新一万円札とマナーと偽善

確かにくだらないマナーだが、そもそも礼儀作法やマナーや法律やルールを重んじるのは、「自分の不快感の原因は相手にある」「自分が不快に感じることは他人も感じるに違いない」というエゴの発露に他ならない。「他人様に迷惑を掛けてはいけない」という一見正しい道徳律も、裏には(余計なトラブルに巻き込まれたくない)という保身がある。
仮に「相手に快適でいて貰いたい」という愛があったとしても、「相手を思いやる自己の実現の充足」が目的なので結局はエゴだ。

こうした観点を欠いたままマナーに拘る人は、一種の偽善的な教義を布教しているようなもの。他人に根拠の乏しい常識を教える行為も、本質は同じである。
感情自己責任論が社会に普及すれば、真っ先に職を失うのがマナー講師と言って良い。


新一万円札を不快に感じる人もまた低水準教育の犠牲者。
義務教育で哲学や心理学を教えないから、先見力協調性適応力自制心倫理観論理力EQ各種リテラシー問題解決力等が低くなる。


以下、弊サイトより抜粋。

客観は共有された主観。常識普通正義は各人の判断基準・解釈次第。人知は有限。真偽不明な事象は確率や可能性でしか語り得ない。
事実真実現実史実は全てその解釈者の認識、無数、程度問題。故に「真実は一つ」と視野狭窄した者ほどその矛盾(争い等)を体験。

どんな情報もその取捨対処は受信者の自由。解釈の自由にも責任が伴う。解釈の結果(誤解不快等)の原因は発信者にはない。
未熟な解釈者ほど己の選択結果を表現者に責任転嫁。他者に不自由(規制等)を与えるから自らも不自由(怒り等)を得る。

自由度多様性の高さは精神成熟の証。最大限保障し問題の早期発見等に活用が吉。民度の低い集団ほど不都合な存在を嫌悪排除。
雑言等は不遇な未熟者の自己投影・同属嫌悪。表現狩り等で自由奪えば却って暴発。必要なのは排除処罰ではなく治療教育。

宗教家マスコミ扇動家詐欺師の「奇跡だ偉業だ醜聞陰謀驚異脅威だ」は、感動興奮優越感等の対価を得る為の誇張洗脳大言壮語。
自己肯定感やメディアリテラシーの低い情弱ほど、不都合な情報を嫌悪排除し「己の知見こそ全で真」と思考停止・自己陶酔。

法律ルール礼儀作法マナーに関するよくある勘違いkanjo.g1.xrea.com/rule.htm#2

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