【試し読み】金子冬実「大森の家」(『まぼろしの枇杷の葉蔭で』より)
金子冬実「大森の家」
植ゑし記憶あらざる枇杷の大樹にてわれに影するこのゆふつかた 『鷹の井戶』
服と同じように、家もまた、その人の美意識を表すものだと思う。祖母の住んでいた大森の家がまさにそうだった。大森駅から十分ほど歩いた線路沿いの平屋住宅。外科医の祖父、葛原輝(てる)が経営していた病院の敷地内にある、大きな家だった。
古い家だが、凝った作りだった。建築に興味があった祖母があちこちに手を入れていたからだ。
玄関を入ってすぐの長い廊下には、細い三本の飾り柱。窓のステンドグラスと調和して、優美なたたずまいを見せる。ステンドグラスはモンドリアン風に十字に切られ、オレンジ色のガラスを配したもの。落ち着いた感じでありながら、どこか斬新さもあるデザインだった。
家の南側に、台所と食堂、祖母の寝室と祖父の寝室。いずれも光が燦々と差し込む、明るい部屋だった。
真ん中の祖母の寝室は畳の部屋で、窓辺には魚の形をした囲炉裏の自在鈎と鍋が、装飾として天井からつるされている。和風な作りなのだが、窓全体に正方形の格子がはめこんであるせいか、不思議とモダンな雰囲気があった。
実はこの部屋が、私が生まれて初めて過ごした部屋だった。一九六八(昭和四三)年十二月はじめのことである。産院から出たばかりの私は、大森の家に連れてこられ、この部屋に寝かされた。産後の母の体調が落ち着くまで、二週間ほどここで過ごすことになっていたのだ。
ちょうどその日、家では歌会が開かれていた。廊下を隔てた北側の応接間に、多くの歌人が集まっていたという。会合の主催者であった祖母が、寝室に本か何かを取りに来て、寝ている私を見た。
「ぴいぴい良く泣く子だね、この子は」
母に一言いうと、祖母はすぐに応接間へと去った。祖母が私にかけた、人生最初の言葉だった。
生後数か月たって首が据わるようになると、食堂に隣接したサンルームの椅子に寝かされることもあった。このサンルームも祖母が作ったものである。床一面に黒い小さなタイルが張られており、鉢の植物の緑が映える。
ここに洗濯機を置くにあたり、祖母はそれを可能な限り黒い板で覆った。機械が丸見えというのが、美的に許せない人だったのだ。給湯器も板で覆うと主張したが、祖父に「機械には機械の美がある」と言われ、断念したらしい。祖父と祖母はこんな風に意見が合わず、よく喧嘩をしていた。
家の北側には、応接間と祖母の書斎、客用の寝室があった。
応接間には祖母の好きな品々がたくさん飾られていた。唐風の女俑(よう)や備前焼の壺、ギリシア製の馬の置物。大きな宝石の原石が置かれていたことを覚えている。アメジストだろうか、紫色の石だった。それらが並べてあるテーブルもまた、祖母がデザインしたもの。直角に組み合わせた二枚の長方形の板を、ほっそりとした足が支える、独創的な形だった。
うすらいで軽やかなようで、どこかしっとりとした重みを感じられる。祖母の作り出す意匠はそういうものが多かった。祖母は亡くなる四年前に、自らの歌誌『をがたま』を刊行するが、その一冊を手にとってみると、薄いのに何故か少し、まぼろしのように重みを感ずる。きっと上質な紙を使ったのだろう。装丁も細部までこだわっていて美しい。家も、家具も、雑誌も、歌と同じく祖母の「作品」だった。贅沢な人だったな、と今は思う。
と、このように家の内装においては自らの美の世界を追求していた祖母だったが、では身の回りをきちんと片付け、きれいに保っていたかというと、それは全く別問題であった。
