【第5回ことばと新人賞最終候補作】蒼為静「赤いワンピースの川と耳の中の魚」
赤いワンピースの川と耳の中の魚
蒼為静
1
アズマの住むアパートは堤防のそばにあった。家賃は三万九千円。風呂はなくトイレは共同。近くの銭湯まで片道二〇分というのはかなり厳しかったが、そんなところに住んでもう四年が過ぎようとしている。当初は図書館勤務と学習塾講師のかけもちだったが、三十五才を過ぎた辺りから体力に自信がなくなり、図書館勤務一本にしていた。当然、貯金は減っていく。
《募集》:本の読み聞かせ。応募資格:読書家、日時:不定期、金額:要相談。そんな広告がアパート近くの電信柱に貼ってあり、興味がわいたアズマは記載してある電話番号に連絡してみた。
「もしもし」それは女の声だった。
「募集の広告を見たんですが・・・」
「どちらのでしょうか?」と女が聞き返す。ということは他にも貼ってあるのか、そう思いつつアズマは場所を説明した。
「つまり、赤い川のところですね」と女が言った。
「え? ええ・・・はい?」
赤い川? 確かに川のそばだが、赤くはない。赤いとはどういうことか? 赤潮が頻繁に発生するということか? しかしここに四年も住んでいるが川が赤かったことなんて一度もない。
「ところで? 読書家ですか?」
そう・・・それだった。
「あの・・・広告を見て気になったんですが、読書家ってどういうことですか?」
「本を読む人のことです」女の声に不快感が現れている。
「いえ、それはわかります。ですが・・・」
そう・・・「ですが」だ。そもそも読書家に資格なんてない。学歴ならば大学名や、英語力ならTOEIC何点とか英検何級とか、図書館員なら司書資格、そして弁護士なら弁護士資格のような客観的なものがある、しかし読書家となると明確な社会的基準があるわけではない。とはいえここで下手な質問は禁物だ。
「ええ、一応・・・読書家です」
「わかりました」それが女の返答だった。
本当にこんな自己申告だけでいいのか? そんな疑念が残る。
「それで金額は幾らぐらいをご希望ですか?」
何? 金額を希望できるのか? じゃあ・・・十億とか言ったらどうなるのか?
「いやまだ、そこまで考えていなかったのですが・・・というのも読み聞かせ自体初めてなので・・・」とアズマは正直に答えた。
「確かそちら、赤い川の広告ですと」と女が言った。「不定期という内容だったかと思いますが、ただいま依頼主の体調により月一回が限界でございまして、一日三時間で十五万円というのはいかがでしょうか?」
「え?」アズマは耳を疑った。「十五万円ですか? そんなに?」悪い冗談としか思えない。読み聞かせで十五万円・・・それでもアズマは一応、予定を申し添えた。
「申し訳ありませんが、土曜日はシフト勤務で都合がつかない場合が多々あります。日曜日なら概ね可能です」
「承知致しました。こちらはそれで構いません。では・・・繰り返しになりますが、本当に読書家ですね?」
「あのう、もう一点気になることが・・・」
「なんですか?」
「読書家にもいろんな種類があると思うんです。新書本しか読まないとか、自然科学系のものしか読まないとか、もちろん文芸書しか読まないとか、文芸書でも探偵小説だけとかSF小説しか読まないとか・・・」
「ゲーテやシェイクスピア、シュールレアリスムなどは読みますか?」
「ええ、まあ・・・学生時代に・・・でも今は・・・」でも今は読んでいない。ちょっと待て、え? シェイクスピアにシュールレアリスム・・・何だ、その組み合わせは?
「それでは電話番号と住所、それとお名前を教えていただけますか?」
戸惑いつつもアズマはそれらを伝えた。
「承知致しました」女がメモを取っているのがわかる。「それでは後日、担当の者がそちらに伺いますので、それまでお待ち下さい」
「え?」
電話が切れた。
2
再度、確認の電話を入れるべきところだろうが、アズマはそうしなかった。あまりにも一連のやり取りが杜撰としか思えなかった。今時、電信柱に貼った広告での募集、読書家か否かという曖昧な応募基準、そして十五万という金額、アズマの月収と大差ない、しかもたった三時間、時給にしたら五万円、それも素人による読み聞かせ。ただのイタズラかもしれない。
まあ・・・いい・・・アズマは部屋の窓を開けた。ここでいろいろ考えても始まらない。向こうから担当の者が来るというのなら、それを待てばいい。
夕暮れ、川が流れていた。五〇メートルほどの川幅、確かに夕陽が反射して赤い川に見えなくもない。対岸は集合団地、そして遠くには空港があって、その先には海が広がっている。磯の香りがいつになくきつい、左手には鉄橋を列車が走っている。一番好きな時間帯だった。けど彼女は違っていた。
「夕暮れのたびに何かを失っていく気がするの・・・」
いつになく沈んだ面持ちで彼女がそう呟いたことをアズマは思い出す。
二人の出会いはこのアパートに住む前のこと。場所は職場に近いカフェ。その時、彼女は他の男と一緒でアズマはたまたま隣に座っていた。モメているようだった、きっと男の浮気かなんかだろう。昼時とあって店内は混んでおり、他の席は埋まっていた。だから仕方なくそこでランチをとって読書していたところ、立ち上がった彼女が相手の男にアイスコーヒーをぶっかけ、それがアズマの読んでいた本にもかかってしまった。ヘミングウェイの『老人と海』だった。
それが出会いだった。本は彼女の弁償ということになった。それ以来、二人は親しくなり、アズマの引っ越し時には彼女も手伝い、秋がきて、冬を迎え、しばらくすると連絡が途絶えがちになり、いつの間にか彼女はいなくなっていた。果たしてそれは恋人という関係だったのだろうか・・・そんなことを考えながら暮れていく町と、流れていく川を見つめていると、アズマは彼女の言ったことが正しいと思わずにはいられなかった。
「夕暮れのたびに何かを失っていく気がするの・・・」
いったいあの時どう答えれば・・・彼女を失わずに済んだのか・・・
3
三週間が経過した、激しくノックする音でアズマは目を覚まし、玄関のドアを開けると廊下に立っていたのは二人組の男だった。一人はノッポでもう一人はチビ。二人ともサングラスに黒のスーツ。そしてチビがエラそうに口を開く。
「テメーがアズマか?」
「ええ・・・そうですけど」
「こっちは色んな依頼が舞い込んでるんだ、とっとと話を済ませるぞ!」とチビはイラついている様子。
「おい!」と顎で後ろにいるノッポの方に合図する。
落ち着いた口調でノッポが話し出す。
「読み聞かせをされるということですね?」
目覚まし時計のベルが鳴った。アズマはそれを止めてから言った。
「スミマセン。これから仕事なんですが・・・」
「あ?」チビが詰め寄る。アズマより頭二つ分小さい。「テメーの仕事や都合なんか、どうしてコッチが気にしなきゃいけネーんだ。身のほどを弁えろ。コッチはテメーと違ってヒマじゃネーんだ、ここじゃなんだ。中へ入れろ! それとあんまりナメたクチきいていると、ズドンと一発お見舞いしてやるぞ!」とチビが凄み、玄関へと押入り、土足で上がり込んできた。ノッポがその後に続く、そして丁寧にドアを閉めてくれる。しかし土足だ。
「話の続きですが、読み聞かせの応募をされたということですよね?」とノッポ。
「はい」とアズマ。
「素直にそう答えればいいんだ、このションベンハゲ!」
「仕事の詳細ですが、読み聞かせで、或る人物の耳の中の魚を駆除して欲しいのです」
「え? はい?」アズマは耳を疑った。「魚ですか? 耳の中?」
何を言っている? 読み聞かせで魚を駆除? それも耳の中の?
