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【第6回ことばと新人賞最終候補作】春野菜魚「朝の生成」

朝の生成

春野菜魚

 二階のリビングでコーヒーマグを片手に、岬【みさき】は窓越しに流れる川を眺めながら、幼なじみの美月【みつき】の到着を待っていた。

 幾重にも連なる光の粒が、さざなみに誘われてちかちかと踊っていた。気まぐれな突風に撫でつけられると、その光の粒をふんだんになびかせながらちいさく尖った波頭が川面をしなやかにひた走る。捉えどころのない水の群れが、ひとつの合図によって申し合わせたように一方向にするすると伸びてゆくさまは、羊飼いに急きたてられた羊たちがいっせいに野を駆けてゆく姿を連想させた。

 川べりはこんもりとした茂みに覆われていて、ひとが降りたつには危なっかしいが、ときおりシラサギやカワウがちいさな中州のような岩場を見つけて、器用にバランスを取りながら羽を休めている。対岸の土手のうえには民家がひしめき合い、さらにそのはるか向こうに名前も知らない青く翳った山がふたつ並んでいて、岬はなんとなくその稜線を目でなぞっていた。

 ふと、生まれ育った町でも似たような光景を見た気がした。空に滲んでぼやけた境界をゆっくり目で隈取りながら、岬は遠い過去の記憶を揺すり起こそうとしていた。そのときもたぶん、今日のような春の日だった。坂道をのぼる途中、振り返ると、眼下に広がっていたのは寝ぼけたような町並み。そのはるか彼方にはひっそりと佇む青い山々がたしかにあった。

 風に導かれた水の流れのように、その日、雨がなにかに招かれるようにひとつの方角から段階的に降ってきた。放課後を美月の家ですごすために、民家の連なりを左右に分ける急勾配の坂道をのぼりかけていたふたりは、すこしまえまで晴れわたっていた空が一面、分厚い灰色の雲に覆われていることに気づき、頬や手に触れたかすかな水の感触を頼りに一本しかない傘を広げた。

 それを合図とばかり、たちどころに雨足は強くなった。ひととき、けぶるような埃っぽさが立ちのぼり、気温はぐっと下がった。冷たい空気が肌に触れる感覚を岬はいまでもにわかに思い起こす。ふたりの向かう方角から地面を叩きつけるような激しい雨がやってきて、アスファルトの地面はあっというまに黒い水玉に侵食され、傘布を爆ぜる雨音は次第にみぞれを含んで重たくなった。

 当時小学四年生だったふたりは、引き返すわけにもいかないからと美月の家への道を駆けながら、みぞれが雹に変わってゆくさまをまざまざと感じ取った。オタマジャクシの頭ほどのおおきさだった雹は、みるみる巨大化しゴルフボール大になって、地面だけでなく民家の屋根や窓ガラス、自動車のルーフにボンネット、ビニールハウス、カーポート、あらゆる平面をけたたましく殴りつけて、ちいさな町全体を揺さぶっているみたいだった。

 必死に傘の柄にすがりついて走りながら、岬は降り落ちてくる雹の音に負けぬよう大声で美月に言った。ノストラダムスの預言みたい。美月も大声で答えた。でも、まだ一九九九年じゃないよ? 何年か、ずれることもあるよ。きっと、空から恐怖の大王が降ってくるんだよ。

 ほとんど暴力的ともいえる勢いでかたい氷の玉が落下してきて、幾度もふたりの肩をかすめた。悲しいとも嬉しいともつかない嬌声を上げながら、まるで人類滅亡の終末に焦がれて興奮しているかのように、ふたりは全速力で住宅地を駆け抜けた。

 そのあとのことはうまく思いだせない。

 時間はギロチンだ、と岬はつくづく思う。ひとりの人間はたしかにひとつながりの人生を生きているはずなのに、記憶はまるで接続詞を失った不ぞろいの慣用句のように、前後のないぶつ切りの場面として脳裏に浮かんでは消える。

 岬と美月。幼いころ仲よくなったきっかけは名前だった。漢字に起こすとまったく印象の違う名前なのに、ひらがなに開くと一字違いなのがくすぐったかった。

 走りながら、片方が声を張りあげて言った。みぃちゃん。恐怖の大王ってなんなんだろ。さあ、なんなんだろね。みぃちゃんちの押入れに出たっていうあれみたいなものじゃない。あれってあれ? 互いをおなじあだ名で呼ぶから、周囲の友人らはよく混乱した。聞くうちにどちらがどちらに話していることばかわからなくなるのだ。その混乱する姿を、ふたりはひと匙の優越感とともに傍観していた。
 

 ようやく到着した美月は、ハンガーを片手に携えた岬にかけておこうか、と促され、生成色の上着を脱いで手渡した。上着の下に着ていた白い厚手のアラン編みのセーターは、花粉症の最盛期を迎えつつある時期にはやや季節はずれにすら見えた。美月は案内されるがままにリビングの椅子に座って、テーブル越しに岬と向かい合った。

 美月が足元に置いたキャンバス地のトートバッグをちらりと見て岬が聞いた。荷物、それだけ? 箱にまとめて送ってきたから。美月が短く答えた。場所はすぐわかった? うん、地図アプリで、なんとなく。駅まで迎えにいくって言ったのに。いいよ、家の場所、自分の足で覚えたかったし。

 一にも二にも岬が目を見張らずにいられないのは、美月のセーターが余白に満ちていることだった。サイズの合わない洋服を故意に着ているというふうでもないから、それがふさわしい体型のときもあったということだ。

「もともと、同居人はもうひとりいたの。けど、先々月そのひとが出ていって、ちょうど空き部屋ができたところなんだよね」

 岬がそう説明するあいだ、向かいの席の美月は返事するでもうなずくでもなく、ただ相手の顔をぼんやり見返すばかりで、ほとんどうわの空だった。

 岬はいったん席を立って、背後のキッチンカウンターに出しておいたコーヒーマグに茶色い陶器のポットから紅茶を注いだ。蓋を開けるとステンレス製フィルターの底に果実のような花のような甘い香りのふくふくとした茶葉が溜まっていた。ミルクティーでだいじょうぶかな、と美月に聞くと、冷蔵庫から牛乳を引っぱりだして目分量でくわえた。

 手から手へとそれを渡すとき、おなじ動作でつながった二、三の顔が閃光のように岬の脳裏にちらついた。いつかのだれか。いつかのマグカップ。いつかのミルクティー。人生のこの地点までにいったい何杯のミルクティーが消費されただろう。

 学生時代から数えると二、三では済まない多くの人物が岬を通り過ぎてゆき、そのひとりひとりと共有した経験が現在の自分を構成していて、いっぽうで、高校卒業と同時に分岐した美月の人生にもおなじようなことが起きていたのだと唐突に実感すると、自分にはしかるべき覚悟がまだ伴っていないかもしれない、という不安がいまさら胸によぎった。

「はい、洋平【ようへい】も」

 ふいに岬に話しかけられて一瞬まごついてから、テーブル横のソファに座っていたぼくは差しだされた墨色のマグカップを受け取った。

 岬は美月にこれからいっしょに住むことになる唯一の異性の同居人について簡潔に説明しはじめた。洋平は大学の同期で、フリーランスのグラフィックデザイナー。タイポグラフィが専門。うーんと、タイポグラフィって、字の。なんていったらいんだろ。字をデザインするみたいな、そういう仕事があるのね。基本は在宅勤務だから、家のことでなにかトラブルがあったら、てっとりばやく、わたしより洋平を頼って。そう言いながら、岬はこちらに目配せした。

 岬はときどき斜視になる。短く切りそろえられた黒い髪とは見事なまでに対照的な白く乾いた肌のうえに薄褐色のそばかすがまばらに散りばめられた彼女の顔にその斜視がくわわると、ややもすると奇怪じみて見えた。

 生まれつきのものなのか、本人も気づいているらしく、ぼくがじっと顔を見つめかえすと、バツが悪いとでもいうように明後日の方向を向いた右側の黒目をそろそろともとの位置に戻す。気分を害したなら悪かったなと、ちょっとした罪悪感を覚えてこっちはあわてて目を逸らすのだけど、当の彼女はとくに恥じ入るとか卑屈になるとかいう様子もなく、なんというか、超然としている。ひょっとして一種の美徳として捉えているんだろうか。
 


 

 東京都心から電車で一時間もかからない埼玉のベッドタウン、その町はずれに佇むみどり色の鋼板屋根がひときわ目を引く二階建ての一軒家は、もともと岬の姉夫婦が幼い子どもの成長と、将来的には高齢の両親の介護を見据えて新築した二世帯住宅だった。しかし、半年も住まぬうちに、商社勤務の姉の夫に命ぜられた海外赴任のため、一家はそろって日本を去った。 

 岬の両親はといえば、母親が五十代のころに子宮がんを、父親は数年まえにリンパ腫を罹患したものの、いずれも早期発見のため寛解し、夫婦ともにまだ六十代半ばで介護される健康状態からはほど遠い。いくらおなじ県内でも急に慣れ親しんだ土地を離れるふんぎりもつかず引っ越しを躊躇しているあいだに、娘夫婦の転勤が決まった。姉と夫にしたら建てたばかりの自宅を何年も空き家にするのは憚られるし、とはいえ、赤の他人に賃貸するのも抵抗があるからと、東京でひとり暮らししていた岬に白羽の矢が立ったのだった。

 黄土色の外壁と赤い看板が目印の、焼き菓子の化粧箱みたいなかたちをした最寄りのスーパーの駐車場で、岬は親族の事情を美月に淡々と語った。

「ざらにあることらしいよ。日本に家を新築しても、海外赴任が長引いてぜんぜん住めないこと」

「へえ」と、美月は抑揚もなくうなずいた。

 ゆったりしたローブのような暗色の服を好んで着る岬は、襟足を短く刈りこんだ後ろ姿だけだとほとんど少年にしか見えない。うつむきがちにその後ろを歩く美月は肩まである髪の毛先を風になびかせ、生成色の上着のまえをかき合わせるように両手を胸のところできゅっと結んでいた。

 週末とあって多くの客が行き交う入り口付近で手ぎわよくカートに買い物かごを乗せて、岬は話しつづけた。

「せいぜい三年から五年だって教えられてて、任期の延長はあんまりないけど、任期の終わったあとすぐにおなじ地域のべつの国に赴任が決まる場合もあるんだって。ニカラグアからメキシコ、とか。中国からインド、とか」

「おなじ地域ってひとくくりにするにしても、中国とインドじゃ言語から文化までなにもかも違う気がするけど」蛇足みたいにぼくがそう言い足し、まあね、と岬はてきとうな相槌を打った。

 三人で売り場をジグザグに進んだ。岬は野菜と鮮魚生肉コーナーを飛ばして、まずは切らした調味料や保存食を買い物かごにおさめようという算段だった。即席みそ汁、海苔、乾麺、春雨、サラダ油、ドレッシング、マヨネーズ、ソース、小麦粉、片栗粉、パン粉。数は力だ。連想ゲームのように、数珠つなぎのように、陳列棚にびっしりと積みあげられたおびただしい数の加工食品。パッケージに文字が踊り、昼光色の細長い電球の光が床に反射し、生活を営む人びとのカートがその上を交差する。こんにゃく、油揚げ、納豆、漬け物、ハム、ウィンナー、チーズ、バター、ヨーグルト、牛乳、と、そこで岬が牛乳を一本取って、かごに入れた。美月はその様子をじっと見守るばかりで、一向に商品には手を伸ばさない。

「いや、これ厚揚げじゃない? 頼んだのお豆腐なんだけど。絹豆腐、一丁」

 岬にそう言われて、ぼくははじめて自分の間違いに気がついた。豆腐を自分のぶんのついでに取ってきてほしいと頼まれて、大豆製品の売り場に行ったのに、じっさい手に取ったものは豆腐とよく似たパッケージに入ったおおぶりの厚揚げだったらしい。

 仕事のせいなのか、年齢的なものなのか、最近視覚失認がしょっちゅう起こる。見ているはずの文字をまったくべつの物体にたとえたり、今日みたいに頼まれたものを見当はずれなものに取り違えたり、いちいち精彩に欠く。

 失読もひどく、つい先日など、本屋でたまたま目にした「うみべ」を「うるべ」と勘違いして、えんえん「うるべ」とはいったいなにか考えあぐね、漫才師のコンビ名に始まり、音感から歯応えのある乾物を連想して、それから河童のような生き物を思い浮かべたところで誤読に気づき、想像は打ち切られた。実体を捉えるまえに、意味が溶けてゆく。いや、正確には、意味がぼくを捉えるまえに実体は姿を消す。

 対象物の印象が意識の表層に煙のようにうっすらと立ちのぼるが、明晰なかたちを捉えているわけではないので、それを自分の頭のなかに再現しようと試みたら、乱雑に浮かんだまばらな線が像を結ばぬまま雪崩を起こす。掴もうとすればするほどすり抜けてゆく虚像、まるで蜃気楼のように立ち消える。瞼を閉じると、中国とインドの地形が重なり合ってそれもまた溶けだしていた。

「だいじょうぶ?」

 レジに向かって酒売り場をぼくらはゆるりと進んでいて、はっとして顔を上げると、それは自分にではなく、美月に向かって岬がかけたことばだとわかった。たしかに、美月は貧血でも起こしたのか、ひどく青白い顔をしていた。

 スーパーを出ると、日はとっくに暮れていた。墨を流したというより、墨をめちゃくちゃに塗ったくってほんのわずか塗り忘れたかのような、公園通り沿いの夜闇にぽつぽつとぼんやり浮かびあがった橙の光は、市役所まえの広場で催されるさくら祭りの提灯の連なりだった。亡霊みたい。ちょっと、こわいね。運転する岬が提灯を横目に見てつぶやいた。美月もそれを目で見送りながら、岬に言った。なんだろうね、さくら祭り。外の空気を吸ったおかげか美月の顔色もいくぶんよくなっていた。さあ、全国各地でやってるんじゃない、おなじような名前でさ、と岬が答えた。縁日みたいな? うん、きっと露店がぽつぽつあって、桜を見ながら子どもがぐずるの。いるね、そういう親子連れ。それで、十代の子たちがトロピカルジュースとか飲んでね。どうだろ、十代の子って行くのかな、花見とか。花見するかはわかんないけど、露店さえあれば十代はいるんじゃない。

 「十代の子たち」ということばが十代だったふたりの情景をいくつも際限なく車内に運びこんできて、ときおり訪れるぎこちない静けさをくすぐるように埋めていった。そうして、ぼくらは肝心の桜を見るのをすっかり忘れてしまった。
 


 

 二世帯住宅なのでキッチンとリビングとトイレはどちらの階にもあるが、岬の両親が引っ越してこなかったため、一階には浴室があるばかりで冷蔵庫をはじめとしたおもだった家電がなく、トイレ以外はほとんど機能していない。

 二階は岬とぼくがすでに占拠していたため美月は一階にある部屋を使うことになった。平日はほとんど寝に帰ってくるようなものだからと、岬は家でいちばんちいさな子ども部屋を、ぼくは在宅で働くぶん広さにゆとりがあって物音の侵入がすくない夫妻の主寝室を使っている。美月が使う寝室のほかに一階にはもうひとつ客間があるものの、そこには夫妻の海外駐在中に使わぬ日用品が詰めこまれており、実質物置き部屋と化していた。

 美月が到着した翌日は、花冷えの午後になった。岬はリビングで共有スペースについてのいくつかのルールを美月に説明していた。食器や調理器具は好きなの使って。冷蔵庫の食材は、べつにだれも盗みやしないけど、気になるようならパッケージにマーカーで名前を書いてもいいし。可燃ごみの収集は月・木。それ以外のごみの収集日とか要領もぜんぶ、冷蔵庫にマグネットで貼った紙に書いてあるから、あとで見ておいて。いちおう、キッチンの可燃ごみは当番制で、朝八時半までにバス停まえの集積場に運ぶことになってるの。

 またうわの空で窓の外を眺めていた美月がやにわに声を発した。

「あ」

 その声にはっとした岬は美月の視線の先に目をやった。

「雪?」

 川沿いの土手で咲きかけた桜の花びらが雪といっしょに散っていくのがわかった。おおぶりの牡丹雪だったので、もはや花びらなのか雪片なのかは見分けがつかなかった。

 淡雪が川に降り落ちて水に還元されてゆくのをふたりは黙して見守った。やがて海へとつながる水の流れは空に吸いあげられて、ふたたび雨や雪に姿を変える。自然の摂理に仕組まれた単純明快な循環のなかにいることが、それをはっきりと知覚することが、ささくれだった心を落ちつかせるようだった。

「子どものころに見た雹の、あの日も、こんな感じだった気がする。気温が急に下がって、雲行きが怪しくなって」岬は目を細めて言った。

「そうだっけ。あんまり、覚えてないなあ」

ふたりは窓のまえに並んで突っ立って、しんしんと降る雪を眺めつづけた。

「進むばっかりだから、さらうことはできても、けっきょく逆再生ってできないしね」

 そこで会話が途切れたから、岬の口にしたありきたりの文言がなにか深い意味を含蓄しているかのように、その場の空気にしばらく張りついたように滞留していた。
 

 その日の夕方、リビングのテーブルで美月がなにか食べ物をつついていた。けっきょくスーパーでなにも買わなかったから、岬に食材は冷蔵庫にある好きなものてきとうに使っていいよ、と言われていた。ぼくはコーヒーを飲みながら換気扇のまえで煙草を吸っていて、話しかけるでもなく、その様子をなんとなく眺めていた。

