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儚い月の向こう側。(#シロクマ文芸部)

 月の色はタバコの煙でグレイに揺れている。まるで今の自分の心を見透かされたようでバツが悪く、月から海に目を逸らす。静まり返った真っ黒な海は、波の音だけが煩いぐらいに響き渡り、その静寂にメスを入れる。月のあかりがぼんやりと辺りを照らす中、砂が靴を重くする。

 隣には、タバコを燻らせ海を見つめる彼女が座っている。タバコは僕が作った。手巻きタバコを吸ったことがないという彼女のために巻いて作ったのだ。
 イギリスでは普通のタバコは高級品でとても買えないため、僕みたいな学生はときどき手巻きタバコを吸う。

 タバコを吸い終わると何もすることがなくなって闇に溶けてしまいそうだ。突然気が狂うような衝動に駆られ、彼女の手を引き、立ちあがる。驚く手からタバコを奪い取り投げ捨てると、その唇に唇を重ねる。

 タバコの香り。ワインの香り。ガーリック、チーズ、バジルの香り。
 同じものを食べたはずなのに、まるで飢えているかのように、その香りをもう一度味わおうと彼女から離れられなくなる。いつの間にか波の音も聞こえなくなり、完全な静寂の中、心臓の音だけが身体中に響き渡る。

「この後、どっちの部屋で寝る?それとももう少しここでキスをする?」
 答え合わせをするように聞いたのに、目が合った瞬間なぜかふたりとも、声を出して笑い出した。それははじめて聞いた彼女の笑い声だった。




 レストランでワインを1本空けたあと
「どうする?もう一本飲む?」そう尋ねると
「そうね、今夜一緒に寝てくれるならもう一本開けてもいいよ」目の笑っていない笑顔で彼女にそう言われた。
 開けない選択肢が果たして僕にあるのだろうか。神に問いたい。すぐにウエイターにおかわりのワインを頼む。

 さっきの話は聞き間違いじゃないよね?そう問える雰囲気もないまま、まるで何事もなかったかのように食事は進む。

 今朝たまたま知り合って、一緒に観光しただけの仲だ。この瞬間までどこにもそんな素振りはお互いになかったはずだ。何か見落としていたのだろうか。彼女の細く長いゆびが、まるで美術品にふれるような繊細さでステムを持ち、何かの芸でも見ているように美しくワインが喉を流れていくのをさっきから繰り返し見ている。まるで映像をリピートしているようなのに、何度見ても飽きるどころかもう一度見たい、と思ってしまうのが不思議だ。

 店を出て、階段を降りるときにぐらりと彼女が揺れた。慌てて手を貸すと、「大丈夫」と姿勢を立て直し制された。それからは宿のある月と海の近くに向かって歩き出した。異国の高揚感の中、もうここへは二度と戻って来れないのだろうな、そんな気がした。

(1084文字)

イギリスのタバコの値段、昔は一箱2000円ぐらいだったと思ったのですが、現在は4300円とのこと。日本は540円ぐらいなので本当に高い!しかも2007年以降に生まれた人は一切タバコを買えないらしい。びっくり!


シロクマ文芸部は今まで読む専門で、今回初めて書きました。
どうぞよろしくお願いします。

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