「スミマセンが言っている意味がよくわからないのですが」
「はあ?」チビが割って入る。「テメー、それで本当に読み聞かせができんのか? ボケ! 日本語が通じてネーのか? アホ! 魚を駆除するために読み聞かせをしろって言ってんだ!!!」
「ですから・・・どうやって?」
「だ・か・ら、読み聞かせてだよ」
「本のセレクトはそちらに任せます」
「いやですから・・・」いったいどんな本を読めばいいのか・・・、そもそも何だ? 耳の中の魚? ゲーテ? シェイクスピア? ああ・・・シュールレアリスムとはそういうことだったのか・・・しかし・・・聞かずにはいられない。
「何ですか? 耳の中の魚って?」
「そんなこたぁ、テメーがどうして気にする必要があるんだ? このウスラトンカチ、そもそも日本語のまんまだろ? 耳の中の魚だよ」
「他にお聞きしたいことはワタナベの方に連絡して聞いてください。電話番号はご存じのはずです」そう言ってノッポの方が胸ポケットから一枚の写真を取り出した。それは黒頭巾をかぶり椅子に両手両足を縛られた人物の写真だった。
「いいか! チンカスボーイ!」チビが怒鳴る。「この件を口外したら、今度はテメーがそうなる番だ!」
「裏面に日時と待ち合わせ場所が記載されています。一応、当日はその案内状も持参するようお願いします」そう言って二人は土足を詫びることなく部屋から立ち去り、チビの方は中指を立ててからドアを足で閉めた。
アズマは案内状とノッポが呼んだ写真を見た。だがよく見ると、それは写真ではなく精巧に描かれた絵であることがわかった。下の方にサインがしてある。そして裏面には「地下鉄十四号線、整備工場前、ガソリンスタンド、今月二十日、夜の十一時。書籍と本案内状を持参のこと」と記載されている。十一時? 遅すぎないか? 「整備工場前」といったら十四号線のターミナルだ。少し遠い。そして土地勘もない。ちょっと不安だった。一度、下見に行かなければいけない。アズマはそう思った。
4
赤い川・・・ふとアズマは真夜中に堤防の上を歩く赤いワンピースの女のことを思い出した。顔まではわからないが、歩き方は軽やかだ。酔っぱらっているという感じでもない。堤防の上を歩くぐらいだから、バランス感覚にはよほど自信があるのだろう。夜中、窓を開け、対岸の町の明かりをぼんやり見つめていると、彼女はハイヒールを手に持って裸足のまま川上から歩いてくる。その姿が川沿いの常夜灯に現われては消え、現われては消えて、アズマの眼下を通り過ぎ、そして川下へと消えていく。こちらの存在に気付いているのかどうかわからない。にしても必ず赤いワンピースだ。アズマの部屋は二階の奥の為、堤防を見下ろす位置となり、川下は左に向かってカーブを描く、だからしばらくすると女の姿は視界から消える。とてもこれから仕事という感じではない。おそらく彼女の住まいがその先なのだろう。真夜中に堤防の上を歩く赤いワンピースの女。
5
アズマの勤め先は大学の付属図書館だった。試験期には連日学生でごった返す。そして何よりも気をつけなければいけないのが大学教授という殿上人、彼等から下される要求、要望には決して異議を唱えてはならないという暗黙のルールがあった。身分証を忘れても貸出OK、貸出上限数を越えても貸出OK、閉館時間を守らないことも当たり前、彼らの利用が終わるまで消灯、閉館はご法度(たいていこの手の案件は職員の次元で揉み消され、良心的な大学なら残業代支給という話にすり替えられて終わりとなる)。そしてきわめつけが、何日、何年、延滞しても延滞金は無徴収。学生ならば一日につき二〇円を支払わなければならないが、教授であれば何日延滞しても無料という破格の待遇でもてなされる。まさに教授とは雲の上の人、それを当然視することがアズマの仕事だった。
ところが今回、何かの手違いで数名の教授に延滞の督促メールが届いてしまい、これに激怒した彼等が図書館にクレームをつけにきたのである。そもそも図書館資料は研究資料、それを返却とは言語道断と考える彼等にとって督促メール自体が無礼で失礼だというクレームだった。アズマはメール送信システムの設定ミスが原因です、とカウンターで何度も平謝りに徹した。
「しかしね。キミ・・・所詮、委託スタッフだろう」
「アナタじゃ話にならないわ・・・全く・・・」
「職員を呼びたまえ、職員を!」
「これだからワタシは外部委託には反対だったんだ!」
「そもそも今回の件とは別に、何で教員の貸出本に返却期日が設けられているのか、それが失礼な話なんだ。教授を何だと心得ているのだね!」
「教授はね。大学の要なんだよ」
こうして事態は収まるどころか過熱し、事務室から課長が呼び出され教授一行は会議室へと案内された。
結論としてアズマの方で始末書を書くことで一件落着。
「いいですか? アズマさん」教授が引き上げた後で図書館サービス課長が詰め寄る。「納得したんですよね、納得したうえで始末書を書いて下さいね。納得してもいないのに、後で職員の人に無理やり書かされましたとか言われたら困りますから、最近、娘も私立の小学校に入学したばかりでね、わかって頂けますね? わからないわけないですよね?」
「はい」
そしてアズマは始末書を書きサインした。
6
金曜日の夜、下見のため、仕事が終わってからアズマは地下鉄十四号線に乗り、五列もある長いエスカレーターを上がって「整備工場前」の改札を出た。都会であるにもかかわらず、圧倒的に光が少ない荒寥とした空間。遠景には空港、左手には高速道路の灯りが連なってカーブを描く。目の前にはだだっ広い駐車場とガソリンスタンド。車が数台と作業車が四台、錆びたコンテナが遠くに打ち捨てられ、コンクリートのひび割れからセイタカアワダチソウが生えている。
常夜灯が点滅している。キャノピーは錆びつき、看板はない。よく見るとガソリンスタンドは閉鎖していた。
アズマは周りを伺いながら黄色いロープを跨ぎ越し、旧ガソリンスタンドに足を踏み入れた。その錆びついたキャノピーの下、窓ガラスの割れた事務室前には黒い車が停まっているが四輪ともパンクしていた。
アズマは時計を見た。十時半・・・職場を出たのが九時十五分だったから一時間半あれば充分か・・・・アズマは辺りを見回した。誰もいない。荒寥とした空気が広がる。まるでこの世界にたった独り取り残されてしまったかのような孤絶感が、静かに、波紋を描くように広がっていく。もう少し集中すると、アズマの肉体が感覚しているのではなく、空間が荒寥を感覚して満ち始め、膨張し・・・コンクリートと辺境の夜が領して、その付属品でしかないアズマの意識が徐々に小さくなり、代わりに廃棄された空間がさらに周辺の荒寥を吸収して拡散していく。そしてアズマは自分の位置を見失っていく・・・
そんな瞑想にふけっているところに現れたのは野球帽をかぶった男だった。
「何だ? オマエは!」サイズLの帽子を目深にかぶっているためか、表情がいまいちわからない。
「こ・・・こんばんは」アズマは動揺した。
「失礼な奴だな」男は舌打ちした。年齢は六十歳、いや七十歳ぐらいだろうか・・・背丈はアズマと同じくらい、華奢で年を取ってはいるが堂々としている。喧嘩をしても勝てないと一目でわかった。
「いいか」男はコンクリートの地面に唾を吐いた。「オレの方がどう見たって年上だろう」
「ええ・・・」
「そのオレがオマエは何だと聞いたんだ。それなのに、オマエはこんばんは、とぬかしやがる、人を見下すにもほどがあるんじゃないのか?」
「も・・・申し訳ありません」もちろん見下しているつもりは毛頭ない、だがよく見ると右手に拳銃を握っている。モデルガンか?
「あのう・・・」
「質問に答えろ! オマエは何だ!」
「えっと、アズマです」
「名前なんか知ったことか、これから死んでいく奴の名前なんか覚えてどうする?」
「え?」アズマは耳を疑った。
「最近はこんな何でもないような奴に、こんばんはなんて言われる時代だ。クソ忌々しいにもホドってものがある」
「あの・・・殺すって?」
「おい、とことん礼儀知らずのクソだな。質問に答えろ、オマエは何なんだ」イラついているようだが、声の調子が一定だ。それが余計に不気味さを増す。
「ジロジロ、こっちを見るな」と言って男は銃口をアズマに向けた。
アズマは両手を挙げた。
「ちょっ・・・ちょっと待って下さい、自分は・・・ただの下見にきただけですよ」
「下見? 変わった奴だな。自分の殺される場所の下見? それも当日に? それは下見とは言わネーだろう・・・」
「いや、申し訳ないですけど、殺されるつもりはありません」
男は鼻で笑う。
「誰もがそうほざく、そんなことオレの知ったことじゃない、コッチには次がある」
「次?」
「質問に答えろ。オマエは何なんだ?」
「人違いじゃないですか!」そこで仕方なくアズマはここに来た経緯を説明した。まず図書館の仕事、それから読み聞かせの広告を見つけたこと、そしてなぜか赤くないのに赤い川のこと、ただ耳の中の魚と二人組の男のことは黙っていた。どうせ言っても信じてくれないだけだし、チビの脅しもあったからだ。男は黙って聞いていた。
「なるほど・・・」いつの間にか銃を下ろしている。
「ところで読み聞かせって何だ?」
「本を朗読することです」
「本を朗読か・・・それならオマエ、カフカの『掟の門前』って知っているか?」
何だ・・・突然、カフカ? もちろん知っている。
「ええ、門前で男と門番がやりとりする話ですよね?」
「男は門をくぐったか?」
「いいえ」
「そうか、知っているなら、殺せないな。前回の奴とは違う。命拾いしたな・・・」それから男は「前回の奴」の話を始めた。「ソイツもオマエと同じように、殺されるとは思っていなかったみたいだ。ただオマエと違うのは、ソイツは全く本を読んでいない奴だった。当然、カフカについても名前しか知らないクソな奴だった、それで今度はランボーの『地獄の季節』を知っているかと聞いたが、アメリカの映画のことだとぬかしやがった。確か美容師をしているとかだったな、依頼主はソイツのカットが気に入らなかったのだろう、それで処刑だ。せめてランボーを知っていたら見逃してやったものを」
なんとも酷い話だ。
「名前を知っているだけでも貴重ですよ・・・」とアズマは言い返した。さすがにその美容師が気の毒だ。
「なんだと?」
「もう長いこと図書館業界に勤めてますけど、カフカの名前を知っているような奴は珍しいです、さらに読んでいる奴なんてもっと少ない」
「そうなのか?」
「ええ」アズマは言った。「図書館だからてっきり、働いている奴等も読書好きかと期待しましたけど、どいつもこいつもマンガなら読みますという答えしか返ってきませんよ」
「そうなのか?」
「ええ、カフカなんて知っている奴は本当に少ないです」
「クソだな」