 美月がフォークでつついていたのはブロッコリーとサニーレタスが山盛りになったサラダで、みどり色に埋め尽くされたロバの餌みたいな食事だった。たまたま居合わせた岬もぼくとまったくおなじことを考えていて、かつ、それを口に出して本人に尋ねた。

「みぃちゃん、それだけでお腹いっぱいになるの?」

 もそもそとほんものの草食動物さながら無表情でそれを咀嚼しながら、美月はゆったりとした口調で答えた。

「うん。なるよ?」
 

 そのときはたまたま体調がすぐれず食が進まないのかと思ったが、その後いつ見ても美月はロバの餌みたいな食事しか口にしなかった。岬が心配して聞いてもただ食欲があまりないと答える。あまりない、と。彼女の極端な小食は、この世に占める自分の面積を減らすことで存在まで希薄になると信じてでもいるかのような、切実で悲痛な拒絶だった。

 それでも、幾度かツナや鶏ささみの入ったサラダをついばむようにちびちび食べる姿を目にしたので、多くを食べないというその無言の標榜が、菜食や不殺生といった厳粛な思想をかたどったものではないのはたしかだった。

 頭をかすめたのは、干ばつで灰白色に干上がった農地の地割れ。その割れ目をそっと覗くような、侘しい気持ち。干上がって、からから。美月の食べる姿を見ると、そんな気持ちにさせられた。ぼくとて食にたいする探究心は高いほうではなく、パスタとカレーを順繰りに、ときどき衝動的に揚げ物を調理するくらいで、面倒なときは即席麺で済ますことも多いが、それにしたって、彼女の粗食は極端だ。さらに驚いたのは、その横で岬がふだんどおりの食生活をふだんどおりにこなす姿だった。   

 料理人としての岬は紹興酒使いで、発酵食品に目がなく、いっときはテンペに熱中してそればかりになって、最近は即席のシンガポールラクサに付属される味の染みた油揚げがいちばんの好物で、でも甘物なら断然和菓子がよいという。

 先週など、平日の遅い時間、岬はひとり暮らしと時短料理に慣れきった手ぎわのよさで、小分けに冷凍した白米に缶詰のグリーンカレーをかけて温め、半熟の目玉焼きとブロッコリーのバター炒めを添えたものをほんの数分でつくってしまったのだが、玉子の黄身のてらてらした輝きがスパイスとバターの香りと相まってじつにうまそうに見えた。それをいかにも平然と、やはり侘しげにずずと茶をすする美月の隣の席でがつがつ食べるのだから、信じられなかった。
 


 

 豊島区にある岬の勤め先、古道具屋〈日々〉は時間が止まったような店で、それはなにも置いてあるもののためばかりではない。

 店の入った建造物は昭和初期の名残をとどめた洋風の建て構えで、ファサードは付柱やアーチ型の正面扉で装飾されている。なかに入ると漆喰の壁が四方を取り囲み、細長い窓枠には年代物の磨りガラスが嵌めこまれている。看板は出されていない。ずいぶん不親切なようだが、見るからに気難しい無精髭の店主はそれも常連客にたいする親切だと断じる。

 とはいえ、当の店主は仕入れや出張で不在のことが多く、岬はつとめてほがらかな接客をするので長々話しこんでゆく客も多い。そういうところは、幼いころ小銭を握りしめて通った駄菓子屋や荒物屋のような雰囲気にちかい。おおきな違いといえば、岬の店では小銭で買えるものを取り扱っていないという点に尽きる。

 店内は全体にセピアがかっていて、ふだんぼくには饒舌な岬も黙ってじっとレジ台の椅子に座っているとほとんど置き物のように見える。そういう瞬間にハンマースホイの室内画のような静寂を湛えるこの店には、年齢問わず熱烈な支持者が多く、ときには評判を聞きつけた海外からの客も来訪するという。

 しかし、都内の運転には自信がないからと、岬は通勤には電車を利用していて、姉から譲り受けたという自分の車はもっぱら週末の買い出しにほんの数キロ走らせるくらいだった。

「みぃちゃん、平日はわたしの車使っていいよ。免許、ゴールドでしょ?」
 岬のそのことばに多少戸惑いつつも美月は助かるありがとう、と素直に提案を受け入れた。前職を辞めてから実家に引きこもりがちになって、美月は数ヶ月まえに自分の車を廃車にしてしまっていたのだ。

 岬は基本的に朝早く出勤して夜遅くに帰宅する。開店するのは昼まえぐらいだが(それも店主の気分次第でたびたび変動するが)、早朝から骨董市の仕入れに行く店主に同行したり、品出しまえに商品を丹念に洗ったり磨きあげたり、もちろん店内の掃除と陳列作業にも手間をかけていた。店では古物の初心者には比較的安価で買い求められるガラス製のものをすすめていることもあって、ガラスのウロコ取りの腕前にはそうとう自信があるらしい。

 そんな彼女はいま、薄暗い店内でデスクランプの円錐型の灯りを頼りにソローの『ウォールデン 森の生活』を文庫版で読んでいた。

 ぼくは都内でクライアントとの打ち合わせがあったので、終わってから知人の個展に顔を出して夕食をともにし、車で来たついでに閉店まぎわの岬の店に寄っていっしょに帰ることにしたのだった。

 問わず語りの古物たちが岬とぼくの隙間をやんわりと埋めた。銅製の鍋、乳白ガラスの電笠、銀彩の器、えんじ色の薬箪笥、鉄製の燭台。岬の背後の壁には奇妙なかたちにうねった黒い鉄製の杖がかかっていて、一瞬それがヘビに見え、ぼくはちいさく身震いした。

 そのとき、なんの前触れもなく、岬がページを繰りながら言った。

「落ちついてた時期もあったらしいけど、一年まえくらいに婚約が破棄になって、それからどんどんひどくなったんだって」主語も脈絡もなく繰りだされる話題の切りだしかたに、ぼくは、しかしおおよそ慣れていた。

「美月ちゃん? 家族がそう言ってたの」

「うん。ああなってから、かなり経つらしい」

「食べなくなってからってこと?」

「そう」

 高校を卒業して以来、同窓会、成人式、地元の縁日など、折々でふたりが会うことはあったものの、社会人になってからはそんな偶然の機会もぷつりと途切れた。

 それが突然美月のほうから岬に連絡をよこしたのは、ふたりが二十六歳のときだった。岬は映像や舞台の美術制作を請け負う会社に勤めていた。美月のほうは地元の中学校で音楽教諭として働いていたが、教育視察があるため都心に来るからといって、わざわざ岬の働く現場ちかくまで足を運び、ふたりで昼食を取ることになった。近辺で働くひとたちでにぎわう庶民的な雰囲気のイタリア料理の店だった。

 そのとき、岬には美月の目鼻立ちがやけにくっきりとして見えた。ひさしぶりに会ったせいというだけでなく、ひとつひとつの部位が明晰な輪郭に縁取られ鋭く浮きでているような感じ。

「みぃちゃん、なんか、きれいになったね」深慮もなく、ただ直感的に思ったことが岬の口をついて出た。

「そう?」美月は照れたような、困ったような微笑みを浮かべて言った。

 具体的に美月のどこが変わったのか、岬は時間の経過とともに理解した。以前と比べてかなり体重が落ちたのだ。瞬きをすると、落ち窪んだ眼窩がくっきりと浮き彫りになり、削ぎ落とされたように頬の肉が落ち、顔全体がちいさくなったように見えた。向かいの席に座る美月が頼んだパスタセットはこんもり盛られたポモドーロパスタにシーザーサラダとコンソメスープが添えられていて、どう考えても彼女には食べきれない量に見えた。

 こうも鮮明に当時の状況や心情を思いだせるにもかかわらず、岬はくわしい事情を美月から聞きだそうとは思わなかった。岬自身、仕事が多忙をきわめていて、それが原因で珍しく半年以上つづいていた恋人とも別れることになり、挙げ句現実逃避の疼きへの苦肉の策として応募したフランスのワーキングホリデービザの抽選には落選し、他人に親身になる余裕がなかった。

 あのとき真摯に向き合えたなら、布に染みついた丸い油の痕のようにいつまでも胸の片隅にこびりついて拭いとることができない「救えたのかもしれない」という驕りを、岬は持ちえなかっただろうか。あれからさらに時を経て、美月とはソーシャルメディアを介して親指やハートを交換するだけの希釈された関係性になったのに、短い帰省のさなか美月の母親から突如「賃料は払うからあの子もいっしょに住まわせてほしい」と頼まれたとき、断るという選択肢も残されただろうか。

 読みかけの『ウォールデン 森の生活』を閉じて、岬が店じまいの支度をはじめた。そうしながら独り言みたいに話した。

「ほんとうは更生する施設に入ってたんだって、みぃちゃん。二十代のころから食欲に波があって、いっときは貧血がひどくて通院してたらしいけど、でも家族は一過性のものだろうって思ってたみたい。それが、婚約破棄した直後から体重が極限まで減って、しばらくは入院したって。それから民間の施設に移ったけど、逃げだしちゃうらしいんだよね。それも繰り返し。どうやってって、散歩のルートを逸れたり、夜中にこっそり抜けだしたり? それでけっきょく、家族が自宅で面倒見ることにしたの。それでも、塞ぎがちで食べないのは治らなくて、家族の目があるからよけい家に閉じこもりがちになるし、お母さんはもうどうしていいかわかんなくなったみたい」

 岬がひと息にそう話すと、店はふたたび静まり返った。ときどき外から入りこんでくる車の往来やひとの話し声やゆるやかな風があたかもそういうジャンルの音楽かのように鼓膜をわずかに震わせた。

 ぼくは彼女の話にちいさな引っかかりを感じて聞いた。

「どうすんの、もし、いっしょに住んでても逃げだしたら」

「それは、もう、どうしようもないよ。きっとお母さんもそういうことを想定しつつ、わたしに頼んだんだと思う」

「どんなひとなの、お母さんって」

「みぃちゃんの? んーと、たしかずっと通信会社に勤めてて、キビキビした感じのひと。でも、はっきり思いだせるのは、小学校のころにあった調理実習の授業参観だね。エプロンと三角巾つけた子どもたちが調理台で作業するのを保護者が取り囲んで見物してたんだよね。おひたしにするほうれん草を茹でるとき、班の何人かで鍋の水が沸騰するのをじりじり待ってたの。ちいさい泡がぷくぷく鍋のあちこちに浮いてきて、そろそろかなってわたしがほうれん草を持ってかまえたの。そしたら、脇に立ってたみぃちゃんのお母さんに、ちゃんと沸騰してから入れないとダメよって、たしなめられた。生徒の調理に口を出すお母さんはほかにいなかったから、わたし、すごいびっくりしちゃって、ちゃんとっていうのがよくわかんなかったし、なんでだろ、いまでもそのことが忘れられなくて、みぃちゃんのお母さんといえば、そのときの印象しか出てこない」

 沸騰した湯のなかでみどりをいっそう濃くするほうれん草のイメージが、厳格な美月の母親という浮かべるべき対象を頭のなかで凌駕していた。

「けど、お母さんとの関係がみぃちゃんの食欲に影響してるとか、そういう短絡的なことではない思うよ」こちらの意見などおかまいなしに、岬はさっさとそう結論づけた。

「ふうん」と、納得したフリを決めこんだぼくは彼女の手元を見るともなく見ていた。岬はその日の売上集計を画面に打ちこんでから、業務日報の表になにやら書きつけ、こちらに目線を向けることなく言い放った。

「何度も言うけど、わたしはフェミニストじゃないよ」

「おれはなにも言ってない」

 岬は否定するけれど、やはり根幹にはフェミニスト精神が備わっていて、さらに厄介なことに、平素は恬淡としていてもなまじ庇護欲が旺盛なぶん、弱っている女性を見ると放っておけない。

 それは美月のまえに住んでいた元同居人との関係で証明されたことだった。岬の前職からの知り合いで、テレビの制作会社で働く同年代の女性、名前は蛭田【ひるた)さんといった。

 問題は蛭田さんの交際相手が家に入り浸っていたことにあった。男は彼女との結婚を視野に入れていると宣言していたものの、定職に就かず、生活費の大半を彼女に頼っていた。岬はしきりに別れるようすすめたが、納得しかねる蛭田さんとの議論が平行線をたどったままずるずると時間ばかり経過して、そのあいだにも男はますます家に居座るようになり、ごわついた髪の毛が定期的に詰まらせる浴室の排水口やシンクに放置されつづける汚れた食器の山が岬とぼくを順当に苛立たせた。

 それが、ある休日の昼間、蛭田さんの部屋からなにかが割れたようなおおきな衝撃音がしたので、あわてて駆けつけると、粉々になったガラスのコップの破片がフローリングに散らばっていて、ぼくらはいよいよ青ざめた。男が蛭田さんと口論になったさい床に投げつけたものだった。

 さすがに姉夫婦の家を破損させるわけにいかないからと、岬は蛭田さんに男と別れるか出ていくか選択するよう伝えた。今度こそ懲りて別れるかと思われたが、蛭田さんは男とともに家を去るほうを選んだ。男が彼女に依存する以上に、彼女が男との関係に依存していたのだ。

 その一件で確信したが、共同生活におけるぼくの役割は緩衝材だ。べつに生来秩序や倫理を重んじてきたというわけではなく、「明日やろう」と思ったことはたいてい三日後にやるし、自分の部屋に転がる丸いかたちに脱ぎ捨てられた靴下も気にならない。ただ、血縁もない他人同士が寄り集まったシェアハウスという特殊な共同体のなかでは、おおきな衝突を回避すべく家という箱のなかをゆるゆる漂い、住人たちの不満やストレスを吸い取っている自覚がある。

 岬はここ数日ぶんの領収書の整理を済ませ、翌日媒体へリースする予定の商品をレジ脇に取り除けてから、右上がりの角ばったクセのある字で「什器の搬入10時から/額縁の梱包と発送手配/両替」と、明日の自分のためにちいさなメモ用紙に走り書きした。

 ぼくはなにげなくレジ脇に避けられた片口のひとつをそっと持ちあげてみた。釉薬の貫入の具合が非常に精緻で、さわり心地に佇まいといい、ずっとまえからその質量を手は知っていた気がして、じつにしっくりと生活になじむ予感がした。

 店内をざっと見渡せば、どんなに美に鈍感な人間でも瞠目せずにいられない凛とした面立ちの日用品、それを使って生活する自分がありありと想像できる、そういうものたちが整然と並べられていた。だから、店には日々を慈しむひとたちが絶えず訪れる。

 こんな環境に身を置く岬は、ある意味腹を立てているのかもしれない。美月の生活ぶりに。美月が日々をおろそかにしている、と。だから、あんなに堂々と彼女に自分の食事風景を見せつけるのではないか。

 ぼくの見解はそれとはすこし違っていた。美月から無意識に、しかしさかんに放出される寄るべなさ、それは彼女からの数すくない信号でもあって、つまりある種の希望でもあるはずだった。
 


 

 四月下旬から美月は岬の車で職安に出向くようになった。それだけでなく、職安の窓口から申しこんだというパソコン教室にちかく通うことになっていた。あいかわらず、食はほそかった。

 世間が大型連休に盛りあがったところで、ぼくらの生活にさしたる変化はなかった。窓の外ではヒバリの絶え間ないさえずりが鳴り響き、応戦するようにウグイスがホケキョとやるのだけど、どうにも勢いに欠けていた。

 明確な概念におさまる季節と季節のあいだの、暑くも寒くもないプロローグのようなエピローグのような時期、いわば宙ぶらりんの季節のはざまにいると、いっそ激しい雨を連れてくる入道雲が待ち遠しくなっていた。

 連休明けの火曜日の夜、眠りに就いてから一時間と経たずに目が覚めた。よくあることだが、その後しばらく完全には眠れず意識が現実を這いつくばっていて、それでも夜闇に目が慣れて副交感神経が優勢になったのか、起きあがると頭がひどくぼうっとした。

 トイレに行くのによたよたと廊下を進んだ。リビングからほのかな灯りが漏れていて、ときどき最後に帰宅した岬が間接照明をつけっぱなしにすることがあるので、確認すべくリビングの扉を開けた。すると、キッチンに立つ人影を認めたので、その後ろ姿に声をかけた。

「いたの」

 ひゃっという、押し殺したようなちいさな叫びを上げた美月は、虚をつかれたように、シンクのまえで呆然と立ちつくしていた。

「喉が、渇いちゃって」まだ緊張が拭いきれない声を、絞りだすように美月が言った。

「そっか。じゃあ、おやすみ」

「おやすみなさい」

 ベッドに戻ると、冴え冴えとした意識と迫りくる薄明の気配との乖離を埋められず、いまいち照準の合わないぼやけた思考のまま、ふっとある考えにいたった。彼女はなにか食べていたのかもしれない。水道なら一階にもある。わざわざ二階に上がる必要はない。昼間あれだけわずかな量しか口にしないのだから、夜中衝動的に食欲が湧いてくるのはまったく不思議なことではない。

