見出し画像

【日々の、えりどめ】第18回 巷の読書帖から


 ポケットに岩波文庫を入れて、出かける。そうしてどこかで何行か読んで、帰ってくる。

 毎日、そんなことをしている。誰かに見つかってしかるべきところに報告でもされたら、何かの刑罰でも受けなければなるまいかと思う。

 ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ。愉しき放浪児。関泰祐訳。学生時からもう何度も読んでいる小説であるが、その日はその本がポケットに入っていた。その本は、ちょうどポケットに入る厚さなのである。同じ理由でよく持ち歩いていたのは、テオドール・シュトルムの、みずうみ。他四編。同訳者。これも何回も読んだ。

ぼくはチョッキをさぐってみたが、しまった! 入れておいたはずのあの數グロッシェンは、馬車のうえでぼくが躍りまわったときにポケットから飛び出したにちがいない――無くなっていた。ぼくにはヴァイオリンを彈くよりほかには、それも杖をもった例の男が通りすがりに、そんなものには鐚一文だってやれやしないと言ったこの藝よりほかには、何の能もないのである。

アイヒェンドルフ作『改訳愉しき放浪児』関泰祐訳 岩波書店

 アイヒェンドルフの小説から、こんな一節を書き出してみる。あるいは書き出すことでこの無聊な日々の中にも意味のある文脈を見つけようとするわたしというのらくら者は、それだけで活動をしていると思い込むことで何とか続き物の「ものがたり」としての自己を保っているのである。あらゆる自己を詐称しながら。ポケットの中には、まだいくらかの資金があると思い込みながら。あるいはいかにも由緒あり気な趣味を、古い唄の節回しを真似るようにして鼻にかけながら。襤褸も承知で身に着けて。

 鐚。鐚。鐚。――その夜、その字をじっと見ていたら、間の抜けたような悪がわたしの生活を足元から愉快にした。そして座りながらわたしは踊りはじめる。頭ではこのような短文を書きはじめる。見かけ通りに薄っぺらのわたしの生活。そうしているうちに、煙草銭は次々とポケットからこぼれていく。丁寧に拾い集めれば家でも建つのではないかと思う。そんな冗談すら書きつけているこのわたしに残されたものは鐚一文の価値もない、旧字体にもなりきれないようなこの若い「芸」だけ。

場末にて
 場末、なんてことをうっかりと言ってしまうと、ああ、言いやがった、そんな風なことを言われることもある。わたしからすれば、それは一種の、いわゆる愛情が込められたほめ言葉であって、例えば町外れであるとか、郊外などというような言い方よりも、格上であるとさえ思っているのである。

 町外れだなんて、その方がひどい。場末とは場の末である。字面だって末広がりでいいではないか。町外れや郊外とは違って、場外と言っているのではないのである。あくまでも内々の話なのであるから、いじらしいではないかと思う。

 しかし中には、うっかりとこの言葉を言ったとて、まるで当たり前のように受け流してしまうような町もある。西川口という町は、そのうちのひとつである。

 わたしは、この町が好きである。というのも、行きつけのビール屋と中華屋があるからなのだが、この町の魅力はそれだけではなくて、その風景が、異国のそれなのである。この町を歩いていると、言語も文化も違う国にいるような、そんな心地よい錯覚を起こすのである。自分のポケットに入っている何枚かの硬貨が、その貨幣単位も数え方も、まるで別物になっているように思えるのである。

 そんな町の駅前に、一軒の立ち飲み屋がある。お店の方は、日本人ではない。焼き鳥と酒しか置いていない。店内が清潔とはお世辞にも言えない。もちろん安い。客は常連で、そのほとんどが作業着かつなぎ姿である。煙草の煙の中から聞こえてくるのは、博打の話が多い。それから下世話。

 わたしはこの店にたまにひとりで来るが、以前、ここで小山清の本を広げたことがあった。――あれは、ほんとうに良かった。秀逸な読書体験であった。わたしは〈言葉が煤ける〉というような思いがして、それがまるで手に触るようにも感じたのである。

居心地の良い椅子
 わたしの住んでいる辺りはかつて農業用水が張り巡らされていたその名残で、いまも細い水路が多くあって、それがまたどこかの水路に繫がっているという風景が珍しくない。それらの水路は緑道になっていたり、公園として整備されていたりする。

 この水路の途中に、わたしのお気に入りの椅子がある。それは大きな木を囲むようにして設置された半円形のもので、これが妙に座り心地が良いのである。もっともそれは椅子というよりもただ座れるというだけの樹脂製の〈でっぱり〉のようなもの(きっとこの木への衝突防止などのために設けられたものである) なのだが、椅子の定義のひとつに座ることができるという項目があるとするならば、その何かの都合で出現し続けている都市の中の〈でっぱり〉も、わたしにとっては立派な椅子のひとつなのであった。――なによりもその木の後ろ側から僅かに揺れる枝葉の影をつけながら、いくぶん和らぎながらわたしの手元に光を降り注ぐ外灯兼読書灯こそ、また殊勝なのであった。

 その日もわたしはかつての農業用水の流水音を聞きながら、その椅子に座って晶文社のベンヤミン著作集を読んでいた。――今日もいつもと同じ主婦の方が、買い物袋をぶら下げた自転車で目の前を横切る。何やらこちらを訝しそうに、一瞥又一瞥しながら。――そう思うと、神妙な間合いで自動車が通り過ぎる。――そのたびに隣家の犬が一大事のようにうるさく新鮮に哮り出す。――そういう事々さえも、わたしにとってはこの椅子の居心地のためにも必要とさえ思えるのであった。

 だんだん静かになると、今度は蹠の方からかつての農業水路の音がちろちろと聞こえ出す。


【プロフィール】
林家彦三(はやしや・ひこざ)
1990年7月7日福島県生まれ。
早稲田大学ドイツ文学科卒業。
2015年林家正雀に入門。現在、二ツ目。
若手の落語家として日々を送りながら、
文筆活動も続けている。本名は齋藤圭介。

著書『汀日記 若手はなしかの思索ノート』(書肆侃侃房)
2022年5月上旬発売!


いいなと思ったら応援しよう!