「ええ、クソです」と言いつつもアズマもカフカの長編は『審判』しか読んでいない。『城』は途中で挫折した。高校生の時だった。だがそれを今は言うべきタイミングではないだろう。下手なことを言って機嫌を損ね、処刑されたらたまらない。それこそ『審判』のヨーゼフ・Kのように・・・。男は黙っていた。おそらくアズマの説明を整理しているのだろう。
「なるほど、こういう行き違いもあるんだな・・・」
男から殺気が消えていくような気がした。
おそらく自分ではない誰かをここで殺すつもりだった。だがその人物は現れず、代わりに自分が現れた。つまり、その者の代わりに自分が殺されていたかもしれなかったのである。カフカに感謝するべきか・・・
《参考文献》カフカ著(池内紀訳)『断食芸人』、白水社Uブックス、2006年。
7
高速道路から車の走る音が徐々に薄れていく。夜が更けている証拠だ。
「なるほど下見か・・・」男が言った。「なら、ひとつ言わせて貰う」
「はい・・・」
「オマエは本来、今日、ここに来るべき人間じゃなかった。そして本来ここに来て殺されるべき人間は、何があったのかわからないが来なかった。つまりオマエは知らず知らずのうちに他人の運命へと踏み外していた」
踏み外し・・・アズマは頷いた。
「ここに来たのは下見ということだ、そうだったな?」
「はい・・・」
「そこにオマエの弱さがある」
「弱さ・・・?」
「下見をするということは約束の日時に遅れるかもしれないという恐れがあった。それは当日の自分に自信がなく、そしてこの世界を信頼していない証拠だ」
アズマは黙って聞いていた。
「当日、どれくらいの所要時間がかかるのか、乗り換えや、駅、路線を間違えると心配したんだろう、そして何か突然の異変でこの場所が見つからないなんてことも想定している。それはこの世界を信用していない明らかな証拠だ」
かなり強引な話だと思ったが、アズマは異論を唱えなかった。
「この世界はオマエ等のような下等生物が考えているより安全で、完璧、そして信頼に足る。だから下見なんて必要ない。そういう臆病さがシステムを壊していく。いいか、世界は完璧なんだ。だからオレのような闇稼業も成立する。オマエみたいな臆病な奴等ばかりになると、つまりこの世界の完璧を信じない奴等が多数派になって集団ヒステリーを起こすと、この世界のシステムそのものが崩壊する」
もしも本当に世界が完璧なら、とアズマは思った。たとえ多数の人間が、それを信じていなくても正常に作動し続けるはずではないのか? もちろんそれを信じていない人間を置き去りにして・・・そんな異論が浮かんだが、議論が通用する相手でないことは明らかだったため、アズマは黙って頷いた。
「だから二度と下見なんかするな、テメー等みたいな臆病者のせいで小銭ばかりの仕事が増える。こっちも同業者から命を狙われている身、余計な仕事は増やしたくない」
アズマはほっと息をついた。
「それともう一点、警告する」
「はい」
「さっきオマエ、この空間に魅入られていたな?」
「え? ええ・・・なんとなくこの荒寥とした感じが気に入って・・・」
「荒寥か・・・なるほど、そういう言い方もあるのか・・・とにかく、そういう危険な真似は止めたほうがいい」
「危険ですか?」
「危険だね」野球帽の男は答えた。「前にもここでスケッチしていた若い絵描きに言ったんだ。オマエ等はこういう人の気配が途絶えた虚空の狂気を知らない。それはいつの間にか人の心を虜にして巣食う、そして思わぬ災厄を呼び込む」
「はい・・・」
それから男は言った。
「もしも三度目にオレと顔を会わすようなことがあれば、それはオマエの愚かさが招いたことだ、オレの責任ではない。だから二度目の出会いが、オレとの最後の出会いになることを願え。それは必ず起こるが、いつなのかオレにも誰にもわからない」
おそらく三度目は「殺す」という意味なのだろう。
「できれば今日を最後に、アナタとは金輪際、お会いしたくないのですが」
アズマは正直に言った。男はようやく帽子の庇を上げた。鋭い眼光がアズマを射抜く。
「やはりオマエは無礼な奴だ」男は唾を吐いた。
「きっと今している仕事でも、いずれ、イタイ目に遭うことだろう。周りの大人達はそういった愚かさを避けて生きている。それが賢さというものだ、オマエはそれを学びそびれた。そして一度学びそびれると、それは一生、恥辱となって残る。いいか、賢さとは『戦わないこと』だ、危険を回避すること、ようするに戦いの多くが無知によるものだ。オマエはそれを学ばなければいけなかった」
そう言い残して野球帽の男は立ち去った。踏み外し・・・確かにアズマは道を踏み外したのかもしれない。
8
「ねえ・・・」赤いワンピースの女が堤防の上からアズマに声をかけてきたのは、水曜日の深夜だった。雨が夕方から降り始め、折り畳み傘を職場に忘れたアズマは、散々迷った末に駅前のコンビニでビニール傘を買った。五五〇円の損失だ。牛丼とサラダ代が消えた。そしてそれは今もアパートの郵便受けにぶら下がっている。
「はい?」
「傘貸してくれない?」雨だからだろうか、女は裸足ではなかった。
「さっき買ったビニ傘が風で飛んでいったのよ」と女は川の方を指さす。
「ああ、ちょっと待って下さい」そう言ってアズマは夕方に買ったビニ傘を持ってアパートの階段を降り、堤防に上がった。
女はほぼ濡れネズミの状態だった。
「風邪ひきますよ? タオル持ってきましょうか?」アズマはそう言いながら傘を差し出す。
「ありがとう、優しいのね、でも大丈夫、住んでいるトコ、近いから・・・」声は若いものの、年齢的には四十代ぐらいだろうか・・・
「それにしてもいつも赤いワンピースですよね?」
「似合うでしょう?」
「どうしてですか?」
「好きな色だから」
「珍しくないですか? 赤が好きなんて」
「そうかしら・・・」
「ピンクじゃダメですか?」
「下らないな、ピンクなんて、それに、赤は目立つでしょう?」
「ええ」
「だからかな、たとえば足を踏み外して、川に落っこちても誰かが見つけてくれる可能性が高くなると思わない? ピンクじゃ見つかりっこないもの・・・」
確かにピンクでは捜索は困難かもしれない。赤なら一目瞭然だ。
「だからね、川に人知れず投身自殺する時は、ピンクか白ね、赤は目立ってすぐに遺体が見つかる・・・」
女の視線が川へと注がれている。その視線の先に遺体でも浮かんでいるかのような錯覚をアズマは抱いた。
「いつもこの時間にいるよね?」
「ああ、傘ならいつでもいいですよ」とアズマは答えた。
「ご存知の通り自分はあの部屋なので」と言って窓の開いた部屋を指さす。「二〇六号室です。傘はドアの前にある郵便受けに引っ掛けて下さい」
そう言ってアズマは手で雨を避けつつアパートに帰り、再び窓から堤防を見ると、もう女の姿は消えていた。
9
雨はその後も断続的に降り続け、四日目には夕方から明け方まで激しく降り、川が増水した。付近を歩いていた二人の工場作業員の目撃情報によると、夜中に旧道から黒い車が川に突っ込んだという。確かに川沿いの旧道は一部ガードレールが設置されておらず、真っ暗闇の中だと道を失い、そのまま川に転落する危険があった。そして五、六年に一度はそんな事故がある。たいがいが不案内なよそ者が運転する車だ。自殺だろうか?
そんな事故を管理人から聞いたアズマは或る日の真夜中、現場である旧道に向かった。萎びた花がコーヒーの空き缶に挿してある。被害者は塾の講師だという、もしもあのまま塾の講師を続けていたら、自分がその被害者になっていたかもしれないという変な考えにアズマは陥った。現場はアズマのアパートから七〇〇メートルほど川上に行ったところで確かにガードレールはなく、その下を増水した川がもの凄いスピードで流れていた。
アズマはしゃがみ込んで空き缶に添えてある花を前に手を合わせた。
「昔は雨が降ったら、よく増水して堤防から溢れていたの・・・」
いつの間にか女がそこにいた。相変わらず赤いワンピースだった。帰宅途中か、ヒールは履いたままだった。
「赤いバラを添えた方がいいんですかね?」アズマが言った。「どうもこの川は赤が似合うようですから」
空き缶に挿してあるのは白い花だった。
「赤いバラを添えるなんて・・・遺族の方が見たら激怒すると思う」
それから二人はゆっくりと川沿いを川下へ向かって歩き出した。
「この川も・・・」女が言った。「ワタシ達と同じように時々、夢を見ている」
いったいそれは、どんな夢か? というアズマの問いに女は箇条書きで答える。
「死体になる夢、
女になる夢、
あるいは眠っている夢、
愛を歌っている夢、
それとも純粋な音楽になった夢、
鉄錆と油に塗れていく夢、
鳥になる夢、
深夜、孤独を伝える文章になる夢、
月に恋する夢、
魚と一緒に海に向かう夢」
しばらくして二人は旧道から堤防に上がった。
「そしてこの川が見る夢は、この周辺で眠っている人々の夢と交じり合って、そう・・・ゆっくりと下から、床から水が漏れ出すように、絵の具が水に滲んでいくように、その人の夢と境界線を曖昧にして、ひとつになって流れていくの・・・」絵の具、その色はやはり赤だろうか・・・そんなことを想像しながらアズマは聞いた。
「ドコへ」
女は首を横に振る。教えたくないという意味だろうか、その証拠に女は話題を変えた。
「それから悪夢を見ることもある」
「悪夢? どんな悪夢?」
「ただの暗闇。何もかも吸い込んでしまうような暗闇・・・」
彼女は川を眺め、アズマは彼女の横顔を眺める。だが表情まではわからない。女は話を続けた。
「何をどんなに足掻いても抜け出せない暗闇。そこに犯罪の証拠や死体、それから都合の悪い人物なんかを生きたまま放り込むの。だから多くの犯罪が表沙汰にならないまま忘れ去られていく、そういう暗闇、そこから人々の怨嗟の声が聞こえてくる、そんな残虐な暗闇・・・そんな暗闇と悪夢をこの現実世界は必要としている」
女はそう言い残して立ち去った。
アズマは一人考えた。そういう仕組みに耐えきれなくなって彼は車ごと川に飛び込んだのだろうか?
10
夜の十一時、「整備工場前」の駅もガソリンスタンドも人気はない。常夜灯が点滅しているのは相変わらずだった。そしてパンクした車。何だかここに放置されているのが可哀相な気がしてくる。そんな思いに駆られて車内を覗き込むとイグニッションキーが差し込まれたままだった。ガソリンを入れれば動くのだろうか。もちろんパンクしているわけだから、まずはタイヤを交換しなければいけない・・・そんなことを考えているところへ現れたのは大きな黒塗りの車だった。ベンツだろうか? キャデラック? アズマは車に疎い。免許は持っているものの外車か国産車かの区別もつかない。とにかくその黒塗りの車はアズマの前で停車した。助手席から降りてきたのは女だった。アズマに近づくなり、案内状を見せるよう要求、声からして電話の女だった。きっと彼女がワタナベだろう。それからバッグを引ったくり中身を確認した。そして数冊の本とペットボトルしか入っていないとわかるとバッグを返して後部座席のドアを開ける。「乗れ」という意味だ。それに従って車内に座ったアズマに今度は運転席にいた男が黒頭巾を渡す。どうしていいかわからないアズマの隣に女が乗り込み、それをかぶるように命じた。何を言っても無駄と悟ったアズマは言われた通りそれをかぶった。