 もうこうなると、眠るのを半分あきらめてベッドを抜けだし、クロッキー帳に思い浮かんだデザイン案を描きはじめた。イメージに枯渇したら、習慣に突き動かされるように他愛ない落書きがはじまる。机の引き出しから取りだしたスピログラフで幾何学模様を描くと、止まらなくなって、ばかみたいに円形を反芻した。これは脱線ではない、訓練だ、とだれもいないのに言い訳じみたことを思った。

 じっさい、ダイナミズムを産むには地味な作業が肝となる。いちばん些細な動作がその人物の性質をつまびらかにすることがあるように。描かれた円の数は、取りこぼされた時間の目盛りだ。完璧な真球はつくりえない。なにかの本で地球儀をつくる職人が言っていた。たとえば、完璧な真球のように、現代の人類には果たし得ない究極の目的がありさえすれば、美月はなにかをあきらめることをあきらめられるだろうか。

 退屈しのぎに思いがけず興が乗って、端末にたまたま保存されていた元同僚で男友達の山田の顔写真を切り取っていじってほかのイメージと貼り合わせて、踊る山田、伸びる山田、巨大化する山田、連続複製する山田、涅槃像の山田などと、どうでもいい謎のコラージュをつくっては、にわかに感じはじめた自分の不甲斐なさをなだめすかそうとした。

 それから、気のおもむくままに端末にあるほかのイメージのストックを見返してみた。聞きなじみのない横丁の看板、さびれたスナックのネオンサイン、老舗料亭ののれん、道端に陳列されたフライヤー、たばこ屋ののぼり、駐車場の読みにくい落書き、電柱に貼られたステッカー、東南アジアの手描きふうの看板、それらはじっさいにどこかの街を歩きまわっているうちに出会ったものだった。

 頬杖をついて、写真に映った文字のかたちやおおきさを探るようにたどってゆくと、写真を撮った当時のこと、スナックのまえでカタコトで違法マッサージ店に呼びこまれそうになったこと、角にたばこ屋のあるなんとか小路商店街で男子高校生に道を聞かれたこと、電柱のちかくを歩いていたキジトラの猫の尻尾が千切れてぼろぼろだったこと、頭の片隅でくすぶっていたそうした記憶の端々にそっと触れるような感覚があった。

 机に突っ伏した。夜はおそろしく長くて短い。眠ろうと努めているときは時間の流れがまるで伸びきった輪ゴムみたいにひどく冗長に感じられるのに、どうせ眠れないなら有効に活用してやろうと開き直って行動しはじめるとあっというまに朝がやってくる。

 眠りにつくまえの、意識が無意識に転じる瞬間を思い返してみた。眠ることと死ぬことの違いはなんだろう。現実を手放すという点ではよく似てる。皮膚から意識が剥がれてゆくあの感じ。強いて挙げるなら意識が切れる直前の想念の違いか。つまり、手放そうとしている現実がこれからもつづいていくと知りながら瞼を閉じるか、そうでないか。死んでしまったひとと語り合ったわけではないから、たしかなことはわからない。ただ、眠ることがはてしなく遠く、死ぬことがとてもちかくに感じることはある。それは、死には一様の諦めが付随するけれど、睡眠は諦めを許容しないからかもしれない。考えているとあちこちに脱線したべつの考えのなかに取りこまれて、考えることの迷宮に足を踏み入れ、そのうち考えることそのものに煙に巻かれ、想念のなかの想念のなかの想念のなかの想念みたいなステージで、

 外でなにかの鳴き声がして、はっと目が覚めた。目が覚めたということは、机に突っ伏したきりいつのまにか眠っていたということだ。鳴き声は、女性の悲鳴みたいな鳥の声だった。姿は見ていないけれど、鳥だという確信があった。ひょっとして、現実を模写した短い夢を見ていたのかもしれない。眠りのなかで眠りの夢を? まもなく、日の出の気配が迫ってきて、朝が窓を通り抜け、光の矩形を床に描きだした。

 まだまどろみが瞼にとどまっていた。最後のチャンスとばかり、ベッドに潜りこんで、ここにきてようやく真の眠りに沈んでゆくのを実感した。真夜中にピンと張りつめていた意識の網目が一本また一本とゆるんでほどけていった。最後にそれらはどろどろに液状化して、マットレスの下に染みこんでゆく。

 そうして、どろどろになった意識が眠りという安住地にたどり着いたとき、世界は水に満たされたおおきな器となり、ぼくは底のほうをふよふよとたゆたう沈殿物にすぎない。あたかも宇宙空間における、ちっぽけな、ほとんど塵にちかい小惑星みたいに。

 意識の抜けきったからだがきちんとそこに横たわっているのか、眠っていると自分を俯瞰できないから確認する術がないのはなんとなくもどかしかった。眠っているあいだもぼくはぼくであると、はたして断言できるだろうか。
 


 

 最寄りとはいえ家から車で十分ほどかかるコインランドリーでは、石鹸の匂いを淡く含んだ生ぬるい空気のなか、休みなく動きつづけるクリーム色の洗濯機と乾燥機のかまびすしい音が響いていた。

 共同生活のルールのひとつとして、炊事洗濯はめいめいで行い、光熱費は折半ということになっている。しかし、陽射しもベランダのおおきさも週末に溜まった三人ぶんの洗濯物を同時に干すにはじゅうぶんではなかった。深夜から降りつづく雨を窓越しに見ていると、思いがけず自分の口からおおきなため息が漏れた。

「なに、煮詰まってるの?」かたそうな木製のベンチに座った岬がこちらを見て聞いた。

「そんな、芸術家のフリするつもりはない」

「そう? ただなんとなく、こないだ打ち合わせしてた仕事かなって思ったから」

「打ち合わせっていったって、〈空気感が〉なんて言われたんじゃねえ」

「煮詰まってるじゃん」

「空気だって読めやしないのに、さらに空気感、なんてね。頭で考えてることを目で見えるようにするのってそんな簡単なことじゃないからさ」

 発注されたのはデザインにまつわるシンポジウムのポスターで、知己でもあるイラストレーターからの提案でタイトルロゴを請け負うことになったが、なかなかデザイン案がまとまらずにいた。

 先の発言は主催の広報担当者から出たもので、ふわっとした指示、方向性の不透明さ、彼がデザインの訴求力を純粋に信じるひととは思えなかった。クライアントとの意思疎通に難があれば、案件そのものが暗礁に乗りあげる確率は高い。

 建物の外にあるスタンド式の灰皿を指差して、ぼくは岬に合図を送り、灰皿の脇に佇む自動販売機で缶コーヒーを買ってから、煙草に火を点けた。

 しかたない。壁は周期的に立ちはだかる。

 一度、音楽関係の印刷物の発注に行き詰まったとき、拘泥していたグリッドやベースラインを取っ払い、リーダビリティをほとんど無視した図形にちかいデザインに振り切ったところ、すぐに修正がかかるかと思いきや逆にクライアントからおおいに気に入られたということがあり、そこから気持ちが一気にひらけた。持っている技術の遊びかたがわかってきた。

 フォントをいくつか作為的に組み合わせるのは常套手段で、ひとつの文に明朝とゴシックあるいはセリフとサンセリフを混合したり、既存のフォントを輪郭だけかたどって中身をくり抜くこともあるし、場合によって多少ゆがみをかけたり、太さや濃淡で語感の印象を操作したり、縦書きと横書きを併用したり、あるいは楕円形に配置したり、読みにくくならない程度に文字を一部反転させたり、採用する手法はさまざまだ。

 最近は字体を一から起こして作字することも多く、字形をバラして直線をつなぎ合わせてつくりかえたり、より流線的に円形やひし形に組み立て直して構成したり、なにかに抗うように試行錯誤を繰り返していた。

 昨夜から眼裏に残像として留まるスピログラフで反芻した円が、水溜まりに広がる雨粒の波紋と重なった。時間つぶしの円が無限の波紋に結実してゆくと考えるのは、そう悪くなかった。

 インプットとアウトプット。模倣、解体、修正、反復、けっきょくはそればっかりだ。なにをするにもおなじだと思う。この線が正しいと確信が持てるまでは、反復のさきになにかがあると信じてつづけるしかないし、信じることに踏みこむしかない。ひょっとすると、ぼくはそうすることで最適解を導きだそうとしているのではなく、自分自身の想像を超えたところにある表現を夜な夜な待っているのかもしれない。

 円はランドリーのなかにも拡散されていた。7つの丸い窓の中身がぐるぐる回転し、ときおり撹拌された泡が白々と飛沫するのを美月と岬は入り口の脇にあるベンチからじっと見守っていた。

 立ちあがって丸い窓のひとつの内側を覗くと、岬は高校生だった夏の日、急逝した同級生の家を訪ねた帰り、おなじように乾燥機のまえに立っていた制服姿の自分と目が合った気がした。

 女子だけの友人の一団で弔問した彼の自宅は公営団地で、ちかくに暇をつぶせる場所がほかに見当たらないからと、しかたなく洗うものもないのにコインランドリーに立ち寄って、ぐるぐるまわる他人の洗濯物と前方に投げだされたローファーの爪先を交互に眺めながら、みんなで亡くなった男子生徒にまつわる話をした。

 陸上部の顧問とうまくいってなかったらしいよ。顧問って中島? なんか灰谷【はいたに】くんにだけ厳しかったんだって。そんだけ期待してたってことなんじゃないの。それよりさ、灰谷くんって母子家庭だったんでしょ? 弟を進学させてやりたいからって卒業したらすぐ就職する予定だったみたいよ。え、じゃあほんとはそれが不本意だったってこと? けど、C組の麻生さんに告白してダメだったって、男子は話してたよ。男子って、どの男子?
 そんな埒のないことを言い合うのもしかたなく、明確な理由が見あたらない絞首自殺で、遺書も発見されなかった。あまりに突然の死に、残された生徒たちは気持ちに折り合いをつけるためにおもいおもいの仮説を立て、多くの要因と可能性が挙げられたものの、どれもこれも決め手に欠けていて憶測の域を出なかった。

 ピーーと、一台の機械が終わりの合図を鳴らした。岬がふと振り返ると、制服姿ではない幼なじみがあの当時よりもひとまわりちぢこまって、くたびれたような表情でベンチに座っていた。岬はさりげなく、美月に尋ねた。

「みぃちゃん、高校生のとき亡くなった灰谷くんって覚えてる?」

「もちろん。覚えてるよ」

「どうしてだったんだろうね」

「自殺が?」

「うん」

「さあ、どうしてだったんだろうね」美月はおうむ返しするしかなかった。

 不遇に見えなくもない彼の背景を当時のふたりは知る由もなく、とても明るい青年だったという印象だけが残っていた。彼の古風なスポーツ刈り、浅黒い肌、厚みのある下唇、鋭い眼光、そういう詳細を鮮明に記憶しているのは彼があまりに若くして死んだからに違いなかった。灰谷くんは更新されるべき情報のないまま、不滅の十七歳の肖像となった。

「死にたいなんて、じっさい、だれが考えてるかわからないもんだよね」

 岬がつぶやくように会話を結び、美月は困惑したとも納得したともつかない曖昧な表情でちいさくうなずいた。
 


 

 ふたたびぼくが美月の挙動に違和感を覚えたのは、三人でコインランドリーに行ってから四日後の夜のことだった。

 深夜すぎに一階の玄関から、かすかな物音がすることに気づいた。岬はとっくに帰宅して自室に引っこんでいた。二階の奥の自室からそっと忍び足で廊下を渡り、階段を半分くらい降りると、玄関口で部屋着のスウェットパンツに羽織りをひっかけていままさに出かけようとしている美月の姿が目に入った。

「どこか行くの?」

 ぼくの存在にまったく気づいていなかった美月は、突如投げかけられたことばにひどく動揺した表情でこちらを振り向いた。岬への遠慮からか美月は夜には車を使わない。とはいえ、最寄りのコンビニには歩いておおかた二十分はかかる。

 美月の虹彩は茶色だが角度によって鶯色のようなみどりに見える。そのレンズにときどき映りこむ自分の影は、宿主の気づかぬうちに瞳に棲みついた生き物のようで、自分という感じがしない。怯えたような顔つきのまま美月が答えた。

「散歩に行こうかと思って」

「こんな時間に? このへん街灯すくないから、なんにも見えないと思うけど」

「最近車移動ばっかりで、運動不足だから。それに、気分転換になるかなって」

 気分転換ということばが、警戒心に拍車をかけた。つぎの瞬間、自分でも驚くようなことばが口をついて出た。

「おれも歩いてみようかな。いっしょに、いい?」

 美月はその提案に、あからさまといえるほどいやそうな顔をした。

 
 田舎の夜は暗い。ネオンきらめく都心の狂騒的な賑わいとは違って、街灯から遠のいた木々や畑のなにもない景色の羅列が、あの自動販売機の脇からなにかが現れたら、とか、そんなよけいな想像を駆りたてたときに背筋を粟立たせるのだ。

 深夜の濃い暗闇のなか、釣り用のヘッドライトを装着して夜間パトロールよろしく、ぼくは美月と車の往来すらまばらな川沿いの国道沿いをそぞろ歩いた。

「どう、求職活動のほうは」ほかに話すあてがなく、挨拶代わりのようにぼくは聞いた。

「うーん、ぼちぼち」

「事務職とか?」

「たぶんね」

「もう教職に戻るつまりはないの」

「教職は、わたしには向いてなかったんだと思う」

「けど、長いこと教えてたんでしょ?」

「うん。でも、惰性だったのかも。自分にはそれしかないって思ってたけど、生徒になにか教える以前に、自分ができてないことばっかりだって気づいたの。ようやく」

 食べようとしないひとに食べ物の話題を振るのも無粋だろうかと、食べることとはかけ離れた話題を心がけた。たとえば、この時期の変わりやすい天気のこと、市の文化会館にやってくる舞台のこと、近所にできた薬局の開店記念セールのこと、それから、彼女が通うパソコン教室のこと。

 最後の話題になって、美月はようやく活気づき、ぼくはいつも岬相手にそうするように、聞き役に徹した。どうって、楽しいよ。知り合いもできたしね。加山【かやま】さんっていう、三つ年上の女のひと。シングルマザーで、息子さんがひとり。家もけっこうちかくて、おなじ町内会なんだって。お母さんは、パソコン教室のちかくのお弁当屋さんで働いてるらしい。え、授業? 授業も、面白いよ。そりゃあ洋平くんのレベルに比べたら初歩的なことなんだろうけど、いままではワードとエクセルの簡単な表ぐらいしか使ってなかったから。ちょっと不思議な感じ。ずっと知ってるつもりのものでも、ちゃんと使いかたを覚えたらまったく違う世界につながってるんだなあっていうのが。

 打ち解けてきた証拠なのか、美月から以前の悄然とした表情は薄れ、よく話すようになった。あるいは、夜の歩行運動で気持ちが高ぶって思いがけずおしゃべりになってしまうのかもしれない。

 それから、すこしのあいだ物言わぬ暗闇に響くはあはあとすこし上がった互いの呼吸音だけに神経を集中させていると、話の接ぎ穂を見つけたように、美月がまた口火を切った。でもわからないことをわかろうとすると、けっこうすり減るの。ぼくは聞き返す。すり減るって、気持ちが? うーん、なんていうんだろ。たとえば、クラウドのこととか考えると、不安になるよ。クラウドって、クラウドサーバーのこと? そう。膨大なデータがどこに保存されてるんだろう、それって物理的な空間じゃないとしたらなんなんだろうって、考えれば考えるほど不安になる。まあ、大企業が個々に管理してるものだから、実態がわかりにくいよね。宇宙みたいなものなのかな、どんどん膨張しつづける。そう考えたら、安心できるの? わかんない、もっと、こわくなるかも。
 


 

 初夏の兆しをたっぷり含んだあっけらかんとした陽射しが、カーテンを全開にしたリビングの全方位から容赦なく照りつけた。まあ晴れの週末だし、半年に一回くらいはね、と窓の掃除を手伝うよう岬に乞われた。美月は例の加山さんと彼女の息子の三人で出かけるといって朝早く家を出た。

 川を望む窓ふたつに掃き出し窓までつけて、彩光という点ばかりに偏りすぎたのを帳消しにするためなのか、リビングの高い天井からはおおきなファンが吊り下げられている。手はじめにぼくらはキッチンとリビングの窓から網戸を取り外し、掃き出し窓から屋外に出した。

 二階のベランダはリビングからも岬の部屋あるいはぼくの部屋からも出られるようになっている。各々の部屋から干した白い洋服がみずから発光するようにまぶしくはためいていた。

