【第6回ことばと新人賞最終候補作】灰原南「ラン・ライク・ア・ガール」
ラン・ライク・ア・ガール
灰原南
1
女の子らしく走れといわれたら、あなたはどんなふうに走るか。
そんな指示を与えられた二十代とおぼしき若者が、走る様子を見せる、あるいは演じる。
若者は女性もあり男性もあり、また肌の色も異なるのだが、それでもその動作やしぐさはよく似ている。デフォルメの型が共通している。最後に、やっと十歳くらいの女の子が登場する。彼女はシンプルに、全力で走る。彼女の耳の傍で鳴る風の音が聞こえてきそう。
この動画をわたしに見せてくれたのは、カンザキ君だった。カンザキ君はすごく感動していて、自分はもう何度も見ているはずなのに、またわたしと一緒に見直している。目が潤んでいる。確かにカンザキ君が目を潤ませそうな動画だと思う。
これは某アメリカ企業のプロモーションムービーだ。出演しているアメリカの若者たちが、与えられた指示に対して、実際どこまで自然な反応を示しているのかはわからない。いかにもドキュメンタリー風に撮られているが、「風【ふう】」はあくまで「風」であって、メイクしていないように見えるメイクみたいなものだろう。
一つの作品として完成したものには、必ず製作者の意図がこめられている。とりわけプロモーションムービーなんてものは、その意図が非常に明確というか、わかりやすいというか、そうでなければそもそも成立しない。この動画を見てわたしがむしろ驚いたのは、アメリカの若者も「女の子らしく」といわれると、日本のアニメの少女のようなしぐさや動きをしてみせることの方だった。
カンザキ君とソファーに並んで座って、スマホでいっしょに動画を観たり、おしゃべりをしたりする。他愛のないおしゃべりだが、カンザキ君はちゃんとわたしの話を聞いてくれる。わたしの話を、こんなにまっすぐな目をして聞いてくれる異性は初めてだ。でも、同時にわたしは、カンザキ君がわたしとセックスしたがっているのを感じる。まっすぐで、素直で切実な性欲を感じる。カンザキ君の視線が沁みこむのと同じように、わたしの中にカンザキ君の性欲が沁みこんでくる。それは細い道を通って、わたしの身体の奥深くへと届く。
わたしはわざと素知らぬ顔をしている。カンザキ君はわたしにじらされていると感じているだろうか。でも実際のところ、じらされているのは、むしろわたしの方なのだ。わたしはカンザキ君とセックスがしたくてたまらない。それでも我慢する。必死に我慢していると、月の引力によって潮が満ちるように、わたしという器が、性欲で満たされてくる。それが飽和状態になった時、そっとカンザキ君を抱き寄せる。カンザキ君は、よし、といわれた犬のようにわたしの上に覆いかぶさってくる。透明な尻尾が勢いよく振られるのが見える。カンザキ君はわたしを丁寧に裸にして、先ず鎖骨のくぼみにそっと唇を押しあてる。カンザキ君の大きな背中とは不似合いな、儚いほど細いうなじにわたしは腕を回す。身体の奥からカンザキ君に対するいとおしさが溢れ、その切なさに、わたしは思わず声を上げる……。
カンザキ君が帰っていった後、わたしはKindleで、岡本かの子の『快走』を読み直した。
紙本派を自認しているわたしだが、台湾への留学が決まった後、部屋を整理する必要に迫られた。部屋の中で一番広い面積を占めていたのは本だったので、母の家に送る分は段ボール箱に詰め、二度と読み直しそうもないものは思い切って処分した。おかげで部屋は片付いたが、なんだか歯の欠けたところに風が沁みるような気分になった。でも、新たに本を買ってしまったら古い本を処分した意味がないし、台湾へいった後だって、やはり日本語の本を読みたくなるだろう。そう考え、ついに節を屈して電子書籍リーダーを購入した。
せっかくだから、読んでも読んでも終わらない長い物語を入れておこうと選んだのが、中里介山『大菩薩峠』全四十一巻だった。元々好きだった岡本かの子も、これを機に全作品を入れた。
『快走』は、岡本かの子が昭和十三年に『令女界』に発表した作品だ。『令女界』というのは創刊が大正十一年、『少女倶楽部』や『少女の友』と並ぶ戦前を代表する少女雑誌の一つだった。カンザキ君が紹介してくれた動画を見ている間、わたしの頭にあったのは八十年以上前に書かれた、この短い物語だった。
……女学校を卒業した道子は、実家で家事手伝いをしている。兄弟のための正月の着物を、一日中正座の姿勢で一針一針縫わされている。縫い仕事がようやく一段落した道子は、夕方散歩に出る。多摩川の堤防まで歩いてゆくと、堤防の上には夕靄が流れ、東の空には満月が昇って白い光を放っている。道子はふと思い立って下駄を脱ぐと、着物の裾を端折り、堤防の道をまっすぐに走り出す。髪が乱れて肩に流れるのもかまわず、思いきり走るのだ。 その日から、堤防の道を快走するのが道子の密かな愉しみになる。あらかじめ「アンダーシャツにパンツ」という姿になっておき、その上からさりげなく着物を身につけ、家の者には銭湯へ行くと告げて出る。銭湯は嘘ではないが、銭湯へいく前に堤防の上を全力疾走していることは、家族の誰にも教えない。そのうち、母親は道子の銭湯の時間が長すぎるのを不審に思い始める。ある日、女学校時代の友人から道子宛に届いた手紙を、母親に盗み読まれ、道子の秘密がばれてしまう。女の子が下着のような姿で外を走るなんてと母親は怒り、即刻止めさせようとするが、父親は道子が何をしているのか一度確かめてみようと提案する。何も知らない道子は、その日もいつもの場所で月の光を浴びながら走っている。後をつけてきた両親が、自分たちも家からずっと駆け通しできたと気づくのが作品のラストだった。両親は顔を見合わせ、同時に笑い出す……。
十分ほどで読み終わってしまう『快走』を読み直し、カンザキ君が見せてくれた動画より、わたしはやっぱりこっちの方が好きだな、と思った。
夕食の買い物のため、外へ出た。
マンションの前の道は中学校の通学路になっていて、学校帰りの少年少女たちと擦れ違う。内容があるんだかないんだかわからないおしゃべりと楽しげな笑い声が、十二月初めの夕方を震わせる。登校時はそうでもないけれど、下校途中の生徒たちは、なぜか皆明るい学校生活を送っているように見える。
駅前の商店街で夕食の買い物を済ませた後、ふと思い立って肉屋さんで揚げたてのコロッケを買う。中学生の買い食いのようにはふはふ頬張りながら、自分の部屋へ戻るのとは違う道を歩く。
歩道橋がある。いつ見ても使っている人はほとんどいない。乾いた川床の上に架けられたその橋を半ばまで渡る。買物用トートバッグを足元に置いて欄干に頬杖をつく。空はまだ明るいが、正面やや右寄りに、濡れたような円い月が昇っている。橋の下は既に蒼黒く淀み、ライトをつけた車の列が流れていく。水しぶきがたつ。みるみる膨れあがった暗い川面が、光を孕んで揺れる。
ふと、八十年前の多摩川を思う。
携帯が鳴った。先生からだった。
「今どこにいる?」
「買い物の途中、歩道橋の上にいます」
「そうか」
「先生はどこにいらっしゃるんですか」
「うん……」
といった後、先生はちょっと間をおいた。
「君のマンションの近くにいるんだけれどもね」
「そうだったんですか。じゃあ、すぐ戻ります」
わたしはトートバッグを肩に掛け、もう一方の手で携帯を耳に当てながら歩道橋を元の方向に戻り、急いで階段を下りる。
「いや、いいんだ。たまたま近くまできたんで、もし時間があればお礼に食事でもと思ったんだが。君には面倒なことを引き受けてもらったからね」
「そんな、お礼だなんて……」自分の息がちょっと弾んでいるのを意識する。きっと、急いで階段を下りているせいだ。
「どうせぶらぶらしている身ですから。でも、あんまりお役に立てなかったみたいで。こちらこそ、すみません」
「とんでもない、向こうはとても感謝していたよ。おかげでまた学校にいけるようになったそうだね」
わたしのどこかが、ちくっと痛んだ。先生はわたしが口ごもってしまったのには気づかぬ様子で、
「部屋にいないなら、また日を改めて――」
話を切り上げそうにするので、わたしはちょっと慌てて、
「先生、何かお話があったのではありませんか。本当に近所なので、すぐ戻れますが」
「急いで帰る必要なんてないよ。宮仕えと違って、私はつけようと思えば時間の融通をつけられる商売だからね。君も留学準備なんかで忙しいだろうから、今度また、そちらの都合のいい日に……」
先生は「では、また」といって、電話を切った。切れる直前、わたしの耳は小さい笑い声らしきものを拾った気がしたが、風の音だったかもしれない。
歩道橋の階段を下り切ったところで、ちょうど青信号が点滅を始めた。広い道幅ではないから急げば渡れたのだが、わたしは踏み出しかけた足を戻した。待ち受けに戻った携帯画面にちらっと目をやってから、デニムパンツのお尻のポケットにしまった。歩道の信号が赤に変わった。わたしは、ぼんやりと流れる水を眺めた。歩道橋の上から見下ろしていた川底に、自分は今立っているのだと思った。
実際大した距離ではないのだが、マンションに帰り着く頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。湿気の強い、暑い季節は、街灯の光も少しぼんやりして見えるけれど、秋から冬へと季節が移るにつれ、生きることをやめた身体が静かに冷たくなっていくように街灯の色は変化する。今前方に見えている街灯の照射範囲と闇の境目には、どこか張りつめたような緊張が漲り、灯りは闇に握りこまれたように凝【こご】っている。わたしは首を縮めてマフラーに顎を埋める。吐く息が白く散った。「マンションの近く」というのが正確にどこを指すのかわからなかったけれど、なんだかついさっきまで、先生がこの灯りの下に立っていたような気がした。
どうせすぐ戻るから、と暖房をつけっぱなしにしておいた部屋に戻ると、なぜかほっと溜息がこぼれた。コロッケを食べてしまったせいかお腹が空いていなくて、せっかく買ってきた食材も調理する気にならない。シャワーを浴びてさっぱりした後、台所で簡単な野菜炒めを作り、冷蔵庫から缶ビールを一本取り出してパソコンの前に座った。
YouTubeで、柳家小三治を聴く。学生時代からずっと、わたしは先生が十代目小三治に似ていると思ってきた。晩年の小三治ではなく、四十代後半から五十代にかけての小三治。もっとも、わたしの周りには落語なんて聴いている人はいないから、「似ている」という感じがどのくらいの客観性を持つのかは定かでない。
わたしが落語を聴くようになったのは、父の影響だった。父はお気に入りの落語家のDVDを揃えていて、休みの日にはよく自分のパソコンで観ていた。
――お父さんは昭和の人間だから。
着物をきて、座布団の上に座っているおじさんを見て嬉しそうにしている父が不思議で、「お父さん、これ本当に面白いの」と訊ねたわたしに、父はそんなふうに答えたのだった。
それは、わたしがふだん見るお笑い番組とはかなり違っていたが、時々は父に付き合っていっしょに落語を聴いた。ふたりで肩を寄せ合うようにして、パソコンのディスプレイを覗きこむのだった。マクラが終わる頃合いに、落語家は羽織を脱ぐのだが、脱いだ後の羽織がちょうどうまい具合に身体の後ろに隠れ、はみ出して見えたりしないところが、ちょっとかっこよくわたしの目に映じた。時々おじさんたちの姿が見えなくなって、「江戸時代」の風が画面から吹きこんでくるように感じられることもあった。
先生に面と向かって「似ている」といったことはないけれど、小三治を話題に上【のぼ】せたことはある。父から聞いた話だ。
父は大学生の時、生の小三治を聞いたことがあるそうだ。その当時、父の実家から電車で三十分ほどの場所に、新しく芸術ホールなるものができた。そのこけら落とし公演として、小三治と三代目古今亭志ん朝の「二人会」が催されたのだという。
チケットを取るために父がホールに電話をすると、若い男性が出た。「ににんかいのチケットを」というと、受話器の奥から一瞬息を呑んだ気配が伝わり、「ふたりかい、ですよね」と訂正された。
こういう場合は「ににんかい」と読む方が正しいでしょう、と父は口まで出かかったそうだが、結局「じゃあ、それで」と答えてしまった。
話の流れで、そのエピソードを披露したところ、
――それは、「ににんかい」の方が正しい。でも、チケットを取るために電話している時、相手にそれを説明しても仕方がない。いやはや、人生にはそういうことがあるね。
先生は笑っていった。
その顔がやっぱり小三治に似ていて、わたしはこっそりおかしさを噛み殺したものだ。
わたしが大学に先生を訪ねたのは、二年半働いた会社を辞め、台湾留学を決めた九月初めのことだった。大学はまだ夏休みだったが、お電話を差し上げたところ、先生は研究室にいらっしゃるということだったので、久しぶりに大学の門を潜り、まだ色づいていない銀杏の並んだスロープを歩いた。
先生はわたしの留学の話には、「それもいいでしょう」と一言いったきりだったが、わたしも別に先生に応援してもらおうとか、逆に反対してもらおうとか考えていたわけではないので、それで十分だった。そのまましばらくおしゃべりしていると、先生が珍しく愚痴めいたことを口にした。
スポーツジムで知り合った人から、先生は引きこもりの息子に関する相談をされたのだそうだ。先生は大学の近くのジムの会員になっていて、講義の間が空く日や休日など、そこで汗を流しているらしい。わたしはそんな話は知らなかったが、確かに先生は五十に近い年齢の男性にしては、引きしまった身体つきをしている。
その息子というのは高校一年生とのことだった。高校生の問題は高校の先生に尋ねるべきで、大学の先生に相談しても仕方ないだろうと思うのだが、先生に相談した人は、大学の勉強は高校のそれより難しいから、よりよいアドバイスをくれるに違いないと信じこんでいる様子なのだという。その時わたしの頭に、父から聞いた「二人会」の話がよみがえったのだった。