そして暗闇。不意に案内状の絵が脳裏に浮かぶ。アレはオレだったのか・・・
車が発進した。とても静かな運転だった。しばらくすると移動しているという感覚が消えていき、さらに時が流れているのかどうかさえ定かではなくなっていく。このまま殺されるのか・・・ふとそんな怖れが浮かんだところで、「黒頭巾を取れ」という女の声がする。目的地に到着したようだった。言われた通り頭巾を取ってアズマは車を降りた。辺りは静かだった。同型車が数台と一台の大きなステップワゴン車が取り囲んでいる。そしてサングラスをした黒服の護衛が警戒していた。研ぎ澄まされた夜、一切の物音が打ち消されているような静けさ・・・遠くの方に高速道路と町の明かりが見える。いったいドコなんだろう・・・立体駐車場の屋上のような空間、全くの無風・・・目の前には車椅子の老人。その横に眼鏡をかけた男が横長の赤いソファーに座って足を組んでいる。秘書だろうか? アズマの姿を見るなり立ち上がって一礼する。
「初めまして・・・私、アリサワの顧問弁護士をしているサカヅキと申します」
「アズマです」
「職場ではとんだ災難でしたね」
「え?」
「大学教授は貴族階級のようで・・・」
「ああ、いえ、あんなことはしょっちゅうです」
「どうやらそのようですね」
以上のやりとりから、自分のことそして職場のことは完全に調べ尽くしている、アズマは直感した、今、自分がいる状況はかなり厳しい、と。それでもこの連中を試してみたいという底意地の悪さがアズマにはあった。
「アレはシステム上の誤送メールです」
「それはウソでしょう」と顧問弁護士があっさりと見破る。
「アナタが誤送を装って督促メールを手動で送ったんです。敢えて複数の教授に、本来は一人で良かったはずです」
図星だった。
「アリサワの為でしょうか?」
アズマは観念した。
「どうしても読み聞かせたい本がありまして、地元の公共図書館では手に入らず、職場の図書館なら所蔵していたのですが、あいにく教員貸出でして・・・一年以上も返ってこないのです。それでメールの誤送を装って送ってみたのですが、あのザマでした」
「ありがとうございます。ところでそのタイトルは何ですか・・・」
「一応、ワタシにも守秘義務がありますので、それを教えてしまうと、該当する教授が何を借りているのかアナタ方第三者にバレてしまいます・・・、残念ですがお教えすることはできません」
だが・・・アズマは思った、おそらく既にそのタイトルをこの顧問弁護士は調べて知っている。こちらの仕事の仕方を試している。
「その本を読み聞かせれば、アリサワの耳の中の魚は駆除できると?」
「さあ・・・そればかりはわかりませんね」アズマは首を横に振った。「何せ、今回のようなケースは初めてですから」そもそも読み聞かせ自体、初めての経験である。
こうした一連のやり取りの間も車椅子の老人は微動だにしない。生きていることは確かだが、生気が欠けているように見える、耳の中の魚の仕業だろうか? その耳の中の魚が少しずつ老人の脳を食べてしまっている、そんなイメージがアズマの脳裏に浮かんだ。
「はい。わかりました」急にサカヅキ氏が返事をした。きっとアリサワ老人が何か言ったのだろう。もちろんアズマには聞き取れない。
「それでは読み聞かせを始めて頂けますか?」
「ここで?」
「ええ、今日は無風です。一週間前からわかっていたことです、あちらの絵描きが予言してくれました・・・」そう言われてそちらを見やると一人だけ、ボンネットの上に座り、スケッチブックを広げて何やら描いている青年がいた。風の状態を当てる画家・・・少し興味がわく、同い年ぐらいだろうか・・・
「まあ・・・彼には構わずよろしくお願いします」
アズマがソファーに腰をかけると車椅子が横づけされる。「少し遠いように思うのですが・・・」と言うアズマに弁護士が答える。「大丈夫です、今までの会話同様、耳の中の魚が全部を聞き取っていますから・・・」
魚が聞き取っている? 何だそれ? いろいろ訊ねたいことはあったが今は仕事をするべき時だ。
アズマは読み聞かせを始めた。まずは『ゴッホの手紙』を数編、それから旧約聖書より『コレヘトの言葉』の一部、そして最後に「アンドロマック」が出てくるボードレールの詩を読んで締め括った。
「以上です」
老人から何の反応も得られなかった。はたして耳の中の魚は消えたのだろうか? 画家はずっとスケッチを続けていた。
「ありがとうございます」サカヅキ氏がそう言って合図をすると、老人はステップワゴン車へと運ばれていく。
三時間は経っていなかったが、アズマは当初予定されていた金額の十五万円を受け取った。そして帰りは黒頭巾をかぶせられ、アパート付近まで車で送られた。
11
翌日になっても読み聞かせの興奮が収まらず、深夜、アズマは赤い女にボードレールの詩を朗読した。二人は堤防に並んで腰を掛け、女は川面に映える常夜灯の明りを眺めながら、アズマが朗読する詩を聞いていた。
そして女は感想を言った。
「川を時の流れに喩える人々や、その無常観がどうしても許せないの・・・、アレは結局、何事もなく、そして良心の呵責も覚えずに多くを忘れ去ることができた人々、経済的にも道徳的にも恵まれた人々の立場を擁護しているだけの自然観、それはね、取り返しのつかない過失を無常観にすり替えて、水に流せという命令なの」
アズマの脳裏に幾つかの顔が浮かび上がる、そしてその顔はどれも笑顔だ。
「そうやって忘れ去られていく側の人々の声や痕跡、存在を掘り起こす人々もワタシには耐え難い侮辱にしか映らない」
「どうして?」とアズマが反論する。「そういう発見や発掘のおかげで今まで露見しなかった犯罪が告発され、損なわれた人々の尊厳が回復されることもあるんじゃないのか?」
「それは名誉や記憶が尊重される世界でのこと。自分達の属する現実世界が真摯で、信頼に足るという体面を保つためだけ・・・、文書、記録、そんな形で彼らの生が保存されるのとは、もっと別の仕方で生前の彼らは忘れ去られることを望んでいる」
「もっと別の仕方というのは?」
「消え去ること、その人が関わった人々から、その人に関する記憶、思い出、文書そういった一切が全てこの地上から消え去ること、決して時の流れとか、世の無常、人生の儚さとかいう詩情豊かな比喩では回収できない汚濁が川の底流に沈んでいる」
回収できない汚濁・・・
「つまり底流の汚濁になることは、消え去ることに等しい・・・という意味?」
そこにあるにもかかわらず、ほぼ消え去っているに等しい存在・・・そんな矛盾を考えながらアズマは川を眺めていた。
「だから残念だけど、川を眺めるのが好きな人は、あまり幸福になれない・・・」それはアズマに対する皮肉だろうか・・・
「そういう人はたぶん憧れている」
「何に?」
「川を流れていく死体になることに・・・それで誰にも見つからないまま流されていく、それで・・・」
「それで?」
女は微笑んだ。そして立ち上がり、堤防を歩き始めた。それで・・・の先を知ることのできなかったアズマは女の後ろ姿を見送り、一人で川を眺めていた。
12
大抵の図書館にはブックポストが入口付近に並置されている。本来は図書館閉館時や休館日に返却本を入れる為のポストだったが、最近になって返却するのにいちいち入館するのが面倒くさいという利用者、学生の要望に応じて常時ポストを開放する運用に変わったが、アズマの業務内容は特に変わらない。ポストから大量の本を一冊一冊取り出し、それらの中身をパラパラめくり何も異常がなければそのまま返却処理、本が汚損、破損していれば利用者に問い合わせて、事情次第によっては弁償という流れになるが、大概の利用者は心当たりがないと回答する。それで仕方なく破損のまま返却処理して修理、あるいは汚損がひどければ買い替えという流れになる。その日、アズマが返却本をパラパラめくっていると、見覚えのある黒頭巾の人のカードが目に飛び込んできた。それは聖書だった。絵は『コレヘトの言葉』のページに挟まっていた。サカヅキ氏の仕業だろうか・・・ただ既に処刑されている点が前回の絵と異なっている。ショットガンか何かで頭を撃ち抜かれ、血と脳味噌と肉片が背後の壁に飛び散っている。つまり耳の中の魚が駆除されなかった、その償いをしろという意味か・・・
裏面を見るとそれは展覧会の特別招待券だった。
13
『Honjo Minoru展覧会』
おそらくあの屋上にいた画家のことだろう。開催場所は上島ギャラリーという雑居ビルの地下三階だった。休日を利用してアズマはそこに向かった。狭いフロアにイーゼルが並び、そこに額のない絵が立てかけられているという演出だった。解体された魚、例の黒頭巾の人物。一枚は正面を向いている、きっと処刑前だろう。そしてもう一枚は案内状にある処刑後の絵だった。さらに読み聞かせをした屋上と、誰も座っていない赤いソファー、コンクリートの地面に本が散らばっている。そして切り取られた耳、ゴッホの耳だろうか?地下鉄の駅、おそらく『整備工場前』の駅だろう。それから膝の上に乗った左手のクローズアップ。車椅子の車輪が見えているからアリサワ老人の手ではないだろうか。そしてアズマを驚かせたのが野球帽の男の肖像画、こちらを向いて立っている。顔の表情まではわからないが、青いジーンズのポケットに両手を突っ込んでいる。それから赤い川。
「まさか読み聞かせで『ゴッホの手紙』を朗読するとは思いませんでしたよ」と奥の扉から現れたのは屋上で見かけた画家だった。
アズマは質問した。
「この川は?」
「アナタのアパートの横を流れている川ですよ」
「それであの近くに募集の広告が貼ってあったんですね」
そして電話の女もこの絵を見知って、「赤い川」と聞き返したわけか・・・
「それはご想像にお任せします」
「どうして赤く描かれているんですか?」
「最初は普通にあの川を描いていたんです。くすんだ灰色のドコにでもある川として」とHonjo・Minoruは説明した。「ですが仕上がったら、イマイチだったんです。何か自分の頭の中にある川でしかないと感じたんです。観念的な川であって、目の前を流れる現実の川だと感じられませんでした」
そう言って画家は一端、奥の部屋へと下がって一枚の絵を持って戻ってきた。
それは「赤くない川」だった。しかしそれを見てもアズマにはイマイチと思えなかった。普段、自分が夕暮れ時に眺める川と何の変りもない。ただ場所的には少し川上だろうか?
