【第6回ことばと新人賞最終候補作】那須湧紀「光学的逆行再現」
光学的逆行再現
那須湧紀
ハイスコアをもう少しで超えられそうだったがゲームオーバーになってしまい、やる気が失せてアプリのゲームを閉じる。スマートフォンの重みにまかせてベッドに手をだらんと落とす。体は起こさないまま頭だけを回し、小さなテレビの左右に設置されているカメラを見る。右側の小型カメラは部屋全体を捉え、左側の小型カメラは玄関の方を向いている。どちらも赤いランプが灯っている。床を這い電源プラグへとつながっているカメラのコードにはまた埃が溜まっていた。一週間前に掃除をしたばかりだというのに。
面倒に思いながらもベッドから降り、毛羽立っている埃取りでコードや小型カメラのレンズを拭く。終わったらシャワーを浴びて寝ようかと考えていたけれど他の部分も気になり出して、テーブルに置きっぱなしにしていたビールの空き缶を片づける。ついでに台所のシンクで水を浸けたままにしていた食器を洗う。フローリングの床に落ちていた髪の毛をつまんでごみ箱へと捨てる。そのままの流れでクローゼットの中のシャツやらジャケットやらを整頓する。
こんな意欲が湧いたのは撮られているからだろうか。撮られていなかったら部屋の掃除をしようと思い立っただろうか。見られている実感を抱いていなかった一カ月前なら部屋の中が散らかっていたり汚くなっていたりしていても気にせず、暇なときにすればいいや、と自己完結していたかもしれない。自然と湧いた意欲と思っていたが、実体のない他者を感じているからこそ湧いた誘発的な意欲なのではないか。クローゼットを閉じ、シャワーを浴びているあいだも頭の中で疑念をほぐしていたが、狭い浴室を出ても答えは出なかった。
寝間着代わりの半袖短パンに着替え、ノートパソコンを手にベッドへ寝転がる。枕の上に置いたノートパソコンがWi-fiに接続しているかたしかめ、小型カメラのアプリを起動する。四分割された画面の右上には真っ暗な玄関が映っている。残り三つの画面は部屋の様子がしっかり映っていた。テーブルにノートパソコンと授業のレジュメを置いてレポートに取り組んでいる穂香の姿を正面から、右下から、左上から捉えている。音声をオンにしてみたものの、聞こえたのは室内の空気が冷房によって循環している音だけだった。床にはいくつものコードや倒れたままの三脚がある。三日前と変わりない。俺と違い穂香は掃除する気が起こらないみたいだ。
穂香を右下から捉えている小型カメラのコントローラーをクリックし、カメラをゆっくり動かす。真っ暗な玄関にはサンダルや平たいパンプスが雑多に並んでいる。ビニール傘は下足入れの取っ手にぶら下がったままだ。短い廊下には段ボール箱が山積みになっているが、三日前に見たときよりも数が増えているようだった。
玄関を映している画面に焦点を預けていると画面が突如大きく揺れ出し、俺はノートパソコンから離れた。オンにしていたスピーカーから小型カメラを摑む音が聞こえる。サンダルやビニール傘は輪郭を失い、単なる色彩の乱れへと化した。
揺れが収まった画面には穂香が映っていた。元の位置に戻した小型カメラ越しにこちらを見ている。眉間にしわを寄せている穂香は左を指差した。俺は指示に従い小型カメラを動かし、画角を定位置に戻した。スマートフォンが鳴って電話に出ると、
「勝手に動かさない約束でしたよね?」
と穂香の厳しい声が早速飛んできた。ノートパソコンの画面を見ると、三段ボックスの上に置かれている小型カメラ越しに俺を睨んでいた。
「ごめん。カメラがちゃんと動くのか、一応たしかめてた」
「言い訳してもダメです。約束はちゃんと守ってください。私は勝手に動かしたことありません。最初に設置した位置から、一ミリも。こっちにあるカメラだってそうです。和人さんならわかってますよね?」
穂香の口調は保育士がガキ大将の園児へ注意するときのようだった。けれど穂香の言う通り、約束を破った俺に非がある。「わかったよ、ごめん。もうしないから」と平謝りすると、穂香は眼差しに嫌疑を込めながらも眉間のしわを消した。
「あ、ちょうどいいや。次のデータ交換のことなんだけど」
穂香はみずからのノートパソコンに面し、レポートにふたたび取り組み始めていた。テーブルの上に置いたスマートフォンのスピーカーをオンにしたらしい。
「金曜の三限のときって決めてたろ? 悪いけど四限でいい?」
「都合悪いんですか?」
「先輩にバスケ誘われて。練習相手足りないから来いってさ」
「要するに断れなかったんですね」
「ああ。穂香は四限もないんだろ? もし大丈夫だったら俺四限サボるから、どう?」
「わかりました。その代わりデータは忘れないでください。せっかく集まったのにそれがなかったら意味ないですので」
承諾してくれた穂香へ感謝を告げると、穂香は正面の小型カメラに向かって手を挙げた。俺は枕元に設置されている小型カメラへ手を振った。ノートパソコンの電源を切ると、隣の部屋に住んでいる人の話し声がかすかに聞こえた。
裕哉先輩は軽快かつ浮遊しているような足さばきで一年の後輩をかわし、やわらかなジャンプとともにボールを放った。ボールは放物線を描いてリングに吸い込まれた。スリーポイントシュートが決まった瞬間、応援に来ていた先輩の友人である女子たちがおぉーと感嘆の声を漏らした。どの子も先輩を見てほほえんでいた。そこに下心なんてないことはわかっているが、この中に先輩をひそかに狙っている子がいるとして、少しでも自分に注目してもらいたくて他の女子よりほんのちょっと可愛らしく見えるような笑顔をしている可能性は否定できない。
けれど先輩には彼女がいる。同じ教育学部の三年生で、付き合って一年は経ったらしい。先輩と飲みに行ったとき、頼んでもいないのに彼女の写真を見せられたことがある。異様に目の大きいハツカネズミみたいな顔だった。酔った先輩の口から語られる彼女との思い出話は、大学にやってくる小中学校の校長やら優秀な教員やらの講話よりも退屈だった。それでも最後まで話に付き合うのは飲み代を奢ってもらえるからで、もしそれがなかったら先輩との飲み会に参加する理由はなかった。
「マジ速いっすね裕哉さん! 本当に手加減してんすかぁ?」
「してっから。お前らが遅いんだっつうの。もっと本気で来いって」
味方チームの理雄の称賛に先輩は汗まみれの顔を緩ませている。後輩を煽る声はいつにも増して大きい。鼓膜がびりびり震えるくらいだから耳にしたくない。できれば離れていたいし、もし同じ教育学部の心理学科でなければ知り合いたくもない人間だ。
国語科と体育科の面々で結成された敵チームの挙動をうかがっていると、「和人ディフェンス!」と背後から先輩が吠えた。俺は先輩の機嫌を損ねないよう「はい!」と威勢よく返事をし、ボールを持っている敵チームの男の前に立ちはだかった。男の身長は俺よりも十センチは高い。首や腕には筋肉の隆起が見える。フェイントをかまされたもののなんとか食らいつき、味方に送ったパスをまた受け取る瞬間を狙ってボールをカットする。ボールを取った理雄へ先輩は「速攻速攻!」と煽り、激しい手招きでパスを求めた。理雄からボールを受け取った先輩はドリブルで侵攻し、今日何度見たかわからないシュートを放った。ネットがまた乾いた音を立てた。女子たちが騒いだ。俺の横を颯爽と走り抜けて守りに入った先輩の、甘ったるい制汗剤の匂いが鼻を突いた。
それからも先輩はシュートを何本も決め、俺を含めた後輩たちを煽った。幸いなことに試合中は機嫌がよかった。小体育館の壁にもたれながら半袖のジャージの袖で汗を拭っていると先輩がやってきて、俺と理雄の足元に清涼飲料水のペットボトルを置いた。
「おつかれ。二人ともこの前よりうまくなったんじゃね?」
先輩は高校で所属していたバスケ部のタオルを肩にかけ、俺らを見下ろしながらキツネ目をさらに細めた。
「ありがとうございます。でも裕哉さんみたいにうまくはできねえっすわ」
「いやいや、理雄はバスケしてなかったにしてはうまい方だと思うぞ? 中学んとき陸上やってたんだろ?」
「そうっす。長距離してました」
「あー、だからか。結構動いてんのに全然バテねえじゃんって思ってたんだ」
「でも俺には裕哉さんみたいなテクニックないですから。体力だけっすよ自慢できんの。裕哉さんはどっちもあるじゃないっすか。そのテクニック俺に分けてくれません?」
理雄の調子のいいおべっかに「何言ってんだよ」と返しつつも、先輩は口角を上げていた。後輩に慕われている実感に自尊心がくすぐられている先輩の姿はいつ見ても滑稽だ。表面上の言葉にいちいち喜び、自分がどれだけ単純な生き物かを露わにしているみたいだ。俺や理雄をバスケに誘うのも、後輩から褒められたい一心からだろう。本気でバスケにのめり込んでいるならサークルに入っているはずだ。でも先輩はどこにも所属していない。知り合いや後輩に声をかけては小体育館でバスケをし、自分の活躍を見せつけているだけだ。
「和人は部活何やってったっけ? 柔道?」
「いえ、剣道です。中高とやってました」
「へー、意外だな。和人っぽくねえな。つうか剣道やってたようには全然見えねえ」
軽やかに笑う先輩を見上げながら、先輩が持っていた和人らしさとは何かを考えてみる。先輩の目に映っている俺を。剣道をやってたように見える振る舞いとは何かを。先輩の話へ適当に相槌を打っていても、頭の中をめぐる疑問の答えは一向に出てこない。理雄と小体育館を出るまで考えたものの、先輩が言う和人らしさは何も思いつかなかった。
教育学部棟は去年改築されたばかりなのに壁面の汚れが目につく。白い斑模様の空の隙間から差している日差しは容赦なく、汗ばんだ体の熱の放出を阻んでいる。理雄に誘われるがまま俺は教育学部棟の裏に回り、中庭の端にある喫煙所へと入った。屋根つきの喫煙所には中央に灰皿があり、その周りに群がれるよう木製の囲いが施されている。そこに背中を預けた理雄はバッグから電子たばこを取り出し、小指ほどの大きさの白いスティックを楕円形の機器に挿し込んだ。
「長距離やってたのに、もったいないと思わねえか?」俺は理雄の対面に立って紙巻きたばこに火を点けた。「県大会まで行ったことあるんだろ? せっかくの体力落ちちゃうんじゃねえの?」
「いいんだよ別に。そんなの中学のときの話だから」
機器を持った手を口元にあて、理雄は煙を悠然と吐き出した。理雄の吐息は直接鼻をかすめた。紙巻たばことは違う、人工的な香ばしさを丸めて凝縮させたような匂いに思わず表情がこわばる。とはいえ俺が吸っている紙巻きたばこの匂いもひどいだろうから、嫌悪感は内心に留めておく。
「高校入ってから陸上全然やってねえし、これからもやる気ねえから。陸上よりも彼女だよ彼女。来週の火曜の合コンに賭けてんだ」
「どこの子とやるんだっけ?」
「駅南にある看護大の子。もし誰ともいい感じにならなかったらお前んとこで反省会な」
「いや、期待してんならそんなこと考えんなよ。反省会なんてしないって決めて、女の子と二人きりで抜け出すための方法考えろって」
「あっ、そうだったな。ついダメだったときのこと考えちゃうんだよなー俺。前の合コンときもそうだったわ。反省会するって決めてたから、最初から諦めモードで女の子と話してたんだよな」
それから理雄は前の合コンの出来事を話し出した。来てくれた女の子たちは可愛かったけど誰もタイプじゃなかったこと。体調が優れなくてお酒の酔いが気分を悪くする方へいってしまったこと。気丈に振る舞ってはいたが反省混じりの口調が気になり、俺は話を聞きながら理雄を励ました。こんなところで次の合コンへの意気込みがなくなってしまったら、理雄はまた俺のアパートで反省会をする予定を考え出してしまう。自分を卑下してしまう癖がある理雄は適当に褒めても口先だけと悟ってしまうから、あのときのこういうところは見習おうと思った、あの先輩が理雄のことこう言ってたなどと工夫しなくてはならない。理雄自身が先輩たちをよく立てているから、褒め言葉が本心から出たものなのかおべっかなのかを判断する能力は人並み以上に高く、直接伝えても意味を成さないことが多い。だから誰かを介して褒めることで調子づかせなければいけないのが難儀なのだが、俺のアパートに来られたときの苦労と比較すれば、今のうちに手を煩わせた方が効率的だった。
理雄を含め、心理学科の同級生たちを部屋に招き入れたことはない。大学からは駅を挟んで南側にあり遠いこともそうなのだが、一番の原因は小型カメラをいくつも設置しているからだ。穂香と撮り合っていることは誰にも教えていない。まして穂香の存在すら知らせていなかった。教えれば、どんな反応をするのかは目に見える。苦笑いを浮かべ、俺を異常な性癖を持っているやつだと認識するに違いない。もしくは話のネタにされかねない。だから誰かに教えようとも思わなかったし、これからも教える気はさらさらない。知らない女と撮り合っていることを異質な行為として、それを受け入れている俺を変わった人間として認識されるのは、大学生活を棒に振るようなものだ。
電子たばこのスティックを灰皿に捨てた理雄へ、四限をサボることを伝える。反省会をする気などすっかりなくなったらしい理雄は快く応じてくれた。先に喫煙所を出た理雄の背中を見届けながら俺は紙巻きたばこを吸った。理雄が吐いた煙と違い、俺の口から出た煙は濁った水色をしていた。
大学から離れて県道沿いの歩道を西へ歩き、コンビニの手前で小道に入る。古びた家屋を囲うブロック塀に挟まれた道を曲がると小さな看板が見えた。振り返って背後に注意を払う。知り合いどころか人影すら見当たらない。誰かがついてきているとは思っていなかったが、知り合いが偶然通りかかっている懸念は捨て切れなかった。
喫茶店に入ると、薄暗い店内の角にあるソファに穂香はいた。テーブルには折り畳まれたノートパソコンとコーヒーカップ、いちごが乗ったショートケーキが置かれている。穂香は俺に気づいていない。分厚い哲学書を読んでいる。周囲にいる他の客たち――たばこを吹かしている男性の老人や井戸端会議に花を咲かせている中年の女性数人のことは視界に入っていないみたいだ。
先月のゴールデンウィーク明けからこうして会っているとはいえ、穂香と馬が合う兆しは一向に見えない。いや、そんな兆しが訪れることはこの先ないのだろう。今の関係を始めるときからそうだった。穂香は何を考えているかわからない。自分の目的のためだったら金も自分の身も惜しまないようなやつだ。
大学二年生だった去年は飲み会や合コンやアルバイトに時間を費やし、講義への出席やレポートの提出が疎かになり単位が思ったように取れなかった。後輩に混じって講義を受ける状況は我慢できたものの、外食ばかりだった食事を自炊に切り替えたり冷蔵庫にお酒のストックを入れられなくなったり、金銭的に余裕がない生活には耐えられなかった。三年生に進級する前には飲み会や合コンへ気軽に行けなくなり、お酒を片手に女の子と話したい鬱憤を募らせていた。居酒屋のアルバイトは遅刻が重なってクビになってしまったから収入はなくなり、貯金を切り崩しながら質素な生活をする羽目になっていた。
