学校で教えない解釈の自由と責任

 あらゆる社会問題に共通する根本原因は無知である。人は誰もが無知の状態で生まれるので、その克服の為にはより洗練された教育を施し適切十分な知恵・知識を与えるしかない。しかし従来の教育は低水準な為、知識偏重で画一的で体罰を容認し、金にならない哲学や心理学を軽視してきた。勿論、高学歴=高水準教育ではない。低水準教育下では幾ら高IQ・高学歴の者でも、テロリズムに対する批判的思考力や倫理観・共感力・先見性・自制心・問題解決力・メディアリテラシー・論理的思考力の乏しい人格に育つ。
 だが哲学・心理学を網羅的に教えることは現実的ではない。そこで先覚者が異口同音に唱えてきた「必要最小限の知見・教訓・叡智」をネット上に簡潔にまとめたのが、「感情自己責任論(解釈の自由と責任)~学校では教えない合理主義哲学~」だ。その要旨は次のようなものだ。

 例えば他人が書いた文章をネットで見て怒りを感じた時、殆どの人はその怒りの原因は「文章の書き手」にあると考える。しかし画面に映る文字の実態は単なる白黒模様・ドットの集合体。パターン化された濃淡・明暗が可視光線となって空間を伝わり、網膜を刺激しているに過ぎない。網膜からの信号が脳内で記憶・固定観念を想起し読み手が認識するまで、文字はただの信号・記号でしかない。その意味を翻訳し咀嚼して初めて人は怒りを感じる。価値観・判断基準は十人十色なので反応やその度合いも人それぞれ。中には怒りを感じない人もいる。つまり読者が怒るか怒らないかは、文章の存在ではなく読者自身の解釈の仕方・捉え方如何で決まる。多くの人は解釈・判断を殆ど反射的・自動的・無意識的に行うので、「自分が選択している」という自覚がない。そのため己の怒りの原因が情報発信者にあると短絡しがちになる。しかし情報に対してどう解釈し反応するかは読み手が決めていることなので、書き手には「読み手の解釈とその結果」に対する原因はない。読み手の解釈の結果生じた怒りその他精神的苦痛を書き手のせいにするのは論理的に間違いである。文字以外の情報(音声・画像・映像)についても同様。

 上記の解釈も人により様々だろうが、解釈の自由を無視し表現の自由だけを論うことを常識としてきた従来の世界観から見れば、コペルニクス的転回だろう。これを全国民に通知するだけでも、より安定した平穏な社会が実現する。まずは日本が世界に先駆けて義務教育に取り入れるべきではないだろうか。

#創作大賞2022

いいなと思ったら応援しよう!