「或る時、ワタシはこれを個展に出しました」そう言って画家は赤い川の隣にイーゼルを置き、その絵を立て掛けた。確かに両者を並べると、赤い川の方が断然、流れが生きているとアズマの目にも映る。
「そうしたら、その客だったアリサワ老人がワタシに赤い川を描くように依頼してきたのです、法外な値段でした。もちろんサカヅキ氏を通してですが・・・」
二人は黙って二枚の絵を見比べた。
「その赤は赤い花をイメージしました」
「花?」
「ええ、無数の赤い花です。それらが、水中から湧き水のように咲いて、花びらを散らしながら漂い、さらに幾つも咲いては散り、咲いては消え、やがてその散っていく赤い花びらは花筏のように広がり、ついには赤く溶けて・・・あの薄汚れた川の泥と鼠色が混ざっていく、そんな赤い動きをイメージして描きました」
アリサワ老人はそれを見て非常に満足し、依頼時の二倍の額を払い、さらに専属の画家として色々と身の回りのものを描くように依頼するようになったという。そしてHonjo・Minoruの個展にはアリサワ氏が経済的な援助を惜しまず、必ず「赤い川」を展示に供してくれる。
「どうして赤なんでしょう・・・」
「さあ、そこまでは知りません。我々はそこまで踏み込むべきではないと思います」
「なぜです?」
「人は何かを知らない状態に甘んずるべきです」
「無知のままでいろと?」
「ええ、何かを知ろうとするのも臆病さの現れだと。無知のままに耐えられない脆さ故、だから何かを知ろうと勇み立って取り返しのつかない痛手を被る、と野球帽の男に言われました。おそらくアナタも会われたのでは? ガソリンスタンドの前です」
「ええ。世界が完璧だ、と言っていました、だから下見は不要なんだとか・・・」
「そんなことを言っていたのですか?」
「ええ・・・」アズマは頷いた。
「彼は・・・」と画家が言った。「ワタシにカフカの『掟の門前』の話を始めたのです。どうやらあのガソリンスタンドに足を踏み入れることが彼の何かを侵害していたようでして・・・あやうく処刑されるところでした・・・」
「しかし、こうして生きてお会いできている以上、あの作品を読んでいたのですね」
「いいえ。あの時点ではまだ読んでいませんでした」
「え?」
「読んだのはその後です、彼はワタシがその場で描いているガソリンスタンドの絵が随分と気に入ったのです。それで自分の肖像も一枚描いてくれ、そうしたら見逃してやるということで命拾いしたんです」
「そうだったのですね」
「ただ彼は、警告もしてきました」
「どうせ三回目に会ったらどうのこうのっていうヤツですよね?」
「いいえ、身の破滅を呼び込むだけだから、黒い車だけは描くな、と」
そう言って画家は奥から別の絵を持ち出して、川の絵と取り換えた。それは黒い布で覆われていたが、画家がそれを取り去ると例のガソリンスタンドの絵だった。堂々と黒い車が描かれている。正確に言うと車を「黒く」描いているといえばいいのだろうか、黒い塗料が車の輪郭をぼかしている。そういう絵画技法なのだろうか。それとも・・・
「彼はアレのことを言っていたんです、しかしあの黒のボリュームを省くと、全体が薄っぺらく感じられます、ただの閉鎖したガソリンスタンドです」
「あの廃車ですよね・・・」
「あの黒い車の夢の中にアレは巣食っています。現実界にいる限りアレが襲ってくることはありませんが、長く鑑賞すると、ワタシのようになります」
そう言ってすぐにHonjo氏は黒い布を絵にかぶせた。
「いつ頃からあそこに乗り捨てられているんですか?」
「乗り捨てられたというものではないでしょう、そうやって現実の座標系であの車の存在を位置づけようとしても無駄です」
「でも誰かがあそこまで運転しなければ、あそこに存在していないはずです」
「そんな良識や常識では捉えきれない存在があの車にはあります。ワタシはアレに魅入られてしまったのです。あの車がいつからあそこにあったのか? 誰が乗り捨てたのか? そういう問いの外にあの車は放置されています、確かにアレを描いたことは身の程を弁えない愚行かもしれませんが、作品は十分、迫力のあるものに仕上がりました」
「愚行というのは?」
「日々、アレはワタシの心を侵しています。最終的には心や記憶を喰らい尽くすのでしょう。こんなことならあの時、野球帽の男に処刑された方が良かったのかもしれません」
「え?」
「アレを描き、アレを知り、このまま生きることが難しくなったのは正しい末路かもしれません。あの男の言う通り無知こそ幸福なのです」
アレとは何なのか・・・そんなにあの黒い車は危険なのか・・・正しい末路。
「アレは後部座席に乗っているんです・・・ええ、今も・・・」画家は言った。
14
その日の夜、夢の中・・・アズマは一枚の絵をぼんやりと眺めていた。そこはギャラリーではなく、地下鉄十四号線のホーム。その中央にたった一枚の絵がイーゼルに立てかけられている。辺りには誰もいない。近くに作業机があって、そこには汚れたパレット数枚と無数の油絵具のチューブ、油壺、絵筆が散乱していた。ついさっきまで画家はここで絵を描き、忽然といなくなったようだった。アズマはさらに絵に近寄った。それは例の整備工場前のガソリンスタンド、キャノピーのある風景、曇天で、コンクリートの地面が広がり、その灰色の割れ目から雑草が茂っている。そしてキャノピーの下、一台の黒い車がこちらを向いて乗り捨てられていた。やはりパンクしている。辺りには誰もいない。反対側のホームを電車が猛スピードで通過していく。やがて水が線路から静かに溢れてくる。再びアズマは絵を見た。先ほどまで誰もいなかった絵の中に人影が画面手前から現れる。そしてその人影は少しずつ画面中央よりやや上の黒い車に近づいていく。後ろ姿のため誰なのかわからない・・・画面から荒寥とした空気が伝わってくる。そしてそこにも水が滲み出しているようだった。それは赤い水だった。何かがいる、アズマは直感した。アレは車の後部座席にいてじっとこちらを見ている。さっきからずっと、いや違う、あの夜、初めてガソリンスタンドを訪れた時から、アレはじっと自分を見ていた。アズマはようやく危険な場所にいることに気づいた。だがその間も人影は黒い車に近づいていく、「よせ!」とアズマが叫んだ。にもかかわらず人影は車に近づきドアを開けてしまった。その瞬間、アズマはその人影が自分だったことに気づいてハッとした。もう手遅れだった、黒い闇が渦を巻いて目の前に迫っていた。
そこで彼は目を覚ました。
15
かつて、アズマは役者を志していた。幼い頃からの夢だった。そして去年、ようやく諦めた。一度もオーディションに合格したことはなく、合計で何回受けたかも覚えていない。ほとんどが書類選考で落ちている。
そして諦めるのが遅すぎたという後悔の念だけが残った。
「ひょっとしたら、彼女はそれを日々、仄めかしていたのかもしれない」
もう少し早く、気づくべきだった。
女が聞く。
「役者を諦めたのはここに来る前?」
「いや、ここに移り住んで、それからしばらくしてだよ」
「彼女と出会ったのはここに来る前でしょう?」
「うん・・・」
「でも、この川沿いのアパートに引っ越してきたのも、ひょっとしたら準備だったのかもしれない」
「何の?」
「夢を諦めるための・・・」
「彼女に伝えたの?」
「何を?」
「諦めたこと」
「いや・・・」
「そう・・・」
16
多くの公共図書館では返却して即、同じ本を同じ人に再貸出することが認められている。ところがこれを認めない大学図書館が少なからずあり、カウンターで学生や教授とトラブルの元になる。また又貸しも基本認められていない、よくあるのが二人連れで来館し「これを返却して、すぐこの友達に貸して上げて欲しいんですが・・・」という事例だ。一番最初に勤めた図書館ではNGだったが、次の図書館ではOKで、今回、アズマが勤めている図書館では再びNGだった。OKの図書館は複本が豊富にある場合、NGの図書館では複本を購入しないという厳格な蔵書方針が背景にあるが、これも絶対というわけではない。だからアズマも断ることに心苦しさを覚えることが多々あった。
「申し訳ありませんが、こういったことを度々行いますと、友達間での資料の独占状態が可能となりまして、なるべく多くの利用者に資料を提供することを目的としている以上、ご要望にはお応え致しかねます・・・」
しかし、これも眉唾ものだ。同じゼミのメンバーだって「多くの利用者」のうちの一人である。それにOPACを使ってゼミの仲間みんなが予約を掛ければいい。そうすれば、一人が返却しても同じゼミの他のメンバーが予約確保となって、その人に貸出される、さらに別の同ゼミのメンバーが予約を入れる、なんなら最初に借りていた人間が返却直後に予約を入れればいい、こうして半永久的にゼミ内で資料を独占することが可能なシステムが整っている。このためカウンターで断る理由に説得力はない、根拠薄弱だ。いずれ、このルール自体が死文化するのだろうというのがアズマの本音だった。現に端末からの予約が当たり前の世の中だ。それに全て電子書籍化すれば、貸出・返却という概念も変更を余儀なくされる。
あの野球帽の男の言葉がよぎる。
確かに世界は、完璧なのかもしれない。
閉館間際に一人の学生が来館した。
たいがい閉館間際にくる学生というのはロクな用件ではない。案の定、学生は一冊の本、ゲーテの『ファウスト』をカウンターにいるアズマに差し出して言った。
「これ、今、ワタシの指導教授が借りている資料なんですけど、ここで返却して、ワタシに貸出して下さい」という要望だった。
アズマは断った。
学生は食い下がった。
それでもアズマは断った。何度も学生は教授の名前を出し、その人が文学部長だと強調してもアズマは受け付けなかった。学生は諦めて持ち去ろうとしたが、資料の返却期日が四年前の三月三十一日だった為、これを理由にアズマは学生に返さず、そのまま返却処理をした。かなり強引なやり方だった。しかしもしもここでこの機会を逃がせば、もう二度と教授の書斎か研究室から、この資料が図書館に戻ってくることはない、アズマはそう直感して返却処理をした。さすがの学生もびっくりした様子で怒鳴り声を上げた。それに対してアズマは言った。
「文句があるなら、その文学部長を呼んできてください」
そんなアズマに対して「後でどうなっても知りませんよ」と学生は凄んでそして冷笑した。オマエ、自分のしていることがわかってんのか? という冷笑だった。もう何度も目にしてきている権力をバックにした優越感溢れる学生の表情だった。
確かに穏当なやり方ではなかった、しかしこれはルール違反である。学生同士に禁じているにもかかわらず、相手が教授なら、はいOK、それは違う。学生に対するケジメの問題だ。もしも今回の措置に問題があるのなら、他の大学図書館のように又貸しを全面解禁すればいいだけの話である。
17
或る日、アズマはHonjo氏による『赤い川』のことを女に話した。
「赤というのは、何よりも先に赤なんだと思う」
「先に? 赤? どういうこと?」とアズマが聞く。
女は川を眺め、空を仰ぎ、一瞬、アズマの方に視線を送り、それは再び真夜中の川へと注がれる。
「空が先にあって青、真夜中が最初にあって黒、樹木が生い茂る五月、それから緑、それらを支えている大地があってから茶褐色、そして雪が降らなければ誰も白について考えなかった・・・つまり色彩に該当する事物が先にあって、後からそれを表現する色彩が生まれた。でも赤は違う気がする」
「バラの赤、夕暮れの赤、血の赤、炎の赤・・・いろいろ赤はあるけど・・・」