三年生になり、俺は出席と最低限のレポートさえこなしておけば単位が取れると理雄から聞いていた講義を受けることにした。そこでレポートを共同で制作することになり、一緒になったのが穂香だった。大学図書館の中にあるワークルームでレポートの内容を相談しているときも感じていたが、穂香には陰気くさいオーラがあった。傷んだ長い髪と黒ぶち眼鏡で容姿は見えず、真夜中の廃墟に現れる幽霊にも似た、接触してはいけないと本能が訴えてくるようだった。この世のあらゆる不幸に包まれているような人間のそばにいたら、俺も不幸を背負いそうな気がしてならなかった。
相談が進むにつれて穂香はだんだん饒舌になった。敬語を交えながらも言葉に説得力を持たせ、こちらが否定をすれば怠惰を認めてしまうような論理を立てるようになったのだった。俺の意見を踏まえつつ互いに納得できるテーマとスケジュール、各章の分担さえ決めたのだった。
「このカメラ、和人さんの部屋に設置してください」
「はっ?」
穂香から思いもよらない提案をされたのは相談が終わってからだった。リュックサックから据え置き型の小型カメラが現れたときから違和感を覚えていたが、提案を耳にした途端驚きを隠せなくなっていた。一方の穂香は真剣な顔を保っていた。聞き間違えたんじゃないかとみずからを疑っている俺のリアクションなど気にしていなかった。
「もちろん和人さんだけが設置するわけじゃありません。私も設置します。お互いに相手の部屋が見える環境じゃなきゃイーブンじゃないですし」
そう言って穂香はほほえんだ。初めて見た穂香の笑顔は陰気くささも相まって、下手なホラー映画の幽霊よりもおぞましく見えた。
「いや、ちょっと待て、イーブンかどうかが問題じゃなくて……」
「あ、設置の仕方わかりませんか? 大丈夫です。私が和人さんの部屋の分も設置しますし機材も通信環境も揃えますので。それと報酬もお渡しします。毎週三万、直接お渡ししますけどどうですか?」
いったい俺がいつ頼みを受け入れたと思ったのか、穂香は整然と話を進めている。とはいえ話していることは冗談ではなく、リュックサックから分厚い長財布を取り出して万札を三枚引き抜く手つきに躊躇は見当たらなかった。
「毎週金曜日、お互いに撮影した映像を持ってきましょう」そう言って穂香は三万円をちらつかせた。「場所は他の学生が寄りつかないようなところにします。そこで私のパソコンでお互いの映像をチェックして、一人きりでいるときの自分の姿を客観的にチェックするんです。画角のミスとか撮影時のトラブルがあったら週末に対策しましょう。撮影中の約束も決めておきましょうか。カメラの位置は勝手に動かさないこと、相手の部屋に設置したカメラは操作しないこと、撮影した映像は誰にも見せないこと、カメラの電源は切らないこと、くらいですね。それだけ守ってください。あとは映像をちゃんと持ってきてくれたらその場で代金をお渡しします。もし承諾してくださるのならこの契約金お渡ししますけどどうですか?」
穂香の言い方から察するに、最初からお金を渡すつもりだったのだろう。そんな下衆な企てに乗っかるほど俺は甘くないと内心で憤りながらも、揺れる万札から目を離せなくなっていた。協力すればこれが手に入る。アルバイトを探さなくてもいい。カメラを部屋に設置しておくだけで毎週三万もらえる。断ったら、今の質素な生活が続く。飲み会や合コンに参加できなくなるのは目に見える。タバコも減らさなくてはならないかもしれない。前の生活の幸福感を知った以上、今の生活をこれから先も続けるのは苦痛でしかなかった。
そして揺れていた三万円を受け取って以来、俺は穂香と喫茶店で待ち合わせてはデータを交換するようになった。理雄を含めた同級生や先輩たちに見られてはいないかという不安は未だに拭えずにいるものの、店内に入れば警戒心が解けるまでにはなった。俺は店主の妻である老け顔の女性の店員にブラックコーヒーの注文を伝え、穂香の対面にある椅子へ座った。穂香は俺に気づくと分厚い哲学書を閉じ、ソファに置いていたバッグへとしまった。
「データ持ってきたぞ。ちゃんと」
隣の椅子に置いたバッグからmicroSDカードを取り出し、穂香の手前へと滑らせる。老け顔の女性の店員が運んできたブラックコーヒーに口をつける。ここのコーヒーは香りがいい。コンビニやインスタントのコーヒーしか飲んだことはないが、白髪の店主が焙煎した豆の香りは他とは違うとはっきりわかる。カップの持ち手をつまんで上質な苦味を味わっていると、
「先に言うことあるんじゃないんですか?」
と穂香が話しかけてきた。仏頂面を上げ、鋭い目線を俺に送っていた。手元のmicroSDカードには目もくれずに。
「はっ? 忘れずに持ってきたじゃん? それじゃなかったらなんだよ?」
そう返した途端に呆れた顔をした穂香はノートパソコンを開いた。自動で起動したパソコンの画面には大きく〈15:05〉と表示されている。
「遅刻です。約束は十五時と決めましたよね?」
「いいだろ五分くらい。そんなの遅れたことに入んねえって」
軽く受け流したつもりだったが穂香は怒りを鎮めてくれなくて、分厚い哲学書で俺の額を突いた。平面ではなく縦に、それも咄嗟にかわすことのできない速度で。ハードカバーの哲学書の威力は強烈だった。俺はぎゅっと目を閉じ、額が痺れるような痛みに苦悶した。
「こういうところからボロが出るんですよ」と注意を続けた穂香は少しも俺を心配していない。「いいですか? 私たちがやっていることは誰にも知られてはいけないんです。こっちから教えないことは当然ですが、相手に悟られることも許されないんです。それには細心の注意を毎日払う必要があるんです。朝昼晩、平日も休日も、授業中だろうが遊んでいようが飲み会に参加していようが関係ありません。他の人にバレないよう、誠心誠意取り組まなきゃいけないんです」
「わかった、わかったよ。次からは遅刻しねえから」
「なのに和人さんは約束の時間を破るどころか悪いとも思ってなかったじゃないですか。和人さんにとっては遅刻なんて些細なことかもしれません。ですが私たちにとっては重大な過失なんです。私たちがやっていることは適当にこなせるものじゃないんです。信頼関係を前提にした相互観察なんです。相手に迷惑をかけたり不安を与えたりしてしまうようなことは決してあってはならないんです」
「ああ。そうだったな。ホントすまない。申し訳ない」
穂香の長ったらしい説教にうんざりし、テーブルに額をくっつける。まだ痛みは引いていなかったが、今は穂香を落ち着かせなくてはならない。ぼやけたテーブルの木目から穂香の顔へと目線を上げ、「今日は俺が奢るから」と提案する。不服そうではあったが穂香は納得したようで、目を眇めたままコーヒーを啜った。
「ほら、持ってきたデータ早く確認してくれよ」俺は平身低頭に促した。「死角があったって先週言ってたろ? 位置が合ってるか確認しなきゃだし、四台分の映像見るのは時間かかるんじゃねえの?」
「そうですね。和人さんの方から見ますか」
まだしかめっ面を崩していない穂香は俺が持ってきたmicroSDカードをようやく手に取り、ノートパソコンに挿し込んだ。俺はバッグから取り出したコードレスのイヤホンを耳につけた。ノートパソコンへ接続したアナウンスが聞こえ、音量を調節する。穂香はすでにイヤホンをつけていた。ノートパソコンの画面には曜日ごとの映像のサムネイルが表示されている。先週の金曜の夜から一時間前までの映像まで、十数本ものサムネイルにはすべて俺が映っている。穂香は深爪の人差し指でマウスを動かし、土曜日の映像をクリックした。
画面の左上には〈2024/07/12/23:26〉と時刻が表示されている。画面の向こうにいる一週間前の俺は挙動がいちいち大振りだ。冷蔵庫の扉を開け、二リットルのペットボトルを取り出すだけなのに十数秒はかかっていた。
「あのあと飲み会だったんでしたっけ?」
「そうそう。先輩に誘われて友達と行ってきたんだ。また先輩が彼女の話をしてきたんだけど、この日は本当に苦痛で。飲まなきゃ聞いてらんなかったんだよ」
そのときの自分の姿を見ながら話す状況に違和感はまだあるものの、恥じらいや不愉快な気持ちはなかった。初めて映像をチェックしたときは自分の醜い姿に心底ゾッとした。普段耳にしているものとは異なる自分の声色、姿勢の悪さ、スマートフォンをいじっているときのだらしない無表情、体を掻いたり鼻をほじったりしているときの馬鹿面……。いかなる日の俺も想像していた以上に愚かで怠慢な姿を晒していた。それらの瞬間に俺はいちいち目を覆いたくなり、体中が熱くなるほどの恥ずかしさを抱いていたのだった。
けれど穂香はじっと見つめていた。前回データをチェックした先週の金曜日から今日の直前までの俺の映像を見終わり、みずからの映像に切り替えても目を逸らすことはしなかった。自身の醜態を冷静に観察していた。シャワーを浴びて濡れた裸体をタオルで拭いている姿も、すっぴんで大きな欠伸をしている姿も、俺に見られているというのに冷や汗もかかず眺めている。コーヒーにはほとんど口をつけていない。今週の火曜日、ベッドに寝転がってモネの画集を眺めている自分が前髪を人差し指でこねくり回している姿を見ても、恥ずかしく思わないのだろうか。
ノートパソコンの右端にある時刻を見ると、喫茶店に入ってからすでに二時間が経過していた。外出しているとき以外は回していた四台の小型カメラの映像は一週間分ある。映像は飛ばしながら見てはいるが、それでも一人の映像をすべてチェックするのに最低一時間はかかってしまう。ただしそれは三台の小型カメラの映像をチェックしていた先週までだ。四台分の映像が二人となると、一人につき最低一時間半はかかるようだ。
穂香の水曜日分――おとといまでの映像のチェックが終わり、俺は老け顔の女性の店員へコーヒーのおかわりを注文した。穂香はバニラアイスを注文した。それぞれの物がテーブルにやってきたところで穂香は前のめりになり、
「和人さん、もしかしたらですけど」
と訝しげな顔を近づけてきた。
「なんだよ」
「まだカメラがあるってこと意識してます?」
「いや、意識してねえけど」俺は舌が焼けそうなほど熱いコーヒーを慎重に啜った。「ゴールデンウィーク明けから始めて一カ月以上経ってんだぞ? 先週から一台増えたとはいえ、もう慣れたって」
「そうですか」
「そうだよ。最初に提案されたときはびっくりしたし、そんなの意識しないわけにいかないだろって思ってたけどさ、今はカメラがあって当たり前になってんだ。部屋に溶け込んでんだよ、カメラが。見られてる感覚なんてねえし、たまにそういう感覚になっても嫌にはなってねえから。穂香もそうだろ? 誰かに見られてる感覚ねえだろ?」
「そうですね。和人さんに見られてるからといって、それが恐怖や嫌悪につながってはいません」
穂香は最初に頼んでいたショートケーキのいちごを食べ、空になった皿をテーブルの隅へと移した。ショートケーキの上に乗っているいちごを最後に食べるのが穂香のルールらしい。俺は山を切り崩すように食べ進め、いちごが乗っている部分に差しかかったら気にせず口の中へ入れる。穂香のように、てっぺんのいちごを大事に残しておくことはしない。
「誰かに見られてるかもしれないって意識は、和人さんが言ったように、カメラが日常生活に溶け込んだら消えるものだと思ってましたから。店や街中のいたるところに防犯カメラはありますけど、誰も気にしてなんかいませんよね。それはカメラがあって当たり前だと思うようになったからで、見られてる感覚を誰も持たなくなったからなんです。まあ犯罪者は例外ですけど」
「そうだな。防犯カメラ気にするやつって犯罪者以外じゃ滅多にいねえよな」
「とにかく、カメラが外出先にあろうと部屋の中にあろうと、誰かに見られてるって感覚はいずれなくなるものなんです」
と言って穂香はカップに残っていたコーヒーを飲み干した。それから薄い唇の端に付着した褐色の水滴を人差し指の腹で拭った。
「でもさっきの映像の和人さんはカメラを気にしてるようでした」
「そうだったか? どこを見て思ったんだよ?」
俺を見つめる穂香の目は真剣だった。可愛いか綺麗か、どちらかと言えば可愛い顔立ちをしている穂香に見つめられるのは嫌じゃない。レポートの予定を相談していた先々月からは身なりも整い、髪には艶が生まれ、知的な印象さえ感じられるくらいには変貌した。とはいえカメラがある生活に慣れたと言ったのにそうじゃないと決めつけられるのは心外だった。
「和人さんが掃除をしてたところです」
「それのどこが気になったんだよ?」
「普段の和人さんっぽくなかったんです。面倒くさそうにしてるところはいつもの和人さんでしたけど、掃除が進んでからはカメラを気にしてるようでした。妙に真面目に取り組んでるっていうか、先生がやってきたときだけいい子ぶってる小学生みたいでした」
「そんなふうには見えなかったけど……あれじゃねえか? カメラが増えたから、どこにあるか気にしてただけなんじゃね?」
「いいえ。だったら増えた一台だけに目線を送っているはずです」穂香ははっきりとした口調で続けた。「でも和人さんは全部のカメラに目線を送ってました。それも気づかれないよう、一瞬だけうかがう感じで」
「そんなつもりなかったけど、そうだったのか?」
「はい。だから和人さんは、やっぱりまだカメラを気にしてるってことなんですよ」
穂香はそう言うと真剣な顔をさらに近づけた。揺れた髪からだろうか、かすかに甘い匂いが鼻をくすぐった。穂香の目は瞳の奥まで澄んでいて、俺の戸惑っている表情が反射しそうだった。
「和人さんは本当に素の自分でいるんですか? 唯一素の自分でいられるはずの、一人きりの部屋の中でも何かを演じてるように見えます。それを自覚してないってことは、見られてるって意識を気づかないうちに持ってるってことだと思うんです。このままじゃ私たちがやってることの意味がありません。なんのために部屋にカメラを設置して、お互いに撮り合ってるのかわかりませんよ」
一つ年下である穂香の論理に何も言い返せず、カップの中で揺らめいている漆黒の水面へと目線を落とす。穂香の言う通り、一人きりでいる部屋の中で素の自分でいなければ撮り合っている意味がない。最初に約束したときに決めたことだ。カメラの位置を動かさないこと、相手の部屋に設置したカメラを操作しないこと、撮影した映像は誰にも見せないこと――勝手に録画を切らないことよりも大事なルールだった。
カメラがある生活に慣れたから、カメラがない生活と同じ自分でいると思っていた。少なくとも撮られている意識はしなくなっていた。けれど穂香の目にはまだ撮影に慣れていないように見えたらしい。素の自分ではなく、撮られている意識があるから演じていると。自覚がないにせよ、一人でいるときの俺ではないと。
「でもどうすりゃいいんだよ? 素の自分でいるつもりなのにそう見えないって言われても、他にどうすることもできねえし」
「それは和人さん自身でどうにかしてください」穂香は綺麗に磨かれた銀のスプーンでバニラアイスを掬った。「誰かに見られてる感覚は潜在意識の問題なので、私どころか、和人さん本人でも解決策が見つからないのは当然です。だから和人さん自身で見つけないといけないんです。素の自分がいったいどういうものなのか。どんな環境なら素でいられるのか」
なるほど穂香の言うことには一理あると思いはしたが、解決への糸口が摑めたわけではなかった。穂香が言う素の自分とはなんだ? カメラを気にして演じているように見えない、俺の素の振る舞いとはどんなものだろう?