「どう? みぃちゃんとはうまくやってる」網戸をえいっと外しながら、岬が言った。

「うまくもなにも、日中はほとんど顔合わせることもないからね。でも、おおきな問題はないよ、蛭田さんのときみたいな」

「ふうん」

「あ、でも、最近たまに夜中に散歩してる」

「散歩? ふたりで?」

「そう、週に一、二回。気づかなかった?」

「ぜんっぜん。仲よくなってるじゃない」

「夜中に美月ちゃんひとりで歩かせるのが、なんとなくまあ、心配で」

「へえ」

 岬はベランダの床をほうきで軽く掃いてから、取り外したリビングの窓の網戸を掃き出し窓に角度をつけて一杯一枚もたせかけていった。

「美月ちゃんって、昔はどんな子だったの」

「昔? 昔っていつの話」

「いつって具体的な時期じゃなくて、こう、クラスではどんな感じだったとか、なにが好きだったとか」

「うーん、いまと比べたらそりゃ、ふっくらしてたかな。とくに気にしてる感じではなかったけど」

「ふっくら、ねえ」

「あと、昔から音楽が得意だったよ。ピアノ習ってたしね。で、高校では合唱部の副部長やってた」

「そういえば、教えてた中学でも合唱部の顧問やってた、って言ってたな」
 窓に立てかけた網戸に岬はシュッシュッとなにかのスプレーを吹きつけていった。バケツにはたっぷりの水、その近辺に雑巾の束、サッシブラシ、スキージー、クエン酸、重曹、歯磨き粉、それから、見たことのない薬剤がいくつか置かれていた。

 陽射しが強く、むき出しの腕がちりちりと炙られ、沸騰した血管が内側から燃え盛りそうに熱かった。岬はスポンジと雑巾で網戸を挟みこむようにしてぽんぽんと小気味よく拭き、独り言のように話しだした。

「高校生のときに音楽の授業で歌のテストがあってさ、クラス全員のまえで課題曲を歌うってやつなんだけど、わたしはそれがいやでいやで。大勢のまえに出ると頭が真っ白になっちゃって、何回も落第したわけ。それが、隣のクラスだったみぃちゃんはもちろん一発合格で、そりゃもう天使の歌声みたいだったって。そのときは、なんでわたしみぃちゃんじゃないんだろって本気で思うくらい、惨めな気分だったな」

 人まえで萎縮する岬もさることながら、堂々とした歌声をクラスメイトのまえで披露する美月の姿がいまいち想像できなかった。最近の蒸し暑い気候でもうすら寒そうに見えるほど、彼女のからだはやつれ、骨張っていて、覇気を感じさせない。

 ぼくは見よう見まねのおぼつかない手つきで網戸を拭いた。動作のあいだはあまり感じない労働からくる体温の上昇が、静止した瞬間汗になって噴きだしてきた。雑巾がみるみる黒く染まり、それはぼくらが従事した労働の蓄積を示した。前足で網戸の目にしがみついていた過ぎ去りし日々の残滓のようなカゲロウの抜け殻が、いくつか崩れてはらはらと舞い散った。寝食の機能を打ち捨て、極端に短い寿命を生殖に捧げるというこの昆虫の生態が、ぼくにはある意味うらやましい。

「いまは緊張とかしないじゃん。接客業だし」抜け殻をサッシブラシの先で削ぐように落としながら、ぼくは言った。

「でも、やっぱり大勢のまえは苦手だよ。接客は、だって、一対一だしさ」あいかわらず、黙々と網戸を拭く岬が答えた。

「ふうん、そういうもんかね」

「洋平はいま仕事平気なの、こんな呑気に窓掃除付き合ってて」

「手伝ってって、そっちから言いだしたんじゃん」

「そうだけど」

「装丁とかパッケージの依頼はぽつぽつあるけど、新規開店とか開業ってわりと春に集中するからさ、いまはわりと凪の時期なんだよ」

「へえ」

 お互いにたいする均等な関心と無関心のもと、「へえ」「ふうん」という相槌を交換しながら、ぼくらは窓掃除をつづけ、額にほとばしる汗にいいかげん耐えられなくなったころ、岬がこのときのために買っておいたというペットボトルのコカ・コーラをぐびぐびと一気に飲み干した。
 


 

 梅雨入りをまえに、雨の日が増えた。 
  
 岬は店主について広島に出張し、何日か家を空けていた。店主の奥方が広島出身だとかで頻繁に出張先に選ばれ、その都度岬ははっさくゼリーを土産に買ってくるのだった。ひとり不在のせいか、家には夜間の物音が極端にすくなく、雨音がいつもよりちかくに聞こえる気がした。

 気象予報によるとさほど暑くもないはずなのに、すこしうたた寝をしたあとに寝汗がひどく、部屋着のTシャツが背中に張りつくのが不快だったので、軽くシャワーを浴びることにした。

 階段をそっと降りると、一階の浴室から深夜なのに灯りが漏れていた。脱衣所の扉が閉まっているときは使用中の合図だが、開いているということは、美月が浴室の電気だけ消し忘れて部屋に戻ってしまったということだった。

 浴室の扉も中途半端に開け放たれていたが、静まり返っているからまさかだれかがいるとも思わず扉に手をかけると、こもった空気のなかになにがしかの気配があることに、うわっ、とちいさく叫んでしまった。

 気配の主は美月だった。美月が寝巻きのまま水滴に覆われた浴室の床にへたりこんでいた。

 閉じかけた両目は虚ろによどんで、口も半開きだった。しかも、どろどろした透明の液体がその口の端からだらしなくこぼれ落ちていた。寝巻きはしっかり着ているのだから、入浴しようとしていたのではないとひと目で断定できた。浴室に隠れてなにかを食べていたのだろうか、それこそゼリーのような流動食ふうのどろどろしたなにかを。と、訝しんだ直後、人工的な香料のにおいが充満している室内に強烈な違和感を覚えた。

「ねえ、まさかそれ、飲んだの?」

 彼女が片手に握っている青い半透明のボトルを見て、思わず強い語調で問いただしてしまった。

 それから、とっさに彼女の右肩を引き寄せて排水口のまえでからだを屈めさせ、無我夢中で右手の人差し指と中指で彼女の口をこじ開けて、その喉の奥に残留しているかもしれない液体を掻きだそうとした。美月は咳きこんだ。ひどく無抵抗で、かといって、胃に押しこんだものを吐きだす気力は見せようとしなかった。ぞっとするほど青ざめた冷たい肌はまるで幽霊のようだったが、生ぬるくてざらざらした舌やぬめついた喉奥の感触が、たしかに彼女が生き物であることを証明していた。

 自分の取り乱した声が浴室を震わせるように反響するのを聞いた。はやく吐いちゃえよ、できるだけぜんぶ。なんでそんなもん飲もうと思ったの。シャンプーがうまいわけないじゃん。そんなの飲むくらいなら、ちゃんと飯食えばいいだろ。ねえ、頼むからさ。いつになくぼくは彼女にたたみかけた。ひどく気が動転し、そうしていないとおかしくなりそうだった。咳きこむときに白く泡立った唾液がわずかに吐きだされるばかりで、意味もなく蛇口から放出された水が床に落ちる音だけがやけに耳の奥に響いた。

 けっきょく美月が嘔吐することはなく、それで平気なものなのか不安になって県の救急番号に電話したら、窓口の女性が物腰やわらかな口調で水を飲ませて横にするようにと説明してくれた。

 
 ひとりにはしておけないので、美月をリビングのソファで休ませ、自分はその横でクッションを枕代わりにして、朝まで様子を見ることにした。

 美月はじきに眠りに落ちた。 

 眠るためのトリガーは「眠い」という感覚ただひとつなのに、眠れない理由は無数にある。なんだか不公平だ。しかし、ようやく「眠い」感覚が眠れない無数の理由に打ち勝ちつつあった。雨がぼくの意識を溶かそうとしていた。

 せっかくの自由業なんだからこんこんと眠りつづけられればいいものを、習慣のせいか数十分で目覚めるのがいつもなら悔やまれるところだが、この日にかぎっては美月の経過観察という任務にそれがおおいに役立った。知りうる限り、ぼくと彼女はほとんどおなじ間隔で眠りと覚醒を繰り返した。

 雨の日は夜と朝の境目がいっそう曖昧になった。降り落ちてくる沈黙に耐えられずになにげなくつけたテレビのバラエティ番組で、おそろしく陽気に哄笑する年嵩の女性タレントを、美月はソファに横になったまま意図的ではないにせよひどく悲痛な眼差しで見ていた。テレビは早朝から元気がよすぎた。

「婚約破棄した話って、聞いてるの」だしぬけに美月が言った。主語が抜かれていたためになんの話か一瞬わからなくて、数秒置いてからぼくは答えた。

「うん、なんとなくはね」

「そっか」

 消されたテレビの残像がしばらく網膜を刺激した。いままでだれかにその話を打ち明ける準備をしていたわけではないらしく、美月は訥々とした口ぶりで話しはじめた。

「ほんとは、婚約してからすぐ妊娠したの。結婚式の準備を進めてる最中で、相手も喜んでくれた。けどね、妊娠四か月の検診のときに、胎児の頚部浮腫の数値が高いってお医者さんに言われたの。えっと、浮腫って、つまり、胎児の首のところにあるむくみのことで、わたしの場合、赤ちゃんがなにかしらの障害を持って生まれる可能性が高いって言われたの。担当医は何百回何千回とおなじような宣告をしてきたふうの、ものすごく事務的な口調で、中絶も視野に入れてもいいだろうって。それで、わたし、幸せの絶頂から突き落とされた気分になっちゃって。産むことが、わたしたちにとっても赤ちゃんにとっても百パーセント幸せなことなのか、わからなくなっちゃった。中絶したのかって? ううん。自分でなにかを決めるまえに、赤ちゃんは死産したの。宣告を受けたつぎの健診で心拍が確認できないって言われたとき、わたし、ショックを受ける反面、正直すこしほっとした。自分で堕ろすっていう選択をせず済んだことに。最低でしょ? 自分には、子どもを産むなんて、はなから無理だったんだなって思っちゃった」

 沈黙すると、さあさあという雨音だけが空間を満たして、それが心なしかぎこちなさを緩和してくれていた。

「最近、夜、うまく眠れなくて。雨の音って落ちつくよね」

「1/fゆらぎっていうんだっけ」

「うん、そう。ここはとくに、ちかくに川が流れてるでしょ? 水に、包まれてる感じがいいの」

 わからなくもなかった。ゆらぎのはざまに意識がはさまって折りたたまれてゆくような心地よさ。

「晴れた日のほうが息苦しい。うまく息継ぎもできないまま水中で生活してるみたいで」

「じゃあ、けっきょく、いつも水に取り囲まれてるわけだ」

「そうだね」

 美月ちゃん、と呼びかけてから、ことばをひとつひとつ噛みしめるように言った。

「おれたちは他人だけど、いっしょに生活するからには限りなく家族にちかい他人なんだよ。欠けてる部分があるとしたら、お互いに補っていく。そういう、自助グループとでも思ってくれたらいいよ」

「でも、ふたりは助けなんて要らないでしょう?」

「どうだろう。助けの要らないひとなんてあんまりいないと思うけど」

「だったら、洋平くんには困ってるようなことあるの」

「そりゃ、あるよ」

「どんな?」

「さっき、夜中よく眠れないって言ったよね?」

「うん。しょっちゅう」

「おれは毎晩うまく眠れないんだ。三日合わせて五時間も寝てないなんてのがざらにある。ただ、そうなってからけっこう経つし、治るようなものでもないっていまはあきらめてる」

「じゃあ、毎日寝ないで仕事してるの?」

「いまはフリーランスだから、日中寝られそうなときにこまめに寝てるよ。それが独立しようと思った理由のひとつでもあるんだ。若いころのほうがキツかった。高校の修学旅行なんて、日中の自由行動も眠くて眠くて終始イライラしてた。周りからしたらかなりいやなやつだったと思う。いまも生活にまったく支障がないかって聞かれると、なくはないかもしれない」

「病院とか、心療内科は?」

「二十代のころには、すこしは努力したこともあるよ。いろんな入眠方法を試して、まとまった時間眠れる時期もあったんだ。といっても、それだってひとから見たらかなりの荒療治だったけど」

「どんな?」

「聞いても驚かない?」

「努力はする」

 一瞬、ことばに詰まった。けれど、めずらしく美月が明示した好奇心を満たしてやらなければならない義務感に押されて白状することにした。 

「子どものいる既婚女性にお腹を触らせてもらうと、よく眠れた」

 ぎょっとするのをあきらかに我慢しながら、美月は眉をひそめた。

「妊娠中の女のひとってこと?」

「いや、子どものいる既婚女性だね。家庭があって、年齢も自分よりひとまわりとかふたまわり年上の」

 最初はたまたまだった。まだ都内の広告代理店で駆けだしのデザイナーとして働いていたころ、学生時代の知人からホームパーティーだと誘われた恵比寿の豪奢なマンションの一室には、配偶者以外の「恋人」を探す既婚女性が集まっていて、ぼくはなぜか男性側に分類されていた。つまり既婚女性との一過性の性愛を求める若い未婚男性の側に。

 おそらく知人としては需要と供給のバランスを整えるためだけのいいかげんな人選だったわけだが、意外にもそのとき、二児の母親だというひとまわり年上の女性から熱烈に口説かれた。小鼻の横のホクロ以外、顔ははっきりと思いだせない。その歳にしてはきれいなひとだったと思う。けれど、記憶に残るのはなにを置いてもお腹だ。後ろから抱きすくめた痩躯のそのひとのお腹はぺたんこで、まさかそこにかつて胎児を貯蔵していたなんてとても信じられなかった。するすると陶器のようになめらかな白い肌の下の、生温かい不可侵領域。

 自分の母親と特別親密だったわけでもなければ、年上の女性好きという嗜好もなかった。ただ強烈に、このお腹のなかに棲みつくというのはどんな感覚なんだろう、このお腹から生まれてみたい、と思った。むろん彼女の子になりたかったわけではない。当時の自分にとって、感情は揮発性で、理性は流動体、それは区分しがたい本能的な欲望で、臨界点だった。かくしてその夜、ぼくは何年ぶりかわからないぐらいひさしぶりに、深く、眠りの世界に潜りこむことができた。

 以来、子どものいる既婚女性と知り合っては、行為のあとにお腹を触らせてもらうということを繰り返した。「わたしがもうすこし若かったらなあ」などというためらいを引きだすほどにはぼくが若々しくなかったのか、うんと年上の女性でもたやすくなびいた。

 あまり実りのある経験とはいえないが、家庭を崩壊させるほどの魅力に恵まれないぼくが彼女たちの暫定的な避難所になることへの対価として得たものが、良質な睡眠だったのだ。呼応と調和が生まれた。本来自分以外のひとがいる空間ではいっさい眠れないたちだったが、相手のお腹を撫でながら、そのひとには自分以外に愛する他者がきっちりとどこかに、ここではないどこかに用意されているのだ、と思うと、形容しがたい安堵感に包まれた。

 だれかの創造主であること、いま考えるとその事実が彼女たちの内部にある種の神々しさを醸成し、それはぼくのような繁殖願望からかけ離れた人間にこそ強烈な求心力を発揮したのではないだろうか。

「難儀だね」

 めずらしく美月がぼくの目をまっすぐに見据えて大真面目に言った。そのとおりだった。

「わかってるんだよ。問題は、意思と意識がいつも逆方向を向いてることなんだっていうのは」

 雨は降りつづいていた。雨が生んだゆらぎのおかげで、もうそれ以上話さなくても許される気がした。

 ぼくはといえば、思ったより美月の反応が非難めいていないことに胸を撫でおろした。以前、仕事を通してゆるやかなつながりを持った友人たちとの集まりで、家庭も子どもも戸建てもまったく考えたことがない、と会話の流れに乗ってばか正直に答えたさい、結婚願望がひときわ強い知人女性から付き合っているわけでもないのに「欠落している」と罵られたことを思うと、ずいぶんマシな結果だったといえる。

 しかし、こんなときはかならず、また巡ってくる眠れない夜に、忌々しい天井を睨めつけながらやっぱり自分のことなんて話さなければよかった、と歯噛みするのだ。

 

 

 それからも、深夜の散歩はほそぼそとつづいた。その習慣が美月の精神にどう作用したかはわからないが、けっしてからだによいことでないのはわかっていた。運動に費やすほどのカロリーを彼女が毎日摂取しているとは思えなかったからだ。薄着の季節になってきて、こちらが思わず目を背けそうになるほど筋張った両腕を半袖から覗かせ、美月はあいもかわらず膨満感とは無縁といった相貌だった。間違いなく彼女の食事量と活動量のあいだに齟齬が生じていた。

 けれど、もっと困ったことに、ぼくらはいずれもこの習慣がきらいではなかった。深夜という時間帯が運動による心拍数の上昇にさらなる高揚感をもたらして、帰ってくるころには声も足取りも弾んでいた。おまけに、うまくいくと、朝まで目覚めずにぐっすり眠れる日まであった。 

 ぼくらは家から往復四、五キロの距離を折々でルートを変えながら早足に歩いた。基本的に夜は往来のすくない地域だが、まれに通行人や自転車とすれ違うこともあった。

 深夜の散歩道では、朝と夜で景色が反転したように、ぽつんと佇む街路樹の木陰が地面に亡霊のようにゆらゆら浮かび、頼りげのない街灯の光がうすい木漏れ日になっていた。夜空にそびえる山々は漆黒の影になり、昼間よりも稜線がはっきりとわかった。

 甲高い虫の声がそこらじゅうに響いていた。歩道が民家から離れていていっさいの生活音が届かないから、目のまえの夜は自然の織りなす音だけに満たされていた。

 川のちかくは薄気味悪いほどに静寂していて、ぬらりとした川面が木々の影を鏡のように映しだした。地面には枯れたハリエンジュの花が死んだ虫のようにひとかたまりに横たわっていた。橋のうえでぼくらは突っ立ったまま暗い川面に見入った。