おかしいのはどう考えても相手の方なのだが、そのおかしさを、ジムでランニングマシーンを使いながら説明するのも難しい――というか、そもそも説明しても理解してもらえるとも思えず、とにかく丁重にお断りしようとしたところ、思い込みの激しい人の常で、婉曲な表現がまったく通じない。しかも我慢して話を聞いているうちに、なんと先生に息子の家庭教師を頼もうとしていることがわかり、さすがの先生もあっけにとられてしまった。
またその人に捕まることを避けるため、先生はしばらくそのジムへは足を向けないことにしたのだが、二三日前、研究室の内線電話にその人から電話が掛かってきて、今度こそ本当に驚いたのだそうだ。
――でも、先生。その人はどうして、ここの内線番号を知っていたんですか。
――以前、求められて名刺を渡してしまっていたようなんだね。覚えてないんだが……。
――脇が甘いですね、先生。
――いやはや。面目ないよ。
しゅんとした顔に、そこはかとなく愛嬌があった。ようやく会社を辞めた解放感も手伝って、わたしはつい、
――先生と同じジムに通ってるってことは、その人の家はこの近所なんですよね。わたしでよければやりましょうか、その家庭教師の仕事。
といってしまっていた。
その不登校の息子というのが、カンザキ君なのだった。
ディスプレイの中で、小三治は『死神』を演じている。
2
近所まできたから立ち寄った、というさりげなさで、ミサトが部屋にやってきた。
わたしはミサトのために、『王德傳【ワン・デゥ・チュアン】』という台湾茶ブランドの「蜜香紅茶【ミィ・シィアン・ホン・チャ】」を淹れた。
わたしに台湾茶の魅力を教えてくれたのは先生だった。烏龍茶はもちろん、台湾の紅茶もとてもおいしいのだ。
「ほんとうに、いい香りよね」
ミサトが、ひくひくと鼻を動かした。ミサトは、ひどく鼻の利く女だった。その形のよい鼻がかすかに膨らんだり凹んだりしているのを見ると、わたしはなんだかはらはらし、それをごまかすために急いで口を開いた。
「蜜香紅茶ってね、虫のおかげでこの香りが出るようになるんだよ」
「えぇっ、虫?」
ミサトが食いついてきたので、わたしは携帯の画像を見せた。
「日本語では、チャノミドリヒメヨコバイ。華語では、『小緑葉蝉』――小さい緑の葉っぱの蝉って書くんだけど、その虫が食べた茶葉を発酵させることによって、このお茶特有の、甘やかな香りが出るようになるんだって」
「ちっちゃい虫だね。これでも蝉の一種なの?」
「昆虫学的には違うみたい。華語の名前の方に『蟬』の字が入っているのは、『蝉に似てる』って意味なんだって」
「なるほどね、そう言われてみれば、確かに少し蝉に似てるかも。色はバッタみたいだけど。名前なんだっけ、チャミドリヒメなんとか……」
「チャノミドリヒメヨコバイ」
「わあ、舌噛みそう。それをわざとお茶の葉につけるの?」
「そう。蜜香紅茶だけじゃなく、『東方美人茶』も同じやり方で香りをつけてるんだって。成分的には、ホートリエノールっていうらしいよ」
「わたし、いつも思うんだけどさ、『東方美人茶』ってすごい名前だよね」
「うん、そうね。たしかに」
「買ったこと、ないけどさ」
ミサトは、トーホービジンチャ、トーホービジンチャと呟きながら、しばらく小緑葉蝉の画像を眺めていたが、
「虫がつくと、かえって蜜の香りがするようになるのか」携帯から目を上げずに、ふっと、つぶやいた。
午後のひと時をこんなふうに他愛のないおしゃべりで過ごしたのだが、玄関でミサトを見送った後、わたしはなんだかぐったりと疲れた。
ミサトとは大学入学後間もなく、映画研究サークルで知り合った。
サークルの部長の「今まで見た中で一番好きな映画は何か」という質問に、わたしたち一年生全員が答えさせられたことがあった。女子の多くがヨーロッパ映画を挙げる中、わたしとミサトだけが日本映画、しかも期せずして、ふたりとも溝口健二の『残菊物語』を挙げた。
部長からは「渋いね、君たち」の一言をもらっただけで、ほとんどスルー状態だったし、周りからはウケ狙いと思われたようだったが、そんなことはどうでもよくて、その後、ふたりで『残菊物語』の話で盛り上がった。
――森赫子演じるお徳が色っぽいよね。
とわたしがいうと、
――うん、色っぽい。とくに、あのスイカのシーン。
と答えたミサトの顔を間近に見て、この子はほんとうにきれいだと思いながら、わたしは興奮気味にまくし立てた。
――スイカのシーン! あれすごいよね。お徳が自分の簪を抜いて、懐紙でちょっとぬぐってから、菊之助のためにスイカの種を取ってやる。それだけなんだけど、なんだかすっごくエロティック!
――女が自分の髪の匂いのついたもので、男の人の口に入れるものに触るのよね。
――そうそう、なんかどきっとするよね。控え目だけど大胆っていうか……。
――ほんと、控え目なのに大胆。現代なら、ちょっとあり得ないよね。ヘアピンでスイカの種を取る、みたいな話でしょう?
ミサトのたとえに思わず吹きだしながら、それは引くよね、といったわたしの頭に、ヘアピンでスイカの種を取らせながら、目を引きつらせて喜んでいるおじさまの顔が不意に浮かんで、瞬間、まるでおしっこを限界まで我慢している時のような悪寒に襲われた。
それでもトイレに駆けこむかわりに、古い日本映画なら他にはどんな作品が好きかと水を向けたところ、ミサトは迷うことなく、小津安二郎と答えた。しかも原節子主演の『麦秋』や『東京物語』より、岩下志麻主演の『秋刀魚の味』の方が好きだというのは、わたしもまったく同意見だったから、なんとなく意気投合した感じになり、ミサトはわたしにとって、大学入学以来初めての友だちとなったのである。
ミサトは小柄で顔も小さく、一見すると少女みたいだった。誰もが認める美人だったが、「気高すぎる」という評があったように、周囲の人間なんて眼中にないような、どこか超然とした雰囲気を身にまとっており、ミサトの美貌に興味津々の先輩たちも、敬して之【これ】を遠ざくというのか、この聖少女をうやうやしく遠巻きに眺めているところがあった。
ところが、現実のミサトの内面は、聖少女どころかかなり俗っぽく、映画の話以外では、話題といえばサークル内の男女関係が中心で、わたしの前では「誰それと誰それはもうできてる」といった類いの話ばかりしていた。でも、そんなミサトの本当の姿を知っていたのは、サークル内で、わたしひとりだったかもしれない。
ミサトの話が、単なる噂話のレベルにとどまっているうちはまだよかったが、〇〇さんはシホに気があるようだとか、シホさえよければ、一度ふたりきりで会えるようセッティングしようかなど、頼んでもいない世話を焼いてくるのには閉口した。最初は適当に聞き流していたものの、あまりしつこいので、
――もうそういうのやめて。
ときっぱり断ったところ、ミサトはわざとらしく溜息を吐き、
――自分のできないことを、シホにやってもらおうとしていたの。わたしって、卑怯なやつだよね……。
きれいに揃った睫毛に縁どられた、陰翳深い目をしおらしく伏せてみせた。ミサトがそんなふうにすると、ショートボブの、きれいにカールした毛先が儚げに頬にかかって、思わずぞくっとするような色気が出るのだった。
本当に美人かどうかは、横顔を見ればわかるという。鼻梁の高さや顎の形は、メイクではごまかせない。ミサトの横顔は精緻な彫刻のようで、特に顎から首にかけてのラインが神のみわざのような完璧は美しさをたたえていた。わたしはそんな横顔を見つめながら、罠にはまったと知りつつ、こう訊【たず】ねずにはいられなかった。
――自分のできないことって?
――実はね……。
ミサトは、自分は生まれつき心臓が弱く、過激な運動や極度の興奮状態など、心臓に大きな負担を与えるような行為は、「お医者さま」から禁じられているのだと語った。
――それって、セックスもだめってことなの?
――ううん。だめってわけじゃないんだけど、以前お医者さまからセックスに関する注意事項みたいなものを提示されたことがあるの。あくまで可能性の問題として。でも、初めて男の人とそういう関係になった時、心臓の心配をしなくちゃいけないのかって思うと、わたしとしては、やっぱり考えないわけにはいかないでしょう。事前に簡単に伝えておくだけでいいからって、お医者さまはおっしゃるのだけれど、どんなふうに伝えればいいわけ? わたしは心臓に問題があって、極度の興奮状態におちいると発作を起こす可能性があります、だからわたしが興奮しないよう気をつけてセックスして下さいってお願いするの? それでもまだ、わたしとセックスしたいと思う男の人なんているのかな。
いきなりの難病の告白に戸惑うわたしの顔を、ちらっと上目遣いにうかがうと、ミサトは急にしれっとした笑顔を浮かべ、こちらが耳を疑うような提案を持ちかけてきた。
――ねえ、わたしとルームシェアしない? ううん、シホは一円も家賃を払う必要はないの。その代わり、あなたの恋愛を、わたしに観察させてくれないかしら。
――「観察」って……。
――悪い話じゃないと思うけどな。シホだって、家を出たいと思っているんでしょう? ちょうといいじゃない、利益の一致だよ。
わたしは黙ってミサトを見つめた。顔はへらへら笑っているくせに、ミサトの目は笑っていなかった。医者を「お医者さま」と呼ぶような家庭で育ったことと、この奇妙な提案が、美しい身体の中でどのような折り合いをつけているのだろうといぶかりながら、わたしはもう一度、ミサトの顎から首へのラインを、塗り絵でもするように視線でなぞるのだった。当時のわたしが、家を出る機会をひそかにうかがっていたのは事実だったけれど、その事情について、ミサトに相談したことは一度もなかった。それなのに、なぜミサトはわたしの秘密を嗅ぎつけ得たのか。ミサトの勘が異様に鋭いことを知ったのは、この時のことだった。
結論を言えば、一週間悩んだ末、わたしは条件付きでミサトの提案を受け入れた。その条件とは、恋愛はわたしの自由意志によるものであり、付き合いを継続するか否かについては、当事者のみに決定権があること、その過程にミサトが介入するのはもちろん、方向性に影響を与えかねない言動も一切禁ずること、だった。
家出決行の日、わたしはいつものように大学へいくふりをして家を出、そのままミサトのマンションに転がりこんだ。当日はあやしまれぬ用心に、大きな荷物は持たないようにした。どうしても手元に置いておきたい本や、お気に入りの服などは、その前から少しずつミサトの部屋に移していたのだった。
ミサトの住んでいるマンションは、新婚夫婦が将来子供ができることを想定して借りたそれのような広さがあり、床面積だけでなく、大学から一駅という交通の便、また新築である点など、文句のつけようのない優良物件で、いったい家賃はいくらになるの、とおそるおそる訊ねてみたところ、ごく軽い調子で、ミサト名義の不動産だという答えが返ってきた。
――毎月家賃を払うより、長い目でみればかえって安上がりだって、パパがいうの。この辺りの土地もこれから値上がりするらしいから、わたしが使わなくなった時は買い値より高く売れるだろうって。
まるで他人事みたいに、ミサトが淡々と話すのを聞いていると、格差社会の何たるかを思い知らされる気分になった。
――さあ、これで心おきなく恋ができるね。シホちゃん。
――なんだかわたし、女衒に買われたみたいな気分だわ。
せいいっぱいの皮肉のつもりだったのだが、ミサトは、女衒っていうより遣手婆かもね、と舌を出してみせた。そのまったく悪びれない態度にわたしもつい笑ってしまい、それ以上憮然とした顔を続けていることができなくなった。
引っ越しから二か月ほど経った頃、わたしははやくも、サークルの先輩のオダさんと付き合うことになった。
ミサトはさりげなく、そして極めて巧みにわたしとオダさんの仲を取り持った。誰と付き合うかはわたしの自由意志で決めることで、ミサトは干渉してこないはずだったのに、とは今更わたしはいわなかった。そもそも「方向性に影響を与えるような言動」と「そうでない言動」との間に、明確な線など引きようがないのははなからわかっていた話で、「条件」なんて、しょせんはわたしの自尊心の頭を撫でる、自慰【オナニー】行為のようなものだった。事実は、ミサト自身が口にしたように、彼女が遣手婆。そしてわたしは、その厳しい監督下におかれた女郎でしかなかったのだ。
わたしが外でオダさんとデートをして帰ってくると、ミサトはその間の出来事について、根ほり葉ほり訊ねた。質問は単に「どこへ行って、何をしたか」にとどまらず、相手の服装や交わした会話、その時々の表情やしぐさにまで及んだ。それら訊問のすべてに、ミサトの納得いく答えをするまで、わたしはいつまでも解放してもらえなかった。
二回目のデートの時、キスをされ、そしてかなり露骨に、セックスしたいと匂わされた。少し強引な印象を受けたが、セクハラになることばかり恐れ、デートをした女の子に指一本触れられない人よりは男らしいのかも、と無理に考えてみることにした。
――ごめんなさい。今日はだめな日なんです。がまんしてください。
それで、その日はなんとか諦めてもらえたけれど、わたしの口からとっさに出た嘘は、次に会う時はセックスしていいと約束したも同然の下策で、「じゃあ、場所はどこにする?」とオダさんの中では既にそういう流れになっていた。オダさんは家から大学に通っているとのことで、「うちはだめ」と一方的に申し渡され、すると選択肢はホテルかわたしの部屋のどちらかしか残っていないが、わたしはちょっと迷ってから後者を選んだ。
ホテルで男と寝て帰ってくれば、そのにおいを、ミサトは必ず嗅ぎあてるだろう。そしてわたしが白状するまで、遣手婆が女郎を折檻するように、ねちねちと陰険に責め続けることだろう。それならいっそ、最初からオダさんをわたしの部屋に連れてきて、好きなだけミサトに「観察」させてやれ。わたしは捨て鉢の女郎のように、そう開き直ったのだ。
日曜日、オダさんと外で待ち合わせ、適当な時間にマンションへ連れてきた。もちろん、ミサトには外からLINEで知らせておいた。
――フタバって、すごいところに住んでるんだな。
オダさんがちょっと感心したようにいった。
――友達とルームシェアしているんです。
――その友達は?
