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【日々の、えりどめ】第4回 着くずれながらも生きていく(二)

 落語家としても、文章家としても、まだまだ未結晶の氷砂糖である。
 とにかく甘い。未熟のくせに甘い果実のつもりでいるから、困る。熟成が足りない。ひこざってやつは、あれはあれでなかなか苦み走っているよ、なんてひとがもしもいたならば、お笑いである。おそらく、いない。そもそも吾輩には、名がない。
 それでも氷砂糖というのは、実はなかなか純度が高いんですって。――いつか、そんな噂でも立ちやしまいかと思っている。そういう自分もいることも、正直に書いておきたい。この謎掛けは、ちょっとした誇示なのである。そのくらいでなければならないのだ。そうも思いたい。
 自惚れて甜菜(テンサイ)とは思わず、常に甘蔗(カンシャ)を忘れず、人情の黍(キビ)を大切に。氷砂糖の原材料と掛けてそんなことを付け加えたならば、ハナシカらしいだろうか。こんなことも、書いた方いいのだろうか。そんなことも思ったりして、ここにこうして書きつけたりする。

 さて、どうやらまた着物が乱れてきたようである。とにかくわたしは、こういう自分の生活と、表現と、立場とを、少しずつ糺してみたいと思ったのである。噓と現実とを都合良く練り合わせて、時として希望的なものをさえ生み出せる、作文という方法によって。
 前章でわたしは、何枚かの草稿を書類鞄にひそませていると書いた。本当は、書類鞄など、持っていない。草稿もない。書物もない。手紙もない。すべて、絵空事である。言葉の綾。空中に描いている。扇子と手ぬぐいだけ。そんなスタイルにも似ている。あるいは職業柄日々押しつぶされるように歪曲してしまった、言葉たちだけ。
 連載というのは、ウェブ上のものである。それもそのうち勘付かれないように、昔馴染みの文芸誌などと古めかしく書き出すかもしれない。
 未熟のおまけに噓つきとはやはりだらしがないが、それでも遠い都市から連載のご連絡をいただいたことは、本当である。これは大変に有難いことである。
 連載を始めるに際して、出版社から大体の内容について説明文を送ってほしいと言われた。わたしは早速、次のような文章を送った。手紙ではない。もちろん、電子メールで。


 えりどめ。
 それは着物の襟元をただすもの。隠れながらも十分に仕事をする、働き者。小さいながらも、よく見ると銀色にかがやく小間物。安いもの。それでいて安っぽくないもの。
 そんな文章を集めてみたいと思った、ひとりの噺家。文芸にも落語にも悩んでいるらしい、若手のはなしか。
 着くずれながらも生きていこうと思う。
 そんな願いも込められた、日々の記録。


 「着くずれながらも生きていく」とは、われながらなかなか言ったものだと思った。文章の上では、実際よりも若干気丈になれるらしい。早急につらつらと書いたので、ご愛敬願いたい。
 しかし思えば、そうだ。それでも、生きていかなければならないのだ。正直、いまの自分は、恥ずかしい。着物さえうまく着られないのだ。言葉さえうまく使えないのだ。それでも日々を凌いでいかなければならない。それは無理のある行為かもしれない。出過ぎたことかもしれない。それでもわたしは、表現をしたいと思う。
 言葉遊びも言葉の綾も、噓も喩えも、思えばそのために用意されたひとりぶんの架け橋のようなもの。世渡りだけでは余りにも弱々しいので、少しでも生存の足場を固めるために自ら造り出すもの。ひらがなを連ねて時に簡単に、柔らかく、渡りやすく、あるいは架空という方法で自分自身を現状以上に鼓舞するために。生身ではどうしても生きていけないので、創作によるテキスタイルを纏って、遊びながら、誤魔化しながら、着くずれながらも、生きていく。
 いまの生活は、良くない。表現の中から、立ち直っていきたいと思う。例えば作文という方法。そのくらいの身嗜みならば、わたしにも許されていいはず。この連載はそんな他でもないわたしの襟元を糺すために綴られる、わたし自身の、日々の、えりどめ。


【プロフィール】
林家彦三(はやしや・ひこざ)
平成2年7月7日。福島県生まれ。
早稲田大学ドイツ文学科卒業。
二ツ目の若手噺家。本名は齋藤圭介。

在学中に同人誌『新奇蹟』を創刊。
「案山子」で、第一回文芸思潮新人賞佳作。

若手の落語家として日々を送りながら、文芸表現の活動も続けている。

主な著作
『猫橋』(ぶなのもり)2021年
『言葉の砌』(虹色社)2021年


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