「これ、今週分です。来週は遅刻しないでください。もちろんデータ持ってくるのは忘れずに」
穂香は冷淡に指摘すると分厚い財布から三万円を引き抜き、俺の手元へと滑らせた。それからスプーンを口の中へ運び、バニラアイスを優雅に味わった。カップの中で揺らめいている漆黒の水面を見下ろすと俺の顔がおぼろげに反射していた。一口啜ると、生温かくてきつい苦味が舌に広がった。
店内は座敷やテーブル席で喋っている客たちの声が不可視な靄のように満ちている。合コンが始まってビールを三杯飲んだためか足取りは若干ふらついていて、トイレに入る間際にすれ違った男性客から迷惑そうな目を向けられた。男子トイレの小便器に立ち、ズボンのチャックを下ろして下腹部の筋肉を緩める。小便器に排出された尿の弾ける音がやけに耳についた。
駅の南側にある居酒屋へ俺と理雄は先に入り、理雄の友人が女性陣を連れてきて合コンは始まった。男性陣はビールを、理雄の友人伝いで誘われた看護大の女性陣三人はそれぞれ好きな飲み物を頼んだ。簡単な自己紹介を済ませると会話の主導権を理雄が握った。好きなタイプや理想のデートプラン、最近出かけた観光地などの話題で場はすっかり盛り上がった。タイプの女性がいたのだろう、理雄のお酒の減りは早かった。沈黙が訪れないよう女性陣を笑わせたり話を振ったりと忙しなく動いていた。
会話の輪に混ざりながらも、俺は穂香に言われたことを考えていた。素の自分がいったいどういうものなのか未だにわからず、そもそも素の自分なんてものは存在しないのではないかと思い始めていた。一人きりでいようと誰かと一緒にいようと、その瞬間に思い考え感じた結果行動したことが自分を形成しているのだから、素の自分などという隠れた一面じみたものは最初からないような気がする。誰かの存在を感じているときに行動している自分が偽りの姿とは思えない。誰かに見られていようと俺は俺であり、偽ってもいなければ演じているつもりもないのだから。穂香は素の自分という概念を信じているようだったけど、今度会ったときに穂香の考えも訊いてみよう。人間は素を持っているのか。誰にも見られていないところで行動しているときこそ素であるのか。
個室に戻ると理雄が割り箸袋に赤いペンで数字を記入しているところだった。訊くと席替えをすることになったらしい。座布団に腰を下ろすと早速くじ引きが始まり、俺は個室の奥から襖の方へと移った。隣に座ったのは理雄が狙っている女性だった。ウェーブのかかった茶髪に丸みのある顔立ち、清楚な装い、大きな胸はどれも理雄好みだ。もともと俺がいた座布団に座った理雄は、その女性が好きだと言っていたサッカーの話題を振っていた。理雄の友人もお気に入りの子にアプローチをしている。うまくいけば理雄も理雄の友人もお気に入りの子と友好を結べるだろう。
俺は対面でスマートフォンをいじっている黒髪の女性へと目線を向けた。合コンが始まってからというものの、乗り気じゃない雰囲気を漂わせたままだ。会話には参加し笑顔も見せている。けれど感情を失ったかのような仏頂面でいることの方が多かった。おそらく人数合わせで呼ばれたのだろう。淡い服に身を包んでいる他の女性たちと違い、ジャック・ニコルソンのティーシャツにレザーのジャケットを羽織っている出で立ちからもそれは想像できた。彼氏を探したくて参加したとは思えない。四杯目のハイボールはすでにからっぽだった。
「新菜さん、おかわりしますか?」
自己紹介のときに聞いたはずの名前だったが、いざ呼ぶとなると自信がなくなり声が小さくなった。新菜さんはよく聞こえなかったようで、「ん?」と赤いアイラインでふちどられた目を上げた。もう一度訊ねたものの、「いい。別の飲む」と返して新菜さんは理雄に店員を呼ぶベルを押すよう、申し訳なさそうな笑顔で頼んだ。注文したのはまたハイボールだった。
「新菜ちゃん今日は飲むねー! さすが酒豪ってだけある!」
理雄からアプローチされていた茶髪の女性の煽りに、新菜さんは「そう?」と冷静に返した。女性と理雄の距離はさっきよりも近い。お酒に酔った理雄の顔はすっかり赤らんでいる。
「今ねえ、新菜ちゃんのバンドの話してたんだよー!」茶髪の女性は恥じらいもなく思い切り破顔している。「去年の文化祭のときの動画見たいんだけど、なんて検索すれば出るっけ?」
「えー、やめてよ恥ずかしいから」
「いいじゃんいいじゃん! ギター弾いてる新菜ちゃんの姿、理雄くんに見せてあげたいのー!」
冷淡でいる新菜さんの気持ちを無視した茶髪の女性はすっかりできあがっていた。男性陣たちに新菜さんのいいところを教えたいらしいが、自分が友達思いな人間であることをアピールしたがっているように見える。新菜さんも迷惑に思っているようで、「文化祭の名前入れたら出るから」と渋々答えていた。バンド名を教えればすぐに動画が出るように思えたが、それをしなかったということは自分の演奏している姿をこの場で見せたくなかったのだろう。
「あっ、これこれ! 新菜ちゃんカッコよくない⁉ こんな姿見たら女子でも惚れちゃうんだけど!」
あぐらを掻いている理雄の太腿にスマートフォンを置き、茶髪の女性は画面を指差した。横目で動画を見ると、薄暗いライブハウスのような場所でスリーピースバンドが演奏していた。動画の中の新菜さんはエレキギターを弾きながら歌っている。店内の喧噪に紛れていて聞こえづらいが、新菜さんの歌声には情感があった。カラオケで高得点を出すことを目的とした技巧的な歌声よりも没入でき、静かな場所で聴きたいと思うくらいだった。
茶髪の女性のスマートフォンの動画に見入っていると店員がやってきて、新菜さんが注文したハイボールをテーブルに置いた。俺は振り返って店員にお礼を言った。そのとき視界に入った新菜さんの表情は煩わしそうだった。眇めた目で茶髪の女性を睨み、顎にしわを寄せている。けれど茶髪の女性は注がれている嫌悪の眼差しに気づいていない。隣にいる理雄へ体をすり寄せている。もう一人の女性と理雄の友人に目を向けると、お互いに肩が触れそうな距離で談笑していた。新菜さんへ目線を戻すと、ハイボールを豪快に呷っていた。損ねた機嫌をお酒にぶつけているみたいで、話しかけようにも隙が見当たらなかった。
居酒屋の外に出て全員解散することになったが、理雄は去り際に嬉しそうな顔で俺を一瞥した。理雄の隣には茶髪の女性がいた。居酒屋を出てからというものの二人は肩が触れそうなくらい距離が近かった。駅を背にして帰路に就いているとスマホにメッセージが届いた。理雄からだった。「二人で飲み直すことになった。詳しい話は今度。わりいな笑」という文面から察するに、茶髪の女性と一夜をともにする展開を期待しているようだった。
道中にあったコンビニに立ち寄り、たばこと水のペットボトルを買う。コンビニの端に設置されている灰皿へと近づきながら紙巻きたばこを取り出し、火を灯し、煙を肺にめぐらせる。喧噪から離れられた安堵に深い吐息をつき、煙を宙に逃す。ビールとジントニックのせいで絡まっていた思考を、少しずつ解きほぐす。
こうして酔っている俺も素の俺であり、合コンで飲んでいたときの俺と異なっているとは思えない。誰かといるときの自分と一人きりの自分に差異はないはずだ。意識の変化はあるにせよ、その境界線は曖昧に思える。表と裏が入れ替わるように意識がはっきり変わるわけではなく、球体が回転して裏側が見えるようにだんだんと変わるのではないだろうか。こうして他者から離れ、一人きりになっても意識は続いている。途切れていない。だから俺は常に素でいるのではないだろうか。
……いや、常に素の自分であるということは、素の自分そのものがないとも言える。状況によらず素であるならば素という概念そのものを考える必要はなくて、あらゆる行為や言葉や思考が自分を表すのではないだろうか。素という概念は素ではない自分がいてこそ存在する概念だ。でも素の自分なんて存在しない。誰も持っていないんだ。他者によって行為や言葉や思考が変わるとしても、それも自分であり偽りの姿ではない。素の自分の一部だ。素の自分とは一人きりでいるときだけでなく、他者と接しているときの自分も含めた集合的な姿なんだ。
しかしそうすると、素の自分という存在を認めることになってしまう。素の自分なんてないと思っていたのに。否定していたはずなのに。そもそも素という言葉自体が間違っているのかもしれない。その人本来の姿を――誰にも侵されないテリトリーの中にいる自分の姿を指し示しているかのような意味として、素という言葉を捉えない方がいい。素という言葉にとらわれずに考えよう。穂香が求めている俺の姿とは何か。偽ってもいなければ演じてもいない俺の振る舞いとは何か。
短くなった吸い殻を灰皿の中に捨て、ペットボトルの水を一口飲む。コンビニに近づいてくる人の上半身にいるジャック・ニコルソンと目が合う。新菜さんだった。若干ふらついた足取りでやってきた新菜さんはコンビニに入る手前で俺に気づいたようで、
「あ。さっきの」
と呟き俺を指差した。ぽかんと口を開けた表情から察するに、ここまでやってくるまで俺のことは視界に入っていなかったらしい。
「ちょうどいいや。一本ちょうだい」
そう言って新菜さんはコンビニには向かわず、俺に手を差し出した。
「新菜さんも吸ってるんですか?」
「吸ってるよ。あいつらと別れたあとで吸おうと思ったんだけど、ちょうど切らしてたの忘れてて。ここで買おうと思ってた」
赤いアイラインが施された目を緩やかに細めた新菜さんの笑顔は、合コン中に見せていた笑顔よりも自然だった。少しも取り繕っていない。渡した紙巻きたばこを自分のライターで火を灯し、深く息を吸い、丸みのある煙を吐いた一連の様子もあっけらかんとしていた。コンビニのガラスにとまっている蛾は微動だにしていない。店内で流れている広告の音声がかすかに聞こえる。
「飲んでるときのあたしさ」灰皿を挟んで隣にいる新菜さんは前屈みになった。「めっちゃ印象悪かったよね」
「え? そんなことないですよ」
「いいっていいって。気遣わないで。てか同い年なんだからタメ口でいいじゃん」
新菜さんに促され、自分が敬語を使っていたことを改めて自覚する。敬語を使っていたのは無意識じゃない。初対面の人全員に対する礼儀だと思っていた。けれど促された以上、敬語を使い続けることは却って新菜さんに、いや、新菜に失礼になる。
「じゃあ正直言うけど」俺は腕にとまっていた蚊を平手で潰した。「めっちゃ悪かったよ。楽しそうに見えなかった。人数合わせで来たんだろうなってわかるくらい」
「正解。あいつらに言われてついてきただけ。今度代わりにレポートやってくれるって条件で」
フフフッ、と吐息を漏らして新菜は姿勢を戻した。灰皿に紙巻きたばこの灰を落とし、また猫背になっている。酒豪と言われていたからお酒に強いと思っていたが、他の女性陣から見れば強いだけで新菜自身は強くないのだろう。
「ちょっと待ってて。水買ってくるわ」
「ありがと。ついでにたばこもいい? お金あとで返すから」
酔いが回っていても人に甘えるだけの小賢しさはまだあるようで、新菜は紙巻きたばこを指のあいだに挟んだまま手を振った。銘柄を聞いた俺はコンビニに入り、水のペットボトルとたばこを買って新菜に渡した。新菜は早速ペットボトルを開け、一気に三分の一くらいまで飲んだ。それから安堵の吐息を静かに漏らすと、ジーンズのポケットから財布を取り出そうとした。
「いいよ別に。これくらいのお金」
「ダメ。受け取って。こういうところで貸しは作りたくないの」
そう答えた新菜の背筋はまっすぐ伸びていた。さっきまで緩んでいた表情も固くなっている。冗談で財布を出したわけではないらしい。押し問答をくりかえしても新菜の気持ちは揺るがないと悟り、俺は代金を受け取った。新菜は満足そうな顔で紙巻きたばこを取り出すと自分のライターで火を灯し、煙を夜風に悠然と流した。
「貸しを作るくらいなら借りが欲しい。あとでいい思いできるような状況に自分を置いた方が人生得した気になると思わない?」
「考えたことねえよ。でもそうなのか?」
「そう。絶対あとでいい思いした方が得なんだって。あとで善い行いをしなきゃいけなくなるより、嬉しいことが返ってくるかもしれない希望を持ってた方が楽しいじゃん。それがあたしのポリシー。笑顔で人生終わりたいの。いちごは最後まで取っておく派だから」
新菜は誇らしげに言ってまた笑った。その笑顔を見た途端、なぜか脳裡に穂香の顔がよぎった。ショートケーキのいちごを皿の端に移し、最後に食べている穂香の顔が。穂香が新菜と同じポリシーを持っているとは思えないが、似たような思考回路を持っているのかもしれない。かけ離れてはいようとも、確実に異なる価値観や物事の捉え方をしているわけではなさそうだ。
「ここからあんたの家って近い?」
「すぐ近くだけど、どうして?」
「あたしの家遠くてさ、結構歩かなきゃなんだよね。ちゃんと酔い醒ましたいから寄らせてよ。なんなら飲み直してもいいし。どう?」
酔っていなかったら絶対に断っていた。あの部屋に誰かを招き入れることなど、普段の俺なら拒絶するほかに選択肢がなかった。けれど俺はうなずいていた。迷っていた時間を計測しても一秒に満たないくらい早々に「いいよ」と返事をしていた。新菜は嬉しそうに笑い、短くなった紙巻きたばこを吸って豊かな煙を吐き出した。ガラスにとまっていた蛾はいつのまにかいなくなっていた。コンビニの店内の明かりが滲んだ歩道に人影はなく、夜の帳が静けさとともに下りていた。
周囲に人気がないことをたしかめてから喫茶店に入ると、いつものように穂香が先に待っていた。先週と違うところと言えばノートパソコンをすでに開いていること、ショートケーキを半分以上も食べ終えていること、俺を見上げる顔が異様に険しいことだった。老け顔の女性の店員にコーヒーを注文してから椅子に座るなり穂香は手を伸ばし、
「和人さんのから見ます」
と冷たく言った。とはいえ穂香の当たりがいつもより強くなることはわかっていた。バッグから取り出したmicroSDカードを渡し、イヤホンを耳につける。穂香がノートパソコンにmicroSDカードを挿してデータを選んでいるあいだ、運ばれてきたコーヒーに口をつける。苦味の奥底に潜む旨味に、思わず笑みがこぼれた。
先週集まったあとの映像からチェックをするのが通例だったが、穂香が選んだのは火曜日の映像だった。しかも映像をかなり飛ばしながら再生している。イヤホンから聞こえてくる断続的な音は砂利道を進む足音のようで、画面の中の俺はほとんど原型を留めていなかった。淡い日の光を受けていた部屋が真っ暗になったかと思うと突然まばゆくなり、俺と新菜が部屋に入ってきた。穂香はそこで映像を一時停止し、改めて再生した。
新菜は冷蔵庫の前でしゃがみ、勝手に中身を物色していた。「何してんだよ」と火曜日の俺が訊ねると、新菜はビールの缶を二本取り出して笑った。飲み直す気でいる新菜に火曜日の俺は呆れながらも一本受け取り、プルタブを開けて乾杯をした。立ち上がった新菜は小型カメラに気づき、片方の眉をさげてまじまじと見つめている。
「これカメラ? なんで置いてあんの?」
「インテリアだよ」と火曜日の俺はほほえみながら噓をついた。「テレビの両側に二つと、ベッドの枕元にもある。映画サークルに入ってる友達からもらったんだ。結構綺麗だし、インテリアにいいかなって」
「何それ。趣味変わってんね」小型カメラを覗き込みながら新菜は笑った。「でも実は撮影中だったりして。あたし映画好きで色々見てるんだけど、実験的なドキュメンタリー映画でこういう撮影手法取ってるやつ見たことあるよ」
「そうなんだ。でも本当に撮ってねえから。気にすんなって」
そう新菜をなだめた火曜日の俺は怪しい笑みを浮かべていた。身の毛がよだつほど気色悪い。邪な気持ちが表れてしまっている。カメラから顔を離して部屋に移った新菜はそれに気づいていない。火曜日の俺がひそかに期待していることを、これから自分の身に起こることを感知していない。
横目で穂香の様子をうかがう。わかってはいたが、穂香の表情は一層険しくなっていた。苦い飴玉を舐めたみたいに口元が歪んでいる。けれど画面の中でビールを飲み談笑している火曜日の俺と新菜から目線を逸らすことはしなかった。いつもショートケーキを少しずつ崩しながら食べているはずなのに、今日は残っていたショートケーキを口の中へ一気に詰め込んでいた。
「あんたの友達が狙ってた子、今頃うんざりして帰ってると思うよ」
「あの、茶髪の子のこと? なんで?」
「だってあの子っていつも彼氏欲しい彼氏欲しいって言って合コン行ってるくせにできたことないんだから。なんかね、誠実な人がいいんだって。その日にどうこうするつもりのない人が好きみたい。会った日には連絡先交換だけして、別日にデートして、三回目のデートで告白されんのが理想って言ってたよ。でも男を見る目がないんだよね。あの子が好きになる男、みーんな誠実とは程遠いダメ人間でさ」
「マジで? 運がねえんだなその子」
「ていうかあんたの友達、絶対今日のうちにどうにかしようって思ってたでしょ?」
「バレてたか。理雄って思い立ったらすぐ行動するタイプなんだよ。だから今日の合コンも女の子とあわよくばってスタンスで行ってたんだ」
これまでの理雄の不貞を暴露している自分の声を聞きながら、実際に出している声との差異に不思議な感覚を抱いてしまう。自分の声は芯が抜けているような、浮遊感のある声に聞こえる。映像をチェックするたびに違和感と不快感を抱いてしまう。一年生のときに受けていた講義の一環で調べたことがあるが、自分が耳にしている自分の声は骨の振動が伝わる骨導音と、空気の振動が伝わる気導音が混ざり合ったものらしい。一方で撮影や録音によって聞くことができる――他者が耳にしている自分の声は気導音だけらしい。だから自分の声を映像や録音したもので聞くと違和感を抱いてしまうそうだ。しかも人間は骨導音と気導音が混ざり合った自分の声をよく耳にしているから気導音だけの自分の声に不快感が募ってしまうと、大学の図書館で借りた本には記されていた。