――今日は出かけてます。帰りは遅くなるって……。
ミサトは気配を消していたが、わたしには、ミサトの耳が薄く引き伸ばされてどこまでも広がり、バスルームに置かれたごみ箱の底にまで網を張っているのを感じていた。
どんな小さな囁きも、密やかな衣擦れも、その網の目を逃れることはできない。そうして集めた断片から、ミサトはきっと、わたしの経験を彼女の「物語」として再構成しようとしているのだろう。
結局人間というものは、毎日ひたすら自分の「物語」を、YouTubeの動画でもチェックするように鑑賞しているだけなのかもしれなくて、その意味では、わたしのいわゆる実体験なるものと、ミサトが再構成した「物語」の間に、本質的な違いなんて存在しないのかもしれない、とそんなどうでもいいようなことを、わたしがあの時妙に真剣に考えていたのは、やはり単純に、男が怖かったからに違いない。
オダさんはわたしの部屋に入ると、後ろ手にドアを閉めた。何もいわずにわたしをベッドに押し倒し、さっそく服を脱がせ始めた。
前戯もほとんどなく、オダさんがそのままわたしの中に入ってきそうなので、わたしはちょっと慌てた。
「あの、ゴムをつけてください」
「持ってきてねえよ、そんなの」
興を削がれたように、オダさんは動きを止めて眉根を寄せた。
最初からそのつもりできたくせに、コンドームを持ってこなかったと平然といい放つオダさんに、わたしは絶句した。
急いでベッドの傍らのドレッサーの引き出しに、念のために準備しておいたゴムを差し出すと、オダさんはいかにもしぶしぶという様子で受け取った。
ミサトが自分の部屋から一歩も出ていないことはわかっていたが、それでもわたしはずっとミサトの気配を感じていて、そのせいかまったくセックスに集中できず、オダさんはオダさんで、何時何分の電車に乗ろうとしている人みたいにわたしを扱うので、気持ちいいどころか、痛みをこらえる我慢大会に無理やり参加させられているみたいだった。もっとも、苦痛の時間をあまり長引かせることなく、わりとあっさり果ててくれたのは、せめてもの救いだった。オダさんは外したゴムを部屋のゴミ箱に無造作に放り込み、床に散らばった自分の服をすばやく着ると、一言「バイトがあるんだ」とつぶやいて、そのまま帰ってしまった。
わたしはようやく下着を身につけたところだったから追いかけることもできず、そのまま固まったように、玄関のドアの閉まる音を聞いた。
驚きも怒りも通り越して、もう笑うしかない気持ちだったが、実際に笑おうとすると下腹部がひりひりして、思わず顔を顰めた。いっそ泣いてやれば少しは気も晴れるのかもしれなかったが、痛みがどこか乾いていた。涙腺がちょっとふくらんだだけで、結局涙は滲み出てこず、女が泣こうとして泣けなかった時の気分は、もしかしたら男の人の蛇の生殺しのようなものかもしれなくて、わたしはただのろのろとゴミ箱の前にしゃがみ、オダさんの捨てたコンドームをつまみ出した。ゴムはべろんと長く伸びて、その先に白濁した液体が溜まっていた。わたしはティッシュでそれを包み、更にビニール袋に入れて口をきつく縛った。それでも生臭いにおいが、鼻孔にまつわるように残った。
その時、半ば開いた部屋のドアを、遠慮がちにノックする音が響いた――
3
――大学合格おめでとう。
おじさまはお祝いの言葉を述べた。食卓の上にはおじさまが持ってきた赤ワインと、DEAN & DELUCAの総菜が取り澄ました顔で並んでいた。
――ありがとうございます。
わたしは硬い声で短く答えた。わたしは十八歳で、大学の合格通知を受け取って間もない頃だった。
――志望大学に合格できてよかった。ただ、私立は学費が高いってシホちゃんのお母さんは途方に暮れていてね、私のところに相談にきたんだ。そのことは知ってる?
――あの、母はもうすぐ帰ってくると思うので、それからの方が……。
――待つ必要はない。お母さんは、今日は帰りが少し遅くなるからね。
――母は今、どこで何をしてるんですか。
――シホちゃんが心配することではないよ。お母さんはお母さんで楽しい時間を過ごしているってことさ。お父さんが亡くなってから、シホちゃんを育てるためにお母さんは女手一つで頑張ってきた、たまには羽を伸ばすのも許してあげないとね。
おじさまは、小さい子にいい聞かせるようにそういった。わたしは思わずかっとなって、娘を売るような母親を許せというんですかと口走りそうになったが、耐えた。父の死以来、耐えることには慣れていた。
おじさまは食卓の晩餐にはあまり箸をつけず、ワインをゆっくり飲みながら、わたしのグラスにも「少しはいいだろう」と注ぎ、料理はおいしいかねと尋ねた。わたしは頷いてみせたけれど、正直おいしいかどうかわからなかった。ただ、DEAN & DELUCAの味がすると思っただけだった。それでも、わたしは食べた。おじさまの言葉には逆らえなかったから。四年という時間は、わたしをそんなふうに飼いならしていたのだ。
おじさまは、母の経営する北欧雑貨店で扱っている、iittalaのプレートやグラスを輸入する会社の社長だった。母が雑貨店を始めようとしたからこの社長を知ったのか、先に社長と知り合って、それから雑貨店をやる気になったのか、とにかく父が亡くなって一年ほど過ぎた頃から、おじさまは時々、母とわたしが暮らす小さな家へやってくるようになった。くれば必ず、わたしにお小遣いをくれたり、母と一緒に高そうなレストランで食事をさせてくれたりした。そんなふうな関係が四年続いていたわけだが、家の中でおじさまとふたりきりになるのは、初めてのことだった。
父は、ある日出張先でいきなり倒れ、救急車で病院に搬送された。くも膜下出血だった。最後まで意識は戻らず、出張先の地で亡くなった。あまりに突然で、嘘みたいにあっけなかった。当時、中学一年だったわたしは、ただ茫然とするばかりで、涙さえほとんど出なかった。母が身も世もなく泣いていたせいかもしれない。わたしには、生前の父と母の関係が、さほど良好なものには見えなかったのだけれど、母の嘆きようは、正に「最愛の夫」を亡くした妻のそれだった。そんな母を、親戚や周りの人たちはいたわり、やさしく接した。母は男性と話す時は、ほとんど無意識に声が甘くなる人で、「かわいい人」と見られるのを何より好んだ。
一方、気遣う様子を見せながらも、大人たちのわたしに対する態度は、どこか冷ややかだった。シホちゃんがしっかりしてお母さんを支えてあげないとね、お母さん、あんなに悲しんでいるのだから。親戚なのか知り合いなのか、葬儀に参列した男の中には、そんなことをわざわざいってくる人までいた。わたしはただ、俯くことしかできなかった。
父の死は労災と認められ、その他、加入していた生命保険の保険金も入った。嘆き悲しむばかりで家事の一切をわたしに任せきりだった母が、通帳に振り込まれた金額を見て目の色を変えた時、わたしは不吉な予感に身震いした。その直感の正しさが証明されるまでに、さして時間はかからなかった。母は突然店をやると言い出し、濃い化粧をして外で人と会うようになった。電話も頻繁に掛けたり掛かってきたりするようになった。母がまるで実業家気どりで話しているのを聞くと、わたしは耳を塞いで逃げ出したくなるのだった。商売経験のない人がお店なんて始めてもうまくいきっこないからと、拝むようにして母に伝えてみたこともある。しかし母の耳に、わたしの声などちっとも届きはしなかった。「店をやるのが長年の夢だったの」母はしゃあしゃあといってのけた。
初めておじさまが家にきた日、わたしは中学二年生だった。
仕立てのよさそうなスーツを着、目尻にやわらかい微笑を浮かべたおじさまは、もう五十台半ばだったが、やや太り肉【じし】で血色がよく、髪がふさふさしているせいか、年齢よりは若く見えた。母は、三人で一緒に食事することになったから、すぐよそ行きに着替えるようにとわたしに命じた。相手を「おじさま」と呼ぶよう母から耳打ちされたのも、その時のことだった。
連れていかれたのは、お洒落な感じのステーキハウスだった。よそ行きのブラウスだったから汚したら大変と、わたしは最初ナプキンを襟元に掛けてしまった。おじさまから、ナプキンは二つ折にして輪の方を手前に膝の上に置くのだと教えられた。わたしが顔を赤くしていると、本当は食べやすいように食べればいいんだけどね、とおじさまはわたしの方へ前屈みになってささやいた。なんだか悪戯の相談でもするような、そんなおじさまのくだけた様子に少し気が楽になり、わたしはつい笑顔を見せてしまった。
食事中、おじさまは、自分が北欧にいった時の話をした。
――ノルウェーの国道六三号線にはね、「トロル注意」っていう標識があるんだ。「トロル」は「トロール」ともいって、北欧の神話や民間伝承に登場する精霊のことなんだよ。
ノルウェー滞在中に、おじさまの財布が盗まれるという事件が起きた。ところが、周りの人が皆、「トロルの仕業だ」と真面目な顔でいって、ちっとも犯人を捕まえてくれないので困った――そんなエピソードが身振り手振りを交え、ユーモラスに語られた。わたしは何度も吹きだしながら、「トロル」ってどこかで聞いた名前だなと思い、
――あ、がらがらどん。
とようやく気がついた。
小さい頃大好きだった絵本の『三びきのやぎのがらがらどん』に出てくる、橋の下の魔物が「トロル」だった。絵本のイメージでは、「トロル」は大きくて恐ろしい魔物だったが、おじさまの話によると、大きさは変幻自在、その形状についても諸説あるとのことだった。
――ウルトラセブンと同じだよ。大きくなったり、小さくなったり……。
わたしがきょとんとしていると、おじさまは、
――そうか、シホちゃんの世代はウルトラセブンなんて知らないんだな。
さりげなくわたしの下の名を「ちゃん」づけで呼ぶと、母を見て笑った。
――それに、女の子ですから。
母は目を糸のように細くして笑っていた。ちょっと狐の顔に似ていた。
――ムーミントロールの「トロール」だって、実は同じ言葉なんだよ。
――ムーミン? あっ、そっか!
トーベ・ヤンソンの『ムーミン』シリーズは、小学生の時に全巻読んでいたけれど、『ムーミン』と『がらがらどん』ではイメージが違いすぎ、両者が同じ言葉だとは、今まで気づかずにいたのだった。『ムーミン』の連想からか、おじさまが少し「ムーミンパパ」に似ているように思えてきた。
この時、母がおじさまに妙な目交ぜをしたのを、なぜだか今でもはっきり覚えている。
わたしは問われるままに、好きな本やテレビドラマの話を、おじさまに話して聞かせた。あの夜、テーブルには笑い声が絶えなかった。たとえそれが母とおじさまの間から漂う、腐ったチーズみたいなにおいを消すための、わたしの必死の演技によるものだったとしても。
そしてもう一つ、ムーミンパパみたいな存在に甘えてみたいという気持ちも、やはりわたしのどこかにあったのかもしれない。
ただ、おじさまが母だけでなく娘のわたしまで自分のものにする気でいたとは、わたしはうかつにも気づいていなかった。目の前でステーキを頬張るわたしをにこにこと眺めていたムーミンパパは、既に心ひそかに、わたしの処女を奪うと決めていたのだ。
そして今、大学入学を控えた十八歳のわたしは、DEAN & DELUCAの総菜とワインが並ぶ食卓で、おじさまと対峙していた。母が買収されたと知ったわたしは、挑むような目をおじさまに向けた。おじさまの髪はまだ禿げてこそいなかったが、四年前よりだいぶ薄くなっているのは確かだった。この時、わたしの身体の奥の暗がりを、鼠が走った。わたしはすばやい猫みたいに、爪で鼠の尻尾を押さえつけた。鼠は暴れたが、わたしは爪の先に力を籠めて逃がさなかった。
わたしは、透明な鼠の尻尾が絡みついたフォークを、静かにテーブルの上に戻した。
――おじさま、ビジネスライクにいきましょう。母はいくらでわたしを売ったんですか。
おじさまも、さすがに一瞬、虚を突かれたような顔をした。軽く空咳をすると、不機嫌さを面に出さないよう努めている様子で、こういった。
――シホちゃんの大学の入学金として、三十万融通してほしいとお母さんに相談された。
――三十万ですか。
たったそれだけ? わたしは自分の耳を疑った。母から見たわたしの価格など、その程度なのか。母がわたしを売ったことよりも、売り叩かれた事実に、かえって怒りが湧いた。
――三十万なんて安すぎます。わたしの一生一度を捧げるんです。入学金プラス一年分の学費でお願いします。
「一生一度を捧げる」という言葉は、わたしの実感ではなかったけれど、おじさまの耳には、それなりに大きく反響するはずだった。個人的な性向なのか世代的な共通幻想なのかわからないが、おじさまが「処女」に特別な価値を見出していることを、わたしは見抜いていた。それはこうして向かい合って、おじさまのねっとりした視線に晒されていると、皮膚感覚として理解されてくるのだった。わたしは自分を一個の「商品」として考えてみることにした。問題はオークションのように、その落札価格をどこまで引き上げられるかにあった。
――入学金プラス一年分の学費だって? それでは百三十万を超えてしまう。いくらなんでも、少々法外な価格設定ではないかね。
――句切りのいいところで、いっそ百五十万ください。その金額をいただけないのなら、交渉は不成立です。
――そんなに欲張るもんじゃないよ。ビジネスにはね、相場というものがあるんだ。私が援助を断ったら、シホちゃんは大学に行けなくなってしまうんだよ。わかっているのかね?
