人工知能は裁判官になれるか。人工知能は司法作用の本体となれるか。

司法作用は、法はもとより現在に至るまでに蓄積された、判例と、提唱されてきた学説をもまた、参考にするのであり、これらを、社会の変化に伴って、法の内容とその目的、手段の点から判断し、取捨選択して、自身をして発展せしめるという性質をもつが、現在の科学技術はこれらを充足させるには至っていないと言わざるを得ない。また、今後もこれらについて、人間よりも人工知能が優れた能力を持つことは考えにくい。そもそも、人工知能を作るためには、人間の工作した機械がその設計において、数字や、文章などその形式は問わず、言葉を必要とするが、一方で司法作用もまた、法、それ自体が、表示されているかされていないかにかかわらず、法全体から、司法作用のために、一部を取り出すことに言葉を用いる。このような司法作用の働きを考えれば、言葉を直接に使用する人間が、二重に言葉を媒介することになる人工知能より、明白に劣っているという根拠は、見出せない。たしかに、コンピュータが、効率と正確性の点で人間に比して優越する点があることら事実であり、実際、司法作用の過程において、これを付随的な手段として有効に用いることは、昨今では、珍しいことではないし、合理性がある。しかし、これらは、法解釈と適用の周辺的な性質に過ぎないのであって、法の真の目的が国家社会秩序の維持と発展であることを考えれば、仮にも、人工知能の発展によって、限りなく、人間理性とほぼ同一の能力をもつにいたったとしても、実際に国家、社会で生活を営む人間を司法作用の中心から排除する合理性は全くない。さらには、人工知能が人間と同じ判断能力を持てば、それは、自然人の概念そのものについて疑うべき事態であって、このような事態は、もはや、現在における法規範と一般常識からは、論じることのできない事態である。そして、民主主義においては、自然人が社会の秩序と発展の方向性を目指すことが前提として求められている以上、司法作用に、自然人ではなくして、あるいは特定の自然人によって工作された物に、その本体を置くならば、わが国の憲法が、まず、これを認めないことになろう。もっとも、法の本質とは、最終的には自然人に効果を持ち、その法もまた自然人によってしか、創造できないものであるから、なお、法による統治を求める限り、人工知能による司法作用がその中心となることは、わが国のみならず、森羅万象の法源の存在を、根幹から否定するという避けることのできない重大な矛盾を内包する。よって、人工知能は、司法作用の本体となることは、司法作用の本質に照らし合わせれば、永久に不可能である。

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