つまり、他者が聞いている声こそ本当の自分の声なんだ。自分が耳にしている自分の声は骨導音を含んでいるから、幻とは言わないまでも、偽りに近い声なんだ。
火曜日の俺がトイレに行き、部屋に残された新菜はテレビに設置している二台のカメラへ目線を向けた。それからベッドの枕元に設置しているカメラに近づいた。俺と穂香を見つめている。と、新菜は枕元のカメラへおもむろに手を伸ばした。鼓膜が低い物音で満たされていく。枕元のカメラの画角は前のめりになった新菜の膨らんだティーシャツを捉えたままわずかに揺れている。
「やっぱり」
ぽつりとこぼした新菜の独り言は唾液の弾ける音まで鼓膜に届いた。フフッと漏れた鼻息も、小型カメラを指先で叩く音も。ベッドに腰かけた新菜は画面越しに俺を見つめている。穂香とともに映像をチェックしている今の俺へぶつけている眼差しに、恐怖も嫌悪感も抱いていない。むしろ撮られていた事実をすんなりと受け入れている。小型カメラから離れてベッドに腰かける一連の動作は自然で、撮られているから別の自分の姿を見せようとはしていなかった。
穂香は喉を大きくうねらせ、咀嚼していたショートケーキを飲み込んだ。ぱちぱちと音が鳴りそうな瞬きをし、画面の向こうにいる新菜を凝視している。カップを口に運ぶ手つきは慎重だった。穂香も新菜の挙動に驚いているらしい。撮られていることを察し、嫌悪感も拒絶の意志も見せず受け入れた新菜へ呆気にとられている。
水の流れる音が聞こえ、火曜日の俺がトイレから出てきた。ベッドに腰かけている新菜を見るなり「いいよいいよ。ゆっくりして」と配慮したが、新菜は申し訳なさそうにもしていなければ勝手に座っていたことを詫びてもいなかった。当時の俺は自分が冷静だと思っていて、ベッドに腰かけている新菜の方が酔っていると認識していた。けれど傍目に見ている今、すっかり酔いが回っているのはどちらなのかは明らかだった。
「私、ここから見たんです」
イヤホン越しに話しかけてきた穂香は皿の上にぽつんと残っていたいちごをつまんだ。丸くとがっている先端部分を三つ指でつまみ、へたに近い部分からいちごを齧った。上唇がわずかにめくれている。いちごの果肉に前歯が突き刺さり、赤みがかった白い内部が覗き見えた。
火曜日の俺は新菜の肩を抱き寄せて話しかけている。あまり覚えていないけれど、たしか新菜を抱き寄せた瞬間に甘ったるい匂いがしてうなじが熱くなった気がする。初めて彼女ができた高校一年生の頃と似たような感覚だった。でもあまり覚えていないということは、火曜日の俺はやっぱり酔いに負けていたのだろう。自分は冷静だと思っていた時点で冷静な状態ではなかったんだ。
思い返してみれば、新菜と飲み直してからの記憶は断片的だった。新菜の顔がだんだん近づき、焦点が合わなくなっていくわずかな過程も、自分の舌に応じて新菜の舌が蠢いていた感触もかすかに思い出せる。先に新菜がシャワーを浴び、続けて火曜日の俺がシャワーを浴びた。俺が浴室で収まらない鼓動の激しさを感じているあいだ、下着姿の新菜は部屋の中でじっとしていなかった。四つに分かれた画面の一つ一つに近づき、それぞれのカメラの横に顔を寄せていた。画角をたしかめている。カメラごとに部屋のどこを撮影し、どこまでの範囲を捉えているのかをみずからの目で確認している。俺が浴室から出てくる前に新菜はベッドへ戻り、スマートフォンをいじって待っていたかのように平然としていた。パンツだけ履いた俺は洗面用具をしまっている戸棚にしゃがみ込んでコンドームを探している。台所の端に置かれている小型カメラに収められていたそのうしろ姿は、性欲に操られている男性の情けなさが滲み出ていて見るに堪えられない。
その一部始終を穂香は黙って見続けている。火曜日の俺と新菜、二人分の吐息やささやかな喘ぎ声がイヤホン越しに聞こえても音量を下げようとしない。頬杖を突き、ときどき溜め息を漏らしている。つまんでいるいちごを小さく齧り、お粗末な映画を観ているときのような死んだ表情で退屈そうに眺めている。
少しは反応してくれてもいいのにと穂香への不満を抱きつつも、俺は自分の醜態を見届けた。火曜日の俺が出している喘ぎ声、新菜へかけている言葉、腰の動き、快感に苦悶している表情を見続けた。とはいえ平気でいる素振りを取り繕うのが難しい。今まで感じたことのない恥ずかしさに手汗が止まらない。カップの中身はすぐになくなった。喉の渇きはまだ収まっていないから注文したかったが、セックスをしているところが流れている以上、店員へおかわりを頼むことができない。
小型カメラを設置してからは部屋の中での自慰をやめ、アパート近くにあるビデオボックスや大学内のトイレで発散してきた。だから火曜日の俺であり当時の俺は解放感で満たされ、新菜とのセックスに熱中していた。撮られていたってかまわないと開き直っていた。今こうして初対面の女とセックスをしている姿こそ素の自分だろうと結論づけ、意識も感覚も快楽にゆだねていたのだった。
火曜日の俺が射精して脱力し、新菜に覆い被さるようにして抱きついたところで穂香は映像を止めた。鼓膜に注がれていた過去の音は跡形もなく消え、年老いた店主がカウンターの向こうで洗い物をしている音がかすかに聞こえた。イヤホンを外した穂香はテーブルの端に置かれている紙ナプキンを一枚引き抜き、いちごをつまんでいた指先を拭っている。すべての表情筋が硬直しているような、険しい顔つきで。
「まあ、自分でやっておいて恥ずかしいっつうのはアレだけど」俺は外したイヤホンの先端を紙ナプキンに拭った。「お前が見たがってたのって、こういう姿なんだろ?」
訊ねても穂香は答えなかった。カップに残っていたコーヒーを飲み、いつもより深い音を立てて喉を鳴らしただけだった。
「正直さ、俺は素の自分なんて誰も持ってないと思うんだ」
椅子の背もたれに体を預けながら言うと、穂香は目線を上げた。というより俺を睨んだ。眇めた目は細かい文字を虫眼鏡で読み取ろうとしている老人みたいにとがっている。
「部屋に一人きりでいるときに見られる姿が素の自分ってわけじゃねえ気がするんだ。外に出て誰かと会っているときも、こうして穂香と向かい合ってるときも俺であることに変わりはねえだろ。穂香の目には何かを隠してるように映ってるのかもしれねえけど、俺は自然体でいるつもりだから。もし穂香が言う素の自分ってやつがあるとするなら、今の俺も、部屋の中にいるときの俺も素の自分だ。素の自分っていうのはさ、一面的なものじゃなくて多面的なものなんじゃねえのかな?」
穂香に問われてからずっと考えていたこと、それを踏まえて新菜を招き入れた理由をなんとか伝えて返事を待つ。穂香の目つきは鋭いままだったが、少なくとも話は聞いてくれていた。素の自分という概念に対する俺の認識とみずからの認識を照らし合わせ、考えをまとめているのかもしれない。火曜日の俺の行為と今の俺の説明に感心しているのなら、穂香への優越感を初めて抱けるだろう。
画面には裸で抱擁し合っている火曜日の俺と新菜の姿が映っている。後方の左上から、前方から、左から。その中の一つ――テレビの左側に設置している小型カメラに向かって新菜はほほえんでいた。こちらを向き、恍惚と充足感に包まれた表情を惜しげもなく晒していた。
「意味がわからないです」
重たい声に振り向くと、穂香は嫌悪感に顔を歪めていた。眇めた目の形は変わっていない。むしろ鋭さを増し、俺を厳しく糾弾してやりたいという意志に燃え盛っていた。
「こんなものが見たかったんじゃありません。素の自分とかあれこれ言ってましたけど、和人さんがただそうしたかっただけですよね?」
「いや、そういうつもりじゃねえって。穂香が言ってた素の自分ってやつがわかんなかったから俺なりに考えて――」
「私のせいだって言うんですか? ああいうことをすれば私が満足するって、本気で思ったんですか?」
「あー……俺の誤解だったか。謝るよ。ごめん」
「謝って済む話じゃありません。わかってるんですか? あのときの和人さんは気づいてなかったとはいえ、この人は撮ってることに気づいたんですよ? 誰にも知られずやってきたのに、和人さんのせいで余計な人が増えちゃったんですよ? たとえ自覚がなかったとしても、これは和人さんの責任です。約束を破ったも同じなんです!」
だんだん語気を強めていた穂香が放った最後の一言に、店内の空気がぴりついたのを肌で感じた。穂香もそれを感じ取ったようで、俺の背後に向かって申し訳なさそうに頭を下げた。振り返ると年老いた店主や老け顔の女性の店員、あとからやってきたのだろう白髪の女性客二人がこちらに不安げな目線を送っていた。そこには早くこの場から出て行って欲しい意志も含まれていた。
俺も穂香と同じように頭を下げ、「出よう」と穂香に囁いた。穂香はノートパソコンを閉じて傍らに置いていたリュックサックに詰めると、財布から三万円を引っ張り出してテーブルに置いた。俺の横を通り過ぎて店を出て行く足取りは荒々しかった。その背中は店内にいる者たちからの目線にいたたまれなくなって逃げたというより、俺から一刻も早く離れたがっているようだった。
小体育館の壁にもたれながら床にあぐらを掻き、裕哉先輩がスリーポイントシュートを決めた瞬間を画角にしっかり収める。近くにいる後輩や先輩の友人らしい女子たちは拍手とともに歓声を送っている。小体育館の窓から差す日光はまぶしい。外気の暑さが館内を灼熱地獄へと変えていた。
換気のために開いている出入口からは、日差しに晒されながらも踊っている女子たちが見える。二の腕と太腿が露わになった薄着の三人が横並びになり、一人がスマートフォンを持って撮影している。三人の踊りはコンパクトだ。腰を揺らし、指をばたつかせながら手を振っている。動画サイトにあげるための短い動画を撮っているようだ。おそらく投稿するときには顔面に加工が施されているのだろう。
「おっしゃ! もう一本決めるぞお前ら!」
理雄を含めたメンバーへ呼びかけた裕哉先輩の声は普段以上に大きかった。無理もない。十五点リードしている相手チームにはバスケサークルに所属している者もいる。そうでない者でも先輩より動きが機敏だった。ドリブルを仕掛けてきた四年生の男子は肩や腕の筋肉が隆々で、進路を塞ごうと立ちはだかった理雄とぶつかっても当たり負けしていなかった。パスがうまくつながり、相手チームにまた二点が入る。先輩は全身汗まみれになりながらゆっくりドリブルをし、「落ち着いて決めるぞ!」と理雄たちに檄を飛ばしている。
試合に参加していない俺は撮影係だ。先輩からSNSに投稿するための動画を撮るよう命令され、報酬として昼飯を奢ってもらった。昼飯は大学構内にある食堂ではなく近くのラーメン屋で、普段は頼まない大盛の醤油ラーメンを注文した。腹が空いていたわけではなかった。先輩を少しでも困らせてやろうという小さな反抗心からだった。けれど所詮は千数百円程度の負担をかけただけで、先輩の懐に寒風が吹いたようではなかったし、面倒な命令を快く受け入れられるだけの満足感は得られなかった。
ドリブルで相手コート内へと攻め入った先輩をスマートフォンのレンズで捉えながら、果たして先輩は負け試合になるだろう今日の模様をそのままSNSへ投稿するのかと疑問を抱く。きっと試合の結果は載せず、自分が活躍しているところだけをアピールするに違いない。応援に来ている女子たちのほとんどは先輩のアカウントをフォローしているだろうから、先輩の投稿にいいねをつけたり返信を送ったりする展開は目に見える。でもそれを羨ましくは思わない。SNSをやっていないからという単純な理由ではなく、誰かに見られたい気持ちがないからだ。日常生活を毎日撮られ、穂香と互いに映像を見合っている状況に喜びを感じたことは一度もない。三万円がもらえればそれでいい。自分と穂香以外に見られなくても、いいねや返信がなくても不満には思わない。そもそも何かへ投稿するために撮影しているわけではないから不満を抱くこと自体おかしいのだが。
想定していた通り、先輩のチームが十七点差で負けて試合は終わった。後輩や女子たちから「お疲れさまー」と労われ、先輩や理雄たちは疲労困憊になりながらも笑みを返している。その模様を最後に捉えて俺は録画停止のボタンを押した。時間にして十三分程度。その中に俺の声は一秒も入っていない。
「ありがとな和人。あとで俺にデータ送っといて」
汗まみれの顔をタオルで拭きながら命令してきた先輩に、「わかりました」と簡潔に返して清涼飲料水を渡す。試合が始まる前に買ったから少しぬるくなっていたが、先輩は気にせず喉をうねらせて大量に飲んだ。データは送るが、ほとんどの時間は先輩の手で削除されるだろう。自分が活躍しているところだけが切り取られ、残りは存在しないものとなるんだ。それらも自分の一部どころかすべてであるというのに。
「理雄もありがとな。お前が結構点決めてくれたから、思ったより差つけられなくて済んだよ」
「いえいえ、俺全然ダメっすよ。マジ反省っす。やっぱ裕哉さんみたいにたくさん点取らなきゃっすね」
そう謙遜しつつ賞賛した理雄は膝に手を突き、汗まみれの顔を手のひらで拭った。「んなことねえって。今日は理雄に助けられたわ」と応じた先輩の顔はやはり緩んでいて、後輩をたたえる優しさよりも自尊心をくすぐられた喜びの方が勝っているようだった。
「そうだ理雄。お前も和人から動画もらっとけよ」
「え? なんでですか?」清涼飲料水のペットボトルを開栓していた理雄は目を丸く見開かせた。
「自分で点取ってるシーンだけ切り抜けばさ、今度合コン行くときに使えるじゃんか。バスケ得意なんだって言ってそれ見せれば、女子にアピールできるかもしれねえだろ?」
「おおっ! たしかにそうっすね! 悪い和人、あとで俺にも動画くれ!」
調子がいいというか影響されやすいというか、先輩の提案をすぐに吞み込んで俺にねだる理雄には冷静に考える頭がないのだろうか。バスケよりも陸上をやっていたときのことを話せばいいように思える。バスケは大学に入り先輩に誘われたのが始まりだから、話せる内容は一年足らずの経験くらいだ。中学にやっていた陸上は二年以上もの経験がある。この前の合コンで理雄は陸上の話をしていたが、自分が格好いいように思われる話題をまだ欲しいらしい。けれどそういう浅はかなアピールばかり考えているから女性は振り向かないのではないだろうか。茶髪の子と飲み直したあと、望んでいた関係になれなかったのもそれが理由に違いない。
先輩も理雄も、小体育館の外で踊っていた女子たちも、どうして自分の姿をいいように見せたがるのだろう。相手にボールを奪われたりシュートを阻まれたり、相手にかわされたり点を取られたりしている姿も自分であるというのに。顔面や体型を加工しても満たされるのは虚栄心だけだというのに。誇れるところだけを他者に見せても意味はない。輝かしい姿もみっともない姿も見せなければ、自分がどういう人間なのかを伝えることはできない。とはいえ先輩も理雄も女子たちも、そんなことはどうでもいいと思っているのだろう。輝かしい姿こそ素の自分だと思い込んでいる。自分の醜態には蓋をし、恥ずかしい思いをしないようにしている。その姿が俺には醜く見える。すべてを露わにすることを恐れている。自分に噓をついているだけだ。
心理学科のゼミを終えて家路に就き、駅の方へ歩いていると電話が入った。新菜からだった。近くに理雄がいないことをたしかめてから電話に出ると、俺の大学の近くにある居酒屋で飲もうという誘いだった。すでに帰っていることを伝えたが、「もう居酒屋にいるから。飲もうよ」と新菜に言われ、俺は家路を戻った。
居酒屋の前で新菜は紙巻きたばこを吸っていた。古びた四角い灰皿のそばに立ち、俺を見つけるなり小さく手招きをしながら吸い殻を灰皿に捨てた。ジュッと吸い殻の火が水に触れて消えた音はかすかだった。
「大学からわざわざ来たのか?」新菜とともに居酒屋へ入りながら俺は訊ねた。「かなりの距離あっただろ? 歩いたわけじゃねえよな?」
「ううん。バス乗ってきた。最後の便に乗って帰りたいからあまり長居しないつもり」
テーブル席に座り、最近金髪に染めたらしい新菜と向かい合う。新菜の髪は店内の明かりを反射してきらめいている。絹のような髪はなめらかそうで、端正な容姿とほどよく調和している。目尻には淡い橙色のアイラインが引かれていた。
注文したビールを手に乾杯し、焼き鳥や刺身をつまみにして他愛ない話を交わす。最近観た映画のこと、大学の友人のこと、合コンにいた茶髪の女性がまた別の合コンに行ったこと――。近々行われるメジャーデビューしたてのバンドのライブに前座で出ることになった話をしているときの新菜は嬉しそうだった。ライブのチケットを受け取ると新菜の声はより弾み、「絶対見に来てよ?」とほほえみながら念押ししたのだった。
新菜と話していると、どんな話題だろうと退屈な気持ちにならない。理雄や先輩と飲んでいるときより楽しい。飲み進めるうちに新菜と過ごす時間をもう十分、もう一時間と伸ばしたくなる。電話やメッセージのやりとりをしていたときには抱けなかった愛おしさが、胸中に少しずつ湧き起こってくる。
「そういえば、和人の部屋にあるカメラってさ」
ほろ酔い気味で三杯目のビールに口をつけると、新菜がおもむろに話を切り出した。俺は平静を装いながら「何?」と返したが、頼りなくなった声色までは内心を隠せなかった。
「インテリアじゃないんでしょ? ホントは動いてるよね?」
「まさか。動いてねえって。壊れたからもらったんだよ」
「嘘つかないで。撮ってるんでしょ?」
「んなわけねえじゃん。何馬鹿なこと言ってんだよ」
「なんで笑ってんの? こっち真面目に話してるんだけど。正直に言って。あのカメラ動いてるんでしょ? 初めて部屋に行ったときも撮ってたんだよね?」
何が何でも嘘を貫き通す意志があればもっと言葉を尽くしていたが、紙巻きたばこを吸いながら俺を見つめる新菜の眼差しに無駄な努力だと悟った。新菜の眼差しは、俺からあらゆる噓の理由や言い訳を奪うようだった。足掻くほど自分が情けなく思えてくるような、すでに何もかも見通しているような眼差しだった。俺は摑んでいたジョッキを四つ折りにしたおしぼりの上に置き、
「悪い。撮ってた」