それなら大学なんて行かなくていいです。反射的にそういいかけて、わたしははっと口を噤んだ。挑発に乗って、感情的になってはいけない、こちらが主導権を握るのだ。わたしは不敵な微笑みを浮かべたつもりで、こんな質問をおじさまにぶつけてみた。
――おじさま、わたしのクラスの女子の中に、処女は何人いると思います?
おじさまはちょっと黙りこんだ。やがて薄い笑いを顔に貼りつけ、わたしを見返した。
――なるほど、今どきの女子高生の処女にはプレミアが付くというわけだね。どうやら君は、お母さんよりずっと商才があるようだ。
母に店をきりまわす器量などないのは、はなからわかっていた。派手好きで交際好きだが飽きっぽく、地道にこつこつやる仕事には耐えられない性格なのだ。自称実業家になってからは、家事の一切を当然のようにわたしに押しつけ、女中みたいに顎で使った。そのくせ、自分の店の店員に対して、母はそんな高飛車な態度はとれないのだった。何度か母の店にいったことがあるが、アルバイトの店員の態度から、母が軽んじられているのがわかった。
月を重ねるごとに母の店の赤字は膨らみ、それにつれて母の心はささくれ立っていった。わたしの作った料理がまずいといっては流しに捨て、クリーニングに出す服をうっかり洗濯機で洗ったといっては、大声でわたしを詰った。それでも母の気が済まないと、わたしは台所の冷たい床に正座させられた。母は椅子の上で気取った様子で足を組み、妙な科【しな】を作りながら、「シホ、お母さんがどれだけ苦労してあなたを育てているかわかってるの?」というのだった。
いつ終わるとも知れない、その長い折檻の間、わたしは膝の痛みに耐えつつ、父のことを思った。毎日の残業で疲れ切っていても、父はわたしと話す時はいつも笑顔だった。わたしも、父には何でも話した。学校の授業のこと、クラスメートのこと。どんなささやかな話題にも、父はいかにも興味深そうな相槌を打って、耳を傾けてくれた。
父が教えてくれた大事なことは、二つある。一つは、本をたくさん読むこと。もう一つは、どんなに困難な状況にあっても決して自分を安売りしてはいけないこと。女の子は特にね、と父がわたしの髪を撫でながらいったのは、わたしが何歳の時だったろう。一緒に落語を聴いていた時だったかもしれない。頭を撫でてもらったことは覚えていても、その手の感触は思い出せなかった。そんな自分が許せなくて、わたしは泣いた。正座させられている膝の上に、ぽたりぽたり、と涙の落ちる音が聞こえた。わたしが泣き出すと、母はわざとらしくため息をつきながら、立ち上がって冷蔵庫の中のワインを取り出し、コップにだぼだぼと注いで飲み始めるのだった。母にワインの味を教えたのはおじさまだということを、わたしは知っていた。そしてわたしの涙が、母にとっていい酒の肴になることも……。
――百五十万で買ってくださいますか。
――わかった、出そう。どうやら私の負けのようだ。でも、こちらからも一つだけ条件を出させてもらいたい。
――どんな条件でしょうか。
――大学生になっても、ひとり暮らしをしてはいけない。この家から大学へ通うこと、いいね?
口では負けたといいながら、おじさまはただで起きる気はないようだった。自分の目の届くところにわたしを置いておき、母を丸めこんで監視役につけ、一度だけでなくその後もなし崩し的に関係を強いるつもりなのだろう。わたしはおじさまを睨みつけたが、老獪な相手は平然とわたしを見返してきた。ここは一旦退いて安心させておき、この人から逃げる方法については大学入学後に考えるしかない。下唇を噛みながら、密かにわたしは決意した。
――わかりました。
――よし、交渉成立だ。私も商売人の端くれだから、ビジネスが信用第一だということは知っている。早速小切手を書いてあげよう。
おじさまは鞄から小切手帳を出すと、その場ですらすらとペンを走らせて判を押し、わたしに手渡した。
わたしは小切手に目を近づけ、じっと見つめた。この金額が自分を安売りしたことになるのかどうか、正直よくわからなかった。
――ずいぶん念入りに見るんだね。
――割り印と署名欄の印が同じかどうか確認しているんです。
おじさまは声を上げて笑った。
――お母さんより、よほどしっかりしている。たいしたもんだ。
わたしは小切手を丁寧に折り畳み、自分の財布にしまった。掌にじっとりと汗が滲んでいた。身体を張って勝ち取ったこの紙きれを、あっさり母の手に渡してなるものかと思った。
――じゃあ、乾杯しよう。
おじさまはワイングラスを持ち上げた。
――お願いがあります。ホテルへ連れていってください。この家の中では嫌です。
――私だって、この家でシホちゃんの処女を奪うほど悪趣味ではないよ。ホテルはもう予約してある。
おじさまは声もなく笑った。ムーミンパパの仮面が剥がれ落ち、その下から醜いしみの一面に浮き出た本当の顔が覗きかけ、わたしは思わず目を伏せた。
おじさまがわたしを連れていったのは、「ラグジュアリーホテルのような空間を提供する」というのが売りの高級ラブホテルだった。
チェックインを済ます間、エントランスのソファーに座って待っていればいいといわれたが、そこには二十代らしいカップルがいたので、わたしは首を横に振り、おじさまのかげに隠れるように立った。カップルの男女が額を寄せ、ひそひそ話しているのがコートの背中越しに伝わってきた。できるだけ大人っぽく見える服を着てきたつもりだったけれど、おかげで隠そうとしたものが、かえって目立ってしまっていた。そのことに、わたしは今更ながら気づいた。
やっとチャックインが終わり、エレベーターに乗り込んだ。他の利用客は入ってこなかったのでほっとしたが、エレベーターの中の照明が妙な色をしているのを目にして、また新たな不安が湧いた。
部屋は思ったより広かった。オアシスでもイメージしているのか、部屋のあちこちに観葉植物があしらわれ、しかも壁一面が黄金色に輝いているので、思わずぎょっとなったが、ベッドのシーツなどは清潔そうで、その点には胸をなでおろした。
わたしがコートを脱ぐのも待ち切れない様子で、おじさまはすぐにわたしをベッドに押し倒そうとした。湿った鼻息が顔にかかった。わたしは反射的に顔を背けてしまった。
――おじさま、シャワーを浴びないんですか。
――私は後で浴びることにするよ、シホちゃんはシャワーを浴びたいのかね。
――このままだと、汗くさいかもしれません。
――そこがいいんだよ。
おじさまは既にかなり興奮しているらしく、そういう言葉が女の子の耳にどれだけ気持ち悪く響くか、まるで気づいていない様子だった。
わたしの身体は、再びベッドに横たえられた。おじさまはさすがに慣れた手つきで、わたしのワンピースの背中のファスナーを下ろし、手際よく脱がせていった。わたしが下着だけの姿になったのを確かめて、これでもう逃げられないと安心したのか、ようやく自分も服を脱いでブリーフ一枚の姿になった。おじさまの最大の勘違いは、自らのテクニックで、十八歳の処女を歓ばすことができると本気で信じこんでいたらしいところだった。
首や脇の下などを舐め回されると、わたしは全身に鳥肌が立ち、目をぎゅっとつぶったまま、ただただはやく終わって、とだけ祈っていた。中でも閉口したのは、おじさまの耳の後ろから茸の腐ったようなにおいがすることだった。茸の連想からか、先ほどちらっと目に映ったブリーフを盛り上げているふくらみからも、同じ臭気が漂ってくる気がして、ぞわっとした寒気が背筋を這った。やがてブラジャーが外され、乳房が露わになると、おじさまが「本物だ」と呟いて、生唾を呑みこむ音がはっきりと聞こえた。本物というのは何と比べた上での評価なのか、おじさまの妄想の女子高生のそれか、AVのそれか知らないが、本人に直接訊ねてみたいとは思わなかった。
わたしはいろいろな恰好をさせられた。身体のあちこちを撫でられ、執拗に舐められた。いつまで経ってもわたしが感じているように見えないからか、おじさまは目に見えていらいらし始め、最後のショーツを剥がすように脱がすと、手早くゴムを装着した。わたしはいよいよだと思い、歯を食い縛ってこれから襲ってくるに違いない痛みに備えた。最初の時はすごく痛いと聞いていたからそうしたのだが、次の瞬間、想像していたのより何倍も何倍も強い痛みが全身を貫いた。とっさに殺されると思い、
――もうやめて。百五十万なんて要らない!
そう叫んだが、興奮しきっているらしいおじさまは聞く耳をもたず、無理やり入れてくるので、わたしは泣き喚いた。いっぱいに押し開かれた股がみしみしと裂けていくような激痛の中で、わたしはついに気を失ってしまった……。
「オダさん、帰った?」
ノックの音に続いて、開きっぱなしのドアのかげから、ミサトがひょっこり顔を出した。
ミサトは、わたしがまだ下着姿でいるとは思わなかったらしく、はっと息を呑んだような表情を浮かべた。入ってこようかどうしようか、一瞬そんな逡巡を見せた後、まるで濡れた床を踏むような足取りで、ミサトはそろそろと部屋の中に入ってきた。わたしはしゃがんだ姿勢のまま、ミサトと目を合わせないようにしていた。ミサトはそっとわたしの裸の肩に手を置くと、前屈みになってわたしの耳もとで囁いた。
――あの男はダメだね、最低だよ。
ぱちん、とミサトの頬が鳴った。
頬の鳴る音と掌の痺れる感覚によって、わたしはようやく、自分が振り向きざまにミサトの頬を打ったのだと覚った。
ミサトは弾かれたように上半身を起こすと、痛みを確かめるように、片手をぎゅっと頬に押しあてた。
――ごめん。
ミサトがあやまってくれて、わたしはほっとした。なぜミサトを殴ったのか、自分自身、よくわからなかった。ミサトの謝罪は、後づけの理由とねじ曲がったつじつまを、わたしの行為に持たせてくれたようなものだった。
そんなことがあっても、わたしはミサトのマンションの部屋を出なかった。
母の家に戻るのだけは、絶対に嫌だった。おじさまは、わたしがひとり暮らしをすることを禁じていたのだから、もしわたしが戻ってきたと知れば、契約違反の報いとして、当然罰を与えようとするだろう。そして母は、わたしを助けるどころか、おじさまの忠実な助手をいそいそと務めるに決まっていた。
手ぐすね引いて待ち構えているに違いないふたりを想像すると、わたしの手足の先は冷え、石でも埋め込まれたように下腹部に鈍い痛みが走るのだった。わたしは引き続き、ミサトに管理される女郎の生活を選んだ。大学を卒業するまでに、三人の男と、いずれもごく短期間だけ付き合い、そしていつも、わたしの部屋で抱かれた。わたしが抱かれている間、ミサトが声を抑えて自慰をしていることを、わたしは知っていた。
無事大学を卒業し、幸い就職も決まった。わたしは会社の近くに安アパートでも借りるつもりだったが、それを切り出す前に、ミサトがまたへらへら笑って、わたしにいった。しばらく両親の家に戻ることになったから、管理人代わりに引き続きここに住んでくれない? もちろん、今まで通り家賃は要らないから。
――実家に戻って何をするの。
――特に何も。家事手伝いみたいな感じ。
――カジテツダイ?