「初めに赤があったの」女の視線は川に注がれたままだった。「カラーパネルのように、その赤い見本を見てバラは赤く染まり、太陽は傾斜して、赤いパネルと衝突して砕け散り、そんな紅蓮の破片に魅入られて、炎は赤く燃え上がり、血が赤いのは、ワタシ達が最初に負った傷が赤の実在によって切り裂かれたことが始まり・・・」
アズマはこの時、女のいう赤いカラーパネル、その鋭利な角で指を切って泣き叫ぶ幼児を連想した。
「赤には切り裂く力がある」
「何を切り裂くの?」
「あらゆるもの、ワタシ達が安住しているイメージ・・・、この世界に定着するために必要不可欠なイメージを切り裂いていく、たとえば・・・」
「たとえば?」
「さっき言った血も所詮は赤のイミテーション、ニセモノ、紛い物なの、純粋な赤を盗用して体内で血液が赤く生成されているだけ、だから血は最初にある赤ほど赤くはない」
女は続ける。
「ワタシ達はまず赤く切断されて、この世に生まれたと同時に赤を流す。それを人々は『血』と呼んでしまう、それが最初の過ち、そして最初に学ぶ欺瞞・・・赤の残酷さから、その眩しさから目を背ける為に、『血』と呼ぶ習慣に堕落して、その安住したイメージに住み着いて・・・そこで合意が成立する」
「合意・・・? 何の?」
「幸福に生きる権利、安らぎと、負った傷に対する補償、そうやって存在を開始する」
そういう欺瞞の上に成り立つ権利、幸福・・・しかし生きる上では欠くべからざる欺瞞だろう・・・誰も赤の力に耐えられず、切り裂かれてしまう。
「赤の残酷さを忘れる為に、古代から多くの悲劇が詠われて、多くのカタルシスで濾過されて、快い気持ちに浸って・・・だから涙は無色透明なの、美しく浄化されて、心が洗われていく」
アリストテレスの悲劇論をアズマは考えた。
「だから赤は誰にも飼い慣らせない真実そのものなんだと思う」
女はそう言って立ち上がり、川下へと消えた。
18
その日の夜、アズマが見る夢に、流れる川の夢が交じり合い、そして滲むように広がり出す。最初、アズマは見知らぬ女と堤防の上に座り、ただ流れゆく川を眺めているだけだった。それは赤い川だった。隣にいた女が「赤い川ね・・・」と言った。すると赤い血塗れの死体が川上から川下へと流れていく。常夜灯の光に照らされては消え、浮かび上がっては漂い、また現れる、を繰り返して川下へとゆっくり漂う。「アレはアナタじゃないのか?」と思わずアズマは口にする、そしてすぐに後悔した。女は言った。「そうかもしれない」やがて川の水位が徐々に上昇、ついには堤防を越えて溢れ出し、二人は溺れお互いを見失った。「それともアレは血塗れの自分だったのか?」そんな不吉な予感を抱きながらアズマは駅のホームにいた。対面式、線路を挟んだ向かい側のホームには黒頭巾の人物が椅子に縛り付けられ、その横にいるノッポが立って電話の受話器を黒頭巾の顔に差し出している。そしてショットガンをつきつけているのがチビだった。そこへ地下鉄が走り込んでくる。アズマは地下鉄に乗り、その光景を車窓越しに眺めた。黒頭巾が受話器に向かって何かを伝えている。発車のサイン音がけたたましく鳴る。アズマはポケットから個展の案内状を取り出した。そして列車が発車する、同時にチビが引き金を引いた。薄汚れた壁に飛び散る肉片と血、アズマは思った、「電話の相手は自分じゃなかったのか?」と。そして暗闇・・・地下鉄はやがて「整備工場前」に停車する。真夜中だった。点滅する常夜灯。錆びついたキャノピー。そして相変わらずパンクしている黒い車。その運転席のドアを開けると、助手席に例の野球帽の男がいた。「これで二度目だな」と男は不敵な笑みを浮かべる。「まさか夢の中もカウントされるのですか?」「当然だ」と男が言い放つ。仕方なくアズマは運転席に座りドアを閉めた。そして後方を見ようとしたところ「後ろは見るな!」と男が鋭く警告する。「飲み込まれるぞ」背後は真っ暗闇で何もわからないが、そこから冷たい視線だけは感じる。暗闇の眼差し。確かに何もかも飲み込みそうな引力、そして戦慄が走る。「この黒い渦は、こんなナリで同業者だ。誰かの依頼でオレの命を狙っている。オレも或る依頼でコイツを狙っている。こうしてこの黒い車の夢の中でオレ達は対峙している。お互いスキは見せられねェ。そういう厄介な状況だ・・・」するといつの間にかそこは川の中で、アズマは溺れていた。手足をバタつかせていたところで目が覚める。
19
午後、職員から呼び出しがあった、会議室には図書館事務長、サービス課課長、そして数名の職員が並んで座っている。例の文学部長のクレームだった。アズマは概ね事実を認めた。
「今回の対応に関してはもう少し、融通を利かせても良かったのではないかね」そう言ったのは事務長だった。
「融通とは?」
「アナタもわかっているでしょう」と課長が指摘する。「こういう場合は柔軟に、臨機応変に対応しなさいということです」
誰にも視線を送らずアズマは静かに言った。
「又貸しは原則禁止のはずです」
「片方の相手は教授、それも文学部長でしょうが!」と声を荒げるのは課長だった。
「ルールが図書館を作るんです。教授が図書館を作るわけではありません」
「それは違うね。アズマ君」事務長が落ち着いた声で反論する。
「大学全体は教授と理事会、そして我々が作る、質の低い教授では学生を育てられない」
「質の高い教授は学生を使って自分が借りた資料を返却させたりはしません。ましてや学生が従っているルールを破らせるような真似を自分の学生にさせません」
「キミは大学の大きなルールが分かっていないな・・・」それは課長の大きなため息、非常に大きなため息だった。
アズマは言った。
「もしもワタシがしたことに問題があるのでしたら、又貸しを全面解禁すればいいだけの話です。他の大学図書館ではそうしているところもあります。そもそも学生のお金で図書館も含め大学は経営されています。学生を優遇するのは当然です。あとお言葉ですが、ワタシが最初に勤めた大学図書館では教授の本を学生が代理返却することは絶対に認めないところでした。実際、そういったケースがあった場合には所属長の教授が、直々にその教授を呼び出して譴責します」
もちろんウソだった。だがそれを見破る職員なんているわけもない。
「ここはここだよ。キミが最初に勤めている大学の図書館ではないんだ!」
だが「他の大学のケース」という言葉に内心、大学職員は怯えている、これはアズマが経験から学んだことだった。「ヨソはヨソ、ウチはウチ」と言っている職員ほどヨソが気になっている。
「とにかく、今後も同様のケースがあった場合には、くれぐれも臨機応変に! いいね!」
「わかりました、では学生にも又貸しをOKにして良いということですね」
「そうは言っていないだろう」
「じゃあどうすればいいのです」
結局、この後、来客があって話は立ち消えになった。これ以降、アズマは学生から又貸しの依頼があったらOKの対応をするようになった。当然、これは図書館の規則に反した行為、そして挑発だ、長く続けると、それなりにイタイ目に遭うことは誰の眼にも明らかだった。
20
ワタナベから電話、それは二度目の読み聞かせの指示だった。一週間後、場所は十四号線内。「整備工場前に到着しても、降車せずにいて下さい」という内容だった。
当日、アズマは言われた通りにした。駅ホームには誰もいない、そして誰も乗ってこない。アナウンスが空しく響く。しばらくするとアズマがいるというのにホームの照明、電気類が一斉に消され、辺りは真っ暗になった。何も見えない。ひんやりとした空気が広がる。それから列車が動き出すのがわかった。まだ車両のドアは開いたままのはず、しかし徐々にスピードを上げていく。レールが軋む音、そして風の轟音が地下内を反響して、冷たい風が凄まじい勢いでアズマの体に襲いかかってくる、振り落とされそうな勢いだった。まるで台風の中に曝け出されたかのような猛威だった。ふと彼女と一緒に乗ったジェットコースターのことを思い出す。その時は、アズマは悲鳴を上げて半泣き状態だった。それを見て彼女は笑っていた。
しかしいったい地下鉄はドコへ向かっているのか?
やがて一気に音の反響がなくなり、そしてスピードも緩やかになってストップした。やけに肌寒い。
「では黒頭巾を取って下さい」そう言われて初めてアズマは自分の頭部が頭巾で覆われていたことに気付く・・・いつの間に? だが地下鉄が暗闇の中を走行していた時以外に考えられない。
アズマは頭巾を取った。
そこは地下鉄の車庫だった。
深夜の寒空の下、多くの地下鉄車両が巨大な鋼鉄性の棺のように黙して並んでいる。
目の前にいたのはサカヅキ氏。「お久しぶりですね」と挨拶を述べ、それから一緒に車両の外に出ると、そこは屋根のない島式ホームの作業場だった。車椅子に乗った老人、その傍には赤いソファー。それからボディガードの黒服たちがこちらに背中を向けて警戒している。画家の姿はドコにも見当たらず、ワタナベがこちらを向いて立っていた。荷物検査はなかった。
アズマは案内に従いソファーに腰をかけた。
「ではお願いします」
アズマがバッグから取り出したのはゲーテの『ファウスト』、アリストテレスの『詩論』それから『シュールレアリスム宣言』だった。
最初にアズマは『ファウスト』の「マルテの家の庭」を朗読して、コメントした。
「学生時代の僕には、こういうファウストの台詞を通して神の存在と妥協することがどうしても許せなかったのです。この数行に何の真摯さも絶望も感じ取れません、神とはもっと人を発狂させる存在です。それをこういう無難な汎神論で、神からの直撃を和らげて誰にでも開かれたモノに上書きする卑怯さ、これはまさにこの国の人々と同じ手口です。
どうしてゴッホは自分の耳を切り落としたのか? それは一切の弁解を許さない直撃が彼の身に起きたのです。努力しても努力しても報われない残酷な次元です。そういう次元が間違いなくこの世にはあります。
ゲーテは決してそれを知ることなく悲劇を書くことができた幸せな詩人です。
ですが僕はそんなものを絶対に悲劇とは認めません。
この後、ファウストは第二部の冒頭『優雅な土地』という場面で、朝昇る陽と、生命の漲り、それから不断の努力と敢為を高らかに歌い上げます。そして最後に人類の営みを虹に喩えるという明るい希望で結びます。それがあまりにも白々しく聞こえるのです。いったいこの作品のドコか悲劇なんですか? メフィストフェレスなんてただ自分を悪魔だと思い込んでいるだけの大根役者に過ぎません。ですが、こういう連中が報われるのが、この世の掟だというなら、そしてこんな作品を解釈・教授することで文学部長になれるというのなら、確かに僕は何一つこの世で言うべき資格も権利も有さないということなのかもしれません。でもそれなら、僕には掟の門前で十分です」
それからアズマは『優雅な土地』を朗読した。
「もしも次回、またご指名があればダンテの地獄篇をお読みします。ゲーテは決して地獄篇を書くことが出来なかった人です。だから彼は幸福な人だったのです。決して赤い川を眺めるに値する人物ではありません。僕にはそれが悔しくて仕方がありません」
一瞬、老アリサワの手、それも左手が動いたように思えたが、それに構わずこの後、アズマはアリストテレスの『詩論』十三章を朗読し、そこで時間切れとなった。
『シュールレアリスム宣言』は読まずじまいだった。
アズマは報酬を受け取り、女の指示に従って再び黒頭巾をかぶり、車に乗せられて移動、そして川の近くで降ろされた。そこで女からアズマに告げられたのはHonjo氏の遺作が発見されたということだった。
「え! 彼は死んだのですか?」
「それはワタシが依頼した絵ですが、おそらくアナタが観るべき作品だと思います」
「アナタが依頼? なのに、どうして・・・僕が観るべきなのですか?」