と白状した。
「四台とも?」
「ああ」
「いつも電源入れてんの?」
「ああ。帰ってきたら常にオンにしてる」
「じゃあ、あたしがいたときも撮ってたんだ?」
「そう、だな……」
新菜の口ぶりは自分の推測をたしかめているようだった。俺が肯定するとわかって質問している。俺が認めるかどうかを判断している。とはいえ新菜がカメラに気づいていたことは先週穂香と映像をチェックしたときにわかったから、訊ねられるのは時間の問題だと覚悟していた。俺の口から説明しなければいけないと腹を決めてはいた。けれどそれをいつ明かすべきかタイミングを摑めずにいた。新菜の人柄を理解し始めている今のうちに言った方がいいのか、もう少し時間が経ってから言った方がいいのか悩んでいたのだった。
「黙ってて悪かった。嫌だよな。勝手に撮られてたなんて」
「ううん。別に。気にしてないから」と新菜は答えて三杯目のビールを飲み干した。「ちょっときつく問い詰めちゃったけど気にしてないから。本当に」
「そうだけど、でもいい気分じゃねえだろ? あんな姿撮られてたって思ったら」
「まったく。部屋に行きたいって言ったのはあたしだし。てかあんなわかりやすい位置にカメラあったから、撮ってたとしてもエロ目的じゃないんだろうなーってなんとなく察してた」
「そんなの推測だろ? 本当に俺がそんなことに使わないと思ってたのか?」
「そこまで言われると自信ないけど……もしかしてエロ目的だった? あの日のことどっかに売ったりネットに晒したりしてないよね?」
わずかに眉をひそめて訊ねた新菜だったが口角は緩んでいた。問い詰めていたときの真面目な雰囲気はすっかり消えていた。そんなつもりで撮ってないことを伝えると、「じゃあいい」と言って新菜は紙巻きたばこに火を点けた。橙色に燃えている先端からのぼった煙は白い。形を変えて絡まり合い、ゆっくり上昇しながら空気へ溶けている。
「あたしはね、自分の感覚に従って生きてるの」と言って新菜は紙巻きたばこを人差し指と中指に挟み、ビールを一口飲んだ。「ちっちゃい頃からそう。親に勧められて始めたピアノは楽しくなくて教室から抜け出したことあったけど、ショッピングモールの楽器売り場でギターを見かけたときはビビッときて、今でも好きだし演奏もしてる。小中の頃は友達みんなテスト嫌い宿題するの面倒くさいって言ってたけど、あたしは好きって気持ちの方が強かったからどっちも頑張ってた。まあ今はレポートするの面倒くさいけどね。単位のためにレポート書くくらいならバンドしてた方がいいし。
でも一貫してるのは、あたしがいいと思ったものは全部信じられるってこと。誰かから押しつけられたことだろうと自分で興味を持ったことだろうと、本能的にいいって思わなきゃ信じない。友達選びだってそう。周りから優しい人だって言われてる人でも、あたしの心がちょっとでも変だと思ったら距離を置く。第六感ってわけじゃないけど、理屈じゃない判断基準があたしの中にはあって、その正しさをあたしは信じてるの。
そうそう、高一のときに女子たちから優しくてカッコいいって言われてた男の先輩がいたんだけど、その人からあたし告白されたことあるの。見た感じ本当に優しそうだったしカッコよかったし清潔感もあったし付き合ってもいいかなーって思ったんだけど、なんか悪い予感がしたんだ。理由はわからないんだけど、これから危ない目に遭う気がしたんだ。だからあたしフッたの。あとで他の女子たちからどうして付き合わなかったのか色々訊かれて大変だったんだけど、自分でもわからないから適当にはぐらかしてて、気づいたらあたし教室の中で孤立してた。先輩の気持ちを断った高飛車なやつだって見られて、無視されたり省かれたりしてたの。つらくなかったって言えば噓になるけど、そこまで落ち込みはしなかった。どうせ他のやつらは嫉妬心であたしに当たってるんだって思ってたから。
それから一カ月も経たずに先輩は他の女子と付き合ったんだけど、数カ月経った頃にその子を殴って警察に補導されたんだよね。そっからあたしのこと無視してたやつら、急に態度変えちゃってさ。新菜ちゃん危なかったね、あんな男と付き合わなくて助かったねって、まるで最初からあたしの味方だったよ的な口調してきたの。笑えるよね。ついこの前まであたしのこと目の敵にしてたくせになんだよその態度って思っちゃった。
結局さ、クラスメイトだろうと先輩後輩だろうと友達だろうと、失望する瞬間って突然訪れると思う。一生添い遂げようと心に決めた相手だとしてもそれは同じ。だって所詮人間だし。自分の姿が相手にどう見られてるか考えて行動する時間って、そうじゃない時間と比べたら絶対に少ないでしょ? だから無意識の行動が人間の素であり本性だと思うんだ。もちろん誰かを意識して行動してるときの自分も本来の姿とは思うけど、その時間だけを気にするのは重要じゃないし、それよりも無意識の行動が善くなるような思考を育てた方が、あたしは大切だと思ってるの」
新菜は息継ぎ代わりに紙巻きたばこを吸い、煙を吐いて笑った。話を聞いただけでも新菜は少なからずつらい目に遭ったこと、淋しい思いをしていたことは察せられる。けれど当の本人ははるか昔の記憶を語る老人みたいにあっけらかんとしていた。ほんの五年前の出来事のはずなのに。そのときの感情のみずみずしさはまだ乾き切っていないというのに。
でも臆することなく話してくれたのは、正しい選択をしてくれる自分の本能を信じているからかもしれない。撮影されていることを察しても不愉快に思わなかったのも、初対面だった俺に不信感を抱かなかったのもそれが理由みたいだ。新菜は自身の慧眼にまかせて行動している。状況や他人の意志に依らない、自分自身を信じている。
様々なカメラが陳列されている棚の前で穂香は新商品を手に取っている。いつ次の商品へ手が移るのかと待ってはいるが一向に動きそうにない。手のひらサイズの黒いボディのカメラを摑み、棚の上に広げたカタログに記載されているページを読み込んでいる。唇を固く結び、沈黙を極めている。店員に声をかけられたときは「気になったことがあればこちらから訊きます」と早口で接客を拒み、自分の思考の世界へとまた没入していた。それから十分くらい穂香はこの調子だ。俺と自分の部屋それぞれに設置する予定の、新しいカメラの選別に集中している。
すでに設置している四台はネットショッピングサイトで購入した物らしい。家電量販店では出回っていない廉価かつ高性能のカメラで、穂香がとくに気にしている画質も問題はない。けれど事前に家電量販店に出向き、条件に適う物があるか調べることは怠らない――それが穂香のこだわりらしかった。
初めて買い物に付き合ってみてわかったが、穂香はカメラについてかなり詳しいみたいだ。バスに乗って駅前にあるここの家電量販店に向かう最中、どうしてそんなに詳しいのか俺は穂香に訊ねた。けれど穂香は「別にいいじゃないですか」と言って答えてくれなかった。目的地に着くまで何度か訊ねたものの拒絶の姿勢は変わらず、家電量販店に入ってからは会話すら避けるようになった。というより、陳列されている最新機種の数々に目を輝かせていて会話どころではなくなっていた。カタログを読んだり実物に触れたりしている穂香の意識は目の前のカメラにだけ注がれていて、俺や店員のことは視界にも入っていないようだった。
「やっぱりこれですね。これにします」
みずからに言い聞かせるように開口した穂香が選んだのは、陳列されているカメラの中でもかなり高額の物だった。
「お金あんのか? 足りなかったら俺も出すけど」
「ありますよ。財布の中身より高い物を買おうとするなんて馬鹿なことしません」
穂香は俺の気遣いを無下にすると、背負っていたリュックサックから財布を取り出した。購入するカメラは二台合わせて八万円程度だけど、分厚い財布の中には少なく見積もっても三十万円以上は入っていた。穂香は最大容量のmicroSDカード四つも一緒に買い、足早に店を出た。
「私は一人でもできるので、和人さんの部屋から取りつけましょう」
そう促した穂香とともに俺はバスに乗った。車内は冷房が強く、汗で湿った体に寒気をもたらした。バスを降りると蒸れた外気が首筋や腕を包んだ。どこかの樹木に留まっているらしい蝉の鳴き声がうるさい。帰路に就き、穂香を部屋へ招き入れる。ドアの鍵を開ける前に歩道を振り返ったが、歩いていたのは柴犬と散歩している年老いた男性だけだった。
「まだ気にしてるんですか?」
部屋に入ってドアを閉めると穂香に訊ねられ、「まあ、一応」と返す。理雄や裕哉先輩といった知り合いが近くを通りかかっているとは本気で思っていないが、穂香との関係を悟られないようにするために身につけた癖はすっかり無意識の行動の一つとなっていた。
「そんなことしたって意味ないですよ」購入したカメラとmicroSDカードが入っているビニール袋を床に下ろしながら穂香は言った。「それよりも理由ですよ理由。どうして私を部屋に入れたのか考えておいてください。いざってときに口ごもっちゃったら余計に疑われますから」
「んなこと言ったって、いい理由なんか思いつかねえよ」
「どうしてですか? 最近付き合った彼女って言えばいいじゃないですか。そう言っとけば周りはすぐに納得してくれます。他人の恋愛ほど興味がそそられる話題ってないらしいですよ? 私は全然興味ないですけど。誰が誰と付き合ってるのかなんてどうでもいいです。学生時代の恋愛なんてたかが知れてますし」
冷蔵庫から取り出したペットボトルの水をコップに注いで差し出すと、穂香は軽く礼をして恭しく受け取った。言葉遣いといい、後輩である穂香は礼儀を忘れたことがない。互いに撮り合っている関係なのだから対等でもいいと話したことはあった。けれど穂香は態度を変えなかった。ときどき突っかかってくることはあるにせよ、俺を完全に見下すような振る舞いをしたことは今までなかった。それは先輩と後輩だからという単純な理由ではなく、穂香自身がそうするべきだと考えているからのようだった。穂香なら年齢や肩書きなどその人を表す一つの記号だと認識しているに違いなく、敬意を示す理由にはならないとでも思っているのだろう。
そう信じられるのは、穂香が交友とは無縁の生活を送っていたからだった。今の関係が始まった当初、俺は部屋にいる穂香の様子を毎日観察していた。趣味でも性癖でもなかったが、女性の一人暮らしを覗き見るのはそれなりに心が躍った。けれど穂香が自室に誰かを招いている姿は見たことがなかった。友達に電話をしているところも、メッセージを誰かに送っているところも皆無だった。代わりに見られたのは哲学書を読んでいる姿だった。部屋の壁一面を覆うほど大きな書棚から哲学書を一冊抜き取り、座椅子かベッドに体を預けて何時間も読み耽っていた。それ以外にしていることと言えば、ノートパソコンを開いてレポートに取り組むことくらいだった。そんな毎日の連続に俺は飽きてしまい、今では穂香の様子を見ることはほとんどなくなったのだった。
穂香は水を一口飲み、箱を開けてカメラと説明書を取り出した。早速手につけたのは説明書だった。注意事項から〈困ったときは?〉のページまで念入りに目を通している。それから小袋に入っていたプラグをコンセントとカメラにつないだ。microSDカードは開封せずにリュックサックへしまっていた。ノートパソコンはテーブルに置き、電源を入れると説明書を傍らに置いてアプリをインストールし始めた。
「何か手伝うことある?」手持無沙汰だった俺は穂香の顔を覗き込んだ。「今置いてるカメラのmicroSDカードの交換でもしといた方いいか? それとも新しいカメラの設定とか?」
「こっちのことは気にしないでください。設定は一人でもできます」
そう断った穂香の口調はいつも聞いているものと同じだった。けれど若干とげとげしさがある。冷静を装っているものの内心は苛立っているみたいだ。もしかしたら設定が面倒だからイラついているのかと一瞬思ったが、
「彼女に連絡して話しててもいいですよ? 用事あるときは声かけますので」
「冷たいこと言うなって。ていうか彼女いねえし。そもそもそんなことしたいなんて言ってねえじゃん」
「いいですって。どうぞ。電話してください。じゃなかったら新しいカメラを置く場所でも作っとけばいいじゃないですか」
と続いた穂香の言葉で俺は苛立ちの原因を察した。きっと四日前の映像を見ていたのだろう。帰りのバスの最終便を逃した新菜を部屋に招き、二人で飲み直した光景を。撮られていることも気にせずセックスをしていたときの様子を。そのときの俺は今思い返しても体が熱くなってしまうくらいに新菜を求めていた。みずからが気持ちよくなることだけでなく、新菜にも気持ちよくなってもらいたい一心で体を動かしていた。新菜は新菜で俺に快楽を与えようとしていた。俺が快楽に我慢できず絶頂を迎えたとき、新菜は嬉しそうに笑っていた。そんな俺たちの絡み合いを穂香はおそらく目撃し、不快感を募らせ、気を遣った俺に八つ当たりしているのだろう。
部屋の掃除をしつつ、新しいカメラを置く場所を思案する。台所やテレビを置いている棚の上を埃取りで払い、フローリングワイパーと粘着ローラーで床のごみを取り除いていく。そのあいだも穂香の様子をうかがうことは忘れない。ノートパソコンと向かい合っている穂香は部屋の中を動き回っている俺のことなど視界に入っていないようで、マウスを忙しなく動かしたりキーボードを強く打ったりしている。
ベランダの窓から差していた夕暮れの光は赤みが増していた。遠くで鳴いているヒグラシの音は妙に耳にへばりつき、室内の静寂を一層際立たせていた。
「こういうことしようって、提案されたとき」
沈黙がいたたまれなくなり、俺は口を開いた。穂香はノートパソコンから顔を逸らしもしなければ相槌も打たなかったが、押し潰されそうな感覚を味わい続けるよりは何か喋っていた方が楽だった。
「いきなり何言ってんだって思ったんだよ。お前もそれはわかってたろ? びっくりするどころじゃなかった。はっきり言って引いてた。お互いに撮り合うなんてまともじゃねえから、そんなことする意味がわかんなかったんだ。正直言うとお前のこと、気色悪い趣味してるやばいやつだって思ったんだ。お金がなかったら絶対に断ってたし、レポートが終わったら話しかけるのは金輪際やめようって決めてたんだ」
初めて会ったときの穂香の顔を、陰気くさいオーラを思い出していた。理雄や裕哉先輩からは感じられなかった知性も。
「でも撮り合うことになってから、俺なりに考えたんだよ。穂香がそうしたいと思った理由を。他人の素性ってさ、知り合いといるとき、知らない人といるとき、集団でいるときくらいしか見れねえだろ? その人が一人でいるときの姿って誰も見れねえじゃん? 多分お前はそれに気づいて、人間の素性をすべて知るには誰かと一緒にいるときの姿だけじゃなく、一人でいるときの姿も知らなきゃいけないと思ったんじゃねえかな。だから互いに撮り合う関係を思いついて、俺に提案したのかなって」
床の掃除を終え、手の甲で額を拭う。じっとりとした汗で濡れた手の甲は日の光に照らされて橙色に染まっている。説明書を一枚めくった穂香はノートパソコンを操作し続けている。エアコンがけだるい溜め息のような風を吐いて稼働を止めた。
「もちろんこんなの予想でしかねえから、お前の本心じゃねえとは思ってるけど」俺は粘着ローラーの紙を破ってごみ箱に捨てた。「人間を知りたいって目的はあながち違いじゃねえ気がするんだ。他人の知らない一面を見たいって好奇心は誰だって一度は持ったことあるだろうから。お前はそれを行動に移したんだろ? 倫理観とか道徳観とかを理由に気持ちを抑え込みたくなかったんだろ? でも一人でやったら犯罪になるってこともわかってた。自分の身を売ってでも、お金を払ってでも協力者がほしかった。だからレポートの作成で一緒になった俺に――」
「カメラ取ってもらっていいですか? 接続するので」
穂香に頼まれ、充電していたカメラを手渡す。話を遮られてしまったが苛立ちはしなかった。勝手に話し始めただけだったし、穂香が親身になって聞いてくれているとは思っていなかった。むしろ自分に語りかけている気分だった。語っているうちに俺は今までの生活を回顧していた。カメラを取りつけてからの生活に訪れた充実感、撮られていることを気にしなくなっていたみずからに対する発見を認識していた。
「お前はどうだったんだ?」
「何がですか?」穂香はノートパソコンから目を逸らさず応じた。
「俺に提案するときだよ。誰でもいいから選んだんだろうけど、お互いに撮影し合おうなんて提案するの初めてだったんだろ? 緊張しなかったか?」
「答えなきゃダメですか?」
顔をしかめた穂香はマウスのクリックボタンを押すと懐に両手を重ねた。返事の声色といい表情といい、俺の質問には答えたくないらしい。カメラに詳しい理由を訊ねたときと同じ雰囲気を醸し出している。
「ダメってわけじゃねえけど、教えてくれたっていいだろ? 俺だってこうして話したんだし」
「私は頼んでません。和人さんが勝手に話し始めただけです」
「いいからいいから。じゃあせめてどっちか教えてくれよ。お前がカメラに詳しい理由か、俺に提案するまでの経緯か」
穂香にとってはどちらも嫌な選択肢だとはわかっていた。だから俺はあえて選ばせることにした。一つの物事へイエスかノーで答えてもらうより、二つの物事を選んでもらう方がノーと言われる可能性が少なくなる。一年生のときに出席した心理学の講義が、まさかここで役に立つとは思わなかった。けれど穂香のことならノーと言ってしまうかもしれない。否定的に考える人には効果が薄いと説明していた教授の話を、質問した今更になって思い出す。
「どっちかっていえば、前者の方がマシですけど」
懸念していた展開にならなかったことへ安堵し、俺はベッドに腰かけた。穂香は俺に背中を向けたままテーブルに頬杖を突き、ノートパソコンをじっと見つめている。〈機器の接続中です〉と表示されている画面の中央では、灰色の点が円を描くように回っている。
「話を聞いても後悔しません?」
「なんだよそれ。もし話したくないんだったら、無理に聞かせろとは言わねえけど」