そういえば、岡本かの子の『快走』の主人公・道子の身分は、家事手伝いだった。そんな戦前の言葉も、ミサトの口から出ると逆に新鮮に聞こえた。
そうして、わたしは今でもミサトの部屋に住んでいる。
4
わたしはカンザキ君の首を、後ろから眺めるのが好きだった。
うなじの生え際からぼんのくぼまでを、そっと指でなぞるようにすると、カンザキ君はひどくくすぐったがる。
今どきの高校生の平均身長はわたしの時代より高いのだろうが、その分を差し引いても、カンザキ君の背はかなり高い方に違いない。家庭教師として初めて部屋に通された時、わたしに挨拶するために椅子から立ち上がったカンザキ君の、その見上げるような背の高さが、引きこもりといっても、決して頑なに他者を拒絶しているわけではないのだ、という安堵の思いとともに心に残っている。
そんなカンザキ君の首の細さに気づいたのが、あの雨の日だった。
あの日、わたしには、わざわざ外に出なければならない理由なんてなかった。会社はもう辞めていて、朝ごはんも、トーストとコーヒーで簡単に済ませたし、昼食だって、冷蔵庫の残り物でなんとでもなるはずだった。それなのに、わたしはわざわざゴム長靴を履き、自分の持っている中で骨組みの一番しっかりした傘を握りしめ、晩秋に町を襲った記録的豪雨の中へと出ていった。雨は、先生のにおいがした。
マンションの前の道は、降雨量が排水のキャパをゆうに上回っているらしく、既にくるぶしまで浸かるほど水が溜まっていた。
――フタバさんにさ、この間怒られちゃったよ。
――え、そうなんですか。
――ちょっと怖いよね、あの人。
――そんなことないですよお。
――フタバさんってレズじゃない? 男に興味なんてない感じ。
――問題発言ですよ、それ。
――やばいやばい、今のオフレコね。
かわいくてふんわりした髪のヒロコちゃんは、問題発言だといいながら顔は笑っていて、ヒロコちゃんの前で拝むように手を合わせている男性社員も相好を崩していた。彼らの向こうにはオフィスの窓があって、隣りのビルとの間を埋めつくすように、あの日も雨が降っていた。
――ちょっと怖いよね、あの人。
前にも同じ言葉を聞いたことがあった。最初は小学五年生の時。クラスの中で、ちょっと仲がよくなったナガシマ君という男の子がいた。勉強のできる、というか自分で頭がいいと思っているタイプの男の子だった。ナガシマ君が、フタバさんいっしょに宿題をしない? それでどちらのテストの点数がいいか競争しようよ、というので、わたしもその気になり、放課後お互いの家でいっしょに宿題をしたり、問題集を解いたりした。わたしはそれなりに楽しかったのだけれど、テストで何度か続けてナガシマ君よりいい点数を取った後、いきなりいわれた。フタバさんて負けず嫌いだよね、ちょっと怖いよ。
あの時のわたしは、腹立たしいのとも悲しいのとも違って、ただびっくりしていた。ナガシマ君はそういう男の子だったのかと驚いたのだが、中学や高校でも同様のことが繰り返され、ナガシマ君がそういう男の子だったというより、男の子というのはそういうものなのだと思うようになった。男子を負かす女子は、負けず嫌いだといわれ、嫌われる。子供の頃は嫌われたくないから我慢していた。勝てそうな時でも、男子に花を持たせるために力をセーブした。我慢を続けていると、次第に自分が我慢しているという意識がなくなってくる。ダイエットが習慣化すると、飢餓感を飢餓感として意識しなくなるみたいに。
そんなに気をつけて生きてきたのに、そしてもう大人になったというのに、単純な数字の間違いを指摘しただけで怒られたとか怖いとか敬遠され、笑顔で相手をしないとレズだといわれる。もし本当にわたしが怒ったら、かれらはどんな顔をするのだろう。窓のブラインドを引きちぎり、オフィスチェアで窓ガラスを叩き割ったら、男たちは、いや女たちも、わたしのことをどんな目で見つめるのだろう。
ブラインドを引きちぎることも、窓ガラスを叩き割ることもできなかったわたしは、大学に先生を訪ねた。先生はわたしを食事に誘ってくれた。ちょっと騒々しい居酒屋だったが、長いカウンター席の隅に先生と並んで腰掛けていると、かえってその雑駁な雰囲気が心地よかった。壁一面に、こんなにたくさんの料理が作れるのかと思うほどのお品書きが貼られていた。なんでも好きなものを頼みなさいといわれ、調子に乗って目についたものを適当に注文しても、店員は決して訊き返すことなく頷き、符牒みたいな言葉を不思議な抑揚の声に乗せて厨房の方へ放り投げるのだった。
――先生、わたしをホテルへ連れていってください。
酔ったふりをして、わたしは先生にいった。自分の声がしめっているのがわかった。
男の人に、「ホテルへ連れていってください」といったのは二度目だった。怒られるか一笑に付されるか、あるいは、私には妻子がいるよと突き放されるだろうと思っていたのに、先生は本当にわたしと一緒にホテルへいって、その後タクシーで、わたしをマンションまで送り届けてくれたのだった……。
公園の傍らに、わたしは傘を握って立っていた。
ブランコと小さな滑り台があるだけの、典型的な住宅地の小公園だった。水が溢れる道路の方から眺めると、公園は絶海の孤島みたいに見えた。孤島の隅の四阿【あずまや】に、カンザキ君が、難破船から逃れて漂着した人のように、たったひとりで座っていた。
四阿といっても、屋根は申し訳程度に付いているに過ぎず、その下にいても雨は容赦なく吹き込んでくる様子だったが、ジャージ姿のカンザキ君は、大きな背を丸めるようにして円椅子に腰かけたまま、地を激しく叩く雨を、じっと見つめているようだった。
カンザキ君がなぜこんな場所にいるのかというより、なぜこんなに薄着なんだろうということが、わたしを刺した。その姿を見ているだけでわたしの背骨は震え、かたかたと鳴り出しそうだった。
わたしは公園に入り、カンザキ君の方へ歩いていった。雨音が大きすぎたせいか、カンザキ君は、わたしがすぐ傍まで近づいても、まったく気づく様子がなかった。俯いた姿勢のせいで、その白くほっそりしたうなじが、無防備にわたしの前に投げ出されていた。
――こんなところで、何してるの。
できるだけ静かな声でいったつもりだったのに、カンザキ君は、文字通り跳び上がった。そして狼狽しきった様子で振り返った、その動作の中で、細い首が無残に捩じれた。
――先生……。
カンザキ君は呟くようにいった。せんせい。
その顔には不思議なほど、表情というものがなかった。それまで見ていたうなじの方が、よほどはっきりした表情を浮かべていた気がするほどだった。ちょんと指でつつけば、カンザキ君の身体はそのまま仏倒しに倒れてしまいそうだった。わたしは、カンザキ君に向かって手を差し伸べた。カンザキ君のジャージの袖口をつかみ、ぐいと引いて傘の中に入れた。赤い傘の中が、カンザキ君でいっぱいになった。先生。
わたしがカンザキ君の「先生」をしていたのは、九月の中旬から、僅か一月半ほどの期間でしかない。学校を休んでいる理由は教えられず、ただ主要科目の授業に遅れを取らないようにしてほしいとだけ、カンザキ君の母親から告げられた。
カンザキ君は元々成績も良く、性格も穏やかで素直だったから、仕事自体は楽なものだった。身体も健康そのものに見えるし、なぜ学校に行かないのかさっぱりわからなかったが、十月の終わりになって突然母親から、先生にお願いするのは今日までにしたいといわれた。おかげさまで息子がまた学校へいく気になってくれまして、と続いたので、いえ、わたしは何も、と口の中でもごもごいいながら頭を下げたものの、どこか腑に落ちないものを感じてもいた。その時の違和感を、カンザキ君の細いうなじを目にした時、わたしはまざまざと思い出したのだった。
カンザキ君を、とりあえず自分の部屋に連れてきたのだが、カンザキ君の身体はずぶ濡れで、かちかちと歯が鳴るほど震えていた。シャワーを浴びるよう、ほとんど命令口調でわたしがいっても、着替えがないので、とカンザキ君は歯の根の合わぬ口で遠慮する。そんなものはこっちでなんとかするから、はやくシャワーを浴びなさい。風邪を引きたいの。その背を押すようにしてバスルームに押し込み、扉を閉めた。ただ確かに、わたしの部屋にはカンザキ君の着れるような服は一着もないのだった。わたしはさっき無意識に触った背中の広さを思い出しながら、一番大きなサイズのバスタオルを出し、身体を拭くタオルは別に用意して洗面所に置いた。曇りガラス越しに説明すると、はいわかりました、ありがとうございますと運動部の部員みたいな礼儀正しい返事が、シャワーの音と混じって聞こえた。
リビングの暖房を強くしてお茶の仕度をしていると、バスルームのドアがそろそろと開いた。カンザキ君がタオルを腰に巻き、バスタオルをマントのように上半身に掛けて出てきた。その姿がなんだか古代のローマ人みたいで、わたしは俯いて笑いを堪えながら、今お茶を淹れるからソファーでテレビでも見ていて、とリモコンの置いてある場所を指さした。カンザキ君は黙って頭を下げ、ソファーに浅く腰掛けると、テレビはつけずに身体を固くしていた。何かを熱心に見つめているようで、おそらく何も見ていないその目は、雨がしぶく公園の四阿にいた時と同じ色をしていた。
ダイニングキッチンで、ティーポットの中の茶葉が開くのを待つ間、わたしはカンザキ君の方を見るともなく眺めながら、さてこれからどうすればいいのかしらと思った。洗濯機は乾燥機能付きだから、ジャージと体操服だけなら、すぐ乾くに違いない。それまで部屋をできるだけ暖かくして、カンザキ君が風邪を引かないようにすれば、わたしは元家庭教師として、一応やるべきことはやったことになるだろう。
紅茶にはミルクと砂糖を入れるかと訊くと、はっとしたようにカンザキ君はわたしを見た。まるで目が覚めたらこの部屋にいるのに気づいたとでもいうような、時間的連続性の感じられない虚ろな表情にどきっとしながら、わたしはできるだけ穏やかな声で同じ質問を繰り返した。カンザキ君は、こくりと頷いた。
ミルクと砂糖をたっぷり入れた紅茶をカンザキ君の前に置くと、その古代ローマ人みたいな恰好で、律儀に立ち上がってお礼をいおうとするので、そういうのはいいからと手で制し、わたしはバスルームへ、カンザキ君の服を取りにいった。
濡れた服は、バスルームの外の床に、きちんと畳んで置いてあった。それを拾い上げて洗濯機に放りこむと、もうわたしのすることはなくなってしまった。ドラムの中で回り始めた上下揃いのジャージと体操服は、なぜかカンザキ君の身体の上にあった時よりも小さく、子供っぽく見えた。
わたしはダイニングキッチンに戻って、自分のカップにも紅茶を注いだが、リビングへは足を踏み入れず、キッチンの丸椅子に腰を下ろした。リビングのソファーは二人掛けなので、いくらカンザキ君が身体を縮めるようにして座っていても、互いの肩が触れあう近さになってしまうからだ。
カンザキ君は両手でカップを包むようにして持ち、ゆっくりと味わうように飲んでいた。やがてわたしの視線に気づき、ちょっと照れたように笑って、おいしいですといった。
「そう、よかった。これ、台湾の紅茶なのよ。蜜香紅茶っていうの」
「へえ、台湾ですか」
カンザキ君は感心したような声を上げたが、会話はそれきり途切れてしまった。わたしは無理にカンザキ君に話しかけるのはやめ、そっとしておくことにした。
部屋が暖かすぎるせいか、わたしは少しぼんやりしていたらしい。気がつくと、カンザキ君が話していた。どうして学校にいかなくなったのかについて、カンザキ君は訥々と語っているのだった。わたしは坐り直したりせず、テーブルに肘をついた姿勢のまま、黙って最後まで聞いた。
ある日いきなり、カンザキ君はクラスの全員から無視されるようになった。誰に話しかけても何の反応も返ってこない。まるで自分だけ透明人間になってしまったみたいに。
いじめは、それ以前からクラスに存在していた。誰が始めて、誰が続けようとしているのかはっきりしないまま、ただ「空気」だけが教室を支配していた。以前はキマタ君という生徒が標的になっていた。キマタ君は教室の隅で、幽霊のように息を殺していた。クラスの中で陰湿ないじめが行われている事実を懸命に隠しているのは、奇妙なことに、いじめられている本人のようだった。だからいじめは静かに、平和裡に進行していた。
二学期が始まって間もないある日、カンザキ君は思い切ってキマタ君に話しかけてみた。キマタ君はびっくりしたようにカンザキ君を見、それからすっと目を逸らした。その時、小石を水面に投げ入れたような波紋が教室に広がった。自分の身体に伝わってくる不穏な波動を感じはしたものの、カンザキ君がその意味するところを理解したのは、翌日になってからだった。
ルーレットが回り、カンザキ君の前で止まったのだとしか考えられなかった。昨日まで皆に無視されていたキマタ君は、何事もなかったように隣の席の生徒と話していた。隣の席の生徒も昨日の話の続きをするようにキマタ君と話していた。キマタ君の目がちらっと動いて、カンザキ君を見た。あの目は一生忘れられそうもありません。カンザキ君は乾いた声でわたしにいった。
担任教師には、もちろん相談してみた。その男性教師は、自分も昔同じような経験をしたことがあるが、その程度ではいじめとはいえないから、あまり気にしすぎない方がいい、と明るくいった。そして親しみをこめたつもりか、カンザキ君の肩をぽんぽんと叩いた。それから一週間、カンザキ君は耐えた。七日目、家に帰ったカンザキ君は母親に、明日から学校へは行かないと告げた。
母親はおろおろし、会議中の夫に何度も電話をしたあげく叱られた。その夜、仕事が終わって帰宅したカンザキ君の父親は、ネクタイも外さずに息子の部屋に入ってきた。ふたりだけで話すから。父親はドアのノブを握ったまま、廊下の方へ振り返っていった。ドアが閉まる寸前、両手を絞るような姿勢で廊下に立っている母親の姿が、カンザキ君の目に映った。お母さん、辛い思いをさせてしまってごめんなさい。カンザキ君は心の中で詫びた。
父親は、とにかく嫌でも学校へいけ、それがお前の人生のためだ、といった。お前もいつか、お父さんのいっていたことが正しかったとわかるだろう。そんな父親の顔が、いじめられているのにいじめられていないふりをしていたキマタ君や、いじめを受けていると本人がいっているのに、それはいじめではないと返してくる教師と同じように、カンザキ君には見えてきた。お父さんは、僕が学校でどんな目に遭っているかってことより、いじめが原因で息子が学校にいかなくなったと世間に知られることの方が嫌なんだね。お父さんはいったい、何を守ろうとしているの。そう訊ねたかったが、カンザキ君は黙っていた。
やがて、父親は立ち上がった。腕が中途半端に空中に浮いていた。一瞬、殴られるのかとカンザキ君は思ったが、そうではなかった。父親はカンザキ君の肩に手を置いた。日頃ジムで鍛えているその手は、ちょっと痛いくらい重かった。「がんばれ」と父親はいった。何をどう、そして、なぜがんばらねばならないのかについては教えてくれなかった。しばらくして、父の怒鳴り声が聞こえてきた。母の声はしなかった。お母さん、きっと泣いているんだ。カンザキ君の胸はまた痛んだ。
すべて話し終わると、手で顔を覆って静かに、とても静かにカンザキ君は泣いた。
その翌日も、雨だった。
カンザキ君は雨の中を、またわたしの部屋へやってきた。インターホンが鳴ってモニターを覗くと、ジャージではなく制服姿のカンザキ君がいた。ジャージ登校していいのは体育の授業のある日だけなんです。ドアを開けてあげると、訊かれもしないうちからカンザキ君はいった。
――学校には、いってないのね。
――はい。いってません。
――昨日は、どうしてあんなところにいたの。
――先生の家の近くにいたいと思って……。
家庭教師をしていた時、どこに住んでいるか訊かれたことがあるのを思い出したが、わたしの答えはどこの駅で降りて何分歩くかといった程度の、ごく簡単な説明でしかなかったはずだった。
――それであの公園にいたっていうの? あそこにいればわたしがタイミングよく通りかかるとでも思ったわけ?