「川、こんなに静かなんだね」美月がつぶやくように言った。

「夜はとくにね」

「吸いこまれそう」

「ずいぶん物騒だな」

「そういう意味じゃなくて」

 川の底になにかしらの秘密でもあるかのように、ときおり酩酊のすえにこの川に投身する者がある。眠ったように静かな夜の川面を眺めると、たしかに美月の言うとおり吸いこまれそうな感じが胸に迫ってくる。投身する者もそんな心持ちなのかもしれない。川床に潜りこんでその秘密を暴いてやろうとでも目論んでのことじゃないだろうか。

 折り返してふたたび家の方向に歩きはじめると、どこまでもつづきそうな夜のしじまをそっと爪楊枝かなにかでぷすりと突き破るように、かすかな話し声が通りの反対側から響いてきた。それははじめ遠くから聞こえるやまびこのようで、徐々にたしかな輪郭を描きながら接近してきて、ぼくらはひたすら黙りこんでその声に集中した。

 まったくもう、血ィがだらだら、タオルも真っ赤になっちゃってよ、ひっでえの。やっぱりよ、看護師つったって、へったくそなのに当たったんじゃどうしようもねえよ。ちゃあんと脈に打っちゃいねえんだよ。高齢の男性とおぼしき低いしわがれ声だった。音量は次第に上がり、声の主が接近しているのがはっきりと感じられた。ほどなくして、蛍光色の防犯ベストを着た男女が暗闇を切り裂くようにしてすぐ目のまえに姿を現した。

「お」

 件の男性の声がぼくらに向けられているのがわかった。

「あんた、みどりの屋根の家に住んでる」男性はきょとんとした美月のほうまで歩み寄って鷹揚な態度で言った。「ほら、あの、うちの娘があんたといっしょのパソコンのなんとか教室通ってんだよ」 

 美月といっしょにパソコンのなんとか教室に通っているのはよく彼女の話に出てくる加山さんだった。聞けば、加山さんの父親は地域の自警団の一員であるらしく、ときおり深夜のパトロールを実施しており、盗難事件や痴漢が発生した折にはさらに頻度を増して出動するらしい。隣に立つ高齢の女性はときおり男性にうんうんそうね、と合いの手を入れながらやりとりを見守っており、どうやら彼の妻、つまり加山さんの母君であるようだ。

 おじさんはふたたび前進しようと半分後ろ姿になりかけたぼくらに身振り手振りを交えながら声を張りあげて話しつづけた。ときどき、ちっちゃい子狙った連れ去り事件なんかがこのへんでも起きるんだよ。こーんな平和そうに見えてもよ。あんたらだってそのうち子どもができたらよ、そういう事件が他人事じゃなくなるよ。えっ、あんたら、夫婦じゃないの。じゃあ、兄【あん】ちゃんひとりと女ふたりで住んでんの? へえっ。そうなんかい。そりゃあ、ちょっとあれだな、珍しいよなあ。

 
 その夜道端で挨拶を交わして以来、加山のおじさんとおばさんがかわるがわるぼくらの住む家を訪れるようになった。たいていはなにかしらのお裾分けという名目で、ある晩は収穫したての筍を持ったおばさんが玄関口で美月にまくしたてた。マダケっていって、もっとはやくに取れる孟宗竹とはまたべつの種類なの。もうアク抜きして茹でてあるから。だって、美月ちゃん、そんなに細くっちゃ心配だもん。倒れっちゃいそうじゃない。旬のおいしいものでも食べて体力つけたらいいんだよ。おばさんの舌は滑らかにまわりつづけた。

 なお悪いことに、余りものだし食べきらなかったら捨ててもいいんだから、と、勤めている弁当屋の弁当を三つも美月に渡そうとした。相手の見当違いな行動が完全なる善意にもとづいたものだとわかるから、美月は困っているのを最大限に隠すよう微笑して、それらを受け取った。

 親戚でも恋人同士でもない未婚の男女が、そう若くもないのに共同生活しているというのが、老夫婦には理解しがたいだろうし、そのひとりが自分の娘と交流があるともなれば、好奇心をかきたてられるのだろう。

 美月もぼくとおなじように考えているのは、彼女の表情を見ればあきらかだった。この町にどことなく、一歩踏みこむのを躊躇させるようなすげなさを覚えるのは、ぼくらがよそからやってきた者だからだろうか。

 とくに岬の姉夫婦ゆかりの地でもなく、土地代と権利の関係でこの場所にたどりついたというのだが、自然に移り住んだにしては辺鄙な場所で、新興住宅地というわけでもないから昔ながらの瓦屋根の木造建築が多いし、なんといっても周囲の住人たちみながみな顔見知りという独特の空気のなか、三十代も後半にして突如付与された「新参者」という自分の称号と処遇には気後れせずにいられないのだった。

 

 

 梅雨入りから何日か経過した木曜日の正午を過ぎたころ、あたりに低く響きわたった防災無線の声が、その慣習の存在を失念したまま旅先のベッドで迎える早朝に突如聞かされた異郷のアザーンのように不意をついてきて、なにを言っているのか判然としないくぐもった拡声器の音質にぼくは不穏な空気を勝手に読み取ってしまった。

 外では雨が春の汚れを洗い流し、また季節を一歩まえに進ませようとしていた。よどんだ心は春に取り残されたみたいだ。

 太い縞柄の庇が目印の駅前にある喫茶店は、扉を開けるとカランコロンといかにも古めかしい入店の合図が鳴って、天井やカウンター、内装が全体的に低くつくられているせいか自分がちょっとしたガリバーになった気分にさせられた。

 ぼくは蝶ネクタイの店主に奥を指差して、待ち合わせた相手の席を目指した。外の植え込みのまえに立ったとき、庇のおかげで雨粒から逃れた窓の向こう側にぼんやりと見えたシルエットで、奥の席にいるのが蛭田さんだとわかっていたからだ。

 アイスコーヒーを飲んでいた蛭田さんは、水の汗をかいたコップの底にまとわりつく紙製コースターを取りのけながら、ぼくのほうを見てにこりともせず言った。ひさしぶり。おひさしぶりです。このへんに住んでたの、何十年もまえって気がする。おれも、蛭田さんに会うの何十年ぶりっていう感じがします。それは、洋平くんとわたしの心理的な距離のせいでしょう。そうなんですかね。まあ、座って飲み物でも頼みなよ、奢るから。

 言われてぼくは席に座って、アイスコーヒーをひとつ頼んだ。蛭田さんは陽射しもないのに黒いキャップを目深にかぶっていた。いざこちらを見て話すというときに、くいとそのつばを持ちあげると、くっきりと縁取られた眉の下の両目にアイラインが異様に太く引かれているのがあらわになって、そこに若い黒人の子がするようなくるくるした髪型が相まって、漫画から飛びだしてきたキャラクターみたいに見えた。こんなに至近距離で話すのははじめてかもしれなかった。

 知らない番号からの着信は基本的に無視するけれど、三度もかけてこられたらさすがに顔見知りからではないかと焦りだし、意を決して四度目に応答したら、どういうわけかこの場所にくる羽目になった。

 店内はゆるやかに冷房が効いていたが、それでもじっとりとした雨季の湿度に額が汗ばむのを感じた。すぐに運ばれてきたアイスコーヒーをひと口飲んでから、ぼくは蛭田さんに言った。連絡するのが岬じゃなくておれなの、意外でした。岬とはちょっと、まだ気まずくて。おれだと気まずくないと? そういうわけじゃないんだけど、洋平くんは用件があるって伝えれば断んなそうだし。で、その用件っていうのがさ。

 と、そこで蛭田さんがテーブルの脇に置いていたトートバッグからごそごそとなにかを取りだして、ぼくの飲み物の横に置いた。その瞬間、彼女の肌から制汗剤のようなにおいがふわりと漂ってきた。目のまえに置かれたものは白い封筒だった。

「なんですか」

「お金」

「お金?」

「借りてたみたいで」

「だれがだれにですか」

「貴史が、岬に」

 タカシというのが、蛭田さんの部屋でグラスを床に叩きつけた例の交際相手の名前だということを、ひさしぶりに思いだした。

「わたしも借りてたことはあとで知ったんだ。どうしてもそのまま借りっぱなしっていうのがいやで。こんな歳になって、恥ずかしいんだけどさ」

 こんな歳もなにも蛭田さんの年齢など知らない。たしか岬の二、三歳上とか聞いた気がするので、お互い四十路手前ということか。と、どうでもいいことに気を取られた。

「岬に直接渡すより、洋平くんに切りだしてもらったほうがいいかと思って」

「それはかまわないんですけど、岬とおれだってべつにそういう関係じゃありませんよ。付き合ってるとか、とくに親密とか、家族のようなものでもなく。知ってると思いますけど」

「うん、それはわかってる。あの子はほら、なんていうか、完結してるから」

「完結?」

「うーん、なんていうの? ひとりで完結してる感じがするでしょ、岬って。過不足がないっていうか」

「はあ」

「でも、俗物的なものに潔癖っていうか、好きなものに囲まれてないと耐えられない、みたいなとこがあるからさ、きっと洋平くんのことはよほど気に入ってるんじゃない? 女王の衛兵みたいな」言いながら、手持ち無沙汰なのか、蛭田さんはストローの紙包装をまるく結んでプレッツェルのようなかたちにして指先で弄んでいた。

「さあ、どうでしょう。そんな尊大なものじゃないと思うけど」

「女王っていうのは語弊があるかもしれないけど、ちかいものがあると思うよ」

 蛭田さんに与しやすいと見なされたのはいささか不服ではある。が、こんな歳をしたぼくらは、培った惰性が対話や交流の余地を拒むから、けっきょくいざというとき、目のまえにいる相手の本質を勝手な心象をもとに読み解くことしかできない。

 それに、蛭田さんに賛同する気はないものの、彼女のいわんとすることのいくばくかを汲み取れる節はあって、岬には他者との境界にとりわけ決然としたところがある。

 目には見えないうすい膜のような結界が張られていて、その内側には一般的に流通する時間や空間の概念と断絶された個別の世界が広がっているが、当人は何食わぬ顔で外側の他者とのやりとりをこなしている。すくなくともそういう雰囲気を、岬はまとっている。

 しかし、その決然としたところがかえって頼もしく見えるのか、いつもだれかに身の上話や相談を持ちかけられ、そのたびに岬はため息まじりにつぶやく。どうしてわたしなんだろ。タカシに貸した金がこんなかたちで戻ってきたとしても、大仰なのを好まない岬のことだから、おそらくこれといった感慨も示さず受け取るのだろう。

 店を出ると、ふたたび雨が降りだした。民家の軒下に植わった薄群青のガクアジサイが心なし生き生きしていた。それらを眺め歩きながら、そぼふる雨がからだに浸透する水分になって、食べ物の代わりにすこしでも美月を満たすといい、と願った。
 


 

 梅雨の晴れ間はひどく蒸した。太陽は加減を知らない。跳ねあがった気温にすこし汗ばんだ額を手で拭いながらのろのろと起きだすと、休日の朝っぱらから岬と美月はパンづくりにいそしんでいた。岬にとっては週末に手の込んだ料理をするのが一種のストレス発散らしく、美月と暮らしはじめるまえからよくパンを焼いていた。

「このあとは?」美月がパン生地を捏ねながら、ステンレスのボウルを押さえている岬に聞いた。そこにはすでに、親族で行う年末の餅つきのような連帯感が生まれていた。

「室温で一時間くらい発酵させる。あったかい時期のほうが自然発酵がうまくいくんだよね」

「最近暑いもんね。二階はとくに」

「人肌にちかい温度だから、生地を捏ねるのって気持ちいいよね」

「みぃちゃん、人肌恋しくなったりするの?」

「人肌が恋しくならないように、パン生地を捏ねてるのかも」

「意外」

「なにが」

「みぃちゃんって強い女のイメージだからさ」

「強く見せる努力が成功してるだけだよ」

「努力はしてるんだ?」

「うーん、たぶん無意識にね」

 ふたりはまるでそろえたように、ムームーのようなかたちをした薄手の青いワンピースを着ていた。岬が美月のことをよくわかっていないのとおなじくらい、おそらく美月は岬のことをよくわかっていない。きっと、だれもだれかをわかっているなんていえない。

 ふっと思いだしたのは、まだぼくが越してくるまえ、幡ヶ谷の狭いマンションにひとり暮らししているころのことだった。平日の朝っぱらに、岬から連絡があった。

 駆りだされた場所が東京郊外のおおきな産婦人科病院だったので、反射的に不安と戸惑いを抱いた。待合のロビーは圧倒的に女性が多く、その大多数はあきらかに妊婦で、ぼくは所在なく長椅子の背に寄りかかり、腕組みをしてうつむいていた。しばらくそうしていると、重そうなボストンバッグを肩から下げて心持ちよたよたとしたぎこちない歩きかたで岬がロビーに姿を現した。

 退院の手続きを済ませてから外の駐車場で車のまえまでくると、荷室を使うほどではないからと言って、岬は助手席ではなく後部座席に荷物とともに乗りこんだ。

 慣れない県道を指定された住所に向かって運転するぼくに、岬が話しはじめた。

「自分で運転して帰ろうかと思ったんだけど、術後だからなるべくひとに頼んだほうがいいってお医者さんにすすめられたの。平日のこんな時間にこんなこと頼めるのって、洋平しか思い浮かばなくって」

「それはかまわないんだけど、術後って、なんの手術?」

「んーと、チョコレート嚢胞。悪性の腫瘍じゃなかったからよかったんだけど、卵巣がかなり肥大化してて、手術をすすめられたんだよね」

「それって、どういう」

「嚢胞ができたほうの卵巣を摘出したの」

 こともなげに答える岬の顔に暗いところは見られなかった。聞いたこちらが肝を潰しただけだ。

「卵巣って片方摘出しても平気なもんなの」

「うん、まあこうしてふつうに生活できるし、おおきな支障はないらしいよ」

「将来的にも?」

「将来的? そりゃあ再発の恐れはあるから、定期的に通院するけど」

「いや、そうじゃなくて、将来的に子ども、とかさ」

「ああ、そういう意味ね。いちおう、片方でも妊娠するみたいだよ」あっけらかんと、まるで他人事みたいに岬は言った。

 ぼくはことばに詰まった。「よかったね」というのも場違いな気がするし、かといってそれ以外の気の利いたことばが思いつかなかったのだ。すべての可能性が当事者の希望と一致するわけではない。なら、この世に絶対善なんてあるんだろうか。自分がいつもおなじ壁に直面し逡巡している気がした。

「女のひとはたいへんだね、いろいろとさ」やっとのことで絞りだしたことばは、自分でもがっかりするほど軽薄なものだった。

「そう? だれだってそれなりにたいへんでしょうよ」岬のことばの端はそっぽを向いていた。彼女の斜視の目のように。

こと男女関係に言及すれば、岬は恋人とまったく長続きしない。あまりにも周期の短い交際は、気に入ったものを長く丁寧に使うという彼女の一貫した性格とは反する気がして、ためしに聞いてみた。そういえば、岬って、恋愛だけは飽き性なとこあるよね。なんとなく気恥ずかしい、浮ついた台詞だった。あー、そうだね、と岬はつぶやいてから、崩していた姿勢を立て直し、
「蜜月に別れちゃうから」と、いつものさばけた調子で答えた。

「どういうこと?」

「相手を想う純度がいちばん高いときに離れたくなるんだよね、なぜか」
「どうせいずれ別れるなら、いちばんいいときに自分から、みたいな心情?」

「うーん、なんだろ、ただの癖みたいなものかな。だからって、選択を間違った、とは思わないけど」

 そういうものか、と妙に納得した。生活の冗漫さはいつも過去の「間違った選択」をぼくらに悔やませるよう仕向けてくるけれど、そもそも岬には「間違った選択」を思い浮かべるのは「正しかったかもしれない選択」の先にある幻の並行世界を夢見るのと等しくむなしいことに見えるのだろうか。
ルームミラーをちらと見やった。まるでこちらの考えを読んだかのように、ミラー越しにその鋭い目がぼくの目を捕らえ、岬は言った。

「でも、こうやって、自分の代わりに運転してくれるひとがいるのっていいもんだね」

 なにが「でも」なのか、それは聞かなかった。それからしばらくの沈黙のすえ、ふたたびミラー越しに確認した岬は、斜視の目を車窓の外に向けていた。逸れた目線でべつの世界を覗きこんでいるみたいだった。

 
 次にリビングへ行くと、こごった心をときほぐすようなほの甘いバターの匂いが室内を満たしていた。二度の発酵を待つあいだにふたりはミネストローネとサラダもつくっていた。

「ん、おいしい」

 驚いたことに、焼きたてのパンを美月はおいしそうに頬張った。屈託もなく。彼女が食べないことよりも食べることのほうが確実にぼくを驚嘆させたわけだけど、そんなこと微塵も気にかけていないように、岬はパンを頬張りながら美月に言った。