「そういうわけじゃないです。和人さんが私の話を聞いて、損をしないか心配なだけです」
そう忠告した穂香の口調は固かった。後頭部しか見えないものの、笑っているわけではなさそうだった。俺が話を聞いても大丈夫なのか案じている。脅しているのではなく、注意して聞くよう本当に心配している。とはいえ穂香自身は話しても問題はないようだったから、
「損するかどうかなんて、聞かなきゃわかんねえよ」
と俺は返事をした。穂香は肩を竦め、ノートパソコンを見つめたまま話し始めた。
「幼い頃からカメラが好きだったんじゃないんです。父親が映画のカメラマンをしていて、とくにドキュメンタリー映画の制作に駆り出される人だったので、家にカメラはあったんです。きっと父親はもともとカメラが趣味だったんだと思います。そこら辺について訊いてみたことはないんですけど、父親の部屋の壁には昔撮った山や森や海の写真だったり、街角を歩いている人間の写真だったりがたくさん飾られてて、幼いながらに父親が何に関心を持っているのかはわかってました。カメラ以外にも周辺機器がたくさんあって、幼かった私はコードを縄跳び代わりにしたり、ハンディカメラを手にカメラマンごっこをしたりと遊び道具にしてました。でも父親は怒りませんでした。むしろ一緒に遊んでくれたんです。あまりに遊びすぎて、母親から一緒に怒られたこともあります。一人っ子だった私にとって父親は兄弟のような、一緒にいて安らげる存在だったんです。
父親は学校行事には絶対に出席して私を撮ってくれていました。運動会の100m走で転んじゃった瞬間も、学芸会で有象無象の一人を演じている様子も、家で友達と遊んでいるところも。父親は家にいるときもカメラを回していたので、生活の一部を撮られていても私は気にしていませんでした。父親がカメラを片手にあれをしてくれ、これをしてくれと言われても、遊びの一環だと思ってたんです。
でも小学四年生になってから、父親に異変を感じ始めたんです。正確に言うと三年生になったばかりの頃からですけど。お風呂から上がって体を拭いてたら父親が脱衣所に入ってきたり、夜中にトイレに行こうとしたら父親がクローゼットの中を撮ったりしてることを見かけたりしてて、何かがおかしいとは思ってたんです。その確証を得られずにしばらくは過ごしてたんですけど、小学四年生の夏休みのとき、友達と一緒に遊んでたら父親がカメラを手にやってきたんです。そのときは私も友達もびっくりして、苦笑いするのがやっとでした。父親の笑顔は普段ならなんとも思わないはずだったんですけどどこか嘘くさく見えて、何か企んでるような雰囲気を感じたんです。だから私、あっち行って、と父親に強く言ったんです。でも父親はカメラを下ろしませんでした。私が嫌がったからか近づきはしませんでしたけど、私や友達をあらゆる角度から撮り続けたんです。
それから一週間くらい経った日に父親の部屋へ入ったら、パソコンにそのときの映像が停止したままになってたんです。再生したら私と友達の顔はほとんど映ってなくて、代わりに胸や足やお尻ばっかり映ってたんです。当時は私も友達も下着をつけてなくて、襟元から胸が覗き見えてたことに気づいてなかったんです。父親はそれを狙ってたみたいで、私や友達の胸が覗き見えたらズームさせてたんです。それだけでも気持ち悪かったんですけど、膝を抱えて座ってた友達の短パンから見える下着だったり、私のお尻が食い込んでるところだったり、脇の下だったり、色んなところをズームしてたんです。
私、他の映像も見るつもりだったんですけどやめました。部屋に戻ってベッドの毛布にくるまって、今の映像はなんだったのか考えたんです。いえ、なんのために撮ってるのかはとっくに気づいてたんですけど、まさか父親がそんなことのために私や友達を撮ってたとは信じたくなくて、他の理由を探したんです。でも、どれだけ考えても思いつきませんでした。父親はそういう人間なんだと、今まで私を撮ってたのは私のためじゃなく、自分の欲望のためだったんだと悟ったんです。失望した、って言った方が合ってるのかもしれません。優しかった父親の本当の姿を知って嫌になったんです。父親の言葉が、行動が、目線が、何もかもが信じられなくなったんです。
映像を見てからは父親と話さなくなりました。カメラを向けられたら手で押しのけたり、父親の前から逃げたりしました。父親の部屋に入るのをやめたのもその頃です。そのおかげかはわかりませんが、父親は家の中でカメラを回さなくなったんです。もしかしたら母親にバレたのかもしれませんし、父親みずから反省したのかもしれません。真相はわかりませんけど、とにかく不快な視線を向けられることはなくなったんです」
ノートパソコンから弾んだような機械音が鳴り、機器の接続が完了したウィンドウが表示された。穂香はマウスに手を添え、早速カメラの映像を確認した。これまで四つに分割されていた画面は六つに分かれている。新しく設置したカメラの映像は右上にあった。テレビが置かれていた場所に設置したカメラからの映像にはノートパソコンがある。穂香の顔はそのうしろに隠れていて見えない。そのまたうしろのベッドに座っている俺の顔は神妙だった。唇を内側にきつく巻き、言葉を奥深くへと呑み込んでいた。
「結構綺麗に映ってますね」穂香は軽やかに言った。「あとは音のチェックが済めば完璧です。マイク機能オンにします」
穂香は画面の右下にある各カメラのメニューバーの、マイクのボタンをクリックした。室内を流れる空気の音がノートパソコンからサーッと鳴り出した。マウスとテーブルの擦れる音も聞こえる。映像の向こうで鳴っている音は俺が耳にしている現実の音よりも数秒遅れていて、過去が現実に追いつこうとしているみたいだ。
「お前が、こうして撮ってるのってさ」
そう訊ねた俺の声も遅れて聞こえてきた。けれど骨導音とは違って重みのない「お前が、こうして撮ってるのってさ」という自分の声は薄っぺらかった。振り返った穂香は無表情で俺を見つめている。
「父親からの影響だったりすんの?」
「父親からの影響だったりすんの?」
「何言ってるんですか」
「何言ってるんですか」
「関係ないですよ」
「関係ないですよ」
穂香の返答は連なり、強く否定しているように聞こえた。却ってそれが穂香の内心を表しているようで、俺は追究したい気持ちを捨てた。
駅の北側にある商店街の大通りを進み、脇道へ入るとライブハウスが見えた。十七時半の開場までまもなくとあり長い行列ができている。シャツの裾をはためかせ、行列の最後尾に並ぶ。前にいる男性と女性はどちらも明るい茶髪だった。けれど他に並んでいる人たちの髪色はその二人が目立たないほど様々だった。赤い髪の人もいれば青い髪の人もいる。金髪は多かったが、誰と誰をペアにしても同じトーンの者はいない。俺のうしろに並んだのは黒髪の女性たちだった。手には今日のライブのチケットと手帳型のケースに入っているスマートフォンがある。手帳型のケースは黒い革製で、知らないバンドの名前らしい英文字の刻印が銀色に光っていた。
開場の時間になり、ライブハウスの扉が開いて行列が短くなっていく。俺はズボンのポケットから財布を取り出し、中にしまっていたチケットをスタッフに渡した。チケット代に含まれていたドリンクをカウンターでもらう。コーラを片手に客席へ入ろうとしたが混雑が激しく、〈喫煙所〉と記された紙が貼られている小部屋に入る。小部屋の中には灰皿が二つあり、それぞれに同族たちが群がっていた。外灯で羽を休めている虫のようだと思ったが、俺もその一匹になる。紙巻きたばこを吸っているのは俺だけで皆電子たばこだ。換気扇が回ってはいるものの、小部屋は吐息に混じった煙のせいでおぼろげに白んでいる。壁には今日のライブのポスターが貼られていて、メジャーデビューしたばかりのバンドの名前と写真が大きく記されている。新菜のバンドの名前は隅にあり、写真は画質が粗いせいか顔がよく見えない。
「たったの一万だよ? 信じられる?」
昨日電話で愚痴っぽく言った新菜の声を思い出す。メジャーデビューしたばかりのバンドの前座とはいえ、ライブへの出演料が想像以上に少ないことへ新菜は不満を持っていた。けれど詳しく話を聞くと不満の原因は安いギャラではなく、ライブの主催者の態度だった。結成したばかりのインディーズバンドであること、看護大の学生であること、メンバーが女性しかいないことを理由に主催者は自分たちへ馬鹿にした態度をとってたと、厳しい口調で糾弾したのだった。だから俺は新菜を励ました。ライブに出れるだけでもすごいじゃないかと、関係者に注目してもらえるかもしれないと本心から褒めた。けれど新菜の反応はいまいち晴れなかったようで、ありがとうと返した声は弱々しかった。その声を聞いた俺は浅はかな激励をしてしまったことを悔やんだ。そんな言葉を新菜は求めてないことを察せられなかったみずからを呪ったのだった。
吸い殻を灰皿に捨て、分厚い扉を開けて客席へと移る。コーラを飲み干し、中央よりうしろの位置で開始を待つ。新菜が所属しているバンド名をスマートフォンで検索すると、SNSの投稿ばかりが結果に表示された。一番上に表示されている検索結果を開くと、新菜が通っている看護大の軽音サークルのアカウントだった。今日のライブに出演することを大々的に宣伝しているにもかかわらず、いいねの数は三桁にも達していない。投稿されている画像にはバンドメンバー三人が写っている。左右の二人はピースサインをしている一方、真ん中にいる新菜は両手を力なく垂らしている。無理やり表情筋を動かしたような笑顔が痛々しい。
ステージ上で配線や機材のチェックをしていたスタッフが去り、バンドメンバーの二人がやってきた。観客からの拍手にドラムスティックを振ったりベースを鳴らしたり、それぞれ笑顔で応じている。続いて登場した新菜には大きな拍手が送られた。知らない人間ではないはずなのに、ステージ上にいる新菜は別人のように格好よく見える。ギターのチューニングをしながら観客の声援に片手を上げて応じている姿も様になっていた。まばゆい照明に照らされた新菜の金髪は神々しく光っていて、陰に包まれている端正な顔が一層引き立っていた。
ステージも客席も淡い紫色の照明の光に染まり、新菜たちのバンドの演奏が始まった。ギターもベースもドラムもそれぞれ粒だった音を奏でている。それらが混ざり合い形成された曲はメロウな雰囲気で、自然と体が揺れてしまうようなテンポだった。新菜の歌声は美しかった。吐息交じりの艶っぽい歌声が曲調と合っている。普段の話し声と同じ喉を使っているのかと疑ってしまうくらい聴き心地がいい。合コンで茶髪の女性は演奏している姿がカッコいいと賞賛していたが、歌声の方が秀でているとは思わなかったのだろうか。外見ではない、感性に響くような新菜の歌声の魅力に気づかなかったのだろうか。
俺は目を閉じ、新菜の歌声へ耳を傾けた。楽器の音色よりも麗しく繊細な声に意識を集中させた。彼女だから人一倍評価しているかもしれないという懸念は抱いていたが、背後にいた明るい茶髪の男性が「ボーカルの声結構よくね?」と女性に訊ねていたのを耳にし、懸念は確信へと変わった。
新菜たちのバンドは三曲を演奏してステージを去った。観客からの拍手には名残惜しさがあったが、ライブのメインであるメジャーデビューしたてのバンドが現れるなり客席の空気は一変した。新菜たちの演奏など忘れたかのように観客は盛り上がり、高揚した気分にまかせて手を挙げたり奇声を発したりする者さえいた。メジャーデビューしたてのバンドはそれに応じるかのように激しい演奏をした。ボーカルの男性は力強く歌っていて、曲のクオリティよりもバンドの熱い意気込みを伝えているようだった。演奏の技量も観客への呼びかけもそれなりに上手ではある。けれどまた聴きたくなるような魅力を感じられない。バンド名を検索しようとは思わない。
俺は二曲だけ聞いて客席をあとにした。熱気に包まれている観客の隙間を縫い、重たい扉のそばでカメラを回していた男性スタッフの脇を通ってライブハウスを出る。商店街の大通りはさっきまでの騒々しさが噓のように音の密度が薄い。濃紺の空に覆われた夜の街並みはコンビニや居酒屋の明かりで輝いていたが、その光のどれもが偽りのように見える。
アパートへ帰るために駅へ向かっているあいだ、反芻していたのは新菜の歌声だった。いつまでも聴いていたいメロディーラインに乗った美しさだった。神々しく光る金髪に、陰に包まれた顔に、メロウな曲調に濁った胸中を少しずつ濾過させていた。
駅の連絡通路を歩いていると発車のアナウンスや通りすがりの人々の話し声が嫌でも耳に入り、新菜の歌声も姿も掻き消されていった。代わりに占めたのは、扉のそばでカメラを回していた男性スタッフの姿だった。メジャーデビューしたてのバンドの演奏を撮っていたようだったけど、新菜たちのバンドの演奏も撮影していたのだろうか。ライブを撮る人がいるのはよくあることなのかは知らないが、新菜たちは少なからず意識したに違いない。レコード会社に映像が出回るかもしれないとか、SNSに載せるかもしれないとか、何を目的として自分たちを撮っているのだろうと思いながら演奏していただろう。いや、そう思っていたのは新菜以外の二人か。きっと新菜以外の二人はカメラを向けられた経験が少なく、映像がどこへ流れるのか気にしていたかもしれない。新菜は少しも動揺しないはずだ。新菜は俺の部屋にいても自然体でいる。何を撮られてもかまわないと腹を括っている雰囲気さえ感じない。カメラがあろうとなかろうと関係なく振る舞っていて、その姿が羨ましく見えることさえある。
演奏している新菜のように、俺にも別の俺がいるのだろう。素の自分など存在しないと認識してはいるが、素の自分とは何かを考えたことがある以上、俺の中には素の自分というもう一人の俺が存在している。素の自分と呼ばれる架空の俺は俺の中でたしかに生きている。どのような振る舞いをするのか、どんな言葉を発するのか、そいつのことは意識せずに生活してはいるが、一度生まれた架空の俺がするだろう行動を避けて行動しているとは言い切れない。存在するかどうかを考えたことがある以上、どれだけ認めたくないと思ってもそれを忘れることはできない。もう一人の俺はこれから先、一生俺の中で生き続ける。
駅の南口に出て、外灯と駅ビルの電光掲示板に照らされたデッキへと出る。スーツ姿の中年の男性や露出の多い服を着た同世代の女性が歩いている。塾からの帰りだろうか、学校指定の大きなバッグを肩に提げた中学生の男子たちは横一列に歩いている。他の通行人の邪魔になっていることに気づいてない。ロータリーへ下りるためには中学生たちを抜いてエスカレーターに乗らなければならない。俺は歩みを遅くし、中学生たちの速度に合わせた。
その瞬間、背後に気配を感じた。誰かいる。俺の速度に合わせて歩いている。俺と歩く方向がたまたま同じなら無視してもいいが、背後にいる人の目線を感じる。後頭部や背中に、確実に刺さっている。過敏に反応しているわけじゃない。たしかに誰かが俺を見ている。
俺はエスカレーターを下り、しばらく歩いてからおもむろに背後を振り返った。すぐうしろにいた穂香は立ち止まろうとしたが、歩く勢いをすべて殺すことができず俺とぶつかった。手にはスマートフォンがある。撮影中の赤いランプが灯っていて、レンズは俺の顔を捉えている。
「ずっと撮ってたのか?」
驚きを隠しつつも訊ねたが、穂香は何も言おうとしない。スマートフォンの画面を見つめ、撮影を続けている。どれだけ鋭く睨んでも止める気配がない。ロータリーから大通りへ足を進めると、スマートフォンを向けたまま俺の隣に並んだ。俺は穂香が沈黙を破るのを待った。念のため背後を振り返ったが知り合いはいない。きっと穂香は内心で俺の癖が気になっているのだろう。けれどやめられない。穂香と撮り合う関係になってから備わった癖は関係が終わるまで続きそうにも思えるし、一生身についたままのようにも思える。片側三車線の道路はどこも混雑していて、右折レーンに並んでいる車が直線レーンを塞いでいた。俺と穂香のあいだに漂っている静寂を、緊張感を、誰も知らずに各々が生活を続けている。
「ライブ、よかったですか?」
何気なく訊ねたのだろう穂香の顔はいつもと変わらず無表情だった。けれどそこに感情はなかった。触れれば指先から凍ってしまいそうな冷たさを帯びていた。
「そのときからいたのかよ」
「いいえ。和人さんがライブハウスに並んでいたときからです。ずっと撮ってました。喫煙所に入ったところもコーラを飲んでたところもライブハウスを出たところもずっと」
白状した新菜の口調はとても早く、自動音声を倍速で再生したようだった。淡々と事実を伝えることだけに神経を注ぎ、みずからの胸中を悟られないよう徹しているみたいだった。
「外に出てるときは撮らない決まりだったんじゃないのか?」
「そんな約束してません。ちゃんと覚えてないんですか? 部屋に設置したカメラの位置は動かさないこと、相手の部屋に設置したカメラは操作しないこと、撮影した映像は誰にも見せないこと、部屋にあるカメラを勝手に切らないこと、カメラがあっても気にしないで生活すること――約束したのはこの五つだけです。外出中の撮影については何も決めてません。だから撮っても違反じゃありません。私はちゃんと守ってます」
約束したルールを並べられ、俺は奥歯を強く噛むことしかできなかった。たしかに穂香はどのルールも破っていない。外出中の撮影について取り決めたことは一つもなく、外にいるときは撮らないものと思い込んでいたのは俺の憶測だった。けれど穂香はそう思ってなかったらしい。外に出ているときの相手を撮るかどうかは各々の判断だと考えていて、俺はしていなかったが自分はした、それだけのことと認識しているようだった。
「約束を破っただけじゃなく内容すら覚えてなかったんですね」
「そういうわけじゃねえよ。勝手に撮るなら事前に教えてもらわなきゃいけねえんじゃねえかって思っただけで――」
「どうしてですか? 部屋にあるカメラは今から撮るって教えてないですよね? なのに外で撮影するときだけ相手に伝えるのはおかしいじゃないですか」
