ただ生きる、は考える
ただ生きるとはどういうことかと考えてみようと思ったら、意外と難しかった。
僕は、普通に生きているだけの状態に慢性的な罪悪感があって、自分を痛めつけながら生きることを常としている。
自分が悪いものであるため、「何か良くならねばならない」ということが生活の目的になっていて、それ故に、世間で見かける悪いままのものに憤ったり嫉妬したりしている。
「おじさん」なんていうメタイメージがまさにそうで、みんなでおじさんという言葉のイメージ悪くし過ぎてしまったせいで、年齢を重ねるだけで自分に備わっていくおじさん性が、体を蝕んでいくようなイメージで、自分や周りのおじさんを常に攻撃して、痛みで生きる輪郭をかたどっている。
なぜこんなに自分を悪いものとして取り扱うようになったのかについては、昔は発端になるような出来事があるような気もしていたけれど、馴染み過ぎていまやもうわからない。
良くなろうとしている悪いもの、ピカピカに磨き上げた外面の鎧、50点に特化した会話テンプレート、遠い距離に基づく安心感のみで育まれる友愛、などこの道にしか咲かない花もだいぶ多くて、それなりに充分華やかだと感じる時もある。
そんな僕でも最近は、良い悪いではなく、ただ生きるということってあるよね、と思い始めた。
僕はもう40歳にもなるからたぶん40年生きては来たんだけど、ただ生きてきたかと言われるとあまり良くわからない。
つまり、良くも悪くもない自分というのが、よくわからないのだ。
良くなろうと必死になっていた感じはあるんだけど、悪いものを決めつけて、そうならないことに注力していただけで、常に自分や他者の悪いところを見つけるだけで結局良くはなれないし、良くなるとはどういうことかもわかっていなかった。
そんなモチベーションで「監視の30代」を過ごしていたら、気がついたら若者が終わっていて、将来何かを達成できる気持ちも労力も無くなっていた。
監視を止めようとふと立ち止まってみたら、周りには家族や友達がいて、趣味ややりたいことがあって十分幸せと言って良い環境になっていたが、
それでも、漠然とした罪悪感は無くならないのも意外だった。
これだけ幸福感があっても、
「もういっかなー、充分生きたなー」という方向の抑うつもあるということがわかったりして、これもまた発見でもあった。抑うつとの付き合い方はまたこれからもたくさん選択肢増えるんだろうけど、ひとまずただ生きる を考えてみたいと思っている。
僕の場合はそれってつまり、自分が何をしたかとかどうしてみたいとかそういうことを書いて記録してみるということなのかなと思ったりした。
ただ生きる、ということには理由や目的はないはずだから、狙ってそれをやるのは結構難しそうだ。
言葉や理念が先に立ってそれに縛られることでしか息ができなかった僕は、「ただ生きる」ことがわからない。
だから、あったことを思い出すとか、生きていたことを書いて残す、とかそういうことから「ただ生きる」を捉えられたらいいと思ったので、
日記を書くための、やってみたいことをそのまやることの言い訳を、書いてみている。
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