「昔、いっしょに映画観たよね。みぃちゃん東京に来て、わたしの仕事終わるの待ってくれてさ。覚えてる?」

「なんとなく。レイトショーの」

「そう。レスリー・チャンの何周忌とかで」

「ブエノスアイレス」ふたりの声が重なった。

「けどさ、内容はぜんぜん覚えてないの」

「わかる。わたしも滝の場面しか覚えてない」

「やっぱりあそこが印象的だよね。イグアスの滝だっけ?」

「滝なんて水が流れてるだけなのにね」

「泣いてたよね、みぃちゃん」

「うそ。わたし泣いてた?」

「泣いてた」

「わたしはみぃちゃんのほうが泣いてると思ってた」

 そのとき、遠くの空が鳴った。ごおごおと怒り狂ったように轟く遠雷の音はほとんど神々しいくらいで、ぼくらの頭上に広がる空までまっぷたつに割ってしまいそうだった。

「わたしは灰谷くんのお母さんを思いだしてたよ」岬が言った。

「滝で?」

「そう。自分よりずっと年上の女のひとが人目も憚らず号泣するところってなかなか出くわさないでしょ? お葬式のとき、灰谷くんのお母さんが流す涙を見て、すごい、滝みたいって思ったの。だから」

「そっか」

「みぃちゃんは? あのとき、なんで泣いてたの」

「なんでだろ? 滝の迫力に気圧されたのと、たぶん、一生この場所に立ってほんものを見ることはないんだろうなぁって思ったんじゃないかな」

「アルゼンチン?」

「そう。ものすごい膨大な量の水がざあざあスクリーン越しの滝壺に落下してて、そこにいないのに、そこにいるような気持ちになって、わたしはずるいな、と思ったの」

「ずるいって?」

「ほんとはそこにいなくて、けど、そこにいたフリして、行った気になって生きつづけるんだなって」

ほんの一瞬、まるで時空の隙間に迷いこんだような、ふたりだけが世界から切り取られてしまったような、奇妙な間をはさんでから、岬はスプーンでミネストローネをかきまぜる美月の顔をじっと見つめて言った。

「それでいいんじゃない。だって、すくなくとも知ることはできたわけでしょ。たぶん一生行かない場所があって、自分とは平行線に生きてるひとたちがそこにいるって。そういう場所があって、一生行くことはないかもしれないけど、もしかしたら行くことだってあるかもしれない」

「そうだね、そう考えるようになれたら、すこし気が楽になるかも」

 ふたりはそれからほとんど同時にパンをちぎって口のなかに押しこみ、それをアイスティーで飲み下した。ぼくはふたりの会話を肴にして換気扇のまえで煙草をひと息吐いた。濾過を繰り返された記憶の味はうすくて、ほんのり苦い。ぼくは考えを改めた。岬だって、過去にすこしの悔いもないなら、美月を自分の生活領域に招き入れはしなかったのではないか。おそらくふたりは、止まっていた過去を生き直しているのだ、と。

 どうして急に美月が食べる気になったのかは、わからない。いっときの気まぐれなのか。ふたたび体重が病院に搬送されかねない危険水域に達しつつあるのを恐れたのか。食欲を麻痺させていたなんらかの胸のつかえが取れたのか。それとも、丸っこくてほんのり甘いミルクパンが、分量と手順をいちいち確認し合いながらだれかといっしょにつくるという一見簡単そうでじつはかなり骨の折れる共同作業の賜物だったためだろうか。

 雷鳴から三分と経たず、通り雨がカーポートの屋根を爆ぜる軽快な音が聞こえてきた。窓の外では、とうに花を落とし成熟を迎えた桜の枝葉のみどりが強風に煽られ、ざわざわと翻っては、若葉、芥子、浅葱、萌葱、暗緑、と、反る角度によってさまざまな色相を帯びていた。

 

 

 七月は、日本地図を的にして無作為にダーツで射るように、あちこちに集中豪雨と猛暑を記録させようとしていた。

 修正待ちなんていってだらだら夜中まで仕事して、たまにはやく起きたかと思えば朝日はまぶしすぎるなんてぼやいてさ、ほんと、吸血鬼みたいな生活だよね。と、岬によく揶揄される。

 昼夜問わず仕事に追われた会社員時代よりはずいぶんマシだが、職業柄いまもクライアントからの連絡はしょっちゅうで、それも用件はだいたい指示か修正だから応答する気も失せるわけで、ただ、そのせいでクライアントの誰某のあいだにはさまれた実家の母親からの不在着信にすぐ気づかなかったのが悔やまれた。

 三十歳を越したあたりから日中の親族からの電話に訃報かな、という予感がもれなくついてまわるようになった。じっさいにかけ直すと、電話越しの母親は東京の警察署から叔父の急逝を知らされたと言って、ひどく気が動転していた。

 お母さんもくわしくは知らんのだけど、叔父さん最近は清掃業しとって、仕事で行ったホテルの部屋にばったり倒れこんどったもんで、ホテルの従業員のひとが発見したんやと。第一発見者、やって。そんで、いちおう、事件性があるかどうか確認しんといかんのだってさ。

 まくしたてる母親の話によると、叔父の遺体は検視のため一時的に警察署に安置されており、親族のだれかができるだけはやく遺体の本人確認や引き渡しの手続きに出向かなければいけないという。

 めんどうなことになった。叔父には家族がない。義姉といっても高齢の母親が駆けつけたところで、右も左もわからない土地で死にまつわる諸々の手続きを首尾よくこなせるとはとうてい思えない。本人もそれを重々理解していて、折よく東京近辺に住む自営業の息子を頼ってきたわけである。

 事情を説明すると、美月は狼狽しながらも、なぜか自分もいっしょに行くと言いだした。ぼくひとりでは手がまわらないだろうし、車の運転も交代でしたほうが楽なはずだ、と。さらに驚いたことには、すでに出勤し家に不在の岬までおなじことを言い張った。自分こそすでに都内にいるのだから、なにかしら役立つだろう、と。

 兎にも角にも喪服と着替え一式に、さしあたって急ぎの納品はないものの、いざというときのために端末といくつかの資料も車に積んで、にじりよる不安と焦燥のなか、家を出発した。なんとなればふたりには電車で戻ってもらえる距離なのが救いだった。

 走りだしてかなり経ってから、助手席に乗った美月がひどく遠慮がちに聞いてきた。

「洋平くんはだいじょうぶ?」

「だいじょうぶって?」

「その、叔父さんが亡くなられたって聞いて」

「ああ」

 そうか、死んだんだ。叔父が。言われてはじめて、親族の死が自分の感情になんの影響も与えていないことを認識した。ただ、聞いてきた美月になんとなく申し訳ない気がして、叔父についてぼくの知るかぎりのことを話しておこうと口を開いた。

「じつは、清掃業っていうのも初耳だったよ。叔父のこと、正直、あんまり覚えてないんだ。若いころ結婚したらしいけど、数年で離婚してて、元妻がいまどうしてるかは知らない。子どもは、いなかった。うちの祖父母はずっとまえに他界したし、父親は認知症で去年から施設に入ってる。母親なんて血のつながりもないから、叔父とはそんなに親しくもない。そもそも、叔父さんは祖父の紹介で入った地元の農協で働いてたのに、みんなに黙って仕事を辞めちゃって、逃げるように上京したんだ。まえは歌舞伎町で夜の仕事してるって聞いたけど、最近は音沙汰なしだった。おれが東京に住んでるときだって一度も会ったことないし。どんな生活してたのか、たぶん親族のだれも想像できない」

 美月は黙ったままうつむきがちにぼくの話に耳を傾けた。

 首都高を出てから歩道にはやたらとランナーの姿が目についた。どこにともなく走り去ってゆくランナーはコンマにすぎない。脈絡もなく、終止符までもほど遠いコンマ。混み合う街にでたらめに打たれたコンマはこんなにもたくさんいるのに、車道を直進する罫線のぼくらとはいつまでも交わらないのが、このときはとても奇妙なことに思えた。

 
 歩き慣れたはずの港区ではじめて足を踏み入れる警察署の霊安室は、薄暗く、ひんやりしていた。そこで叔父の遺体と対面せねばならず、それは想像以上の苦痛をぼくに課した。

 ストレッチャーに横たわる叔父のからだは、意識が切れているせいで生き物らしさを完全に喪失していた。白い覆いの下にあった死顔を見ても、見知らぬ老人にしか映らなかった。ぼくの記憶する最盛期の叔父はかなり恰幅がよく、目の下はふくらんで脂肪細胞の粒が浮きあがり、その上にはつねに己の欲望をまっすぐに見据える鋭い両目が爛々と光っていた。目のまえに対峙した叔父だったひとのからだにはオーラのかけらも宿っておらず、干からびて、虚ろだった。たんなる空っぽの容れ物。そう感じるのは抗いようもないのに、とても軽薄で残酷なことに思えた。

 警察署でのおおまかな手続きを終えると、ぼくらは二手に分かれることにした。ぼくと美月は川崎にある叔父のアパートへ、岬は警察署に残ってときおり訪れる叔父の同僚や知人の対応をし、逐一それをぼくに報告してくれることになった。

 美月が246号沿いを運転するあいだ、助手席でぼんやり車窓を覗きながら、林立する高層ビルの街並みを頭のなかで鳥瞰してみた。繁華街から西へ西へと流れる角ばった白い車は、からだに張り巡らされた血管を旅する白血球のようだ。些細な存在だが、たしかに機能している。

 
 生前叔父が住んだアパートは、最寄りの駅からはかなり離れた、入り組んだ坂道の果ての住宅地にあった。ナビもアプリも該当の箇所を指しているのに肝心のアパートの建物が見当たらず、ぼくらは車を路肩に停めて、歩いてその入り口を探さねばいけなかった。

 通り沿いの民家のブロック塀からせり出した木々の葉叢が風に揺れさわさわとさざめいた。ふと見あげると陽の光に葉脈が透け、みどりがいつも以上に濃く、葉影もいっそう深かった。夏が、足音もなくすぐ背後にまで迫っていた。

 数分間番地をうろうろ探しまわったあと、通りからは目につきにくい石階段を下ったところに、まるで息を殺すかのようにひっそりと隠れ佇む老アパートを見つけた。

 錆びついた鉄階段をのぼり203号室の扉を開けて、足を踏み入れた瞬間、饐えたにおいが鼻腔を刺激した。部屋のほぼ中央には黄ばんでぺしゃんこになった万年床、そのすぐ脇には食べたあと処理もされずに大量のハエがたかった鍋の残骸、床には一週間まえの消費期限が記載された空のコンビニ弁当、屑籠にセットされずに不用物をじかに投入されたゴミ袋、便座の壊れかけたトイレにいたっては目も当てられないほど汚れていたため、美月には絶対に入らぬようしつこく釘を刺さねばならなかった。

 ここが、仕事中にホテルの一室で死んだ叔父がつい二日前まで生活していた場所だと思うと、胸がにわかに軋むような感じがした。もしかすると、ホテルで倒れたのは存外悪いことではなかったのかもしれない。

 そんなことを考えていると、警察署から電話がきて、検視の結果、叔父の死因は肺結核であることを告げられた。結核なんて、いまどき。言いかけて、やめた。それから、結核菌が残留している可能性があるのでなるべく本人が使った布団やタオル類には触れないように、と電話越しに促され、ぼくはあわてて足元にあった万年床から身をしりぞけた。

 銀行の通帳は道具箱の引き出しのなかにすぐ見つかった。ご丁寧に暗証番号をメモした付箋がその上に貼られていたので、現金を引き出すことも可能だった。叔父の警備のゆるさには呆れるが、つまりこんな住まいでは空き巣の心配さえなかったということだ。借金こそないようだが、部屋にはひと昔まえの羽振りのよさは影をひそめ、質素というにはあまりに爛れたやもめ暮らしの侘しさみたいなものがわだかまっていた。

 
 叔父のアパート周辺での用事を済ませてから戻った警察署の待合では、岬の接客の巧みさが場違いに発揮されたらしく、今日はじめて会う叔父の上司なる人物と悠長に話しこんでいた。

 部屋でひとり死んじゃってしばらく発見されないよか、ずうっとマシだよ。たまーにいるんだよな、そういうのも。かみさんが先に逝っちゃってひとり暮らしのとか、もともと独り身ってのもいるし、ほら、うちはシルバー人材が多いからさ、いつだれにそういうときがくるか、わかったもんじゃないんだよなあ。へえ、なるほど、そうなんですねと、岬は相手の目をじっと見据え、興味深げに相槌を打っていた。

 その後、だれもいなくなった待合で、複数のひとたちから聞いた生前の叔父の様子を、岬はわかりやすく要約してぼくらに伝えた。

「叔父さん、ここ一カ月ぐらいへんな咳がつづいてたらしくて、職場のひとたちみんな、病院に行くようすすめてたんだって。でも、本人がだいじょうぶだって、頑として行こうとしなかったみたいよ」

 へえ、なるほどね、と、ぼくはまるっきりきさきほどの岬とおんなじように相槌を打ちながら、晩年の叔父の境遇を思いを巡らした。

 
 けっきょく、その日は、叔父の勤務先の清掃会社が手配してくれた警察署ちかくのホテルに泊まることになった。慣れないことをした疲労と眠気と空腹が一気に押し寄せ、三人とも無口だった。

 その夜ぼくらははじめて三人そろって夕食を食べることになった。ただ食事をいっしょに取ろうという提案が、とんでもない禁忌に触れる気がしてそれまで避けていたが、じっさいにその機会を得ると、なんということもなかった。なにせ、朝からコンビニのパンや弁当でてきとうに済ませ、まともな食事にありついていなかった。

 チェックインを済ませると、ホテルの目のまえの大通りから辻をいくつか折れた先に発見した薬膳中華の店に入った。一階部分だけがレンガ調の外壁になった雑居ビルの路面店で、入り口が異様にせまいせいで一見なんの店かわかりにくいが、扉のうえにくくりつけられた赤地に金文字の、ちいさな倒福の飾りつけがかろうじて中華料理店らしさを演出していた。

 ぼくらはメニューを見て思いつくまま、蒸し野菜の盛り合わせ、ピータン豆腐、餃子、空芯菜炒め、よだれ鶏、雑穀炒飯、名物と謳われた麻婆豆腐に火鍋、とつぎつぎ料理を頼んだ。そして、容赦なく空腹を刺激してくる油っぽいにおいを嗅ぎながら待ちに待った注文が運ばれてくると、無我夢中で食べた。美月も食べた。滋味をじっくり味わうのとはほど遠い、獣的な、欲に任せた食べかただった。恥も外聞もあったものでなく、汗をだらだら流しながら、八角や花椒のツンとしたにおいにまみれて黙々とそれぞれのペースで食べ、だれがなにをどれだけ食べようと、残そうと、べつに気になりもしなかった。

 目のまえに供されたものを一心不乱に食むという行為が、自分を、自分たちを、ついいましがたまで見せつけられた死の現場、死という概念そのものからもっとも離れたところまで遠ざけてくれる気がしたのは、おそらくぼくだけではなかっただろう。

 店を出てからホテルに向かって古い集合住宅と飲食店からなるせまい路地を進みながら、縦列で均一に並んだスナックのネオンサインを歩調と垂直に交わるように目でたどっていった。くれない、レミー、青い鳥、つばき、あ・うん、そのとき、目のまえに一枚の紙がはらりと降ってきて、ぼくはそれを拾いあげた。

「雑居ビルから星が落ちてきた」と、思わずふたりに広げて見せた。

 白いA3用紙の面いっぱいに手書きで丁寧にレタリングされたヒラギノ角ゴを模した「星」の文字は、はなはだ使途が不明だが、どこか啓示めいたものを感じたので持ち帰ることにした。

 
 翌朝ふたたび叔父のアパート付近まで行くと、銀行で下ろせるだけの金額を下ろし、役所に死亡届を提出し、不動産屋に紹介してもらった遺品整理業者に見積もりを取ってもらうため部屋に案内した。

 午後には警察署で紹介された代々木の斎場に行き、がらんどうの控え室で喪服に着替えた。大理石の壁や床はのっぺりとして、重厚で、わざと特徴を取り払われたかのように無表情な建造物だった。故人との思い出に浸る時間どころか、しめやかという修飾すら入りこませない簡素な荼毘葬が、ひたすらつつましやかに、おそるべき速やかさで執り行われた。

 斎場の職員がかけた眼鏡の黒々としたセルフレームばかりが気になって、背景には終始ピントが合わなかった。それはべつに悲しみの涙がそうさせたわけではなく、疲労困憊した両目の水晶体が詳細を取りこむことを拒んだだけにすぎない。
 

 復路を運転するころには、夢心地でいた。前方に連なる尾灯の朱や橙も、通り沿いのマンションがぽつぽつまとう電灯の白も、ひどくぼやけていて、色を持たないほんとの夢より夢のようだった。だから、街はすでに夢のなかにいて、ぼくらは夢のなかを走っていた。

 想像以上に骨の折れる死後の処理を乗り越えたあとだからか、岬と美月は車中でいつも以上に軽快さを心がけているようだった。

 以前友人と連れだって行った赤い看板のカラオケ店をちょうど通過したという話題に、突然美月が驚いたような声で反応した。え、意外。洋平くんってやんなそう。そうかな、カラオケやんなそうとかある? 岬が急に身を乗りだして加勢してきた。真相はどうか知らないけど、このひとこういうことやんなそうっていうのはあるよね。雰囲気とか、ふだんの言動とかでさ。あるある、勝手なイメージだけどね。