――でも、先生は、本当に通りかかってくれましたよ。
先生こそ、どうしてあの時間にあんなところにいたんですかと逆に質問され、わたしは答えに詰まってしまった。まさか、雨が降っていたから、と答えるわけにもいかない。
あの学校にいくのは無理です、とカンザキ君はいった。でも、家にいることも両親が許してくれません。父には、首に縄を付けてでもお前を学校へ引っ張っていくと怒鳴られ、母には、きっとわたしの教育が間違っていたんだわと泣かれました。もう学校にいくと嘘をつくしかなかったんです。
それが十月末だから、もう二週間ほど経ったことになる。
――この二週間、毎朝制服に着替えて家を出ていたの。
――はい、登校時間きっかりに家を出ていました。
――でも一日って長いでしょ? どこでどうやって時間をつぶしてたの。
――最初は町の図書館でした。でも毎日通っていたら、すぐ顔を覚えられてしまって。制服のせいで、どこの生徒かもわかってしまうし……。
図書館の人がカウンターの奥でこそこそ話している声が、本の上に顔を伏せているカンザキ君の耳に入ってきた。学校に連絡した方がいい、という言葉が聞こえ、カンザキ君は慌てて図書館を出た。出口を通る時、カウンターの方から「あ、逃げた」という声が聞こえた。
カンザキ君はカウンターの方を見ないようにしていたから、相手の顔はわからなかった。
前に図書館が不登校生徒の防波堤になっているというネット記事を読んだことがあったんですけど、全ての図書館がそうではないんですね。カンザキ君は、人生に疲れた人のような笑顔でいった。ひどい話ね。わたしはこみ上げてくる怒りを持て余し、胸の前で荒々しく腕を組んだ。カンザキ君は声を出さずに、そっと微笑んだ。
図書館がだめなら、どこへいけばいいのだろう。街をうろうろしていれば、すぐ警察に補導されてしまう。学校の制服は、決められた時間に決められた場所にいれば、単なる風景の一部と化すが、その場所と時間を少しでもはみ出せば、どうしようもなく目立ってしまう。
悩んだ少年は、山に隠れることを思いつく。山? わたしは思わず鸚鵡返しに訊ねた。
――はい。あの近道の途中に墓地があるじゃないですか、その奥にある山です。
ああ、あの山。わたしは思い出した。たった一駅の違いだけれど、カンザキ君の家のある辺りは緑が多い。家庭教師をしていた時、カンザキ君が、駅からカンザキ君の家までの近道を教えてくれた。舗装されていない道なのだが、わたしはいつも、ジーンズにスニーカーという服装だったので問題なかった。墓地は、その近道のちょうど半ばあたりにあった。
カンザキ君は、墓地の裏山で一日を過ごすことに決めたのだという。山の中をあちこち歩き回っているうちに、「いい樹」を見つけた。二抱えもある太い幹を少し登ったところで枝が三つ叉に分かれていて、そこの窪みが、ちょうど人ひとり横になるのにお誂え向きにできていた。カンザキ君はその窪みに寝転がって、日がな一日、雲を眺めていたのだそうだ。
――住宅地のすぐ近くなのに、車の音とかまったく聞こえてこないんです。樹の上にいると、なぜか遥か古い時代の風に吹かれているような気分になりました。先生、知ってますか。山の下の墓地には〝慶応三年〟と刻まれた墓石があるんですよ、明治になる前の年ってことですよね。そんな昔にここで暮らしていた人がいたんだって思ったら、なぜか泣きたいような気持ちになりました。
今わたしが読んでいる『大菩薩峠』も幕末の物語であることが、まるで何かの符合のように感じられた。
――そんなふうに一週間ほど過ごしたんですけど、あの日はすごい雨だったから山にはいかれませんでした。どうしようかと途方に暮れた時、ふっと先生のことを……。
――思い出したってわけ?
――はい。でも、先生に会えると本気で期待してたわけじゃないんです。ただなんとなく、先生がふだん見ている景色を眺めてみたいなって……。
――景色なんて、あの雨じゃ……。
――はい、何も見えませんでした。
――ねえ、カンザキ君。どうして昨日、わたしにあの話をしてくれたの?
学校で、いじめられてるって話。
わたしたちは、いつかソファーに並んで腰掛けていた。肩が触れあった。カンザキ君からは、焼きたてのパンのようなにおいがした。ふっくらとした、おいしそうなにおいだった。
――先生が服を乾かしてくれて、温かいミルクティーを飲ませてくれたからです。
わたしはしばらくカンザキ君の真面目くさった顔を見つめ、それからぷっと吹きだした。
――やあね、一宿一飯の義理みたいなつもりだったの?
――イッシュクイッパンって何ですか。
わたしは「一宿一飯」の意味を説明する代わりに、カンザキ君の髪に触れた。大きな身体に似ず、意外にも女の子みたいにやわらかい髪だった。嫌がってふり払うか、身をよじって逃げるかすると思ったのに、カンザキ君は黙ってわたしに撫でさせた。おとなしい、大きな動物みたいに。パンのにおいが、ふっと濃くなった。
5
「あっちへいけば、いくらでも食べられるだろうけど」
先生とわたしは、わたしの部屋から駅へ向かう通りの途中にある、なかなか本格的な佇まいの台湾料理店にいた。
「先生、どうしてこのお店をご存知なんですか」
「ここ、最近できた店らしいね。ネットで調べたら評判がよかったんだ」
「先生もネットで調べたりするんですね」
「調べるとも。いくら近代文学が専門だって頭まで近代なわけじゃない」
先生の顔は、店子に無遠慮な口をきかれ、憮然としている小言幸兵衛みたいだった。私がそっとおかしさを噛みしめながら、
「わたしも駅にいく途中でいつも目に入るので気にはなっていたんですが、ひとりではなかなか……」
というと、先生も、うんと頷いた。
「確かに中華料理は一皿の量が多いから、ひとりだと入りにくいね。実は私も君へのお礼にかこつけて、本当は自分がきたかったんだよ」
「あ、だからこの間お電話で……」
「そういうこと」
十日ほど前、外にいたわたしの携帯に先生からの電話があって、いきなり「君のマンションの近くにいるんだけれどもね」といわれた。たまたま近くまできたので、家庭教師を引き受けてもらったお礼に食事をごちそうするというお話だった。近くだからすぐ戻りますといったのに、先生は、部屋にいないならまた日を改めて、と慌てたように電話を切ってしまった。電話が切れる寸前、微かな笑い声とも風の音ともつかぬものを、わたしの耳は聞いた。そのせいかどうか、あの時の電話が妙に心に残っていたのだった。
でも、今目の前で「そういうこと」と笑ってみせた先生の顔は、いかにも太平の逸民で、わたしは自分の考えすぎが急にばからしくなり、
「じゃあ、今日は遠慮なくご馳走になっていいんですね」
開き直ったようにいうと、先生も相好を崩し、
「君は若いからたくさん食べられるだろう。中国語もわかるんだから、旨そうなのをいろいろ頼んでみてくれ」
とメニューをわたしの方へ向けて差し出した。
中国語のメニューの横には日本語の説明も書かれていたが、どんな料理なのかはやはり中国語がわかる方がイメージしやすい。わたしは先生の口に合いそうな料理はどれかと考えながら、
「それにしても先生、台湾お好きですよね。何かきっかけがあったんですか」
と尋ねてみた。
「うん、一度台湾の学会に招かれていったことがあってね。人が親切で食べ物がおいしくて、すっかり台湾ファンになった」
いかにもありそうな説明が、かえって嘘くさく聞こえた。何の根拠もないのだが、先生の「台湾」の中には、女の人の影が見え隠れするような気がした。つい、そんな「物語」を想像してしまうのは、わたしが女だからだろうか。
「前に先生の研究室で飲ませていただいた台湾茶、本当においしかったです。あれから、わたしも、すっかり台湾茶のファンになって……。今回のことも、留学先を中国にするか台湾にするかで悩んだのですが、お茶のおいしさに惹かれて、台湾にしました」
「牛に引かれて善光寺ならぬ、お茶に惹かれて台湾留学か。ところで、中国と台湾の言葉はどう違うのか教えてくれないか。前に台湾にいった時は、専ら英語で用が足りてしまったから、そのへんのところがよくわからなかったんだ」
「日本人が、ふつうに『中国語』といっている言語は、中国では『普通話』と呼ばれます。台湾の公用語である『華語』も、簡体字か繁体字かという字体の違いはあるものの、基本的には『普通話』と同じく、北京語を母胎とする同じ言語です。ただ台湾では『華語』以外に、一般的に『台湾語』と呼ばれる『閩南語』もありますし、他にも『客家語』や先住民族の言葉などもあって、言語環境がとても複雑なんです」
「そりゃあ大変だ。君は第二外国語で中国語を履修していたんだったね」
「はい。その時教えていただいたのは、中国人の先生でした。ですから、本来留学するなら北京にいくところなのですが、先生のおかげで台湾になりました」
「じゃあ、私は隠れたる台湾観光大使だったってわけだ」
先生は、ちょっと得意そうにいった。
その日の料理はどれもおいしかったが、とりわけ「鳳梨蝦球【フォン・リー・シィア・チィウ】」が絶品だった。パイナップルの甘味とマヨネーズのすっぱさが染みこんだ、大ぶりのエビは、名前のとおりボール状に丸まっていて、噛むとぷりっと身が弾けた。カロリーが高いことはわかっていたが、つい何度も箸が伸びてしまう。
先生は、「自分がきたかった」というわりにはあまり食べず、紹興酒をちびちびと飲んでいた。
「先生、わたし今、『大菩薩峠』を読んでいるんですよ」
「ほう、なんでまたあんな古い小説を」
「先生の講義の中に出てきたからです」
「そうだったかな」
「そうですよ」
日本近代文学史の講義の中で先生は、ちょっとした雑談という感じで、こんな話をしたことがある。
――二葉亭四迷の『浮雲』以来、日本近代文学の主人公は悩んでいるばかりで行動力がないとされ、それとは対照的な主人公像として、しばしばドストエフスキーの『罪と罰』のラスコーリニコフが挙げられるが、それは純文学のみを日本文学と考えるからであって、もう少し広い視野で日本近代文学を眺めてみれば、時代小説と探偵小説の登場人物たちは逆に、非常によく行動していると指摘した。その例として、大正二年から連載が始まった中里介山の大長編『大菩薩峠』と、江戸川乱歩が大正十四年に陸続と発表した諸短篇――『D坂の殺人事件』、『心理試験』、『屋根裏の散歩者』等を挙げた。
『浮雲』の主人公・文三は作品の最後で、二階へ上がったきり下りてこず、夏目漱石の『それから』では、高等遊民の代助が「僕は一寸職業を探して来る」といって外へ出ていくところで終わってしまう。それに対し、『大菩薩峠』の主人公・机竜之助や、乱歩の書いた探偵小説の犯人たちが、他人を平気で殺してしまうほど行動力に富む人物として描かれたのは、行動しない知識青年の系譜に対する一種のアンチテーゼではなかったのか……。
電子書籍リーダーに『大菩薩峠』全四十一巻を入れている二十五歳の女は、世にそれほど多くはないだろう。わたしも、先生の講義を受けていなかったら、『大菩薩峠』なんていう作品の存在は一生知らずにいたに違いない。どんな本を読むかというのは、どんな人と出会うかと同じくらいの奇蹟なのだと思いながら、小三治に似た先生の顔を改めて眺めると、女の人の影が、そのやや落ちくぼんだ眼窩に、また揺れた。
先生のこれまでの人生に、何人の女の人が関わってきたのかわたしは知らない。大学時代は、ただ先生の講義が面白くて好きで、講義の後で質問などさせていただいているうちに、いつしか先生の研究室にお邪魔するようになった。時々新聞に現代文学の書評を載せたりするだけあって、先生は当代作家のエピソードにも詳しく、しばしば時の経つのを忘れた。
でも先生は、プライバシーに関することはめったに口にしない人だった。奥さんもお子さんも、もちろんおありなのだろうけれど、先生からは、家庭のにおいというものが、不思議と漂ってこないのだった。
「先生も、あの時は行動してくださいましたよね」
つるりと、そんな言葉が口から出てしまい、わたし自身ひどく焦って、耳が熱くなった。これではまるで、奥さんのいる家にわざわざ電話をかける、恥知らずな不倫女みたいだ。
「いやはや」
先生は、ぼそりとそれだけいった。
食事が終わって店を出て、夜の町を先生と肩を並べて歩き始めた時、いきなり後ろから、
「先生」
と呼びかけられ、先生とわたしが同時に振り返ったのは、後で思い出すと少しおかしかったが、その時は笑うどころではなかった。名前を呼ばれた瞬間、わたしにはもう、その声の主が誰か察しがついていたから。
フード付きランニングジャケット姿のカンザキ君が、五メートルほどの距離を隔てて立ち、じっとわたしたちを見つめていた。
「先生」
もう一度、カンザキ君は繰り返した。舌が喉の奥で固まったみたいで、わたしは声を出せなかった。先生はちらっとわたしを見ると、「ああ」と呑気そうな声を上げた。
「もしかして彼が、あの家庭教師の……」
わたしは先生に頷いてみせながらも、目はカンザキ君から離せなかった。
「そうか、君なのか。君のお父さんに頼まれて、フタバ君を紹介したのは私なんだよ」
先生の声は穏やかだったが、カンザキ君は硬い表情で、立ちつくしているばかりだった。
「でも、どうしてこんな時間に?」
先生は、わたしとカンザキ君の間に、ゆっくりと視線を動かした。
カンザキ君が黙りこくっているのにも困ったが、口を開かれたらそれはそれで、もっと困った事態になりそうな予感もあった。
「じゃあ、私はこっちだから、ここで」
先生は駅の方を指さした。
「先生は電車で?」
「いや、駅前でタクシーを拾うよ」