ワタナベはその質問には答えず、遺作の展示を含めた回顧展が開催される日時と場所を告げてから言った。
「そこに赤い川の謎があるというのが彼の企てです」
数日後、アズマはその遺作を観に再び上島ギャラリーに足を運んだ。
作品は大きなキャンバスに眩しいほどの白い空間、その中央よりやや左に設置してある台、その上に黒電話が置いてある絵だった。そして黒電話と台座の間からは赤が血のように滴り落ちて、それが床に広がっているという構図。ダイヤル式の黒電話だった。今にもけたたましくベルがなるのではないかという臨場感とその下にある赤が何らかの事件の後を物語っていた。
《参考文献》ゲーテ著(高橋義孝訳)『ファウスト上・下』、新潮文庫、1968年。
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前回分と合わせて三十万。それでアズマはタイヤを四つ買い、レンタカーで借りた軽トラの荷台に載せ、交換に必要な器具、ジャッキ、レンチ、軍手、輪止めも揃えてガソリンスタンドに寄り、携行缶に一〇リットルのガソリンを入れ、整備工場前に向かった。真夜中である。もちろん誰もいない、荒寥とした空気は相変わらずだ。警察に見つかり職質されやしまいかと内心ドキドキしながらもアズマはタイヤ交換を終えた。すでに二時間半が経過していた。不思議とその間、アレの気配は全くない。作品でも夢の中でもない現実界だからか・・・そう思いながらアズマは車のドアを開け、給油口のレバーを引き、キャップを回し、ガソリンを注ぎ込んで作業を終えた。
「喉が渇くでしょう・・・」そう言ってスポーツドリンクを持って現れたのはサカヅキ氏だった。そのいきなりの登場に多少は驚いたものの、アズマはそれを受け取るなり一気に飲み干した。
「ありがとうございます。生き返りました」
サカヅキ氏はその間、車の周りに放置されたタイヤ、レンチ、ジャッキを眺めていた。
「で? 何をしているのです?」
「だいたいの想像がつくのでは?」そう言ってアズマは説明を拒んだ。
サカヅキ氏はため息をつき、そして頷いた。
「どうも賢い選択とは思えませんがね・・・」
「役者を志した時点で、僕の人生は愚かな選択の連続だったと思います」
サカヅキ氏はアズマを見て、それから車を眺めてから言った。
「どうして役者になりたいと思ったのですか?」
「さあ・・・気がついたら、役者になるという夢を抱いていましたからね、動機や理由なんて考えたこともありませんよ。あるいは色んな職業をしたかっただけかもしれません。警官になって拳銃を撃ったり、マフィアになって拳銃を撃ったり、兵隊になって拳銃を撃ったり、殺し屋になって拳銃を撃ったり、とにかく役者になったら色んな仕事ができる、そう考えていただけかもしれませんよ」
「しかしそれはホンモノの仕事ではないでしょう。役者としてのホンモノとは別の意味ですが」
「誰にでも自分の中にそういうニセモノはあるでしょう。そして誰もがそれから卒業して、ホンモノの何者かになる、アナタでしたら弁護士、Honjoさんなら画家、殺し屋なら殺し屋、医者なら医者・・・大学教授なら大学教授・・・」
そして自分は・・・? アズマは言葉に詰まった。
それを察してか、サカヅキ氏が言った。
「少し忠告したいことがあります」
「どうぞ・・・」
「アナタが今しようとしていることは身の破滅を呼びます」
「でしょうね・・・」
「私は」サカヅキ氏が言った。「Honjo氏の絵を見てあの存在を知りました。アレは我々の想像を遥かに越えるものですよ。ですが幸いなことに、こちらが近づきさえしなければ、アレは何の危害も加えてきません」
「どうやらその様ですね」
「この現実がアレから我々を守ってくれているのです」
「自分は彼の絵では何も感じませんでした・・・」アズマは自嘲した。「殺されるにも値しない鈍感なニセモノだったから命拾いしたのかもしれませんね」
「どうしてか理由をお聞かせ願えますか?」
「なぜ、そんなに知りたいのですか?」
「・・・」
「もしかしたら」アズマは言った。「メフィストフェレスがニセモノだということを証明したいだけかもしれません、そのために、アレの方が遥かにホンモノだってことを、まず自分が体験してみなければなりません」
「メフィストフェレスですか? 確かこの前アナタがお読みになったゲーテの『ファウスト』に出てくる悪魔ですよね? アナタは彼は大根役者だと・・・でももう少し違うことを言おうとしていたように聞き取れました」
「アレは自分を悪魔だと思い込んでいるだけの・・・ただのインテリです。いえ決してアナタに対する皮肉ではありません。同じニセモノだからこそわかるんです。自分も役者になり損ねたニセモノですから・・・メフィストフェレスはニセモノの悪魔、自分で悪魔と思い込んでいるだけの人間、だからファウストのような青二才しか騙せないのです。つまり『ファウスト』は駄作です。しかし多くの権威達はバカだからそこに深遠な回答があると思い込んでいます。それをアリサワ氏に伝えたかっただけかもしれません」
サカヅキ氏は何も言わなかった。
「ああ・・・」アズマは笑った。「こう言うべきだったかもしれません。アレに向かって拳銃を撃ち込みたい。どうです?」
サカヅキ氏は呆れて首を左右に振った。
「なるほど、確かに愚かな選択の連続ですね・・・」
「そこでひとつ」アズマは言った。「可能であれば、の話ですが・・・」
「何でしょう?」
「例の絵を貸して頂けませんか? 夢の中でこのガソリンスタンドまで辿り着けるか不安で・・・」
サカヅキ氏はアズマを見た。アズマは高速道路の灯りを眺めていた。そして大きな溜息をついてサカヅキ氏は言った。
「あまりお勧めできませんね」
「川が・・・」アズマは打ち明けた。「川が見る夢と僕たちの夢が交じり合ってドコへ流れていくのか? そのドコへを聞こうとしたとき、彼女は話を逸らして悪夢について、きっとアレについて話し始めたんです。つまり、それはまだ僕に向き合うべき問題があることを暗に示しているのかと思うのです」
「全ての川は海へと流れます・・・」
「きっと、その解答で現実は許されるのでしょう。しかしこれは夢の話なんです」
「だからこそ」サカヅキ氏は言った。「戦うべき価値はないというのが一般の回答です・・・それが現実の掟です。アナタはその手前にいるに過ぎません」
アズマは笑った、そして頷いた。それを見てサカヅキ氏は言った。
「わかりました、後日、アナタのアパートに運ばせます」
「ありがとうございます、それと非常に残念ですが、次回の読み聞かせは無理でしょうね。ご理解ください、アリサワ氏の耳の中の魚は外科医か精神分析医にでも取り除いて貰って下さい、やはり読み聞かせでは無理があります」
サカヅキ氏は頷いた。
翌日、激しくノックする音だった。ドアを開けると、ノッポとチビがいる。相変わらずチビはイライラしているようだった。
「テメーのロクでもネー依頼の為に、こっちは予定を大幅に変更して、わざわざ、この危ネー絵を届けてやったんだ、わかったかクソ、コラ、テメー、ご主人様の耳の中の魚、まだ取り除けていないらしいじゃネーか、それでちゃっかり金だけ貰いやがって、配達料せしめるぞ! コラぁ!」
「配達料は不要です」とノッポが割って入った。「アズマ様・・・それでこの絵をどちらに置けばいいですか?」
アズマは窓辺を指さした。チビがそこにイーゼルを置き、ノッポが黒い布に覆われた絵を立てかけた。二人とも土足だった。
「またお戻しになる時はお知らせ下さい、ただ一ヶ月ほどして何の連絡もない場合には我々の方で強制的に回収させて頂きます」とノッポが説明する。
「わかったか? コラぁ! こっちはテメーのアパートの鍵なんかなくっても簡単に侵入できんだ! そん時はテメーの死体も片付けてやる」
「ええ」アズマも同意した。「そんなに小さければ鍵穴からでも侵入できますもんね、ですがそんなチビで僕の死体を担げるんですか?」
チビの顔が紅潮した。「テメー! マジでぶち殺すぞ!」
そう凄まれてアズマは仕方なく絵にかかっている黒い布に手を伸ばした。
「おおっととととと、おニイさん、そりゃあ、いけネー火遊びだよ」そう言ってチビは一目散に部屋を出た。
「アズマ様、自分の運命を試し過ぎますと、本当に取り返しのつかないことになります」
「もう十分、取り返しがつきません。ご忠告ありがとうございます」
二人は去った。
その日の夜、アズマは黒い布を引いて絵を露わにしたまま眠りについた。
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・・・アズマの夢に川の夢が交じり始める。そこは狙い通り深夜のガソリンスタンドだった。打ち捨てられている黒い車、近づいてみるとタイヤはパンクしていなかった。やはりある程度、現実の効果が夢に波及する。だからきっとガソリンも入っているに違いない。そんな確信に促され、彼は辺りに広がっている荒寥を感覚し、そして大きく吸い込んだ。間違いなくアレは後部座席にいる。
遠くから誰かが「よせ!」と叫ぶ。
アズマは、それを無視して車のドアを開けた。
「これで三度目ですね」とアズマの方から切り出す。野球帽の男は驚いて運転席に座るアズマに言った。
「オマエ、オレの警告を忘れたのか?」
「覚えていますよ。三度目の出会いは僕の愚かしさが招く結果だ、と」アズマはイグニッションキーを回した。エンジンがかかり、ライトがつく。
後部座席でアレが渦を巻き始める。
「シートベルトをつけて下さいね」
アズマはサイドブレーキを下ろし、ギアをドライブに入れ、アクセルを踏みこんだ。車は急発進した。そして整備工場前を通り過ぎ、産業道路を爆走して川へと向かった。驚いたのは途中、パトカーによる追跡が始まったことだ。やがてそれも振り切って車は旧道へと進み、かつて事故のあった場所、ちょうどガードレールのないところから川めがけて飛び込んだ。
大量の川の水が車体を襲い、瞬く間に黒い車が消え失せる。
黒い渦は勢いを増して、野球帽の男とアズマに襲いかかって飲み込もうとする。男が拳銃を抜いてそこら中に撃ち始めた。夢の中だからか弾丸は水中でも勢いを失わず、そのうちの幾つかがアズマの胸、足、腕を貫く。すぐに血が溢れ出し、川が赤く染まる。血・・・それは「赤のイミテーション、ニセモノ・・・」それが奔流となって黒い渦、その中心に向かって鋭く雪崩れ込み、その切り裂く力に巻き込まれたアズマは溺れ、黒い渦へと引き込まれていく。やがてそんな朦朧とした意識の中で女の声が聞こえてくる。
「この川も・・・ワタシ達と同じように時々、夢を見ている」
アズマの意識が遠のいていく。
「そしてその夢は、この周辺で眠っている人の夢と交じり合って、ゆっくりと下から、床から水が溢れるように、その人の夢と境界線を曖昧にして、連れていってしまうこともあるのかもしれない」
誰かが聞いた。
「ドコへ?」
声がこだまする。
「誰にも見つけられない赤いところ・・・絶対に誰にも思い出せない彼方、この世に存在したことの痕跡とその誰かの記憶を打ち消す赤い静けさに、もうそれが誰だったのかさえわからないほど赤く溶かされて、さらに赤く、赤く忘れ去られていく、そして彼らの残した空白を染めて流れていく」
彼は溺れていた。次から次に赤い水が口に流れ込む。体が重くて自由にならない。もがいて、溺れ、何とか動きを取り戻そうとする、そこへ画家の言葉がこだまする。「そんな赤い動きをイメージして描きました」と、すると体中が熱くなり、ますます赤い動きと流れがアズマから溢れ出し、炎となって燃え広がり、黒い渦の中心を焼き尽くす、やがて、その燃え滓は無数の赤い花となって咲き広がり、夥しい数の花弁を散らして、流れていく。そんな画家のイメージする流れに漂い、彼は自分が本当は何なのか、その確かな手応えを失っていく。夢を見ているのは自分なのか、川なのか、黒い渦なのか、それとも赤いワンピースなのか・・・そんな誰の夢ともわからないまま漂っているところで、誰かが叫んだ。