 ふたりの会話が背後でにわかな盛りあがりを見せた。ほかに洋平がやんなそうなことといえば? バーベキュー。スキューバ。たしかに、常夏の国とか苦手そう。大勢で行くテーマパーク。わかるー。ピースサイン。じゃあ、逆にやりそうなことは? クローゼットのなかに白いシャツがたくさんかかってそう。それはじっさい着てるからでしょ。古本屋巡り。本格的な写真。ステッカーとか収集してそう。あと、パクチーは食べれる。ああパクチー食べそうだね、なんなら育ててそうだもんね。ふたりは勝手なことを口々に言い合った。

 しかし、その他愛ない会話がすくなからず運転席のぼくの気晴らしになっていた。正直なところ、遺骨を持ち帰るのは気が重かった。いずれ帰省のさいに持っていくことになるのだが、両親もいまさら叔父の遺骨を親族とおなじ墓に入れるこだわりもないだろうし、友人に間借りする部屋にそういうものを保管しておくのにも気が引ける。いっそのこと、粉砕してから散骨したってかまわないだろう。

 骨も原子の集合体にすぎないのなら、毎日画面上で見るピクセルとそう変わらない気がしてきた。ビットマップのジャギーがはっきりと見えるほど拡大された文字をよくよく眺めるうちに、両生類にせよ爬虫類にせよ、あるいはヒト科にせよ、なにも語らない角ばったピクセルとなんら変わらない、と。ときおり、前のめりのぼくはピクセルのかたまりになって、文字と一体化し、ことばのなかに取りこまれる。人間もピクセルだ。ただ、不幸にも、考えるピクセルなんだ。という、いまいち筋のとおらない思念に取り憑かれたまま、単調な運転をつづけた。

 
 帰宅した晩はさすがに疲労でぐっすり眠れるかもと淡い期待を抱いていたが、じっさいにはますます寝つけなかった。

 幾度となく寝返りを打った。大文字のIからからだを丸め膝を折りたたんで小文字のh。それもしっくりこないから腕に頭を乗せ片足をぴんと伸ばしてKみたいなかたち。手が痺れてきた気がして、今度は両足を伸ばしてLになりきる。折も折、鋭利なサイレンの音がまどろんだ夜をつんざくように響きわたり、家のまえを通り過ぎたあともぼやけた音像を意識に置き去りにした。眠りの海はぼくを簡単には受け入れてくれそうもなかった。

 難儀だね。

 そうかもしれない。そのことばが美月のものだったか一瞬確信が持てなくなった。美月というより岬の言いそうなことばだからだ。本人たちは気づいていないかもしれないが、ふたりはどことなく似ている。名前が相似しているからだろうか。それとも、生活をともにするようになって、引き寄せ合っているのだろうか。

 

 
 カンカン照りの陽射しのなかで、昼すぎに呼びつけられたのは、大宮のデパート内にある書店の一角で催される若手デザイナーの合同展示会だった。在廊するデザイナーのなかには顔見知りが何人かいて、グッズ販売もしていたので、つい無駄にキーホルダーやステッカーを買ってしまった。

 とくに意図した習慣ではないが、ステッカーはほんとうに収集している。パクチーは育ててない。会場の壁には、納期直前まで揉めに揉めたシンポジウムのポスターが貼られていた。スクリーン上で作業する時間が圧倒的に長いため、仕事がかたちに残るというのは、ぼくをいくぶん安心させる。
 夕方に帰宅すると、郵便受けに美月宛のしゃちこばった茶封筒が入っていた。差出人は彼女の母親。暗黙のルールとして、ぼくはそれを下駄箱のうえに置いておいた。

 縁側がないのでひとまずベランダの床に置いた鉄製の蚊遣りから蚊取り線香の細く白い煙がおずおずとうねりながら立ちのぼってはすぐに消失していくさまを眺めたりしながら、ベランダのフェンスに寄りかかって煙草を吸っていると、家の玄関まえに見慣れぬクリーム色のミニバンが停まるのが見えた。

 どうやら美月が加山さんの車に乗せてもらって帰ってきたらしい。ぼくは運転席に座るショートヘアの女性と目が合って、会釈を交わした。感じのいい、控えめな笑み。父母のほうとは頻繁に会うのに、加山さん本人と顔を合わせるのはそれがはじめてだった。助手席には小学校低学年くらいの、彼女の息子らしき少年が座っていて、いまいち焦点の合わない目つきでこちらを見るともなく見ていた。

「あれが翠【すい】くん?」美月が二階に上がってくる足音を聞きつけて、さりげなくリビングに先まわりしたぼくは冷やしておいた缶コーヒーのタブを引きあげながら、聞いた。

「そう。今日はどうしても学校行きたくないって言ったらしくて、学校お休みさせて、三人で動物園行っちゃった」

「平日の動物園、空いてそうでいいね」

「うん。でも、途中でサルがこわいって翠くんが泣きだしちゃって、ぜんぶはゆっくり見られなかったよ」

「まあ、ちっちゃい子にはこわく見えるのかもね」

「とくに翠くんは納得できないことがあると、けっこう頑なところがあって、大声で喚いたり、暴れたりしちゃうから」

「外だと、たいへんだね」

「うん、でも、加山さんはなだめるのに慣れてて、ああ、すごいなあって、やっぱりお母さんはすごいなあって、いつもただ感心しちゃう」

「へえ」

 どれだけ気の利いたことばを絞りだそうとしてもよけいなひと言になる気しかしなくて、口をかたく結んだ。いいかげん、可能性についての多言は必要ないことを学んだ。

 じき終了するパソコン教室のことを意識してか、美月は最近本格的に転職活動を開始し、すでにいくつかの会社に書類を送ったという。現在の体型に合わせてスーツも新調したそうだ。

 美月の変化はそれだけでなく、以前よりもまともな食事を取るようになった。量は多くないものの、あの悲壮感漂う野菜に偏った食事から肉や魚をバランスよく取り入れた献立に切り替え、食べるさいの作法にも独特の侘しさはなりをひそめている。

 どうやら、彼女はほんとうに、長引いていた人生の猶予期間に決着をつけ、再生の方角に舵を切ろうとしていた。

 お茶でも淹れるのか美月がポットのスイッチを入れた瞬間、玄関の呼び鈴が鳴った。それとほぼ同時に施錠していない扉が勢いよく開けられ、美月が階段を下りきるまえに、ひょっこりと、加山のおばさんの顔が扉の奥から突きだされた。

「ああ、ちょうどいいや、美月ちゃん」おばさんは遠慮なく足を玄関の三和土に滑りこませて言った。

 善良なひとの善良な行いはその善良さが純然たるものであればあるだけ、そこに悪意のかけらもなければないだけ、おなじようにできない人間のほうがどうしようもなく間違っていると指摘されているようでつらい。

 加山夫妻からのお裾分けはつづき、あまつさえ美月が食欲を取り戻しつつあると耳にしておばさんの気概もひとしおらしく、弁当の余剰在庫に並行してラディッシュ、トマト、ナス、キュウリ、モロヘイヤ、と、季節の移ろいを示すかのようにどこからか巡ってきた野菜がつぎつぎと差しだされるようになった。

 おばさんは玄関扉のまえであいかわらずよくしゃべった。一日水くれるの忘れたらさ、カーネーションの花がいっせいに、こう、だらーんとしな垂れちゃってね、でもまた水くれてやったら生き返ったよちゃあんと。けど、もういいかげんダメ、時期はずれんなっちゃって。夏を越すには日陰の涼しいとこがいいなんつってさ、なーんであの子も鉢植えでよこしたんだかさあ、
 ものを提供してくれるのはおばさんのほうなのに、なぜかどうもどうもと何度もおじぎをしながら去ってゆくのを、美月とぼくはとってつけたような笑みを顔に張りつけて見送った。

「カーネーションって母の日に加山さんがおばさんにあげたのかな。よっぽど嬉しかったんだろうね」ぼくはなんとなく声をひそめて美月に言った。

「あげたのは加山さんの兄嫁なんだって。お兄さんがふたりいて、次男のほうの」

「じゃ、おじさんとおばさんにはお子さん三人いるってこと?」

「そうそう」

 加山のおじさんは定年退職した会社からの業務委託でときどき電気工事の単発依頼を受けているらしい。おばさんは弁当屋に勤務中。三人の子どもと孫たちとの諸々に追われながら、仕事を抱え、ときに自警団を務め、ときにご近所にお裾分けをし、あわただしい日々を送る老夫婦。

 夫妻を見ていると、自分とは人生における容量が違う、と感じる。望んだ仕様ではないもののぼくは短眠であるぶんひとより長い一日を送っているが、かといって彼らのようにさくさくタスクをこなせるわけではない。容量よりも処理装置の問題か。ふたりのよもやま話を聞くだけで処理する情報が多くて溢れてしまいそうなのだ。

 だいたい、おじさんもおばさんも気質がすこし躁の方向に振れているというか、無意識にあり余るエネルギーをあちこちに撒き散らしていて、それを無防備に浴びた低体温のぼくらは、彼らに会うといつもほんのすこしだけ精神が高揚する。たとえるなら、ごくうすい淡色を溶かしただけの水のなかを、苛烈な原色の刷毛でかきまわされるような刺激。

 世のなかというのがもし、岬が前職で手がけていたような書き割りでつくられた簡潔で閉じられた舞台装置だったら、自分とごく限られた周囲だけの交感にとどまるのびのびとした暮らしを送れるだろうか。じっさいの世のなかは自分が立っているのと地続きのところにあり、かつ想像をはるかに超えた広がりを持っていて、方々できりなく野放図に行動する生身の人間たちで形成されている。ゆるい境界を悠々と突き破ってくる加山夫妻の存在は、そういうことをぼくらに痛いほど思い知らせる。

「それも、もらいもの?」動物園で買ったらしきぬいぐるみや焼き菓子といっしょにテーブルに置かれたビニール袋に目を向けて、ぼくは美月に聞いた。

「ううん、これは、買ったやつ」

 大量の菓子パンにスナックの袋。ぼくはいまだ美月が食べるようになったことに慣れず、ついしげしげと袋の中身を見てしまった。

 美月はおばさんからもらった野菜を冷蔵庫にうつすと、いそいそとビニール袋のなかのパンの一部を冷蔵庫の横にあるパントリーのなかに詰めた。しかし、すべてはとうてい入りきらないと見え、美月はお茶を一杯飲み終わると、きまり悪そうにそれらを自室に持ち運んだ。

 なんとなく、茶封筒のことが脳裏をかすめた。おそらく彼女宛の郵便物を母親がまとめて転送してきたものだろう。どんな知らせが彼女を喜ばせ、悲しませるのだろう。別れた元婚約者のこと。受け持っていた合唱部のこと。母親、または家族、友人、親戚のこと。逆算的なシナリオをあれこれ思い描いてみるが、真相はいつまでもわからない。いったいなにが他人の行動の引き金になるのかなんて当人以外わかるわけがない。

 


 
 夏の陽射しが麦わら帽子の広いつばをまだらにすり抜けて岬の青白い顔に映しだす木漏れ日は、透かし編みのベールのように見え、そのしかめっ面に儀式的な厳かさをくわえていた。位置の高い太陽が極端な色彩のコントラストを生み、日にさらされたあらゆるものの表面が白っぽく見えていた。

 活発になりはじめたアブラゼミの狂おしい鳴き声を聞くたびに、鉛のような重みが体内に堆積され、それは膨張し、圧迫された皮膚から汗の粒が搾りだされた。

 週末の買い出しに行ったスーパーの帰りに、運転席の岬が言った。

「ちょっと花屋に寄っていい?」

「花?」

「うん、お店で取り扱うようになった花瓶を自宅用に買ったからさ」

 花のために花瓶を買うというより、花瓶のために花を買うというのが、岬から聞くとなぜかしっくりきた。彼女がひとのために家を借りるのではなく、家を満たすためにひとに貸しているからだろうか。

 車はスーパーのある県道を左に折れ、市内の中心地を横切る道路を駅方面に進み、動物病院とお茶処が向かい合った角をまた左に曲がった。角地にあるという花屋の手前、おおきめの酒屋の駐車場に岬は車を停めた。ちかくの焼肉屋から食欲を遠慮なく刺激するにおいが漂ってきた。

 花屋に到着するとまず、ぼくは店先に置かれた鉢植えに目を向けた。八重咲きの青い花にふと手をかざすと、手のひらに影が落ち、母親から離れられない子どものように、揺れる花をいつまででも追いかけた。

 こういう繊細なうつくしさ、あまさず手で掬おうとするとこぼれ落ちてしまいそうなうつくしさをまじまじと見つめると、それが人間が所有するよりはるかに短い有限の時に閉じこめられたものだという事実が、いたずらに心の襞をくすぐった。

 店内には見るからに堅牢などっしりとした無垢材のテーブルがいくつかランダムに配列され、花や花瓶が色ごとに飾られていた。7月はブルー。おすすめ商品とおぼしき青い花瓶のポップにはそんな文句が踊っていた。

 ガラスのショーケースは極彩色の曼荼羅のごときにぎやかな夏の花々に満たされていた。そのなかから、岬は控えめなのに超然としたカラーの花を選び取った。知ってる、カラーってほんとは花びらじゃなくてガクなんだって、と言って、その花びらにしか見えないガクの先端を指先で軽くつついた。白い曲線のふちを目でたどりながら、ぼくは言った。

「美月ちゃんさ、だいじょうぶなのかな」

「だいじょうぶって? 転職のこと?」

「いや、体調が」

「最近はちょっと体重戻ってきてるんじゃないの」

「うん。ただ、なんとなく、食べたあと吐いてるんじゃないかと思って」

「みぃちゃん?」

「まえに、菓子パンを大量に買いだめしてるの見てさ。それに、夜中にトイレにこもる頻度が高い気がする」眠れない時間が長いと、うんざりするほど真夜中の物音に過敏になる。岬はぼくの顔を見てから、ふたたび手元のカラーに目線を落として言った。

「洋平は定型にとらわれすぎなんじゃない」

「定型って?」

「食べられないひとが食べるようになったから、吐いてるんじゃないか、なんて」

「そうかな。食べる習慣って簡単に変えられるものじゃない気がするけど」

「もしそうだったとして、わたしたちになにかできることってあるのかな。専門家でもないのに」

「そりゃそうかもしれないけど。心配じゃないの」

「心配だけど、なにか助言したところで、本人の意思を変えることはできないんじゃない。蛭田さんのときがそうだったでしょ? ひとといっしょに住むようになって、わたしはひとつ学んだの。一方的に相手を変えようとしても無駄だって」

 それはもっともすぎるほどの正論だったが、かつて蛭田さんを説き伏せようと苦心した岬から出るには意外な発言でもあった。

「じゃあ、気づいててなにもしないってこと?」

「洋平だってじっさいに見たわけじゃないんでしょ? ネットで検索してそういうもんなんだっていう思い込みもあるんじゃない」

「うーん、どうだろ」

 たしかに、発言の信憑性を立証する手立てはなかった。シャンプーのときみたいに、現場を見たわけではない。しかし、そんなこと言いだしたら、この世の森羅万象は立証から逃れているではないか。

 だれもが五百年以上もまえにミクロ点描の技術を駆使していたダ・ヴィンチが稀代の天才だと知っていても、かの有名な肖像画の類似性における精度がじっさいどれほどのものなのか知る術はない。生きているリザ・デル・ジョコンドを知る者はいないから。モナ・リザは絵画の精度を証明するために生きていてはくれない。花がひとを楽しませるためだけに咲くわけではないのとおなじように。立証できない事象、たとえできたとして変えられないなにかを憂慮するのは、いけないことなんだろうか。

 ぼくは岬の承諾を得て、花屋の三軒隣にある質屋に向かった。コンクリートの壁はバーナーで炙ったかのように黒く爛れていて、建物の二階部分にあたる層は全体に傾いでいた。質屋なのだから時代遅れを咎められる筋合いもないわけだが、それにしても老いぼれたならず者風情の面構えだった。

 古びた建物の正面玄関の脇に設置された、いかにも肩身の狭い喫煙者用のベンチに座った。岬はなぜかついてきて、ぼくが箱から煙草を一本取りだすさまをじっと見ながら言った。

「一本、ちょうだい。火も」

「めずらし」

「年に一回くらい吸いたくなんの」

 たしかに学生時代はキャンパスや道端で彼女の喫煙する姿をよく見かけた気がしたが、いつのまにか見なくなっていた。岬が火を点けた瞬間、たまさか太陽が翳った。ぼくらはあっというまに雲の影のなかにいた。岬の口から吐きだされた煙は、水中で口から漏れだした泡粒の群れのようで、一瞬ぼくらがいるのはほんとは深海の底なのではないかと錯覚した。

「どう、一年ぶりの味は」

「まずい」

 はは、とぼくは思わず笑いを漏らした。

「まずいのを確認するために吸うようなものだから」岬は人差し指と中指にはさんだ白い棒の先端、ゆっくりと、しかし確実にフィルターに向かって忍び寄ってくる火種を眺めてそう言った。