「わかりました。駅までお送りします」
それには及ばないと先生は手を振ったが、わたしは細い隙間に何かを押しこむように、「カンザキ君も電車よね」とすかさずいった。カンザキ君は、相変わらず黙っていた。
先生はちょっと笑って、「じゃあ、三人で一緒に駅までいくか」といった。
先生はくるりと向きを変えると、駅の方へ歩き出した。わたしもすぐに先生を追ったが、肩を並べることはせず、一歩後ろから先生の背中を見つめる形になった。店の立ち並んだ一廓を抜けると、歩道は急に暗くなった。傍らの車道を走る車のライトが、通り過ぎざまに先生の背中を照らし出した。カンザキ君はわたしたちの連れのようにも、そうでないようにも見える微妙な距離を保って、黙って後ろからついてきた。
先生はせかせか歩くわけでも、わざとゆっくり歩を進めるのでもなかった。そんな先生の後ろ姿を見つめながら、わたしも黙って歩いた。今何かいえば、学生時代の声に戻ってしまいそうだった。
駅前のロータリーまでくると、先生は立ち止まって振り返った。わたしも足を止め、カンザキ君も微妙に離れた位置に佇んだ。
「ふたりとも気をつけて帰りなさい」
「はい」
わたしはまたカンザキ君の方へ視線を走らせた。カンザキ君は、ちょっとしか首の動かないロボットみたいに頷いてみせた。
「失敬」というように、先生が軽く手を上げた。わたしは、「昭和」という時代の空気を呼吸したことはないけれど、先生のしぐさはいかにも昭和っぽく見えた。
先生は、タクシー乗り場の方へ向かった。先生がややがに股であることに、わたしは初めて気づいた。他にタクシーを待っている人はいなかった。先生を乗せたタクシーが静かにロータリーを出ていくのを、わたしはなんとなく目で追った。
タクシーが視界から完全に消えたてから、カンザキ君の方へ向き直った。
「僕、このまま走って帰ります」
わたしが口を開きかけた瞬間、カンザキ君がいった。その声の朗らかさに、わたしはすっかり面くらってしまった。
「走って帰るって……」
「家にもジョギングするっていって出てきましたし、実際ここまで走ってきたので」
「ちょっと、カンザキ君……」
「じゃあ、先生、気をつけて」
カンザキ君もなぜか、先生と同じ言葉を口にした。わたしは、そんなに気をつけていない女に見えるのだろうかと思った。わたしはいったい、何をどう気をつければいいのだろう。
手を振るカンザキ君の姿は十五歳の少年の明朗さそのもので、わたしもつい釣られて、胸の前で小さく手を振り返してしまう。
気がつくと、駅前のロータリーにわたしひとり、冷たい風に吹かれて立っていた。
「バカみたい」
わたしは急に、強い尿意を覚えた。
6
ミサトは、わたしからカンザキ君、カンザキ君からわたしへと視線を何度か動かした後、くんくんと鼻を鳴らした。
「やっぱりね、この間来た時もなんとなくにおったのよ。よっぽど、最近男を引っ張りこんだのって訊こうかと思ったんだけど、まさかこんな……」
わたしたちはダイニングキッチンのテーブルの椅子に座っていた。わたしの左側にカンザキ君が、そしてわたしたちと向き合う形でミサトが座っていた。
わたしは、ミサトとまともに目を合わせられなかった。足抜けしようとした科【とが】で、後ろ手に縛られ引き据えられた女郎の気分だった。
「シホ、自分のやってることわかってる?」
「わかってる、と思う」
「どうわかってるの? いってみなさいよ」
「先生は、俺を助けてくれた恩人なんです」
横からカンザキ君が言った。
「ガキは黙ってなさい。あんたは、ただきれいなお姉さんとセックスしたかったのよ」
カンザキ君が真っ赤になって大きな声を上げそうにしたので、わたしはテーブルの下で、そっとカンザキ君の手を握った。ミサトは冷ややかな目をカンザキ君に据えていたが、一瞬激昂しかけたカンザキ君がまた静かになると、テーブルの下を見透かすような目をして、薄く笑った。
カンザキ君が「俺」という一人称を使うのを、初めて聞いた。カンザキ君はそんな言葉で武装して、わたしを守ろうとしてくれているのだと思った。涙が溢れそうになったが、透明な縄で縛られているわたしには、その涙を拭うこともできないのだった。
「ミサト、ほんとよ。自分のしていることは、わかっているつもりだったの」
昨晩、先生と一緒にいるところをカンザキ君に呼び止められた瞬間、わたしは自分がひとりの少年に何をしてしまったのかを、鏡に映してまざまざと見せつけられたような気分になったのだ。
――昨日の夜、どうしてあそこにいたの?
今日もきっかり同じ時間に部屋にきたカンザキ君に、そうわたしは訊ねずにはいられなかった。
――最近運動不足なんで、軽くジョギングしようと思っただけです。あまり坂のない、走りやすい道を選んで走っていたら、ちょうどあそこに出て……。
ねえカンザキ君。わたしはまっすぐカンザキ君の目を見ていった。正直に答えてほしいの、あんな遅くにあんな場所にいたの、初めてじゃないでしょう。いいえ先生、初めてです。
即答したカンザキ君を見て、わたしは泣きたくなった。心やさしい少年に嘘をつかせているのは、この性悪の娼婦なのだ。
――カンザキ君、わたしね、今から友だちに電話して、この部屋にきてもらうつもりよ。わたしたちの関係をすっかり話すことになると思うから、カンザキ君が嫌なら、その間席を外していて。
カンザキ君は、考えるまでもないという顔で、僕はここにいます、といってくれた。そのまっすぐさに、わたしはまた泣きたくなったけれど、カンザキ君がミサトに傷つけられるであろうことが、身を切られるほどつらかった。それでも、ミサトの檻【おり】の中で飼われ続けてきたわたしには、ミサトにすべてを話して罰を受けるほかに術【すべ】はなかった。
「シホ、あんた、口ではわかっているとかいいながら、本当はぜんぜんわかってないのよ。わかってないから、まだ続けてるんじゃない」
「ミサトさん、もう先生を責めないでください。あの雨の日、先生が手を差し伸べてくれなかったら、僕はだめになってしまうところだったんです。もう限界でした。死ぬ方法ばかり考えていました。死ぬかどうか、ではなくて」
カンザキ君の一人称が、「俺」から、いつもの「僕」に戻っていた。ミサトはカンザキ君の方へ、温度の感じられない視線を向け、わたしはそんなミサトの横顔を見つめた。その完璧な、顎から首にかけてのラインを。
「先生にはとんでもない迷惑をかけてしまいました。悪いのは僕なんです。明日から学校へいきます。死んだつもりなら、いけると思うんです」
「無理に登校して、毎日少しずつ自分の心を殺していくわけ? それでいつか別な生贄が現れてくれるのを待つ?」
カンザキ君の大きな身体の周りで、空気が凝った。
見ていられなくなって、わたしはまた目を伏せた。
「じゃあ、僕はどうすればいいんですか」
「どうもこうもない。こんなこと続けてたら最後――」
ミサトはまた薄く笑った。わたしは、ぞっとした。
「心中でもしなきゃ、おさまりがつかなくなるわよ」
カンザキ君が、はっと目を上げた。その目は、あの雨の日と同じ色をしていた……。
――さっきの顔はすごかったな。心中でも持ちかけられるのかと思ったよ。
先生が低く笑った。
――そんな怖い顔してましたか、わたし。
先生の裸の胸に鼻を擦りつけながら、わたしは訊いた。
――ああ、怖い顔してた。
先生は、そっとわたしの髪を撫でた。わたしの髪は湿って、雨の匂いが染みついていた。ホテルの部屋に入った後、シャワーも浴びずにセックスしたのだから。
――何があったのかね。
――うまくいえません。最後の藁一本がラクダの背中を折る、みたいな……。
――私は取りのけることができたのかね、その藁を。
――はい、さっき取ってくださいました。先生のおかげで、また息ができるようになった気がします。
――そう言えば、『らくだ』っていう落語があるね。私は前に、談志の高座を聞いたことがあるよ。
――今度、寄席に連れていってください。先生といっしょに落語、聴きたいです。
自分の声が鼻にかかった、女のにおいのするものになっているのがわかった。こんな声を出す女は嫌いだったはずなのに。ふんわりした髪の、かわいい女は嫌いだったはずなのに。
――気持ちよかったです。
前髪ごしに目を上げると、先生はちょっと眉を顰めた。その顔が急に何歳も老けたように見え、わたしはちょっとたじろいだ。
――いやはや。そんなこと、無理にいわなくていいよ。
――嘘じゃありません。今までしたセックスは痛くて。すごく痛くて……。セックスって、痛いのを我慢するものなのかと思っていました。
「気持ちよかったです」といった時のわたしの顔は、カンザキ君がミサトに、「もう先生を責めないでください」といった時の顔と似ていたかもしれない。わたしは、カンザキ君がわたしのためにそういってくれた気持ちを、自分があの雨の日、先生に対して抱いた気持ちを思い出すことで理解しようとした。
雨の、においがした。
ミサトにカンザキ君のことを話した翌日、カンザキ君はわたしの部屋にこなかった。
その翌日、昼近くになってインターホンが鳴った。モニターを覗いたわたしは、そこに映っている人の顔を見て、あっと声を上げそうになった。ダブルロックを解除してドアを開けると、ぶつかるような勢いでその人は玄関に入ってきた。思わず後退【あとじさ】ったわたしは、靴を踏んづけてよろけ、壁に片手をついてかろうじて身体を支えた。
「あんた、いったい何を考えてるのっ」
女の声がわたしの鼓膜を刺し、抉った。わたしは壁についた手の指に、ぐっと力を籠めた。
「どうして黙ってるの! あやまるほどの良心もないの、あんたには」
「あやまったら」自分の声が震えているのがわかった。それでも相手の顔を見返しながら、わたしはいった。「許してくれるんですか」
女が大きく手を振り上げ、そして振り下ろすのを、わたしはじっと見つめていた。その動きは、妙にのろのろと感じられた。かわそうと思えば苦もなくかわせそうだった。でもわたしは、身じろぎもせず打たれた。自分の頬の鳴る音が、透明な膜を通したように聞こえた。
「この人でなし」
わたしを睨みつける女の顔がふくらんだ。ふくらみながら、捩じれた。ああ、この人はもうすぐ泣く、わたしが泣かせてしまったんだと思った。次の瞬間、女はきた時と同じように、唐突に踵を返した。
廊下中に響き渡るような音とともに、ドアが閉まった。
わたしは玄関の姿見に映っている自分の顔を、他人のそれのようにつくづく眺めた。左の頬に、くっきりと赤い指の痕が残っていた。オダさんと寝た日、わたしに打たれたミサトが感じたのも、こんな痛みだったのだろうか。ミサトはわたしにあやまったが、わたしはカンザキ君の母親に対し、一言の謝罪も口にできなかった。
急に、膝の力が抜けた。手を壁につけて身体を支えようとしたが、そのままずるずると滑り落ち、ぺたりと玄関にお尻を突いてしまった。人でなし。喉から、くぐもった笑いが洩れた。わたしは玄関に座りこんで笑い続けた。自分が泣いているのだと気づいたのは、ずいぶん後になってからだった。
7
二月になり、留学ビザも無事取得し、部屋の片づけも荷造りも、ほぼ終わった。
捨てることのできない物は、出発の直前に母に送るつもりだった。処分するかどうかは母が決めればいいと思った。母とおじさまの関係が今でも続いているかどうかは知らないし、興味もなかった。
「すっかりきれいになったね」
その日、しばらく音沙汰のなかったミサトが不意にやってきた。両手を腰に当てて、なんとなく感慨ありげに部屋中を見回しながら、そう言った。
「この間は、ごめんね」
「わたしを、いじめたこと」
「そんな言い方しないでよ」
あの日カンザキ君が帰った後、ミサトはかつて自分が使っていた部屋に、わたしを連れこんで鍵をかけ、少しだけわたしをいじめた。遣手婆から多少の折檻を受けることは覚悟していたから、わたしは抵抗しなかった。あなたはわたしのものよ。ミサトが熱い息が、わたしの耳元で震えていた。
「わたしがいなくなった後、この部屋どうするの」
「売る」
短い答えが返ってきた。ミサトの父親がこの部屋を購入したのは投資的な目的もあったと聞いていたのを思い出し、
「土地、値上がりしたんだ」
とわたしがいうと、ミサトは便秘に悩んでいるような顔になった。
「その逆よ。すごく下落してる」
「じゃあ、どうして」
「うち、今ちょっと苦しいのよ」
寝耳に水の話だった。ミサトの父親が脳梗塞で倒れたのだという。一命はとりとめたものの右半身に深刻な麻痺が残ってしまい、社会復帰は絶望的なのだという。道理でここ一週間ほど、ミサトにLINEを送ってもさっぱり既読が付かなかったわけだ。
「実はうち、現金がほとんどないんだって。笑っちゃうよね」
ミサトの父親は収入も多かった代わり浪費家だった。また、他人からうまい投資の話を持ちかけられるとすぐその気になって、結果失敗するというパターンが多かったらしい。
それでも家に現金がないというのはさすがに大袈裟過ぎると思ったら、損を覚悟で不動産を処分しなければ来月からの生活費にも困る有り様とのことで、わたしはこの部屋がミサト名義だと聞かされた時より、もっと夢を見ているような気分になった。
「ミサト、これからどうするの」
「もう家事手伝いなんていっていられないから、勤めに出るつもり」
意外なほどさばさばした顔で、ミサトはいった。
がらんとした部屋の中で、わたしはお茶を挽いた女郎のようにだらしなく寝そべって、電子書籍の『大菩薩峠』を読んでいた。
机竜之助は失明して以来、辻斬りばかりしている。竜之助が剣を振るう度に、物語は幕末という時間軸からずれて、別な時空に紛れこんでいくように感じられる。