すらすらと言い返した穂香の表情は険しい。眇めた目には俺を徹底的に咎めてやろうという意志が込められている。その眼差しに苛立ちが募る。生ぬるい外気のせいだけじゃない、一方的に責められている状況が癪に障る。
「前から思ってましたけど、和人さんって本当にだらしないですよね」と言い放った穂香の口調には侮蔑が含まれていた。「約束のことだけじゃありません。遅刻したり、初対面の女性にバラしたり、セックスしてるときが素の自分だと思い込んだり、誠実さに欠ける行動ばかりしてるじゃないですか。それでよく私のこと責められますね。的外れなこと言って、自分が優位に立てるとでも思ってたんですか? 浅はかですよ和人さんは。自分で思ってる以上に。私の目から見てもそう思うんですから、同期の人や新菜からもそう思われてるんじゃないですか? 口に出さないだけで、和人さんのことひどい人間だと思ってる人は多いと思います」
「勝手なこと言うな。俺は俺なりに真面目にやってる。他の人がどう思ってるかなんて、お前が都合のいいように妄想してるだけだろ」
「いいえ、絶対そうです。和人さん、あなたは私の父親と同類の人間です。快楽のために誰かを傷つけてもかまわないと思ってるんですよ。自覚してないでしょうけどあなたはそういう人間なんです」
「違う。そんなこと一度だって思ったことない。お前の父親と一緒にすんな」
「そうですか。すみません訂正します。和人さんは私の父親以下の人間です。罪悪感を抱かない、抱くことすら思いつかない最低の人間ですよね」
俺たちは大通りの途中で左に曲がり、外灯の少ない路地を歩いていた。俺が住んでいるアパートへ向かうには最短のルートで、夜になると滅多に人が通らない道だった。大通りの喧噪が遥か遠くに聞こえるだけで、虫の鳴き声どころか周囲の家々からの話し声や物音さえ聞こえないような静けさに包まれていた。
それを感知していたからだろうか、穂香の腕を引っ張って近くのごみ捨て場へ連れて行くのにためらいはなかった。癖であったはずの背後を振り返ることさえ忘れていた。俺はブロック塀で囲われたごみ捨て場へ穂香を思い切り投げ飛ばした。山積みになったごみ袋ががさがさと音を立てて穂香の体を受け止めた。俺は立て続けに穂香の腹を蹴った。痩せた体に、華奢な腕に、陰気くさい顔面にスニーカーの底を激しく押しつけ、何度も全体重を乗せた。
一秒か一分か一時間か、どれだけ蹴り続けても穂香は抵抗しない。スマートフォンを握り締めている手を蹴ったり踏みつけたりしても、すぐにレンズを俺に向けた。呻き声一つ漏らさず、自分の声が入らないよう徹していた。鼻から、擦り切れた頬から、口の切れ目から血が流れているというのに自分の身を守ろうとしないその姿は、熱意や執念とは違った、撮影するために生きる者としての本能に突き動かされているようだった。
蹴り続けているうちに息が切れ、俺は穂香から距離をとった。ソファに深く腰かけているみたいにごみ袋へもたれている穂香はスマートフォンを両手で摑んだ。撮影を止める音はまだ聞こえない。レンズは俺に向けられている。けれど目線は画面ではなく俺を捉えていた。傷だらけの顔で俺を見つめていた。その眼差しに宿っているのは怒りでも苦痛でもなかった。口の切れ目は引きつっている。唇の隙間からは赤く汚れた歯が見える。ただ見開かれた目には歓喜が満ちていて、俺は思わずあとずさりしていた。得体の知れない人間への恐怖に背筋が凍っていた。肌がぶつぶつと粟立ち、もはや穂香に蹴りを入れる気力さえなくなっていた。
俺はアパートの方向へと走り出した。一刻も早く逃げたかった。奇妙な笑顔を晒している穂香から離れなければならないと、理性が判断する前に体が動いていた。走った先には俺たちの様子を眺めていたらしい同世代の男性が数人立っていた。一人の手にはスマートフォンがあった。レンズを向けて俺を撮っていることは、すれ違いざまに視界の端で確認できた。けれど撮影を止めるよう注意する余裕はなかった。体中から汗が滴り落ち、脇腹が痛み出しても走り続けた。静けさの中で俺の足音は異様に響き渡り、乱れた吐息の音とともに鼓膜を覆っているみたいだった。
年老いた店主は段ボール箱の中を見るなり怪訝そうに顔をしかめたが、小型カメラやコードのことについて訊ねることはしなかった。カウンターの上に置いた段ボール箱を足元へ移し、「あの子が来たら渡しておくよ」と了承してくれた。俺は年老いた店主と老け顔の女性の店員それぞれに礼をして喫茶店を出た。アイスコーヒーを飲んだばかりだというのにもう喉が渇いている。大学へ向かう道中も背後を気にする癖は止まらず、今日は穂香がいるのではないかと思わずにはいられなかった。
三限、四限、五限と講義を受けても意識はぼんやりとしたままだった。教授の話を聞くこともノートに記すことも疎かになり、隣に座っていた理雄から声をかけられても数秒遅れて応じていた。すべての感覚が現実に追いついていなかった。昨晩の光景に引きずられていた。
脳裡には穂香がいた。昨晩から会ってもいなければ連絡もしていない穂香が何をしているのか気がかりだった。とはいえ会いたいと思っているわけではなかった。撮り合う関係をみずから放棄することにし、部屋の中に設置していた小型カメラやそれらにつないでいたコードを年老いた店主に渡した今、穂香と会わずに大学を卒業できる方法はないかと考えていた。穂香との接触を避ければ数カ月間の出来事も、昨晩の光景も俺の中から消えると信じていた。
暴力をふるい、黙って関係を断った俺に対する穂香の憎悪は容易に想像できた。復讐を計画していてもおかしくないだろう。できるなら、穂香とは一生会わずにいたい。穂香だって俺と会いたくないはずだ。暴力をふるってきた相手へ会いたがるほど穂香は馬鹿ではない。論理的に考えられるやつだ。もしかしたら俺と会わずに大学生活を過ごす方法をすでに考え、実行しているかもしれない。
けれど、そのように都合よく考えていること自体、自分が愚かであることを証明しているように思える。穂香は俺のことを、罪悪感を抱くことすら思いつかない最低の人間だと断言していた。昨日は否定したが、冷静な頭でみずからを客観視している今ならわかる。俺は最低な人間だ。真面目に頑張っているふりをしているが、頭の中では自分の利益だけを考えている。人を見下し、小賢しく生きている。自分が悪いと思ったことは一度もない人間なんだ。
五限が終わり、理雄とともに教育学部棟の心理学科室へと入る。理雄と近くの店で食べようかどうか、ロッカーに教科書やノートをしまいながら考えていると学科室のドアが開いた。現れたのは裕哉先輩だった。俺と理雄がいて好都合に思ったようで、先輩は大学近くにあるラーメン屋に食べに行こうと誘ってきた。断ろうとした俺の意志を遮るかのように理雄がうなずき、俺も同伴することになった。学科室を出て教育学部棟を出てからも、二人は俺の意志を訊ねなかった。
大学の正門へ向かうと、車止めのポールに金髪の女性が座っているのを見つけた。途端に冷や汗がうなじを滴り落ちた。他の学生たちから好奇の目線を注がれても新菜は気にしていないようで、俺に気づくなり小さく手を振ってほほえんだ。
「あれ? この前合コンにいたやつだよな?」
理雄は大きな瞬きをしながら新菜を凝視している。ここにいる理由とこちらに手を振った理由の二つを考えているらしく、眉をひそめ口をぽかんと開けている。「何? 知り合い?」と理雄に訊ねた先輩の目尻は緩んでいた。新菜を見る眼差しは性的な好奇心に満ちていて、新菜と交際しているわけではないにしろ先輩への憎悪が募った。近づいてきた新菜は理雄や先輩が視界に入っていないのか、
「和人、ちょっと話があるんだけど」
と言って俺の手を取った。
「えっ? お前まさかこいつと付き合ってたのか?」
「いや、そうじゃねえけど、なんつうか……」
動揺しながらも疑問を投げかけた理雄に口を噤んでいると、新菜がきょとんとした顔で「何度か会ってるだけなんだけど」と代弁した。その返答さえも理雄にとっては驚くに値するものだったようで、俺に白状するよう求める目を向けたのだった。
「いつかは言おうと思ってたんだ。その、こっそり会ってたつもりはなくて、理雄にはいつ言えばいいのかタイミングを見計らってたっていうか……」
「なんだよタイミングって。てか合コンのときこいつと仲良さそうにしてなかったのに、どうして何度も会うようになったんだよ?」
「それも一緒に話そうと思ってたんだ。でも理雄が合コンでダメだったの知ってたし、話したら余計に落ち込ませちゃうかと思って……」
「俺に気遣ってたっていうのか? いらねえんだけどそういうの。そんなに俺が弱い人間に見えるか? それともすぐに誰かに言いふらすような、口が軽い人間に見えてたっていうのか?」
返事にまごつくたびに理雄の表情は厳しさを増した。だけど本当に隠していたわけではない。いつか言おうとしていたのは事実だ。狙っていた子にフラれた理雄のことを精神的に弱いやつだとも、口が軽いやつだとも思っていなかった。それに付き合い始めたのはここ数週間のことであり、早急に教えるよりはもう少し時間が経ってからの方がいいと考えていた。俺は悪くない。理雄に教えなくてはいけない義務はないし、いつ教えるのかは俺の自由だ。
……まただ。また自分の都合のいいように解釈している。こうして様々な理由を並べている時点で俺には罪悪感がないと言っているようなものだ。理雄が憤りを抱えているのは仕方ない。だけど、理雄の期待に応えなくてはいけない義務はないはずだ。速やかに報告しなかったからといって責められるのは筋違いだ。いちいち友人にプライベートを教えなくたって構わないだろう。
「なるほどねー。そんなんだからフラれたんじゃないの?」
俺と理雄の様子を交互に眺めていた新菜は合点がいったかのようにうなずいている。理雄から睨まれ、「何がだよ」と不満を小さく吐かれても笑みを保っていた。
「理雄くんって人間的に単純なんだね」
「はあ? お前に何がわかんだよ」
「わかるよ。この前会ったときと今の様子見てたら」新菜は動揺せず続けた。「単純って言い方が嫌なら鈍感って言おうか? 理雄くんってみんなにいい顔してれば全部うまくいくと思ってない? それでいて相手にも自分と同じことを求めてるよね。目上の人には媚びて、友達にはなんでも話してほしいと思ってそう。気に入られて気に入られたいタイプなんだよ理雄くんは。そういうところが単純ってこと。自分の都合のいいことしか受け入れられない、他人の気持ちなんかどうでもいいと思ってる人間に見える」
「そんなわけねえだろ。一回会ったことあるからって何言ってもいいと思うなよ」
「別に。そんな馬鹿なこと思ってるわけないじゃん。見知った仲だろうとそうじゃなかろうと、理雄くん見てたらそう思っちゃうし。それに理雄くんのこと何もわかってないからこそ色眼鏡なしに観察できてるって言うこともできるんじゃない? そこまで仲良くないから客観的にいいところと悪いところが見えるって、そう考えられない?」
「いやいや、意味わかんねえから。お前の論理とかどうでもいいわ」
「あとあたし新菜って言うんだけど。覚えてないの? こいつとかお前とか言わないでくれる? あたしはちゃんと理雄くんのこと理雄くんって呼んでるんだけど」
新菜の弁舌に理雄は反論できなくなったみたいで、こめかみには青筋が浮き出ていた。けれど理雄をなだめようとは思わなかった。新菜が言っていることは正しい。先輩に媚びへつらい、合コンで一夜の関係になりそうな女性を求め、お気に入りの茶髪の子へ積極的にアピールしていた理雄の姿は単純な人間らしく見えるものばかりだった。自分にとっての幸福だけを欲していて、不幸への対処の仕方を何も考えていない。物事をネガティブに考える性質もそうだ。すべて思い通りにいかなかったときのことだけを考えているということは、すべて思い通りにいくという思考が根底にあるからだろう。
「お前さあ、いくら他人だからって言っていいことと悪いことがあるだろ」
新菜の態度に黙っていられなくなったのだろう、先輩が険しい形相で口を挟んだ。また何か言おうとした理雄の怒りを阻み、自分の怒りを先にぶつけた。
「理雄も言ってたけど、和人の彼女だからって調子乗るなよ。数回しか会ったことのない人間のことをああだこうだって決めつけんな。知ったかぶりすんなっての。お前だって勝手に性格決めつけられたらいい気分しねえだろ? そんなんじゃ社会に出てもやってけねえから」
「あっそ。まだ社会に出てもないのに社会のこと知ったかぶりしてアドバイスしてるそっちこそおかしいんじゃない? 社会がどんなものか勝手に決めつけてるじゃん」
「は? 何様だよお前。少しは相手に敬意を示せよ」
「その台詞そのまま返すね。もう一度言うけどあたしお前って名前じゃないから。新菜ね、に、い、な。覚えた? てかあなたと話しててもつまんないから話したくないんだけど」
先輩の眉間にしわが集まっても新菜は臆しなかった。目線をすでに俺の手へ移している。先輩のことは本当にどうでもいい存在だと思っているらしい。その態度がまた癪に障ったようで、先輩は新菜を睨む代わりに厳しい目を俺に向けた。知り合いである俺の口から注意するよう無言で指示を送っていた。
とはいえ新菜の言い分の正しさは揺るぎない。初対面の新菜にお前と呼ぶ方が失礼だったし、社会のことを知ったような口を利いていた先輩にアドバイスをする権利はないように思えた。
「和人、こんなやつと付き合うのやめとけって」先輩は顎で新菜を指しながら言った。「こんな性格の悪いやつといたらダメになるぞ? お前の性格だけじゃなく、人生そのものが無駄になる。早めに別れた方がいいって絶対。友達にこんな口利くやつだぞ? ロクなやつじゃねえって」
いかにも真っ当なことを言ったつもりらしかったが、胸中に響くものは何一つなかった。先輩の言葉はただ鼓膜を震わせただけで、意味を理解しても考えを改められるような説得力はなかった。それは新菜をひどく評価したからではなかった。新菜と一緒にいること心配しているようで俺の性格や人生を否定していることに虫唾が走ったのだった。
俺は新菜の手を引いた。不意に手を引かれても新菜は驚かなかった。早歩きで理雄から遠ざかっていく俺のテンポに合わせている。俺を呼び止めようとする理雄の声が背後から聞こえる。けれど振り返らなかった。手のひらにあるぬくもりだけが信じられると、絶対に離してはいけないと確信していた。
カメラがなくなった部屋を見回した新菜はただ一言、「綺麗になったね」とこぼしただけだった。カメラがあろうとなかろうと関係ないみたいだ。でも俺は清々していた。カメラがあった頃の生活では感じられなかった解放感を抱いていた。もちろん穂香から提案される前まではカメラがない生活をしていた。でもカメラがなくなった今は息がしやすい。他者の視線を感じない生活にありがたみさえ覚えている。
冷蔵庫の扉を開けていた新菜は中からペットボトルの水を取り、二つのコップに注いで一つを俺に差し出した。何度も部屋に訪れているためか彼女だからか、新菜は俺の部屋で他人行儀でいることはなくなっていた。初めて部屋に招き入れたときからそうだったような気もしている。あのときは酔っ払っていたから、新菜がどんな振る舞いをしていたかは覚えていない。撮影した映像を見ればわかるだろう。でも撮影した映像はすべて穂香が持っている。microSDカードは映像をチェックするときに穂香へ渡しているから、俺の手元に過去の映像は何も残っていない。あるとすれば次の約束の日までに撮った映像くらいだ。
「あたし、余計なこと言いすぎちゃった?」
水を一口飲んだ新菜は頼りなく眉を下げた。新菜なりに反省しているらしい。「そんなことないよ」とほほえみながら返すと、新菜はホッとした表情に変わった。
「そういえば話ってなんだよ?」
「うん。聞きたいことがあるんだけど」
新菜はバッグからスマートフォンを取り出すとSNSアプリを開き、知らないアカウントが投稿した映像を再生した。外の光景を映したもので全体的に暗い。画質は粗かったが、画面の中央辺りで動いている男性は鮮明に見える。男性はブロック塀の奥にいる女性へ何度も足を振り下ろしている。罵倒こそしていないものの、誰かを無言で蹴り続けている姿は不審な存在としての恐ろしさがある。撮影している男性が漏らしたのだろう「やっば……」という囁きは目の前の光景に唖然としているみたいだ。周囲にいるらしい人たちからの「離れた方よくね?」「どうする通報する?」という戸惑いの声も聞こえた。
思い出したのは昨日の出来事だった。穂香に尾行され、アパートへ帰る道中で言い争ったこと。穂香から一方的に責められていた状況。ごみ捨て場で倒れながらもスマートフォンを向けて撮影していた穂香の血に染まった顔。穂香の前から逃げた先に何人かの男性たちがいたこと。その一人の手にはスマートフォンが握られていて、レンズは俺に向けられていた。新菜が見せてくれたこの映像は、その男性が撮ったもののようだ。穂香に暴力をふるっている俺を恐怖心半分、好奇心半分で撮ったものだった。
けれど画面の中にいる俺は俺のようには見えない。たしかに俺ではあるが、穂香と映像をチェックしているときに見る過去の俺とはかけ離れている。まぬけなところも情けないところも見当たらない。目の前で倒れている憎き相手を痛めつけることに全力を注いでいる。別人だ。俺の姿をした別人が画面の中にいる。覚えているはずの光景と客観的に見た自分自身の姿に乖離が生じている。俺の記憶とは違う姿の俺がいる。
画面の中にいる俺が荒々しい足取りで近づいてきて、こちらを一瞬見た。その眼差しからは理性や道徳心を感じられない。生まれてから一度も持ったことのない凶暴性が宿っていた。
映像が止まり、新菜はスマートフォンをテーブルに置いた。先に映像を見たらしい新菜がどう思っているのか表情から探ろうとしたが、目も口角も微動だにしていない。画面の中で静止している俺の去り行く背中を見つめ、固い表情を貫いている。けれど内心を隠しているわけではなさそうだった。抱いた感情はあるにせよ、激しい動揺を覚えてはいないみたいだった。