「ふうん?」

「そういえば、あれ、できたの」

「あれって?」

「骨を粉砕するやつ」

「ああ、うん、できた。代行サービスで、さらさらの、完全なパウダー状にしてもらった」

「どこに撒くつもりなの」

「いや、これからさきのことは、まだなんにも決めてない」

「ふうん」

 帰宅してすぐに花が収められたのは、ひょろりとした白い陶製の花瓶だった。〈日々〉では、店主が見込んだ精鋭の工芸作家、たとえば、鉄、錫、アルミ、ガラス、木材、陶土、さまざまな素材にその道のプロというのがいるらしく、全国各地に散らばったそうしたひとたちに話を持ちかけ、ときおり店内の一角で展示販売を行う。秋口には白い陶物【すえもの】がその一角を占めることになるらしい。

 夕方になっても暑さは凪を見せず、キッチンワゴンにマグネットで貼りつけられた「星」の紙が、エアコンから吐きだされた勢いのある風に煽られてひらひらと揺れた。買った食品を移そうと冷蔵庫を開けば、もらいもののトウモロコシが三本に、食べかけのスイカ。テーブルに飾られたカラーの花は涼しげだった。

 

 

 間延びした夏の蝉時雨は一向に止む気配なく、まだるっこい空気が寝苦しい夜をますます困難なものにしていた。

 寝つけないとむやみに自分がなにかを待っているような気がしてくる。茫漠としているが、夜の裏側のような空間に入りこめそうな、予感と畏怖と希望が入りまじった気持ち。だからよけい、その夜、なんの変哲もないとしかいいようがない木曜日の、深夜一時の来訪者には心底驚いた。

 玄関の煌々とした灯りの下で見る加山のおじさんの顔は、横に広がった小鼻や離れ気味の目や青髭のせいか、どうしたって興奮したカバを連想させた。赤い野球帽をかぶったカバ。

「帰ってきてねえか、お宅んとこの」

 勢いよく押された呼び鈴で玄関に召集された美月とぼくは、加山のおじさんから開口一番放たれたその台詞がなにを意味するのか、さっぱりわからなかった。

 おじさんに促されるまま二階の岬の部屋をいくらノックしても、返事はなかった。今夜出張の予定があるとか都内に泊まるとも聞いていなかったし、そもそもぼくらは互いの日程を仔細に把握しているわけではない。

 加山のおじさんは頭に手を当てて、わかりやすく焦った様子で言った。

「ちょっと、電話してみろよ、兄ちゃん」

「はあ」

 定例の深夜のパトロール中に、おじさんはここから二キロほど離れた橋のうえでぼんやり川を眺める岬を見たと言うのだ。どうにも面妖な様子を察して、本人に帰るよう促すと素直に帰途についたため、後ろ姿を見送ってからおじさんもその場を去った。しかし、なんとなく腑に落ちないところがあって、それはおじさんいわく「長年の勘」でしかないそうだが、たしかに感じた一抹の不安が拭えなかった。そこで、家が近所ということもあり、パトロールの帰りに念のため家に立ち寄ったという次第だ。岬はぼくと美月からの電話には出ず、メッセージを送ってもなんの反応も示さなかった。岬はぼくと違って携帯電話に執着がないから、単に気づいていないだけかもしれない。

 しかし、言われてみれば、平日の夜にかならず聞く階段の昇降音を、今夜は聞いていなかった。岬は駅まではたいていバスを利用するが、時間に余裕のある晴れの日は自転車を使っていた。まさかとは思ったが、岬が今朝通勤に使った水色のミニベロはカーポートの脇にある物置きにきちんとおさめられていた。

 美月とぼくは加山のおじさんと二手に分かれ、岬の行方を川の周辺に絞って捜索することになった。なにか話そうにも解決する見込みのない疑問符しか出てこないから、夜道を歩くあいだふたりともただライトで照らした足元ばかり見つめて口をつぐんだ。

 どうして岬が? 彼女の頭がなにを考え、彼女の足をそこまで動かしたのか、ぼくと美月がいくら首をひねって考えてみたところで、わかりようもなかった。記号的な思考はよくないが、休日に窓の掃除やパンづくりをする人間に心の余裕がまったくないとは考えにくい。それどころか、彼女は明日につづく自分のためにうつくしい花瓶をしつらえるような人間なのだ。

 根拠はたしかに突きつけられているのに、あまりにも現実が現実味を帯びていなかった。叔父の葬儀の帰り道を思いだした。夢と現実の境目が曖昧なあの感じ。もしかして、夜の裏側に迷いこんだぼくらは、ほんとうは悪い夢を見つづけているのだろうか。地盤がぐにゃぐにゃに歪んだ現実を夢心地のまま必死に駆けた。

 
 いつも窓から見下ろす川べりの藪には生き物の気配が蠢き、数種の直翅目による甲高い鳴き声がちかちかとモールス信号みたいに閃いて揺れて、耳の奥をじんじんと疼かせた。気味が悪いほど、ひと気はない。

 手に持ったヘッドライトの光量を最大にして、前方をできるかぎり広範囲に照らした。ユスリカの大群があちこちで蚊柱を立てていた。ぼくらは息を飲んだ。

 意識のありようとは不思議なもので、目を凝らすと帷の降りたひそやかな夜のもと川はまるで眠っているみたいなのに、耳を澄ますと絶えずあたりを満たすざあざあという音が克明になってきて、たしかにこの水の群れが流れていること、それもかなり性急な勢いで、ということを思いださせた。

 家の窓から見える対岸とこちら側を結ぶ赤い欄干の橋は、道路の往来からは離れたところにあり、老朽化したしなびた雰囲気にくわえ夜は極端に街灯がすくないゆえ、近所では心霊スポット扱いされていた。その橋のなかほどに人影があるのを、美月とぼくは同時に認めた。

 岬だった。いつも着ているのとおなじゆるやかな、それも夏だからか晒の白いワンピースを暗闇にはためかせていたから、だれへともなく白旗をあげているように見えた。

 橋の下の川幅は三十メートルはあろうかという広さで、今年は初夏から雨量もかなりあったので水嵩はあきらかに増しているし、流れもかなり速い。子どもなら間違いなくあっというまに流れに飲まれてしまうだろう。

 岬は右手を欄干から川面に向けて突きだし、左手にはなにかを抱えていた。なるべく音を立てぬよう、ぼくらは彼女との距離を詰めた。ひさしぶりのコンクリートの感覚は妙に硬い。あと五メートルという距離まで近づいたところで、美月が声を発した。

「みぃちゃん、なにしてるの」

 とくに驚いたふうでもなく、岬がぼくらのほうを見やって、言った。
「撒いてるの。今夜、満月っぽかったから」

 はっとした。よく目を凝らすと、岬の左手におさまっているのは叔父の骨壷だった。自室の飾り棚からなくなっていたなんて、気づきもしなかった。しかし、散骨と満月の因果関係はまったくわからない。

 岬は儀式的な作法で散骨を終えると、骨壷を地面に置き、あくまで儀式の一環かのように、ついでに、というかんじで、胸の高さほどの赤い欄干を握ってふわりと、あたかも体操選手が鉄棒にのぼるように軽々とからだを持ちあげ、手すりに右脚をかけた。

 「あっ」というより「ばっ」という感じの声をあげて、美月が岬のほうに駆けだした。「ばか」と言いかけたのだろうか。あの痩せて骨張ったからだが、俊敏な鳥のように岬のほうへと迷いなく突き進んでいく姿は、頼もしくさえあった。岬は今度は躊躇なく左脚を橋にかけた。

 欄干はどうしてこんなにたやすく飛び越えられる高さに設計されたのだろうか。むしろ飛び越えられるように設計されているのではあるまいか。そして、飛び越えるほどの強い意思を持った人間にたいして、飛び越えることを暗に推奨しているのではないか。と、見当違いに橋の設計主を心から恨んだ。

 ぼくらが来るまえに岬は何度も試したんだろうか。だれも彼女の悲しみの証明を持たない。だからといって彼女が悲しんでいないとも証明できない。けど、オフィーリアを気取ったところで、成れの果ては土左衛門だ。岬は前方に体重を預けようとする。伸ばされた美月の手は彼女の胴体を押さえつけようとする。

 また失認だろうか。それとも、暗闇のなかの出来事だからだろうか。もつれ合いながら落下していくふたりのシルエットは、完全に溶け合ってひとつになっていた。その瞬間、ふたりはまた世界から切り取られてしまった。厄介なことに、その一瞬は永遠を内包していて、顛末がどちらに傾いたとしてもぼくを混乱させるに違いないのに、それでもあらゆる可能性をちらつかせ、どこまでも現在地から意識を逸らそうとした。

 ばしゃん、という水が弾ける音は遠い異国の物語のように他人行儀で、いかにも現実味に欠いていて、その音とともに沈んだふたりのからだは、巨大な黒い生き物のようにぬらぬらと蠢く川の水に下流へと押し流された。十メートルの高さから入水したときの衝撃は一トン。さすがに橋の高さは十メートルもなさそうだが、打ちどころが悪ければ怪我を負う。ぼくは川面を見下ろしながら、自分も引きずりおろされそうな気がして足がすくむのを必死に堪えた。

 なにより自分のしなければいけないことはしかるべき処置を受けるためにしかるべき場所に通報することだ、とようやく我に返って、ぼくは携帯電話をポケットから取りだそうとしたが、指先の震えが止まらず、勢いよくそれを落っことして地面に打ちつけ、指紋認証すらままならず、まったくうまく事を運べないことではじめて自分がひどく狼狽していると知った。心臓が波打ち、暑さのためではない汗が額を覆った。

 溺れる子どもを大人が下手に助けようとしないほうがいい、とどこかで聞いたのを思いだした。救助に向かった大人のほうが水に浮くことができず亡くなる場合が多いからだという。ぼくも、ふたりは助からないだろうと予感した。じつのところ、それはふたりがずっと切望していたことなのではないかとさえ訝しんでいた。

 だから、食べるようになって持ち直しつつあるとはいえいまだ小学生くらいの体重しかない美月が、突如ふたりぶんの生命力を発揮して、岬のからだをも抱き支えながら砂礫の積もった中州にしがみついたのは、きっと本人すら想像していなかった必死さを焚きつけられて、美月が美月を超えてしまったような偶然で、奇跡的というより超自然的なことのように思われた。

 
 手足の震えをなんとか抑えながら、ぼくは橋を駆け戻り、ふたりのもとへと向かった。進むたびバチ、バチ、と虫が顔に当たった。川辺には夏の陽射しを浴びてすくすく伸びた雑草が胸の高さをはるかに越えて跋扈し、それを手でかき分け足で踏みしだくようにして前進すると、ぬかるんだ地面に足を取られて再三転びかけた。

 草いきれと汚泥のにおいをはらんだ夜気を全身に受けながらやっとの思いで川岸までたどり着いたが、ふたりのいる中州はそれでもまだ何メートルも先だったので、おそるおそる川に足を片方ずつ沈め、下半身がすっぽり浸かった状態で、無遠慮にざあざあ流れる水の抵抗を受けながら慎重に歩を進めた。茶色い川の水が発する生臭さもすぐに自分のものになり、水を吸いあげて重たくなったシャツの胸ポケットに入れた携帯電話にいたっては、もはや諦めた。まったく、こんな日がくるとは思いもよらなかった。いつも窓から見える景色のなかにぼくら三人は闖入者として潜りこんだのだ。

 岬と美月。目を閉じると、角ばった文字の羅列がおおきくふくらんでぱちんと弾け、バラバラになって、組んず解れつを繰り返したのち、ひとつの長い線になった。糸のような一直線。目を開けると、その線が黒い川面の水平線と重なった。

 たどり着いた中州の地面に膝をつき、這うようにして距離をちぢめるにつれ、ふたりの声が聞き取れるようになってきた。蓋を開けるとおもむろに始まるオルゴールの音みたいに、秘めやかな声。……ねえ、みぃちゃん。そんな簡単にひとは死ねないよ。わたし、みぃちゃんがどうしたいのか、わからない。そうかな、わたしはみぃちゃんのことがわからないよ。わたし? みぃちゃんはさ、生きたくて生きたくてたまらないんだね。そう見えるの? うん、そう見える、食べないことを拠り所にしてる。いつもだれかから、ちゃんと生きなさいって言われるのを待ってる。そんなこと、ないよ。そう? でもね、そんなふうに言うひとは、だれかにそう言うことで自分はちゃんと生きてるって思いたいだけなんだよ。会話は霧のようにぼやけていた。そう聞こえているだけで、ほんとうに耳が聞いていることばなのか判然としなかった。

 相手の眼差しをまっすぐに受け止めながら、岬はその目でどの時代の美月を見つめていたのか。ミルクティーのマグカップを手渡した瞬間の茫洋とした表情。合唱部の後輩にブレスのコツを教える真剣な眼差し。美月は美月で、岬から目を逸らさなかった。スクリーン越しにイグアスの滝の飛沫を浴びた横顔。成人式だからと過度に彩られた唇や睫毛。降り落ちてくる雹の玉を仰ぎ見る瞳。ふたりの意識は縦横無尽に遡行し、交差した。目線も重なった。重層的な追憶の彼方にかすかな光源を見出したかのように、岬は思い出の断片を掬いあげようとしていた。

 不老不死よりこわいものってないよ。ほんとうはあの雹が降った日、世界ごと終わったらよかったのにって思うことがある。わたしたちは子どもで、なにも知らなくて、それでいて幸せだったから。家族と友達みんないっしょに終わっちゃえばよかったんだって。よかっ、た、ん、だって、最後のことばの切れ端が反響し、夜に滲んで溶けてゆこうとした。その尻尾を追いかけるように美月の声がつづいた。始めたくて始めたことじゃないんだから、いつだってやめちゃいたいとつづけたいの半々だよ。糸でつなぎ止めてるの。ほそい糸で。きっと、わたしたち、みんなそう。なにを? つづけたいって気持ちのほうを。だって、そうでしょ? だれだって、なにかを失くしてなにかを得る、その繰り返しでしょう? 失認はことさらひどく、ふたりの顔も、からだも、声も、溶けて混ざり合って、もはやどちらのことばかさえ見失いかけていた。川の水は流れていた。流れつづけていた。こんなにもぼくらは止まっているのに、水が流れつづけているなんて、ちょっとおかしい、と思った。

 無性に、泣きたくなった。それを自分に許してしまえばきっと咆哮していた。けれど、なんの感情がそんな作用を生んでいるのかはいまひとつわからなかった。感性の、いちばん敏感なむき出しの部分を素手で撫でつけられるような、みぞおちの奥の奥がぎゅうっとなる、怒りや悲しみに昇華しきれないなにかが去来した。

 どうしてぼくらは与えられたものを粗末にするんだろう。まっとうに扱うことができないんだろう。始めたくて始めたわけじゃないから? けど、そもそも、つづけなくてはいけない理由とは? 立ちはだかることばの意味は水溶性だ。すぐに溶けて、忘れ去られてゆく。きっと、ほかのだれかのまっとうさを引き継いだところで、ぼくらの心がまっとうになることはない。だから、やっぱり、泣くのはちょっと違った。

 ふたりは向かい合って、口をつぐんだ。やはり、泣くのでも、笑うのでもなく、ただ、互いを見つめていた。

 糸が、ぼくにも見える気がした。意志とかたましいとか、ひとがなんと呼ぶかはわからないが、おそらくぼくらがこれからさき遺伝子情報を乗せたべつの生命体を介してその糸を紡いでゆくことはないから、ぼくらは自分自身の穢れを剥ぎ取って生まれ直すように、糸を水のなかで紡いでゆく、水に揉まれ、押し流されそうになるのを必死に手繰り寄せ、紡いでも紡いでもじゅうぶんになることのない糸を、丹念に、ときおり鬱々とした気分で、からだをすり抜けていった顔やことばを水底に見送りながら、たとえ心許ない手つきでも、紡いでゆくしかない。

 いつか両手に宿ったやわらかな感触を思いだした。すでに記憶の摩耗によって顔を失った母親たちの、お腹のことを。あのころ、ぼくは彼女たちのからだのなかの水を感じていたのだと、いまさら気がついた。

 赤い橋のほうから「おーい」という、未来からの不可解な伝言みたいにぼんやりとした声が聞こえてきて、黒い影がぼくらに向かっておおきく手を振ってきた。加山のおじさんだった。

 水はいま眼前にあった。ふたりがもし、いっしょに流れてしまおうと思えば、たやすく叶う距離にあった。いや、ことによると、ふたりは一度流されてしまったのかもしれない。目のまえにいる彼女たちが一時間まえの彼女たちと同一人物であるとは立証のしようもなく、ふたりの糸は流されて、ぐちゃぐちゃにほどけ、互いに絡まり合い取りこみ合って、そうやって、ますます境目は曖昧になり、ぼくらは他人のまま互いの結界になってゆくのではないか。

「もう、行こう。家に帰ろう」

 同時にふたりはこちらを向いた。

 ずぶ濡れの洋服と冷えきった肌がその場でただ朝を待つことを許さなかった。川はあいかわらず流れていた。なにごともなかったように、縷々として流れつづけていた。この水がはたして地球の裏側にあるイグアスの滝までつながっているかどうかはわからないけれど、ぼくらはたしかにこの川を知っている。絶え間なく立つ波の行方を捉えることはできないから、せめて川面にゆらゆらと反射した月の光のかたちを結晶化してとどめておきたい、と切に願いながら、ぼくは立ちあがった。

 
(了)


【著者プロフィール】
春野 菜魚(はるの・なお)
1980年生まれ。群馬県在住。

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