インターホンが鳴った。時計を見ると、午後の四時過ぎだった。わたしはのろのろと立ち上がってモニターを覗いた。
「どうしたの」自分の声が上ずってしまわないように気をつけながらいった。
「先生、下りてきてくれませんか。できれば動きやすい服装でお願いします」
モニター特有の、ちょっといびつな顔のカンザキ君がいった。
十分後、わたしたちは電車の中に隣り合って座っていた。新しい制服を通して、わたしはなつかしいカンザキ君の肌のにおいをかいだ。焼きたてのパンのような、温かいにおいを。
ラッシュにはまだ少しはやく、車両の中はそれほど混んではいなかった。たぶん今は一年で一番寒い時期のはずだが、窓から差しこむ光の色は澄んで明るく、日脚もほんの少しずつのびてきているように見えた。
「先生、母の代わりにあやまらせてください」
わたしが知っているのとは違う制服に身を包んだカンザキ君が、急に改まった顔をして深々と頭を下げた。やめてよ、とわたしは周りの目を気にしたが、カンザキ君は固まったように動かない。
「アジャラカモクレン、キュウライス、テケレッツのパァ」
カンザキ君が弾かれたように顔を上げた。気のせいか、眸が最後に会った時より少し大人びた色を湛えていた。
「先生。何ですか、それ」
「元気の出るおまじない」
「おまじないですか……」
落語の『死神』の中で、死神が主人公の男に伝授する呪文。この呪文の言葉は、演者によって微妙に異なる。わたしが口にしたのは、もちろん小三治のそれだった。
「カンザキ君がわたしにあやまる必要なんて、ないってこと。わたしが逆の立場だったら、そんな女、やっぱりぶん殴ってやりたくなるもの」
一瞬、カンザキ君は自分が頬を打たれたような顔をした。
わたしはカンザキ君から目を逸らした。家庭教師をしていた頃繰り返し眺めた風景が、車窓の中を流れていた。
「あの日、先生と一緒にいた男の人は、先生の先生なんですか」
「そうよ」
わたしは視線を動かさずにいった。
「じゃあ、仕方ないですね」
何が仕方ないの、とはわたしは訊き返さなかった。代わりに、
「転校したのね」視線を戻した。
「はい。冬休み明けから今の高校に通っています。ちょっと遠いんですが」
「うまくやってる?」
カンザキ君の表情を見れば、答えは自ずと知れた。
「それが一番いい方法だとわたしも思ってたの。場所を変えることは、決して逃げることではないんだもの。でも同じ場所にとどまることを、すごく大事だと考える人もいるから」
うちの両親のことですよね、とカンザキ君は笑った。ふとわたしは思い出して訊ねた。
「ミサトが部屋にきた日の翌日、どうしてこなかったの」
「あの日は、学校にいこうとしたんです」
「学校へ?」小さく口を開けて、カンザキ君を見つめてしまった。
「でも、結局いけませんでした。学校に近づけば近づくほど、心臓が苦しくなって。全身に汗が噴きだして……」
「学校にいけなかったのなら、どうしてわたしの部屋へこなかったの」
「ミサトさんの話を聞いているうちに、もうこれ以上、先生に迷惑はかけられないと思ったんです」
「それは誤解よ。ミサトだって、カンザキ君が学校へいくことには反対してたわ。無理に登校して、毎日少しずつ自分の心を殺していくのって」
「あの、ひとつ変なこと訊いていいですか」カンザキ君は頭をかいた。「ミサトさんって、本当に先生の友だちなんですか」
「どういう意味?」
「先生が、いじめられているように見えたんです」
「だから、死ぬほどの勇気を振り絞って学校へいったの? わたしのために」
「理屈に合わないことは、自分でもわかっていたんです。でも、なぜだかちょっと、そんなふうに考えていました」
「義を見てせざるは勇無きなり、だものね」
「先生の言葉は、時々難しい」
「義のために戦ったのよね、カンザキ君は」
「先生、バカにしてるでしょう、僕のこと」
「ううん。好きよ、あなたが」わたしは十歳の女の子のようにささやいた。
カンザキ君の顔がみるみる赤くなったので、十歳の女の子は恥ずかしさのあまり死にたくなって、マフラーに顎をうずめた。
「あの日のことですが」通路の反対側の車窓へ目をやって、カンザキ君は早口にいった。
「うん」
「下校時間に合わせて家に帰ったんですけど、ちょうどそこに担任の先生から電話が掛かってきて、学校にいっていないことが母にばれてしまったんです」
「担任の先生? 今までほったらかしだったのに。急に電話を?」
「そこがちょっと変なんですけど、学校に連絡した人がいたらしいんです。制服姿の僕を、どこかで見かけたみたいで」
電話をしたのはミサトに違いないと思ったが、わたしは黙っていた。
「その日、父が会社から帰ってくるのを待って、僕は両親と話をしたんです。転校したいと、はっきり告げました。元の学校に通うのはどうしても無理だからって。でも、父はどうしても納得してくれませんでした。そこでつい、先生のことを話してしまったんです。先生が僕の恩人だということを両親にわかってほしくて。そうしたら大騒ぎになってしまって……」
カンザキ君の母親に打たれた頬に、さざなみのように揺れるものがあった。それは先生が一度だけわたしに見せた、あの不思議な笑みと似ているような気がした。「気持ちよかった」と言った時、先生が浮かべたあの表情……。
――君のマンションの近くにいるんだけれどもね。
だしぬけに、先生の言葉がよみがえった。十二月の初め、歩道橋の欄干に頬杖をついてぼんやりしていたら、わたしの携帯が鳴ったあの日のことだ。後で先生は、インスタで調べた台湾料理店にいきたかっただけだといったけれど、本当はわたしに何か話があって、あのマンションの近くまで足を運んだのではなかったか。もしわたしが外出せずに部屋にいたら、先生はわたしに何を――
わたしは軽く頭を振った。そして、今更のようにカンザキ君に訊ねた。
「ねえ、わたしをどこへ連れていくつもりなの」
行き先は教えてもらっていなかった。冬の光の中、電車はわたしたちを、カンザキ君の家のある方向へ運んでいた。カンザキ君、まさかお母さんに会えとかいうんじゃないわよね。
「山です。先生に、見てもらいたいものがあるんです」
「山?」
「いい樹があるって、先生に話したことがあるんですけど、覚えてますか」
「うん、覚えてる」
カンザキ君は、さっと切りこむようにいった。
「先生も、あの樹に登ってください」
そのひたむきな表情は、どう見ても冗談ではなくて、わたしは思わず目を瞠った。
「先生、樹の上で横になってみてください。きっと気に入るはずです」
カンザキ君はひぐまが甘えるように、自分の肩をわたしに擦りつけてきた。
カンザキ君のいう「いい樹」とは、クスノキの巨木だった。
カンザキ君は両手でわたしの腰を押し上げながら、そこの窪みに足をかけて、次にあっちの枝をつかんで、などと指示を与えてくる。わたしはただ言われた通りに腕や足を動かし、幹にしがみついた甲虫よろしく、のろのろと登ってゆく。
「そう、そこです。ちょうどベッドみたいになっているでしょう」
幹が三つ叉に分かれていて、確かに人ひとり、身を横たえられそうな形に窪んでいる。
「落ちたりしないわよね?」
声がちょっと裏返ってしまう。
「だいじょうぶです。僕はそこで本当に寝てしまったことがありますが、落ちませんでした」
とカンザキ君はいうけれど、両手を離した途端、枝の隙間から滑り落ちてしまいそうだ。
それでも思い切って、えいやっと手を離してみると、身体が樹の懐にすっぽりはまりこむ感覚があった。クスノキは常緑樹のため葉がクッションの役目を果たし、意外に寝心地は悪くなかった。
そのまま、わたしはじっとしていた。こんなに大きな樹なのに、風を受けると僅かに揺れるのだった。枝や葉が風をたっぷりと受けとめると、風はもはや流れすぎていく存在ではなく、大きなたまごみたいなかたまりになる。クスノキの大樹はそんな風のかたまりを、小さい子でもあやすように揺らしていた。本当にこのまま、眠りこんでしまいそうだった。葉の陰には小さな黒い実がたくさん付いていて、それを啄みにくるらしい鳥が、わたしの顔のすぐ近くまで舞い降りてくる。わたしと目が合うと、ヘンなやつがいたとばかりに、大慌てで飛び離れるのがおかしかった。
カンザキ君は前に、樹の上にいると、遥か古い時代の風に吹かれているような気分になるといったことがある。わたしもいつか、そんなカンザキ君の目を通して空を眺め、カンザキ君の皮膚を通して風に吹かれていた。カンザキ君の息遣いと自分の呼吸のリズムが重なり、不可分の関係になっていくのがわかった。自分がカンザキ君に激しく恋をしていることを、はっきりと意識した。それが間もなく終わる頃になって、ようやく。
上空は風が強いのか、肉眼ではっきり捉えられる速さで、雲が動いていた。わたしは唐突に、激しい性欲を覚えた。カンザキ君とのセックスを思った。カンザキ君と初めてセックスしたのは、イッシュクイッパンって何ですか、とカンザキ君がわたしに訊ねた、あの午後のソファーの上だった。カンザキ君の髪に触れた時、わたしは今と同じような、唐突な性欲に襲われたのだった。そしてカンザキ君もわたしに、同じように激しい性欲を感じているのがわかった。焼きたてのパンのような、カンザキ君のにおいが迫った。すべてはあまりに自然で、やさしかった。後で思い出すと、夢でも見ていた気がするほどに。
それでもそれは、夢ではなかった。カンザキ君は毎日わたしの部屋へやってきた。その度に、わたしたちはセックスした。肌を合わせる回数が増えるにつれ、わたしの歓びは深く大きくなった。カンザキ君とのセックスは、とてもとても気持ちがよかった。ただ流れに身を任せているだけで、わたしの身体は完璧に満たされた。そこには一ミリの隙間もなかった。狡猾な鼠のような「物語」さえ、入りこむ余地はなかった。
わたしはそっと、樹の下にいるカンザキ君を見下ろした。
カンザキ君は両手を頭の後ろに当てがって目を閉じ、地面に仰向けに横たわっていた。新しい制服のネクタイの臙脂色が、冬の薄れゆく光の中で、目に染みるほど鮮やかだった。
「ねえ、カンザキ君」
「はい、先生」
囁くような声だったのに、カンザキ君は、ぱっちり目を開けた。
「今わたしとセックスしたい? したかったら、してもいいよ」
カンザキ君は、しばらく真剣に考えこんでいるようだったが、
「やっぱり、いいです」
どうしようもなくまっすぐな目が、静かにわたしを見つめていた。
「どうして? したくないの」
「先生とは、もうセックスしちゃいけないんです。したくてしたくてたまらないけど、我慢しなくちゃいけないんです」
「お母さんに怒られるから?」
意地の悪い挑発だとわかっていた。わたしは性悪の娼婦なのだ。
「いいえ、違います」
カンザキ君は、穏やかに答えた。
「僕にとって、先生は大切な人だからです」
「バカみたい」
ささやくようにいった時、ちょうど強い風が吹いて目に沁みた。ふられたわたしの最後の捨て台詞が、カンザキ君に聞こえたかどうかわからない。
わたしは枝の上で身を起こし、登ってきた時と逆の手順を踏みながら、そろそろと下りていった。
カンザキ君もさっと起き上がり、腕を伸ばしてわたしを受け止めようとしてくれたが、「いいの」といって、最後の一メートルほどの高さを飛び下りた。
着地の瞬間、ぐわっという感じの衝撃がきて、思わず二三歩身体が泳いだが、それでもなんとか転ばずに耐えた。
ちょっと目を丸くして、カンザキ君がわたしを見つめていた。
その時、わたしの奥で何かが震えた。自分の身体にこんな深い場所があったのかと初めて気づかされるような、そんな不思議な慄きだった。
「わたしは山姥よ。捕まえた若い男の子を食べちゃうの」
わざと髪を振り乱し、手の指を鉤のように曲げて、わたしはカンザキ君に襲いかかった。鬼女。人でなし。
「ちょ、ちょっと、先生」
カンザキ君は、本気で少し怖がっているような顔で逃げ出した。
わたしは手の甲ですばやく瞼を拭うと、カンザキ君を追いかけた。一気に谷の底まで山道を駆け下りる。
谷底はあまり陽が差さないせいか、土がかなり水を含んでやわらかかった。わたしの指がもう少しでカンザキ君の後ろ襟に掛かりそうになった時、いきなりその姿が視界から消えた。わたしはぎょっとして叫んだ。「カンザキ君!」
「ひどいなあ、先生は……」
カンザキ君は消えていなかった。まだこの世界にいてくれた。泥濘【ぬかるみ】にぺたりと尻餅を着いた姿勢で、情けなさそうにこちらを見上げてくるその顔に、泥の飛沫がはねていた。猫の髭みたいに見え、思わずわたしは吹き出した。カンザキ君も含み笑いを洩らした。
手を貸して、その大きな身体を立たせてあげると、
「僕、ゾンビになっちゃいましたあ!」
カンザキ君は、その泥だらけの手でわたしの顔を撫でようとした。今度は、わたしが悲鳴を上げて逃げ出す番だった。わたしたちは泥濘に足を取られたり、枝の先に袖口を引っかけたり、木の根につまずいたりしながら、山の中をめちゃくちゃに駆け回った。
わたしは、楽しかった。カンザキ君と遊んでいるのが楽しかった。今この時間がいつまでもいつまでも続けばいいのにと思った。わたしたちの足下で朽葉が踏みしだかれ、生々しいにおいを放った。
カンザキ君は何度も、男の子らしい笑い声を上げた。わたしも走りながら、笑い続けた。はあはあと息を弾ませて、女の子のように走った。
(了)
【著者プロフィール】
灰原 南(かいばら・みなみ)
鎌倉市生まれ。現在、台北の片隅に生息中。
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