整理整頓ができず、あっちを汚してはこっちへ、という人で、私が知る限り、掃除も自分ではせず、祖父にやらせていた。後年、私は祖母のもっていた写真を受け継いだのだが、短歌関係のものも家族のものも一緒くた、箱の中にごちゃごちゃに投げ込まれており、何が何だかわからなくなっている。万事そんな風で、自分の興味がないことには冷淡であり、何かを丁寧にメンテナンスして維持する、という性格ではなかった。
この家には庭らしい庭はなく、門扉ちかくと家まわりに木が植わっているだけなのだが、それらが手入れのないままに生い茂っていた。
祖母は苗木を植えたりするのは好きだが、その後はほったらかしにしてしまう。勝手に生えてくる木もある。みな枝がどんどん伸びる。それでも私が生まれる前には、それらを切って整えてくれるKさんという人がいた。祖父が手術をした患者さんだった。祖父は持ち合わせのない人からは治療代を取らなかったので、そのことを恩義に感じたKさんは、庭木の手入れなど、色々な雑用をしてくれていたという。
しかし、私が物心ついた時には、おそらくKさんの足も遠のいていたのだろう、家の周囲は雑然としていた。応接間の外には、大樹になった泰山木や、庭木としては喜ばれない枇杷の木が、濃い緑の葉をさかんに茂らせている。それらもまた、忘れがたい大森の光景の一つだった。
内も外も、全てが祖母らしい家だった。晩年に祖母は別の地に住むことを切望したが、結局最後までこの家を離れることはなかった。亡くなる前、体調を崩して入院したのが、祖母と家との別れとなった。
一九八五(昭和六〇)年九月二日、祖母は入院先で亡くなったが、その晩、亡骸が大森の家に戻ってきたまさにそのタイミングで突然雷が鳴り、大雨が降り出した。その日は日中よく晴れた暑い日だったので、びっくりしたことを覚えている。
十六年前に私が寝かされていた祖母の寝室に、いそぎ祭壇がしつらえられ、納棺の儀式が執り行われた。黒い布がかけられた祖母の棺と、周囲に飾られた白い百合やトルコ桔梗の花々を、格子窓からの光がやわらかく照らしていた。
※noteの仕様上簡略化されている文字があります。あらかじめご了承ください。
【続きは書籍『まぼろしの枇杷の葉蔭で 祖母、葛原妙子の思い出』でお楽しみください】
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『まぼろしの枇杷の葉蔭で 祖母、葛原妙子の思い出』金子冬実
四六判/並製/184ページ
定価:本体1,600円+税
ISBN978-4-86385-590-8 C0095
2023年9月2日、葛原妙子の命日に、全国書店にて発売予定。
装丁:成原亜美(成原デザイン事務所)
装画:杉本さなえ
【葛原妙子とは……?】
1907年東京生まれ。東京府立第一高等女学校高等科国文科卒業。1939年、「潮音」に入社し、四賀光子・太田水穂のもとで作歌を学ぶ。終戦後、歌人としての活動を本格化させ、1950年、第一歌集『橙黃』を刊行。1964年、第六歌集『葡萄木立』が日本歌人クラブ推薦歌集(現日本歌人クラブ賞)となる。1971年、第七歌集『朱靈』その他の業績により第五回迢空賞を受賞。1981年に歌誌『をがたま』創刊(1983年終刊)。1985年没。
【著者プロフィール】
金子冬実(かねこ・ふゆみ)
1968年東京生まれ。旧姓勝畑。早稲田大学大学院で中国史を学んだのち、東京外国語大学大学院にて近現代イスラーム改革思想およびアラブ文化を学ぶ。博士(学術)。1995年より2014年まで慶應義塾高等学校教諭。現在、早稲田大学、東京外国語大学、一橋大学等非常勤講師。1996年、論文「北魏の効甸と『畿上塞囲』──胡族政権による長城建設の意義」により、第15回東方学会賞受賞。
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