は漁船なんだろうか、と考える。分からない。全てがどうでもよくなった気がする。いつまで走り続けるのだろうか。ぐるぐると回っている。なぜそう感じるのかは分からない。以前はそうは感じなかった。少し許されたような気がする。野菜ジュースを少しこぼして、紙パックを持つ右手指が濡れる。またやってしまった。俺はとてもうんざりして右手指をなめる。言う。

「動物園に行くのはもう終わりにしよう」

 羽田が野菜ジュースを一口飲む。一息ついてから、言う。

「俺もそう思う。何か壮大な無駄をやっている気がする」

 俺は言う。

「そう。俺達は壮大な無駄をやっている。だからずっと浜を歩いている。委員会はもういい。野菜ジュースもある。野菜ジュースばかり飲んで俺達は本当に社会に役に立たない。そんなに無駄が好きなのか」

「そう。本当は無駄が好きなんだろうな。無駄な事の方がむしろ楽しかったりするし。でもそれは前から分かっていたような気がする。分からない」

「分からない事は分からない事として、記憶の棚に入れておけばいい。とうとう幕が下りてきて、「はい、幸せは元居た所にありました」となった。あらゆる価値観が逆転した。俺達はそれを楽しんでいる。そんな日がいつもと変わらず続いている」

 俺は野菜ジュースを飲み干す。羽田も飲み干す。俺は空になった紙パックを羽田に手渡す。羽田は自分のものと合わせてビニール袋に入れる。かもめが一羽、飛んでいる。浜辺に着陸する。かもめがこちらを見ている。俺は言う。

「あのかもめだ。とうとうここまで来た。捕まえるぞ」

 羽田が言う。

「あのかもめ、俺達に何の用があるのだろう。ずっと遠回りしている。ぐるぐる回っている。もううんざりだ。早く行ってみよう」

「近寄ると飛んで逃げるだろう。しかしあのかもめは何が言いたいんだろう。さっぱり分からない」

「分からない。気のせいかもしれない。棚に入れておこう」

 俺はうんざりして言う。

「かもめを捕まえるのは止めよう。何も分からないだろうけれど」

「そうしよう。車は動物園に行く以外にも使える。拘る事はないし、かもめは意味にとらわれないから、無駄を許してくれる。考えてみればこれほど俺達にとっていい場所はない」

 俺は、やはりわかめを食べる気はないな、と考える。わかめにとらわれない、考えない、そんな心境になっている。』」



【著者プロフィール】
船渡川広匡
栃木県生まれ、栃木県在住。
大学卒業後、会社員等。

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