映像は今日の未明――俺が去ってからまもなくの時間に投稿されていた。返信は二百件近く、いいねの数は三千件以上もある。おそらく他のアカウントでもこの映像が投稿されているのだろう。丸一日も経っていないのに、俺じゃない俺が膨大な数の見知らぬ人たちの目に晒されている。
「いつ、見つけたんだ?」
「さっき。バンドの子から教えてもらったの」
新菜の近い人間が見つけたということは、俺の大学の人間も映像を見たに違いない。理雄や先輩が見つけるのも時間の問題だ。穂香はSNSをしていないから発見するのは遅くなるかもしれない。もしかしたら映像が出回っていることさえ知らずにいる可能性もある。でも、すでに穂香も見ていると思った方がいい。ネット上で良くも悪くも注目を浴びたものは想像をはるかに超える速度で拡散され、増殖し、不特定多数の目に晒されるのだから。
「その子は映ってる場所が近くにあるってことしかわからなかったみたいだけど、あたしは映ってるのが和人だってすぐにわかった。これ、あたしのライブに来てくれた帰りでしょ? どうしてこんなことしてるの? 和人が蹴ってる人は誰? 危ないことに巻き込まれてるの?」
新菜の顔に憂いを見るのは初めてだった。問い詰めるような口調ではあったが、たしかに新菜は俺の身を案じてくれている。わざわざ会いに来たのもそれが理由のようだ。
「大丈夫。危ないことには巻き込まれてない」俺はためらいながらも正直に伝えた。「映ってるのは俺だし、蹴られてるのは後輩なんだ。こいつ、ライブが始まる前からずっと俺のことを撮ってたみたいで。俺、その子が撮ってるの見つけて話したんだけど、だんだん言い争いに発展しちゃって、そのうちに俺、どうしようもなくなって……」
「もしかして、部屋に置いてたカメラと関係あるの?」
新菜に問われて口を開きかけたが、言葉が何も出てこない。首を縦に振れば済む話なのに、体が言うことを聞かなくなっている。穂香と交わした約束が返答を制していた。撮り合う関係は俺の方から断ち切ったというのに。穂香のことはどうでもよくなったはずなのに。しがらみから解放されたとはいえ、約束を守り続けていた意識はまだ残っていたらしい。カメラがあった生活はそれほど俺の思考や心情を侵していたんだ。無意識に感じていた視線は俺を変化させ、今まで知らなかった性質を引き出したんだ。
「何も言わないってことは、そういうことなんだね」と言った新菜の顔から憂いが一瞬で消えた。「何かあるとは思ってたけど、まさか暴力をふるう人だとは思わなかった」
「いや、違うんだ新菜。俺だって最初からこいつを痛めつけようだなんて思ってなくて、ついカッとなって――」
「カッとなったら暴力をふるってもいいの? イライラしてムカついて鬱憤を抱え切れなくなったら何をしてもいいと思ってるの? ダメに決まってるじゃん。和人だってわかってるでしょ? そんなことが許されないってことくらい」
顔をしかめて怒りを露わにしている新菜の目は潤んでいた。俺の愚かな行動を叱りながらも憐れに思い、かけるべき言葉をかけなければいけないと意を決していながらそんな言葉をかけたくない本心と葛藤していた。
「暴力をふるうなんて人として最低だよ。だけどね、ダメだってわかっててもしちゃったことはもっと最低。どれだけ悪いことか理解してるのにそれをしちゃうって……。和人は馬鹿じゃないと思ってたのに。高校のときの先輩みたいなことはしないかもって思ってたのに、どうして……」
涙をこぼさないよう堪えてる新菜の表情に胸が痛み、俯くことしかできない。返す言葉が見つからない。新菜の言う通り暴力をふるうことは悪いことだとわかっていたが、ふるってしまった以上俺に弁護の余地はない。だからといってこのまま何もせずにいることも重々理解している。新菜のためでも自分のためでもなく、被害を受けた穂香のために果たさなくてはならないことは頭の中に浮かんでいた。カメラを喫茶店の店主に渡したときには思いつかなかった、人として最低限の行動に今更ながら気づいていた。
「……これから、謝りに行くよ」
そう告げると、新菜はやるせない溜め息を吐いた。すべきことに気づいた俺に呆れるあまり吐き出された新菜の吐息は重苦しい空気と混ざり合った。うなだれている新菜は俺から目を逸らしている。金髪の陰に隠れていて顔は見えない。そこからこぼれた水滴はぽつぽつとカーペットに落ち、そのまま音もなく染み込んでいた。
穂香のアパートへ駆けている道中にスマートフォンを何度か見たが、穂香からのメッセージは一つも届いていなかった。想定はしていたが行くしかない。穂香が外出していたら近くで待っていよう。俺を避けるような仕草、表情、言葉があれば後日だ。穂香からの返信がない今できることは、頭を下げるために直接会いに行くことくらいだ。
穂香が住んでいる三階建てのアパートに着き、最上階の廊下を進む。四つ目のドアのインターホンを鳴らす。部屋の中から呼び出し音が聞こえ、しばらく経ってからドアが開いた。わずかな隙間から穂香の顔が覗き見える。真っ先に目についたのは鼻筋を覆うように貼られているガーゼだった。それから左の頬のガーゼ、青黒く腫れた右の瞼へと目が移るにつれ、取り返しのつかない行為に及んでしまったことを改めて自覚した。
穂香は俺の頭からつま先まで目線を這わせている。汗まみれの体からは蒸れた匂いがしている。目の前を微細な黒い虫が飛び交っている。けれど俺は動かず、穂香の反応を待った。背筋を伸ばし、無駄な言い訳をしないよう口を閉ざしていた。警戒心を緩めてくれたのか、穂香はドアを大きく開けてくれた。俺は小さな会釈をし、おずおずと部屋の中へ入った。
穂香の部屋は廊下から散らかっていた。いつ買ったかわからないカメラや三脚、コード、段ボール箱が乱雑に積まれている。床は薄茶色のカーペットが敷かれているが、大量のコードが絡まりながら密集していて全容はわからない。テーブルには見慣れたノートパソコンとmicroSDカードをしまっているらしいクリアケースがある。部屋の中を見回してみたがテレビはない。代わりに哲学書が大量に収められている書棚が壁一面を覆っていて、空白の部分には小型カメラが設置されている。赤いランプが灯っているから撮影中のようだ。画面越しに見ていた穂香の部屋は広々としているように思えたが、実際に訪れると窮屈に感じられる。それは床一面のコードのせいだけでなく、穂香から漂っているとげとげしい空気のせいでもあるのだろう。
カーペットを覆うコードを脇に寄せて正座をし、ベッドに腰かけた穂香へ目線を向ける。依然として目つきは厳しい。ベッド近くの三段ボックスに置かれた小型カメラは穂香の右側を捉えている。玄関前に置かれていたカメラも、狭いキッチンにあるカメラも、部屋の隅にあるカメラも、最初に設置したところから移動していない。
俺のアパートにいる新菜は怪我を負った穂香を見て驚いているに違いない。小型カメラの映像の見方はここへ訪れる前に説明したが操作方法は教えてないから、新菜は俺と穂香の様子を静観しているだろう。機械の動かし方は疎いと言っていた新菜のことだから、独学でカメラの動かし方を身につけられるとは思えない。でもそれでいい。最低な人間から抜け出すには撮られている意識が必要だ。ここにいない新菜の目線が俺を制してくれる。自分に都合のいい行動や発言を抑えられる。
「あの……すまなかった」
はっきり言わなければ誠意を伝えることはできないと、穂香のアパートへ向かう道中で俺は考えていた。なのに唇は思うように開かなかった。いくつもの膜でコーティングされているみたいに重たく、わずかな隙間から発せられた声は頼りなかった。でも穂香の耳には届いたようだった。足を組んだ穂香は頬杖を突いて俺を見下ろしている。
「お前の……いや、穂香の言う通り俺は最低な人間だよ。誠実さに欠けてた。卑劣だった。真面目ぶってて他人の痛みがわからないやつだった。昨日言ったよな? 俺のことを父親以下だって。穂香の父親がどんな人なのかわからないけど、ずっと一緒に暮らしてた穂香が言うんだから実際にそうなんだと思う。俺は穂香の父親よりもひどいやつなんだ。多分、この世にいるすべての人間の中でも下等中の下等の、救いようのない人間なんだ。でもこれだけは言わせてくれ。本当に悪かった。怪我を負わせて申し訳ない。許してもらおうとは思ってないし、許してくれなくてもいい。そんなこと望む立場じゃないことはわかってる」
体を穂香の方へ向き直し、頭を深く下げる。意識的に声を大きくし、「申し訳なかった」と発する。穂香の目にどう映っているのかはわからない。罪悪感を抱き心の底から反省している人間として真面目に謝ったつもりだが、自分ではそう思っているだけかもしれない。俺は最低な人間だから、罪悪感がどんなものなのか本当に理解してはいないだろうから、真剣に謝っても誠意が不足しているように見えてしまってもおかしくない。
ベッドが軋み、撮影の始まる音が頭上で聞こえた。きっと穂香の手にはスマートフォンが握られていて、レンズを俺に向けているのだろう。でも撮影を止めるよう注意することはできない。今は穂香の意志に従うことが絶対だ。逆らわなければ許してくれるかもしれない。いや、そんなこと考えてはいけない。また都合のいいように解釈している。もはや癖になってしまっているみたいだ。
視界の端に穂香のつま先が現れた。ベッドから下り、俺の前にしゃがみ込んでいるらしい。何かを言う気配はない。長らく頭を下げているせいで背筋が徐々に重くなりつつある。室内を満たしている静寂の中で、穂香が手にしているスマートフォンのレンズの目線を、後頭部にピリピリと感じる。
俺の前にいた穂香が不意に立ち上がり、玄関の方へと移ったのを足音で理解する。箱が開き、何かが組み立てられているみたいだ。耳を澄まして状況の理解に集中していると穂香から髪を鷲摑みにされ、俺はようやく頭を上げることができた。ベッドの前に設置された三脚のてっぺんには穂香のスマートフォンが取りつけられている。レンズはベッドに向けられていた。近くにはベッドを囲うように小型カメラが設置されている。穂香の生活を捉えていたすべてのカメラが、今はベッドの上だけを捉えている。
穂香に髪を引っ張られ、俺は無理やりベッドに倒された。振り返ると穂香はすでに三脚のうしろに立っていた。俺を見つめ、服を脱ぐような手振りをしていた。俺は拒絶の表情を見せたが、穂香の厳しい眼差しは変わらなかった。ジェスチャーを激しくし、早く服を脱ぐよう急かしてきた。俺はシャツとズボンを脱ぎ、それらを床へ落とした。けれど穂香はジェスチャーを止めなかった。声に出さず唇の動きだけで「脱げ」と言った。恥を抱えながらも下着を脱いで裸になると、穂香はスマートフォンがついている三脚をわずかに後方へずらした。俺の全身が捉えられるよう調整しているその姿はカメラマンというよりは監督のようだった。俺の体はじんわりと汗ばんでいた。部屋は冷房が効いているはずなのに、みずからの蒸れた匂いを強く感じた。
穂香はスマートフォンの画面を見ながら右手を丸めて上下に動かした。それは手持ち無沙汰だから動かしているわけではなく、確実に俺への命令だった。俺はだらんと垂れているみずからの性器を握り、穂香の手振りの通りに動かした。みずからの意志でおこなう自慰と同じ動作のはずなのに、穂香の指示のせいか見られている状況のせいか、性器は膨張しそうにない。右手の中で脱力したままだ。
脳裡には穂香の話がよぎっていた。幼い頃に父親が撮っていたものの正体がわかったとき、穂香は今の俺と同じ気持ちだったのだろうか。状況は全く異なるが、生理的嫌悪感を抱いた点では同じように思える。ということは今の穂香が味わっているのは当時の父親の気持ちか。幼い自分を邪な目的で撮っていた父親の気持ちになろうとしているのだろうか。気分の乗らない自慰を続けている俺をスマートフォン越しに眺めている穂香の表情は固いままだ。ほほえんでもなければ怒りを露わにしてもいない。ただ俺を観察し、体の変化がいつ起こるのかと待っている。
俺は目を閉じて新菜を思い出した。全身のなめらかな肌触りを、俺の性器を愛撫しているときの笑みを、きつく抱擁しているときに呼吸を満たす温かな匂いを脳裡に散りばめた。次第に性器は膨らみ、固くなり始めた。手の動きが自然と速くなる。俺に突かれるたびに新菜が漏らしていた喘ぎ声と、メロウな曲に合わせた美しい歌声が耳の奥に響いている。体はだんだん熱くなっている。ベッドに横たわると背筋との隙間に蒸れた空気が生じた。あらゆる感覚が性器に集まっていて、吐息の乱れを気にする余裕などなくなっていた。穂香の前で情けない姿を晒していることも、周囲にあるカメラ越しに新菜が見ていることもどうでもよくなっていた。
蓄積された快楽が限界を迎え、俺は声を押し殺しながら射精した。上半身にボタボタと生温かい感触が落ちた。瞼を開けて頭を上げると、腹や胸に白く濁った精液が滴っていた。けれど不愉快ではなかった。射精した瞬間の絶頂だけではない、未知の解放感で体中が満たされていた。脳裡を占めていた新菜の顔はぼやけていた。魅了されていたはずの歌声すら思い出せなかった。
音が鳴った方へ振り向くと、穂香がスマートフォンを三脚から外していた。どうやら撮影は終わったらしい。俺は体をゆっくり起こし、テーブルに置かれていたティッシュを何枚も引き抜いて精液を拭いた。筆の穂先を整えるように性器の先端をティッシュで拭いているあいだ、穂香はノートパソコンとスマートフォンをコードで接続していた。俺に命令を下す気配どころか、気にかけている素振りすらない。下着を着直しても穂香は何も言わなかった。ノートパソコンの画面を見ると映像が転送されているところだった。何を転送しているのかはすぐにわかった。
転送が終わると穂香は振り向き、俺に怪しい笑みを見せた。頬のガーゼを留めている白いテープが剥がれるのもかまわず口角を上げている。綺麗に揃っていたはずの歯は上の八重歯がなくなっていて真っ黒な穴が空いているようだった。穂香は床を軽く叩き、ペットを呼び出すかのように俺を呼んだ。俺は慄きつつもベッドから下り、穂香のそばに正座をした。
穂香は素早い手つきでノートパソコンを操作し、瞬く間に画面へ二つの映像を表示させた。右側の映像には数分前の俺がいる。左側の映像は薄暗くて不鮮明だったが人影がぼんやり浮かんでいた。穂香は二つの映像を同時に再生した。右側の俺は服を脱ぎ出し、左側の人間は一瞬にして画角の下へと消えた。どちらの映像からも音声が流れている。けれど大きく聞こえるのは左側の映像だった。いくつものビニール袋がひしめいているらしい音がガサガサ鳴っている。画角から消えた人影はふたたび現れ、こちらに向かってスニーカーを勢いよく近づけたり遠ざけたりしている。
右側の俺は裸になっていた。客観的に見るのが初めてだからだろうか、自分の性器は直視しているときよりも異様に小さい。数分前の俺は性器を軽く握ると上下に擦り始めた。ベッドに手を突き、苦々しい表情で自慰をしている。下劣で情けない。恥じらいを覚えている様子すらなく自慰に耽っている。
左側の映像がわずかに明るくなり、人影の輪郭や顔がはっきりとした。そこにいたのは昨日の俺だった。昨日の俺はこちらめがけて足を何度も近づけている。そのたびに映像からはガタンと重たい音が鳴っていた。昨日穂香が撮っていた映像だった。傷つけられながらもスマートフォンを手放さず、俺を捉え続けていたときの映像だった。穂香の目線だった。昨日の俺は顔中にしわを寄せている。奥歯を噛み締め、怒りを宿した目でこちらを睨んでいる。
数分前の俺はベッドに横たわった。熱のこもった吐息を漏らし、膨らんできた性器を擦り続けている。こちらに目もくれず快感に溺れている。手の動きに合わせてベッドの軋む音がかすかに聞こえる。昨日の俺の姿はだんだん捉え切れなくなっていて、何度も画角から消えては現れている。ごみ袋のひしめく音に紛れて聞こえている呻き声は穂香のものだった。激しい蹴りを食らい、痛みを堪えて押し殺した声だった。
不意に映像がもう一つ現れ、数分前の俺と昨日の俺を遮った。流れ始めた映像には俺と新菜がいた。ベッドの上でキスをしている。二人とも裸だ。合コン終わりにコンビニで偶然出会ったあとの光景だった。粘着質な音が止むと、俺に跨った新菜は腰を前後に振り始めた。弄ばれている俺は顔をしかめて快楽に耐えている。それを見下ろしている新菜は嬉しそうに笑っていた。
もう一つの映像が表示され、数週間前の俺と新菜が隠れた。こちらを覗き込んでいる俺のうしろで穂香がノートパソコンを開いている。新しい小型カメラを取りつけたときの映像だ。今度は掃除をしている俺が現れた。埃取りを手に部屋の中をうろついているが、いつの俺なのかわからない。記憶にない。知らない俺が平然と生きている。
映像は次々と表示されていく。ベッドで眠っている俺。レポートを進めている俺。コンビニ弁当を食べている俺。こちらに向かって手を振っている退屈そうな俺――。どれも覚えていない。俺のはずなのに俺ではないような、見ず知らずの人間を観察しているような気がしてならない。
カチカチとクリックする音が鳴り、重なっていた大量の映像が画面に敷き詰められた。隙間なく散りばめられたいくつもの俺はそれぞれの行為に没頭している。自慰をし、暴力をふるい、新菜に弄ばれ、カメラの画角を整え、掃除をし、学び、食べ、時間を浪費している。カーテンがないマンションを遠くから眺めているみたいだ。それぞれの俺は他の俺に干渉していない。独立した空間と時間の中にいる。今の俺はそれらの部屋の様子をすべて捉えている。それぞれの吐息や声や物音を、一緒くたに耳にしている。
横目で新菜を見ると、混沌とした部屋の様子に息を呑んでいた。みずから広げた光景のはずなのに言葉を失っていた。それぞれの部屋を眺めているその眼差しは歓喜に満ちていた。剥がれかけた頬のガーゼの隙間からは青黒く腫れた痣が覗いているが、穂香はそれに気づいていない。
(了)
【著者プロフィール】
那須 湧紀(なす・ゆうき)
1993年生まれ。山形県出身。
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