「質問に答えろ! オマエは何だ!」
「えっと、アズマです」
「名前なんか知ったことか、これから死んでいく奴の名前なんか覚えてどうする?」
「え?」
そして銃声、そこでアズマは目を覚ました。
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Honjo氏の絵から、その黒い車の後部座席から、アレが消えていた。もちろんその分、絵から独特の深みと迫力も消え去り、ただのイラスト画のような軽い絵に変わり果ててしまった。これを画家が見たらひどく落胆するだろう。そんな何の価値もなくなった絵をアズマは返却した。ノッポはそれを慇懃に受け取り、チビは「絵が台無しじゃネーか、コラァ!」とアズマにさんざん文句を垂れて帰った。
登録している派遣会社から通知が届いたのはそれから数週間後のことだった、そこには次年度の更新はないと記載されていた。ようするに解雇通知だ。
その日の深夜、彼は川を眺めていた。
「待ち人来たらず・・・というところですか?」現れたのは喪服姿のサカヅキ氏だった。それはもう一つの仕事を失ったことを暗に告げていた。
「それで・・・耳の中の魚はどうなったのですか?」とアズマが聞く。
「火葬場で黒焦げになったでしょう、骨も残っていませんよ」とサカヅキ氏は何でもないことのように言った。
「そういえば絵の件、申し訳ありませんでした・・・」アズマが素直に謝罪した。
「いいえ、アレであの絵は画家の意志に反してようやく完成したのでしょう・・・」とサカヅキ氏が言った。「ところでこれからどうなさいますか? 派遣会社、登録抹消されましたよね?」
「何でも知っているんですね」
「どうです? アリサワの蔵書管理の仕事を任せたいのですが・・・」
「申し訳ありませんが、目録作成や蔵書管理の経験はありません、その辺の派遣会社に適当な人材を依頼してください」
「ひょっとしてもう一度、役者を目指しますか?」
「まさか・・・」アズマは首を横に振った。「たぶん、自分は役者を志す動機が不純だったんだと思います。ただ色んな仕事をして拳銃を撃ちたかっただけですから、つまり動機においてもニセモノだったんです」
サカヅキ氏はアズマに名刺を渡した。
「何かあったら連絡ください」そう言って彼は去った。
一人になるとアズマは名刺を破り、それを近くのゴミ箱に捨てた。
やるべきことが一つだけ残っている。あの黒い車を夢で起きた通り川に沈めなければいけない。またあの場所を描く絵描きが現れたら同じことが繰り返される、そんな懸念に駆られたアズマは終電を使って整備工場前に向かった、ところがそこにあるはずの車が忽然となくなっている。
動揺したアズマは辺りを伺った。
「結局、オマエは何だ?」現れたのは例の野球帽の男だった。
「何って・・・? もうご存知でしょう」とアズマも怯まなかった。「誰のおかげで助かったと思っているんです?」
「はあ!」男の表情が一変した。「それはコッチの台詞だ、オマエ、ハメやがったな」
「何のことです?」
「とぼけやがって、どさくさに紛れて、オレをアレに飲み込ませようとしただろう」
「ソッチだって拳銃を僕に向けて撃ったじゃないですか?」
「当たり前だ、コッチは殺し屋だし、オマエも三度目の警告を守らなかったしな」
「ところでここにあった車は?」
「オレが知るわけないだろう、ここに来たら、もうなくなっていたよ・・・、そもそもテメーが川にブッコんだだろう。あるいは警察に押収されたんじゃないか? あんだけ派手なカーチェイスを繰り広げたんだ、当然だろう」
「それは夢の中の話ですよね」
「警察に夢も現実もないということだな」
「そんな馬鹿な話はないでしょう・・・」とアズマは呆れ返る。
「オマエ・・・」野球帽の男が言った。「フロイトを読んだことないのか?」
「ありますよ、フロイトぐらい」
「夢の中には検閲官がいるだろう? だったら警察官やFBIがいたっておかしくない。違うか?」
アズマは苦笑した。しかし真相はただの盗難か、放置車両に対する行政撤去だろう。もしも盗難だとしたら、アズマは余計なアシストをしたことになる。
「そうですね・・・」
「ところでなぜ『掟の門前』の男は門をくぐれなかったと思う?」
「なんですか? いきなり、なぜ?」
「別に今さら、オレにビビる理由もないだろう?」
男の言う通りだった。「そうですね・・・」アズマは少し考えた。それですぐに思い至ったのが以下のような答えだった。
「実はそこは彼の門ではなかった。別の人がくぐるべき門だったけど、それを門番が意地悪してさも彼がくぐらなければいけない門のように演じた」
「つまり彼の門は別にあって、そこならくぐれたということか?」
「ええ、そうなりますね。それが自分の答えです」
それが掟、他人には閉ざされている。これに反して現実界は厳しい。すぐに派遣会社は他の人材を見つけるだろう。そしてその人物がアズマの業務につく、アズマの労働は誰にでも代替可能な動詞だった。主語は任意の誰かでいい。どんな他人にも開かれている。
「オレの答えは違うな」野球帽の男は言った。「くぐらないことが『掟』だった、くぐれないんじゃない。くぐらないこと、それが『掟』だ」
「つまり、男は行為においては正解していた、ということですか?」
「ああ。だがそれに気づかず男は死んでいく、自分が間違ったと思い込んだままな、だから言っただろう、それがどれだけ愚かなことかわかるか? 世界は完璧だ、それを信じていれば、あの男は『掟の門前』で一生を無駄に費やすこともなかった」
確かに世界は完璧なのかもしれない。だから抗ってはいけない、これこそ多くの大人が一生かけて身につけるべき処世術だった。そして無知のままでいること・・・
「さて・・・」野球帽の男が繰り返す。「それで結局、オマエは何だ?」
アズマは空を見上げ、深呼吸して真夜中の荒寥を吸い込み、それから答えた。
「ただの図書館員でした。今は失業中ですが・・・」
「だから言ったんだ、いずれ、イタイ目に遭うと、もう一度繰り返そう、周りの大人達はそういった愚かさを避けて生きている。それが賢さというものだ、オマエはそれを学びそびれた。そして一度学びそびれると、それは一生、恥辱となって残る」
「ええ」
「だからオマエはもうじき夢も見なくなる・・・そうだな、あと一回ぐらいか・・・」
「え?」
「忘れたのか? 最後にオレが夢の中でオマエを撃った。だからお前は夢の中では川を漂うただの死体、つまり魚のエサだ。もうまもなく無になる。そうしたら夢も見ない。いいか、オレはオマエに警告した。オマエはそれを破った。しかしこうして現実には生きている、夢を見る権利ぐらい失っても文句は言えまい」
そう言って野球帽の男は立ち去った。
役者になり損ねたニセモノから、夢を見る権利を失った失業者・・・もっと早くこうなるべきだったのではないか・・・それがアズマの素直な気持ちだった。
24
赤いワンピースの女を堤防で見かけなくなって数週間が経過した。しばらくアズマは深夜になるたびに堤防に座って彼女が来るのを待っていたが、空振りに終わった。
そして最後の夢が訪れた。
その夢の中では雨が降っていた。
アパートの窓からアズマは川を眺めていた。すると赤いワンピースが、雨に打たれながら川を下ってくる。
急いでアズマはアパートを出て、それを追いかけつつ堤防の上を歩いた。ひょっとしたら傘の柄に引っ掛けて拾えるかもしれない・・・あるいは川に飛び込むべきか、そんなことを考えながら歩いていたところ、それは川面を漂って堤防に近づいてきた。鼠色に汚れている赤いワンピース。そしていよいよ傘の柄を使って引っ掛けようとした時、ふと傘が手元にないことにアズマは気づいた。
「そうだ、彼女に貸したままだった・・・」
やがてその薄汚れた赤いワンピースは堤防を離れ、河口の開けたところへ、それから運河へと流れ、水の重みで沈んでいくところを川辺にいた画家が絵筆で拾い上げた。そしてすぐにそのワンピースをキャンバスに向かって塗りつけると、たちまち川が赤く染まった。
ところが、その画家に近づき、制作中の絵を覗き込むと、それは真っ白い空間の遺作に変わっている。赤い川はドコへ? いや赤いワンピースはドコへ消えたのか? そうアズマが聞くよりも前にベルの音が鳴り響く。するといつの間にか、辺り一面真っ白い空間に変わっていた。画家は姿を消し、ベルの音が鳴り響く、その音の方に目をやると黒電話が台の上に載っていた。けたたましくベルが鳴っている。アズマは近寄り、受話器を取った。
「もしもし」それは女の声だった。
「募集の広告を見たんですが・・・」
「どちらのでしょうか?」と女が聞き返す。ということは他にも貼ってあるのか、そう思いつつアズマは場所を説明した。
「つまり、赤い川のところですね」と女が言った。
そこでアズマは訊ねた。「なぜ川は赤くなったのですか?」
女は話を始めた。
「或る日、男は幼い娘を連れてあの川に魚釣りに行ったの、娘には赤いワンピースを着せてね、そして男は魚釣りに夢中、その間に娘は行方不明になった。おそらく川に落ちたのだろう・・・ということで警察が出動して大掛かりな捜索をしたけど、娘は行方不明のまま、捜索は打ち切り。それから男の浚渫事業や都市開発はトントン拍子に成功して、今の地位と財産を築いた。それから三十年が経って、男は久しぶりにあの川で魚釣りをした、すると薄汚れた子供用の赤いワンピースが竿にかかったの。それを目にして発狂した男は娘を探そうと川に飛び込み、腰を強打、無事に救出されたものの、その後は車椅子の生活、一面が赤い川で娘を見つけられなかったと譫言を叫ぶようになり、それからしばらくして耳の中を魚が泳ぐようになった。以上が赤い川となった経緯よ」
それから長い沈黙を隔てて、列車の発車サイン音の後、一発の銃声がこだました。
「もしもし、もしもし!」アズマは叫んだ。やがて電話と台座の間から真っ赤な絵の具が滴り落ち、血糊のように白い床に広がっていく。アズマは受話器を置いた。しばらくするとまたベルが鳴った。アズマは受話器を取った、ところが受話器の向こうでも同じようにベルが激しく反響している。発車のサイン音だろうか? それは徐々に大きくなり耳をつんざく。
そこでアズマは目を覚ました。
目覚まし時計のベルだった。
外では雨が降り続いていた。アズマは窓を開けて川を見た、何も流れてはいない。
町全体に降り注ぐ静かな雨は何もかも洗い流してしまうようだった。
それからアズマは立ち上がり玄関のドアを開けた、すると郵便受けのところに彼女に貸したままだったはずのビニ傘がぶら下がっていた。
それを目にして、もう二度とあの女とは巡り会えないのだとアズマは悟った。
了
【著者プロフィール】
蒼為 静
東京生まれ。
作品紹介:誰もが得体の知れない何かと戦っています。それは、あまりにも不確かで、説明するには煩雑だが、日常的で瑣末、辻褄の合わない「ガセネタ」のようなモノで、そんな価値のないモノと、避けられない戦いを誰もが強いられている日々。そして戦いが終わっても、勝利や敗北はなく、疲労感と徒労感、漠然とした喪失感が残っているだけ。そんな作品です。最初の数行を読んで何も感じなければ、それ以上は時間の空費になるので、ページを閉じ、この作品のことも僕のことも忘れて下さい。
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